沖縄県収用委員 第6回会審理記録

伊佐眞正 反戦地主


伊佐眞正:

 嘉手納弾薬庫地区に土地を持っています伊佐眞正です。えー、3点にわたって、どうして契約しないのか、その理由を述べていきたいと思っています。黒板のほうには、ちょっと小さいんですけれども、読谷村の地図もあります。わたしの土地は、向こうの読谷村の地図を見てほしいんですが、58号線が南北に走っていますが、その右側ですね、えー、東側になりますけれど、こちらがですね、読谷村の土地でありながら、名前が嘉手納弾薬庫地区になっております。その下のほうに、自分の家の近くですけれども、土地があります。それでは、反対の理由を申し述べたいと思います。

 まず、1点目はですね、わたしの土地は先祖代々の土地であると言うことであります。この土地は戦前から受け継いだ土地でありまして、わたしは、わたしの祖先は、篤農家でありました。ですから、土地に対しては命と同じくらい大切にしておりました。土地は、命を育む生産の場であるし、生活の場そのものであったからであります。えー、まあ、そういった意味でもこの土地はほんとに大切にしなければいけない、宝物と考えています。

 戦後、米軍、戦争のために、一時は手入れをしない時期もありましたが、しかし、自由に入れたわけでありますので、すぐに手入れをしまして、主に、稲、米等を植えて管理をしておりました。わたしが小学校のころまでは、この土地に自由に入れましたので、自分の親たちといっしょに、兄弟も含めてですね、盛んにその土地に行って、耕したり、稲を植えたりしておりました。それで、近くには、小さな小川もありまして、そこは親子で、あるいは兄弟で、水浴びをしたり、エビや魚を捕ったりして、生活をした場でもあります。とても思い出深い場でもありました。

 そして、その土地というのは、前の地図でもわかりますように、わたしの家から1キロ以内の近くにありますから、毎日いったりきたりしている、生活圏内の土地でありました。ところがですね、米軍がいきなり、フェンスでもってわたした土地を囲って、隔離しております。当時わたしは幼くて、親たちは、農民でありましたから、この生産の場であるこの田圃が壊れまして、非常にショックを受けました。そして自分達が毎日のように通っておりました、この生活の場が、中断されたわけですから、ほんとに支障をきたすというか、行動範囲が非常に狭く余儀なくされました。このことは40年以上も前のことですけれども、今でもその時の怒りがこみあげてくるくらい感じております。

 そういった意味でこの土地というのは、主にわたしのおじいさんが、おばあちゃんといっしょにがんばって設けた土地でありまして、わたしは3代目でありますから、そういう意味では、ほんとに貴重な財産でありますから、おばあちゃんからもいつも話を聞いておりました。どんな苦労をして土地を得たのかという話でありました。それで、そこで、祖母や祖父、あるいは父母がどんな苦労をして、生産の場でがんばってきたのか、そういう話も聞いていたし、僕自身も、ほんとに楽しい生活の場、作業の場として、つかった土地でありますので、その*では意味では忘れられないものがあります。米軍の力によって強奪されているわけでありますから、その怒りを抑えることができません。これが1点目になります。

 2点目であります。2点目はですね、軍事基地としての土地の利用には反対と言うことであります。わたしは昭和17年生まれでありますので、戦争中には3才か4才という事で幼かった訳でありますけれども、それでいま元気に頑張っているわけですけれども、それでもですね、戦争の傷跡をうけて生きていることにはかわりありません。といいますのは、わたしの父は41才で他界しておりますけれども、実は、若い頃に徴兵されまして、南部の戦線で米軍との激戦のなかで負傷しております、眉間に傷ができたわけですけれども、一命は取り留めた訳ですが、神経をやられまして、それがたたりまして、とうとう、41才で、死んでしまいました。そういう意味ではわたしも戦争の犠牲者ということを感じていますし、そのためにどれほど、生活が苦しかったのか、体験しております。

 さらには、わたしの母も同様な苦労をしております。ともうしますのは、母の親、わたしからいいますと、おじいさん、祖父になりますけれども、この方は非常に苦労をして読谷飛行場に土地を手に入れて頑張ってきた祖父ですけれども、財産を得て、頑張って、軌道に乗った矢先にですね、徴兵にとられまして、南方の、場所もはっきりしないわけですが、サイパンではないかと言われておりますけれど、場所不明の地で戦死しております1ヶ年で帰ってくるはずの一家の大黒柱がですね、こうして戦争の犠牲になっております。

 それからというものは、わたくしの実家は大変でありました。飛行場は強制的に立ち退きをされまして、他の地に移住しますが、とにかく大黒柱が亡くなったわけですから、ほんとに、苦しい生活を余儀なくされます。さらには、一番体力のありました、母の弟、わたくしのおじさんにあたりますが、年が確か18才くらいの若い時期に、これもまたとても元気のある、前途有望でありましたが、徴兵されまして、首里のほうで戦死しております。

 このようにわたしの家族だけ見ましても、戦争の犠牲というのは非常に大きくあります。沖縄の県民なら、だれもそうだと思いますが、この戦争は非常に大きく影響しています。ま、そういった意味でも軍事基地というのは戦争に使われる訳ですから、わたしとしては自分の土地を基地として提供するわけにはいきません。

 嘉手納弾薬庫というと極東最大の米軍基地でありまして、ご存じと思いますが、嘉手納飛行場と対をなす場所であります。そこは、米軍の4軍、すなわち陸軍・空軍・海軍・海兵隊、全体のいろんな兵器が貯蔵されております。そして、ミサイル・化学兵器・核兵器などもあるといわれています。そして、この基地がですね、いろんな形で活用されている実態があります。例えば、わたしが大学の頃に、そういうことがありましたが、ベトナム戦争の時にですね、ほんとに爆弾をたくさん積んだB52が嘉手納基地からたくさん飛び立っていって、ベトナムの国民を、罪のない国民を殺戮していくとかですね、あるいは、街や村を焼きつくす、自然を焼き尽くすという、、こういう非常に大変な時代でありました。で、こういうことは、ベトナム戦争だけでなくて、何ヶ年か前の湾岸戦争の時もそうでありました。こういう訳でご承知の通り、嘉手納の弾薬庫地区というのは、それこそアジアの国民、あるいは世界の国を侵略していく場になっている現状があります。

 そういったことは、わたしの信条としては許すことができません。先ほど申し上げましたように、戦争の犠牲を体験しているし、そして、物心付いていろいろと勉強していくうちに、いくさ、この去った大戦がどういうものであったのか、いろんな本を読みながら、だんだんと知識を得てきました。そういう中で、戦争に対する憎しみ、如何にこれが空しいものであるか、これをしっている訳でありますから、そのようなことを他の国民に押しつけるような、あるいは、この、自分のこの土地が、基地に利用されて、他の国民を苦しめているということにはほんとうに我慢が出来ない状況であります。

 え、まあ、現在、ソ連も崩壊していますし、共産主義の脅威から、守るという沖縄の基地の大義名分はまったく存在しないと言うことは、ご承知の通りであります。そういう意味からも、この土地はぜひ返還してほしいと考えております。

 それから3点目。これは読谷村のあの地図を見て、分かりますけれども、読谷村の歴史というのは、戦後、基地の解放闘争、軍事基地の解放の闘いであると言っても過言ではないと思います。復帰の時に、70%を越していた土地も現在では43%ぐらいになっていきますけれども、それも読谷村の発展のきわめて障害となっています。まあ、そういう意味からもわたしは地域の発展の妨げであると、この軍事基地がですね、そう言った意味で反対しています。

 ご存じの通り、読谷村といいますと、文化村として、ユニークないろんな事業を実施して全国的にも注目されております。例えば、人間国宝の金城次郎さんを迎えたやちむんの里があります。それから、無形文化財としてのユンタンザ花織とかですね、あるいは紅芋の産業とかですね、あるいはまた進貢船を素材にした村祭りの成功、などですね。

 そういったなかで、軍用地を返還させるために、基地の転用計画というのをたてまして、取り組みを進めていますが、そういうなかで、平和の森球場とか、文化交流広場、あるいは最近に至っては、そんゆうちなども、*して、一定の成果を収めていますが、しかしながら、これからがさらに大切な時期を迎えております。21世紀にむけて、わたしも読谷村民として、あるいは*、地域発展のために、この軍用地の問題はさけて通ることができません。

 特に、この嘉手納弾薬庫というのは、向こうの図を見ても分かるとおりですね、読谷村は、58号線、国道58号線によって東と西に分断されておりまして、その東の全部がご覧のとおり軍用地、すなわち嘉手納弾薬庫になっております。このことが非常に読谷村の発展に障害になっております。例えば石川方面あるいはコザ方面にいくにしてもですね、迂回しなければいけません。自分の土地でありながら、米軍基地があるために、近道がつくれないわけであります。

 そして、便利な、この、有料道路もありますけれども、それも利用しにくい、そういう状況であります。そういったことからもですね、今後読谷村が、中部の、文化圏として発展する意味からもですね、この軍用地は非常に障害となっています。

 そういった意味で、わたくしは、自分の信念や地域の発展、あるいはこの土地の歴史的な意味あいからしても、絶対に戦争につながる基地に自分の土地を提供することはできません。

 えー、その間、いろんなことがありました。地域での、闘いもありますが、これは確か80年頃のことでしたが、防衛施設局からの圧力もありました。毎日のように公民館にきて、反戦地主たちを集めてですね、説得してみたり、あるいは個人の家を訪問したりしていました。

 一番、よくないと、ほんとに怒っていたのはですね、自分達の親戚を集めて、誰々が反対しているので、この土地はまとめて返す、ということをいっていたことであります。で、地図にあるとおりですね、58号線の東側というのは、58号線から100メートルくらいのもしくは50メートルくらいのベルトがですね、街路樹と基地の間の、緩衝地帯といいますか、安全地帯と言うようなそういう名目で自由に入れる黙認耕作地帯があります。こちらは地料も高いし、契約した地主も多い状況です。このなかには、何人かのかたは、自分達の土地は提供しないということで、契約を拒否しております。こういう状況のなかでですね、何名の方が反対しているので、この土地みんな返す、ということを実際に言ってきました。

 私たちは、簡単にはかえさんだろうということを親戚に話しましたが、納得してくれませんでした。そして、親戚、非常に怒りましてですね、あんたが反対していることは、反戦平和ということでは意味は分かるかも知れないが、反戦平和では飯を食っていけないと、現にわたしは今、自分の娘を学校に行かしていると。あるいは事業も始めていると。そういった資金というのは軍用地料で払っていると。この軍用地料が返還されてなくなった場合には、あなたは責任を持ちますかと。そういう風に追及されたこともあります。

 そういうかたちでですね、同じ区民どうしを分断させるような、激烈な攻撃もありました。そういう中でも耐えてきました。また、ある人は、わたしの親の仲間ですが、非常にそういう攻撃に苦しみまして、相談をしにきておりました。しょうがないから条件を出

そうと言うことで、条件を出したこともあります。その条件というのは、ある公共施設の、公民館のですね、公民館の用地を、斜面で、将来公民館を改築する際には、なんとかしないといけないということで、区民からも希望されていましたから、そこの条件整備で出したわけです。まさか、その土地を、埋めて、平坦にしてというのでは、何千万という予算が必要でしたから、そういう条件ののむことはないだろうと言うことで、そういう条件を出しましたが、ところが、そんな予算がどこからでてくるのか分かりませんが、ほんとにその事業をやってのけました。そういうこともあって、わたしの友達はやむなく契約したこともありましたけれども、こういう具合にしてですね、契約した人の中には、非常に悩み苦しんた方もいらっしゃいます。

 そういった意味では、わたしも実際に反戦地主として、地域で頑張るには、非常に苦しい思いをしてきたこともありましたが、しかし、誠心誠意、自分の地域や職場において対応してきたこともありまして、最近ではそのあたりでも矛盾はかなり減っていく状況になっています。それにしても、こんなにしてまで人の権利を奪う、このやり方には我慢できません。

 今、僕の土地にいってみますと、フェンスに覆われて中に入れない状況にありますけれども、いってみますと、そこは一変しています。かつて昔、田圃があって、青々と稲が茂って実って、近くには小川があって、遊んでいたあの土地はありません。今は完全に敷きならされていて、自分の土地だのに、わたし、地主にはなんの相談もなしにですね、勝手に敷きならして、田圃を埋め、山は崩され、小川もなくなっています。その上には、真上と言いますが、近くだと思いますけれども。地形も全く変わっていますから、その地形を確認するのも大変で。確実な場所とは言えませんが、僕の田圃の上、近くには、弾薬庫がたっております。このように地主の権限もまったく無視して行くやり方。これ、納得できません。

 民主主義という国であればですね、市民の命や財産は当然守られるべきだと思います。これがだれが考えてもですね、憲法の精神だと思いますが、これが実際にはですね、まったく踏みにじられている現状があります。

 そういった意味から言っても。この沖縄の土地強奪の問題はほんとうに許せないと、憲法違反であるということが、わたしは、もう実感として感じております

 まあ、そういう意味からも自分達の土地はぜひとも返してほしいと。返してくれればですね、わたしには、こどもや兄弟もいますから、家を作る土地もほしいわけです。いま、みんな、あの地図を見てもらえれば分かるとおりですね、西側に押し込められて、読谷村のいいところは今でも米軍基地の中にあります。

 この、でこぼこや斜面とかそういったところに人家があるようなもので、返してほしい土地がいっぱいあります。そういった意味で、わたしは、えー、自分の土地に対しては契約はできない。返してほしいと、そういうことをほんとに訴えて、いる状況であります。簡単ではありますが、以上において、意見と致します。ありがとうございました。

当山会長:ごくろうさまでした。それでは次に阿波根昌秀さん。


  出典:第6回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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