沖縄県収用委員 第6回会審理記録
阿波根昌秀 弁護士
当山会長:ごくろうさまでした。それでは次に阿波根昌秀さん。
(海上ヘリポート建設反対の声)
阿波根:はい、あの、海上へリポート、わたしも反対です。
えー、嘉手納弾薬庫地区に土地を所有している地主、松田正太郎さん、平安(ひらやす)カメさん、平安一嘉さん、伊佐光子さん、比嘉良子さん、伊波維眞さん、他七名の共有地主がいらっしゃいますけれども、その方の代理人として意見を述べたいと思います。
先ほど、地主のひとりである、共有者でもある、伊佐眞正さんから、読谷村、字長田長田原166番の土地に関する意見でありました。非常に、貴重な意見を述べられました。契約を拒否したいという気持ちはある。しかし、この契約拒否の信念はですね、貫いていくことが如何に困難な状況にあったかということがお分かりになったかと思います。
えー、これからわたしがかわって意見を述べます、松田正太郎さん、この方もですね、同様、非常に、この、契約を拒否しているんだけど、その意思を貫くのは非常に困難な状況にあったということを説明しておられます。
えー、それから、あの、それでは、まだ、七名の共有者の、七筆の土地についての意見を述べますけれども、まず、あの概略を、一筆一筆全部述べるのは大変なんですけれども、大体概略についてもうしますと、その八筆の土地のうちですね、一筆は先ほどの伊佐さんの土地ですね、あと一筆は沖縄市側にあります。県道16号線沿いにある土地です。比嘉良子さんという方の土地で、大阪にお住まいです。あと、一筆の土地は、嘉手納町側にありまして、伊波維眞さんという方の土地で、弾薬庫の中腹にあります。あと、七筆の土地は読谷村側にあって、そのなかの一筆が先ほどの伊佐さんの土地です。そして北側から順々に松田さんの土地があります。松田正太郎さんの土地があります。そして、そのさらに南に下ってですね、平安さんの、カメさんという方の土地が四筆あります。それから下って58号線沿いに、平安一嘉さんという方の土地があります。
順次、これらの土地についてご説明していきたいと思います。
まあ、それではあのちょっと暗くなりますけど、スライドをお願いいたします。スライドの1番をお願いします。
えっと、失礼します。えー、これが嘉手納弾薬庫の、写真ですね。下の方に見えますのがですね、いわゆるその、読谷村の伊良皆部落です。真ん中の白い建物がありますが、これが読谷高校ですね。その学校の上のあたりからですね、白い線があって、これが58号線ですね。建物が密集した下のほうが、いわゆる読谷の集落地帯、伊良皆部落を中心とする集落地帯です。写真のすぐ下です。上のほうがですね、嘉手納弾薬庫です。
ご覧のようにですね、読谷村の開発は、この58号線の、北側というんでしょうかね、までで、すべてストップしている状況がお分かりになるかと思います。
続いてスライドの2番お願いします。
これがですね、これが弾薬庫の写真ですね、えー。これが58号線の東側部分にある弾薬庫ですけれども、この中には、一部は軍用地から解放された土地もありますが、ほとんどは嘉手納弾薬庫の用地として、米軍の提供されています。この弾薬庫地区にはですね、畑などに利用されている土地が集まっている地域があります。写真で言うと、点々で黄色くなっている部分がありがその部分ですね。大体その部分が畑等として利用されている部分です。そして、その畑ではなくて、その緑の部分がありますけれども、その部分が、いわゆる弾薬庫の中心部分ですね。
これと・・。この写真はどうなっていますかな。見にくいですな。58号が・・、これは58号で、これは伊良皆部落で、これが読谷高校ですね。そして、弾薬庫に入って行くんですけれでも、ここに黄色い部分がたくさんありますね、これが黙認耕作地です。では、その緑の部分がありますけれども、これが弾薬庫の中心部分です。この弾薬庫の部分は、このようにして縦横無尽に道が走っています。この、その、道の周辺部分にはですね、弾薬庫がおよそ、その、500くらいといわれています。
ちょっと電気付けてください。ライトお願いします。
あの、ご覧頂いたように、嘉手納弾薬庫地帯は元々森林地帯でありましたから、非常に起伏に富んだ地形となっています。この起伏を利用して、いわゆる半地下式の弾薬庫が作られている。その半地下式の他にですね、地上にも弾薬庫があります。で、建物の中に入れられている弾薬庫もあれば、野積み式でですね、原っぱに積まれている弾薬もあると言う話も聞かれます。
えっと。この嘉手納弾薬庫の機能とか組織については、先ほど、伊佐さんからもお話がありましたけれども、これは、第18航空団の指揮下にある第400弾薬整備中隊というところが管理しております。この第400弾薬整備中隊というところは、いわゆる「NBC」兵器を扱うことの出来る部隊であるといわれております。例えば、毒ガスであるサリンのガスですね、VXガス、マスタードガスなどが、貯蔵されていると言われております。えー、この弾薬庫はですね、嘉手納飛行場とつながっておりまして、爆撃機に爆弾を即座に運び込むことが可能だといわれています。
先ほどの基地の中に縦横に道路が走っておりましたけれども、その道路の長さは総延長で120キロメートルになります。といわれております。網の目のように張り巡らされて、道路網がですね。この道路網に沿って、弾薬庫とか整備中隊、実験室、これが隊舎の建物が並んでおります。その数はおよそ500以上もあるといわれております。
この、基地を管理している第400弾薬整備中隊ですけれども、これは、嘉手納を含め、太平洋に展開する米空軍全体に供給する武器弾薬を貯蔵・整理・輸送など重要な任務をもった部隊であります。日常的には、弾薬を貯蔵し、再生・組立をし、嘉手納基地に駐留するすべての部隊の訓練に必要な弾薬類を供給し、いざ戦争が勃発したときには、その初期の段階で兵器や弾薬類を即座に供給できると。いうような体勢を整えていると言われております。このような任務をもった部隊としては、太平洋地域で最大のものといわれております。
嘉手納基地で訓練用に使用される弾薬の数は、年間で約40万発といわれておりますが、これを供給するのが、この弾薬庫なのであります。えー、湾岸戦争の時にも、この基地から昼夜ぶっ通しで、弾薬が運び出されたことが、我々の記憶にも新しい所であります。
えー、それではですね、ここの土地についても説明をしていきたいと思います。えー。まず、読谷村にある土地から説明いたします。そのうちの一筆について、先ほど伊佐さんから説明がありましたけれども、まず松田正太郎さんの所有する読谷村字伊良皆の、「ナカブクルバル」と読むんだそうです。仲の袋の原、仲袋原というところにある、1101番の土地なんですけれども、これは581平方メートルであります。この土地について、ご説明いたします。
これは、スライドの1枚目を、まず使ってですね、お願いします。ちょっとすいませんが、ライトを消しててくれませんか。
ここらあたりですね。それから、スライドの4番と5番を映して下さい。あの、これは上空からとった写真なんですけれども、嘉手納弾薬庫のですね、フェンスはこのような形で走っていますけれども、ここらあたりですね。この土地には道がついておりません。侵入道路は全くありませんので、わたしも何回かチャレンジして中に入ろうとしたんですけれど、やはりだめでした。たまたま航空写真があったので、地番照合してみたら、だいたいこの辺になると言うことでございまして、松田さんに聞いたら、「うん、だいたいそこらだ」ということですので、大体ここら辺にしておきます(場内笑い)
えーっと。それではスライドの5番を映して下さい。同じ様なところですね、だいたい。あー、またわけが分からなくなりましたな。わかりにくいですね。よくわかりませんので、省略しましょう。ここら辺が部隊なんですけれどね。
えーっと。ライトを付けて下さい。えー。フェンスの外側にあることがわかりますね。この土地は、現在は、実際は松田さんは、家を作ることができません。深い山の中にありますので。しかし、この松田さんとしてはですね、いずれ、一帯の土地が解放されて、返された場合には、住宅地として利用したいという風に考えていると、おっしゃっております。
この土地はですね、先祖代々から松田さんの、松田家の土地なんです。松田家はですね、先ほど写真で写っていた土地の、えー、手前当たりにですね、田圃地帯がありまして、約1000坪くらいの田圃を所有していたそうです。それで、そこの松田家の田圃は、そこが中心で、農作業の中心はほとんどそこで、やったということです。そして、その、この土地はですね、田圃、田植えをするとき、家族が休憩する場所があったと。こういう場所であったといわれています。この土地には大きな松の木が生い茂っていて、そこで一家団らんをする、少年時に、憩いの場所としては、非常に最高の場所であったと、いっています。また、松が生えていますので、そこで薪をとることもできてですね、薪も貴重なあれですから、生活用品ですから、貴重な森だとおっしゃっています。
松田さんはですね、年輩の方で、1925年、大正14年生まれ。で、戦争中、海軍に召集されて、外地に行きました。戦後、外地から帰ってきて、沖縄に帰ってまいりますけれども、帰ってきてびっくりしたのは、家族の方が一人もいない。亡くなっていたと。全滅していると、いうことです。
松田家は、両親や兄弟姉妹ら10人家族でしたけれども、松田さん本人は、兵隊として召集されているし、それから、家族の方は読谷村にいらしたんですけれども、戦争のために、伊良皆部落のですね、東側に石嶺壕というところがある。石嶺壕。というところがあるんですけれども、その石嶺壕に、松田さんの家族だけが避難していた、ようです。それを米軍に、米兵に見つかってですね、全員、銃殺された。銃でみんな撃たれて亡くなったんだと。
で、松田さんは、その、戦争から帰ってきて、自分の家族の亡骸をですね、探し回ったらしいです。それで、石嶺壕にたどり着いて、そこで、遺品を見て、一家であることが確認して、まあ、骨を拾ってですね。祭ったということであります。えー、その時に松田さんの受けた衝撃は、一生自分は忘れないと、語っています。
えー、今日もですね、出席していただけませんかということをしたんですが、心臓の病気が非常に悪いということで外出することができないということですけれども。自分の気持ちとしてはですね、このように伝えて下さいということなんです。わたしに、松田さんがおっしゃったことは、「自分はごく普通の読谷の村民である。で、政治的な立場で言えば、保守でもなければ革新でもありません。ただわたしの家族を殺したのは、軍隊だ。戦争がなければ、アメリカーは沖縄に上陸しなかったはずだ。わたしは、その、アメリカーが上陸しなかったなら、わたしたちの家族は殺されなかったんだろう。わたしは戦争を心から憎んでいる。」いうことです。「だから自分の信念として、戦争につながることには一切協力できない」ということでありました。「ただ、自分としては、そういう気持ちは、信念としてはもっていきますけれども、伊良皆の部落のなかで米軍に契約を拒否しているのは自分一人だ。だから、あまり、自分の立場を強く述べることも、親戚だとかに迷惑がかかるのではないかと心配して、まあ、せずに来た。」というような心情もいっています。
そういう状況ですけれども、あくまでもそういうことで、自分はこの土地を返してもらいたいと、そういうようにおっしゃっています。
次に平安カメさんの所有する土地についてご説明いたします。
えーっと。スライドの、これは1番、1番に続いて6番を映してください。
これ、ライト暗すぎない方がいいんじゃないかな。あまり真っ暗にしないで下さい。もう少し明るくできませんか。
えっと、こういって、平安カメさんの土地があります。
次の写真出して下さい。これはですね、ここは、ここからみて、三筆の土地がまとまってありますけれども、これは、平安さんの土地のがあと山側にあります。これも弾薬庫の施設の近くにありますが、フェンスが走っていますけど、ほとんど中に近いところにあります。ライトをつけて下さい。明かりをお願いします。
えー。ごめんなさい。もう一回、写真はもういいですか。これは映してありますけれど、もう、よろしいでしょう。この土地は、弾薬庫の建物の近くにあります。先ほどいってましたね。道路から離れているために、返還されても、ただちにそのままで使用することはそれは困難でしょう。しかし、その付近一帯が返還されてですね、区画が整備された場合には、農地または宅地として利用することが可能な土地であります。十分可能です。平安カメさんは、この土地を夫の平安常恒さんという方から、常に恒。常恒さんですね。という方から相続によって取得いたしました。
平安常恒さんという方は、昭和63年に亡くなりましたけれども、この方、戦前戦後、一貫して、あ、戦後一貫して米軍用地の契約を拒否し続けてきた、まあいわゆる非常に信念の高い人でありました。カメさんは、その亡き夫の遺志を受け継いでいきたいと、考えて、契約を拒否し続けていくと語っています。平安常恒さんという方は、戦前は沖縄県立第二中学校を卒業して、沖縄師範学校も卒業した方で、当時として、当時の沖縄としては、インテリに属する人でした。常恒さんは、卒業した後、教職についていましたが、しばらくして本土にわたりました。そして、社会運動に携わるようになりました。1943年か1944年ころだったということなんですが、常恒さんは、日本軍に徴用されて八重山に送られました。そこで、自分の意思に反して、信念に反して、軍隊に編入されました。そして、その時の軍隊生活で、軍隊の非人間的な場面を数多く見せつけられました。そして、戦後一時期読谷村に帰りましたが、この土地が米軍に取り上げられて、耕す土地もなく、八重山に一旦戻って、八重山で農業しましたけれども、1951年ごろに再び読谷村に戻って、雑貨店を経営する傍ら、農業で生計を立ててきました。
常恒さんは常日頃から、「軍隊が人民に幸福をもたらすものではない」と語っていたそうです。その信念から常恒さんは、復帰前の賃貸借契約の始めから、賃貸借契約がはじまるですね、米軍との契約が始まる頃から、ずっと契約を拒否し続けてきたという形であります。カメさんは1908年生まれですから、今年で89才か90才であります。それでもカメさんは「防衛施設局の人が何回来てもわたしは契約はしませんよ」と語ってくれました。
次にですね、平安一嘉さんが所有する比謝(ひじゃ)の、長佐久原の553番の土地についてご説明をいたしたいと思います。えー、すいませんけど、スライドの1番を映して下さい。ちょっとライトを、お願いします。
ここに58号がありますけれども、58号まで近くに、ここら辺ですか、に、あります。さらにですね、続いてスライドの8の1番を映してください。この赤いところがですね、これが58号線で、赤いところが対象の土地です。このなかで、ここも平安さんの土地です。ここも平安さんの土地です。ここもそうです。わたしは対象の土地はこれだと勘違いしていたんですけれども、これでした。この土地は数年前に返されたそうです。で、これは58号線ですけれども、大体ここまでは25メーター、30メーター、70メーターから80メータくらいです。58号に非常に接近した土地です。
次の写真お願いします。これから見てもお分かりだと思います。対象の土地は、どこであったかな・・。ああ、ここですね、ここです。で、返された土地はここです。
(はっきりいってくださいよ、はっきりの声)
聞こえませんか。すいません。あの、これが対象の土地ですね。対象の土地です。これが返還された土地です。ここは58号です。ここは駐車場になっています。ここからですね、約25メーターか30メーターくらいです。、こっちからここまで大体7、80メーターの距離しかありません。ここは、強制使用の対象地ですけれども、ここは、返されて、いらないんだということで返された土地です。こういう状況の土地です。
明かるくしてください。ライトお願いします。
えっと。この土地についても、いわゆる国はですね、嘉手納弾薬庫の他の中にある、その、張り巡らされた、その地帯にある弾薬庫の土地と有機的一体をなしているんだということなんですが、どういってもですね、有機的、どこで有機的結びついているのかさっぱりわからない。この平安さんの土地は58号のほうにくっついているんであって、58号に結びついているんであって、有機的につながっているんであって、弾薬庫のほうにはつながっておりません。有機的一体は全くない土地だと断言できるんではないかと思います。
この土地もですね、いわゆる平安常恒さんの所有する土地でしたけれども、常恒さんが昭和63年にお亡くなりになって、息子の一嘉さんが相続した土地であります。一嘉さんも、お母さんと同様でありまして、常恒さんの意思を継いで、あくまでも契約を拒否して行くんだと話しております。
この土地は、現在、農地として、使用されておりますが、一嘉さんとしては、付近の土地といっしょにですね、返還されるよう、望んでおります。先ほども説明しましたけれども、国道から約25メートル、30メートル離れた所にあった土地、これはですね返還されておりますけれども、この土地には、ご覧いただいたように道路がついていませんです。他人の土地を通り越してしていかなければ、この畑に着くことはできません。また、弾薬庫との関係でですね、付近一帯で火を燃やしたりすることも自由にできないで水道を引くことも現在できないそうです。それで結局は返還されても放置せざるを得ない。と言うような状況を余儀なくされているのであります。
このようなことから、一嘉さんは返還する場合でもですね、付近一帯の土地といっしょに返還されるべきだと強く主張しています。一筆の土地をですね、一帯の土地を全部いっしょに返還されなければ、土地は開発できないからであります。虫食い状態での返還は嫌がらせ以外のなにものでもない、ということを語気を強めておっしゃってました。
次に沖縄市の比嘉良子さん、比嘉昭雄さん所有の、沖縄市の大工廻(だくじゃく)の土地について説明いたしたいと思います。ちなみに比嘉良子さんと昭雄さんは親子で、両人は現在大阪の西成区という所にお住まいであります。良子さんは1916年大正5年に沖縄県本部町に生まれました。地元の小学校を卒業して1933年昭和8年に、紡績女工として三重県に渡りました。三重県で働いた後に、和歌山県、大阪へと移り、大阪で、比嘉英浦さんという方とお知り合いになって結婚いたしました。夫の英浦さんは、日本軍に召集されフィリッピンで戦死したそうです。
良子さんは大阪でふたりの子供を抱えて、大変な苦労をなさいました。戦後しばらくして、いわゆる軍人恩給というものが支給されるようになりましたけれども、良子さんもその請求をいたしました。しかし、戸籍が沖縄にあったということで、申請は却下されました。何回も良子さんは政府とかけ合ったそうですが、結局はだめだったそうです。このためのご本人の言葉によれば、わたしたち一家はまさに乞食同様の生活を強いられたと話しております。
良子さんはこのような苦しい体験やまた戦争で夫を亡くした悲しい体験から、戦争は人間に不幸をもたらす最大のものであると思えるようになりました。そして、息子の昭雄さんとも相談し、沖縄市にある土地については、絶対に軍隊には貸さないと、そのように決めたのだと話しております。
土地の状況をご説明いたします。スライドの9番を映して下さい。はい、よろしいです。
えっと。これがですね、ここが嘉手納飛行場です。ここが弾薬庫一帯です。これが嘉手納町から沖縄市に向かって走る県道16号線です、この土地は県道16号線にかかっております。この土地であります。
次のスライドであります。これは逆になっておりますが、ま、よろしいか。これも58号線でですね、今度はこちらが沖縄市でこちらが嘉手納側でありますけれども。逆に直しましょうか。これですね。これが沖縄市側でここが嘉手納から来るんですけれども、嘉手納から来る土地からここの部隊入り口がありますけれども、ここですね、嘉手納基地、ここが嘉手納弾薬庫。この部分を県道16号の部分にあるのが、比嘉良子さんの所有する土地であります。
ライトをお願いします。
えっと。この土地のですね、県道との間にはフェンスが張り巡らされておりますけれども、このフェンスの位置を多少ずらせばですね、フェンス外の土地になることが十分可能なんです。この土地は基地の外に位置することになります。この土地の位置するところは嘉手納町弾薬庫の基地のいわゆる周辺部にあり、これを返還しても、基地の機能に支障を来すことはないと考えられます。この土地が嘉手納弾薬庫の他の土地と有機的一帯として機能しているということは、到底考えられないのであります。えっと、この土地については、平安さんもただちに返してほしいと話しております。
ところで、嘉手納弾薬庫の強制使用の対象となっている土地の使用目的は、九筆の土地すべてが弾薬庫の「保安用地」という形でなっています。これについて第3回公開審理におきまして、わたしが質問したことに対して、これは保安用地として必要な部分はどこまでか、有機的な範囲はどこまでか、が必要か、という基準はあるかという質問をしましたけれども、これに対して、起業者側の坂本憲一施設部長は、米軍は弾薬庫に貯蔵する弾薬の種類および貯蔵法に基づき、有人建物または公道等までの保安距離を定めていると承知していると答え、さらに別の質問に対し、当部長は、米側には基準はございますが、日本側にはございませんと答えています。
ところで、起業者は、裁決申請の理由のなかで、「これらの土地はそれぞれの施設および区域の運用上契約を拒否して使用している他の土地と有機的一体として機能しており、必要欠くべからざるものであります」と述べております。整理すれば、強制使用がみとめられるための必要不可欠な条件として、基地として使用することの必要性の存在があり、その必要性を満たす各土地についての具体的理由として、有機的一体として、その土地が他の土地と機能しているということが認められなければならないということになります。そして、本件土地のような弾薬庫の用地における有機的一体性を考える場合、当然保安基準の範囲内の土地なのか、基準の範囲内の土地なのかを吟味する必要があると考えます。
起業者側のいう、米軍の保安基準があるのであれば、この基準が適正か否かの判断は一応おくとしても、当該強制使用の対象となっている土地が、その保安基準をみたすのに不可欠な土地なのかどうか、その判断をするのが審理を進め方としては、当然の順序であるとわたしは考えますが、どうでしょうか。
起業者は、肝心な、この保安基準をこの審理の場に提供しなければならないはずであります。これをお出しする意思があるのでしょうか。もしこれを起業者が提出しないというのであれば、必要性がある、有機的一体性の存在を説明する責任は、当然起業者側にあるのですから、それを証明がなかったものとして、本件裁決申請は却下をまぬがれないものといわなければなりません。
(場内拍手)
まずは、起業者が、この保安基準をお出しになった場合、弾薬庫の保安用地として使用目的を限定されている本件各土地がこの保安基準にてらして必要不可欠なものなのかどうかについて、これまで述べた意見を参考になされてですね、さらに、これから8月25日、8月29日に現地立ち入り調査が実施されますけれども、その結果を元にしてですね、収用委員会は厳正なる判断をなされるように希望いたします。
以上を持って、機能の面、基地機能の面については別の機会に聞くとして、一応土地の状況について説明を終わりたいと思います。以上です。
当山会長:はい、ごくろうさまでした。えっと、今日、時間切れになってしまいましたが、後、残りは次回にしていただけませんかね。えっと、本日の審理はとりあえずこれで終わりたいと思います。えっと。すいません。今日は45分まででお願いしてあったんですよ。いろんな都合がございまして、どうしても次回にお願いしたいですね。えっと、次回ですが。
阿波根:すいません、じゃあ、この嘉手納弾薬庫のですね、保安基準のでたらめさについてですが、じゃあ次回に。
当山会長:次回にお願いします。あのですね、今日、実は、会場、次の日程が入っているらしいですよ。大変もうしわけないです。
阿波根:すいません、時間オーバーしてすいません。次回にお願いいたします。
当山会長:あのー、ちょっと阿波根先生がすこし長かった。
(場内爆笑)
当山会長:
えーっと、次回の審理はですね、沖縄市民会館で行います。9月24日水曜日。午後1時より開催を予定しております。で、会場の最終的な使用許可がまだ出ておりませんが、もし変更があれば、正式なご通知を後ほどいたしますので、通知書をよくご確認の上、お越し下さいますよう、お願い申しあげます。なお、入場受付は、正午から開始いたします。次回は、開始時間が1時間、ちがいます。本日は午後2時でしたが、午後1時より行いますので、お時間を間違えないように、よろしくお願いいたします。本日はおつかれさまでした。ありがとうございます。