沖縄県収用委員 第7回会審理記録

島田正博


島田:

 わたしは嘉手納基地内に共有の土地を持つ地主の島田正博というものです。本日の公開審理に当たりまして、関係地主の一人として意見陳述を行います。え、嘉手納基地の概容について、ということで、意見を述べますけれども、今日から、恐らく次回の公開審理にかけて具体的に嘉手納基地がわたしたちにとっていかなるものであるのか。そして周辺住民、市町村にとっていかなる影響を与えてきたのかと、その歴史的な背景も含めて、意見陳述が展開をされるものと思います。わたしは、その全体に先立ちまして、公開審理がスムーズに進行されると同時に、多くの参加者にこの審理内容をわかりやすくするために、簡単に概容について説明をしていきたいというふうに考えています。よろしくお願いいたします。あ、もうスライドが出ていますね。

 え、これが、この赤い部分が嘉手納基地および嘉手納弾薬庫になりますね。え、嘉手納基地は、えー、これ、あの、日米地位協定上の呼び方は嘉手納飛行場というふうにいわれていますけれども、わたしたちにとって、おそらく多くの県民にとってもですね、嘉手納基地、といったほうがわかりやすいと思いますので、そう呼ばせていただきます。

 沖縄本島中部の沖縄市、沖縄市の部分がこの部分。さきほど池原さんの説明にもありましたけれども、それからこれが北谷町。この北側のほうが北谷町になりますけれども。それから嘉手納町の部分ですね。この一市二町にまたがる1997ヘクタール、え、羽田空港の2倍くらいというふうにいわれますけれども。その比較はあまり意味がないなと思ってます。よく甲子園球場の何百倍というふうにいいますけれども、ほとんど、そういうのもあんまりピンとこないと思ってますので。 えー、なぜこの1997ヘクタールというのもあんまり大きすぎてピンとこないのでありますけれども、こういった広大な敷地に、その周辺ずっとまわりますように、5つのゲート、メインゲートを有している基地であります。

 この嘉手納基地はそもそも1943年、沖縄戦が始まる前に旧日本軍の航空本部が、建設を開始をしましてですね。翌44年の9月には中飛行場として開設されたところであります。その時ちょうど嘉手納の方々の土地を強引に奪いまして。これはつい最近まで、所有権をめぐる裁判が行われておりました。最高裁で一応国有地という決着が司法的にはつきましたけれども、地主としては、あの日本軍に接収をされた当時のことは今もってきちんと解決をされずに引き続きのこっているという問題点がある土地だと考えていただきたいと思います。

 その後米軍が上陸したことによって、1945年の6月、米軍の上陸が45年の4月の1日ですから、その2カ月後には、この中飛行場は、滑走路は2550メートルへと拡張されて、そこからB29戦略爆撃機が本土爆撃へと出撃を繰り返していく、こういう過程をたどっております。

 ここは、今、一市二町に囲まれて、またがる広大な土地といいましたけれども、実はこの嘉手納町と北谷町は、基本的には本来一つの行政区でありまして、1947年、48年ですね、失礼しました、12月4日に、当時の北谷村から嘉手納村が分離をして新たな行政区になったと。そういう意味では、この嘉手納基地が、二つの行政区の行政運用を妨げたためにどうにもならなくなって分村というふうに、ま、基地にわけられた、分割させられた村であります。

 それは、単に村が分割されたというだけではなくて、沖縄市の側でいけば、字諸見里、山内、上地、そして、森根、これはもう、多くのみなさん、ご承知だと思いますけれども、歴史的な沖縄市における最後の終戦の調印がなされたところですけれども。そういった、森根、白川、おくた、そして、北谷町でも、聞き慣れないかと思いますけれども、字伊平、浜賀、上勢頭、下勢頭、嘉手納町でも、みずごめ、兼久、屋良、野国、こういった字が嘉手納基地に飲み込まれてしまっているわけであります。

 次に面積についていってみますと、この1997ヘクタールの表面積のうち、実に国有地が占める面積、6.9%、民有地、私有地が占める面積89.4%、あと市町村有地、県有地というふうにありますけれど、ここは圧倒的に私有地で占めている基地であります。そういう意味では、旧日本軍に接収をされて、そして米軍の上陸によって住民たちが、戦争で疎開をしていたり、或いはその後強制的に土地を取り上げたり、取り上げられたりして、立ち退かされたところ、であります。米軍の側から言えば、或いは起業者の防衛施設局側からすれば、ほとんどが協力していただいたとこういう表現になるかもしれませんが、沖縄の米軍基地は基本的に、銃剣とブルトーザーによって取られたという表現がふさわしいのですけれども、この嘉手納基地一つ取ってみても、ほとんど民有地が占めているということは、そこに住んでいた住民というのは強制的に立ち退きをさせられたということになるんだろうと思います。

 また、国有地の6.9%の部分についても今もって決着はついていない所有権問題が残されているという意味において、まさに沖縄の米軍基地が如何にしてつくられ、そして、どのような方法によって使われてきたのかということを、端的に、また嘉手納基地も物語っているだろうと思います。えー、すいません、次のスライドを用意して下さい。

 これは、嘉手納基地のなかにおける、なかなか見づらいんですけれども、ぽつぽつと黒い点で、なっている、滑走路上にもありますけれども、これがいわゆる今回の強制使用手続きが取られている土地であります。ここは、全体の地主数が6838人、これは1995年の3月31日現在、資料的には残念ながらこれがわたしの探せる一番新しい数字だったんでですね、これを持ってきてあります。この地主のうち、嘉手納飛行場で強制使用手続きがかかっている地主が、2298名、うち一坪地主が2276名。防衛施設庁が平成9年度の資料がありましたのでそれを持ってきてあります。この、えー、6838人の地主、年間の借地料、182億5200万円、これは1994年の実績でそれだけの地料が支払われております。

 はい、次のスライド、お願いいたします。

 え、これは嘉手納飛行場の航空写真であります。ここで、ま、あの、滑走路の部分、これは、メイン滑走路ですね、幅90メートル、俗に4000メートル級の滑走路、3600メートル、オーバーランを含めて4000メートルという風な言われ方をしております。これがサブ滑走路であります。これ、幅60メートル、長さは同じ3650メートルです。オーバーランを含めまして、まあ、4000メートル級の滑走路、この二本の滑走路で、主にこの基地が成り立っているわけですが、基地の従業員数、いわゆる基地に働く沖縄の労働者たち、2616人、これ1996年生3月31日現在の数ですが、そのうち、MLQ、1722人、IHAといわれている人たちが894人、という風になっています。次の図をちょっと出して下さい。

 はい、これは、日本政府の思いやり予算で作られているF15のシェルター、格納庫なんですが、まさに、一機四億円をシェルターにかけている。これ年間、1ヶ年間に24億円の予算を投入をしましてですね、つくったシェルターなんですけれども、500キロ爆弾がおちてもびくともしない耐久性をもっているというふうに、作られたときの資料にありましたんで、わたしもびっくりしたんですが。ここは、この嘉手納基地というのは、主に、あの、F15イーグル、これは、第18戦闘団といわれている航空団がいまして、今嘉手納に展開をしている部隊の中心的な部隊なんですが、F15イーグル戦闘機、ま、54機ありまして、展開をしている。その他に、ここは、多くの航空機が常駐してまして、KC135といわれる空中給油機、それから、E3C、E3Bといわれる早期警戒機、それから輸送機のC130ハーキュリー、それからヘリコプター、救難ヘリコプター。そして、汎用機や輸送機、等々、100機以上が展開をしているところであります。

 この基地の。あ、次のスライドお願いします。

 え、これは嘉手納基地の略図であります。この、嘉手納基地全体を囲みまして、ここに第一ゲート、第二ゲート、第三ゲート、そして、第4ゲート、みずがまのほうに、そして、北谷のほうに第5ゲートという風についてますけれども、ここには、主に、この滑走路部分、そして、司令塔、この辺にありまして、住宅地域、事務所、兵舎等がこの辺、学校等全部含めて、遊技場含めてあります。

 この全体の中でですね、管制塔やターミナル、格納庫、兵舎、家族住宅、そして、学校、、幼稚園から大学までありまして、スーパーマーケット、映画館、教会、劇場、銀行、あらゆる診療所、野球場、そして、あらゆる支援、娯楽施設、がありましてですね、9000人以上の軍人軍属が、家族たちが、この中に生活をしているというところであります。

 この米軍嘉手納基地が、その意味では、この中であらゆる生活物資が調達できると同時に、さまざまな問題、それは生まれてから死ぬまでの問題がこの嘉手納基地のなかで解決するという意味から、まさにアメリカ合衆国の嘉手納町、という、そういう言い方をして揶揄をされているところであります。

 使用条件等は先にすべて発表、明らかにされましたけれども、まだ一部残っていますが、5.15メモによって、その使用条件が決められていまして、この嘉手納基地がすべての多くの、航空機を中心とした極東最大の米軍基地として君臨しているだけではなくて、その被害が航空機の訓練により、あるいは航空機が飛来することによって、遠くはB52の墜落事故、そして、宮ノ森小学校におけるジェット戦闘機の墜落事故、KC135空中給油機の墜落事故、F15の墜落事故。そこに展開をする、常駐をする、あるいは飛来をしてきたあらゆる航空機がなんらかの形で事件事故に、事故を起こし、周辺住民を負傷させたり、あるいは周囲の環境を著しく破壊をするということをずっと繰り返した、繰り返してきた基地であります。この嘉手納基地の実態が本日そして、次回の公開審理にかけて具体的な内容を含めて明らかにされることを希望しながら、わたしの意見陳述を終わらせていただきます。ありがとうございます。

(拍手)

当山会長:ごくろうさまでした。では次に、高宮城清さん、お願いします。


  出典:第7回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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