沖縄県収用委員会 第10回審理記録

照屋宏(土地所有者)


 土地所有者(照屋宏)

 私は、キャンプ瑞慶覚の中に土地を持っています地主の照屋宏です。私は、1992年、前回5年前ですが、5月15日の使用期限を契機に戦争を放棄した日本国憲法のもとで、軍事基地としては土地を貸さないということで、契約拒否を決めたものでございます。

 今回の契約拒否も基本的には前回と同じであります。しかし今回は、安保条約運用の新たなガイドラインの策定で、米軍基地が国民にとって、一層危険なものになっている。そういう状況でありますから、なおさら貸したくないのでございます。

 また、政府は、昨年5月15日の強制使用期限後になって、駐留軍用地特措法を改悪 し、違法占拠状態を遡及的に解消するという、通常の土地収用法の運用と著しく異なったやり方に改めました。

 軍用地主だけが、このような差別的取り扱いを受けるのは、法の下の平等に反するのではないでしょうか。県収用委員会は、この点も十分審理をして判断をしていただきたいと思います。

 法的な形式としましては、私個人の土地の使用契約の拒否でありますが、決して私は個人の利益のためだけではありません。私の立場は、基地は諸悪の根源であり、基地はいらないという県民の意思を代表しているものと自負をしているところであります。

 前回から5年経過した今、基地はいらないという県民の意思は一層明らかになった ことと思います。

 一昨年の県民総決起大会決議、あるいは県民投票、基地の整理縮小などに対する県民の意思を明確にいたしました。また去る12月21日、名護市民投票の結果は、この基地の整理縮小の方向は、県内移設という形での新たな軍事基地をつくることについても、特別な振興策による経済的利益をもってしても、譲れないものであることをはっきり示していると思います。

 以下、私が住んでいます北谷町の歴史をひも解きながら意見を述べたいと思います。

 北谷町は、現在でも町面積の56.7%を占める米軍基地が、町の街づくりや経済振興の上で大きな障害となっております。北谷村が第二次大戦で、米軍の上陸地点となったため、はじめ村域の全部が米軍基地となっておりまして、住民が収容所から一部地域に、帰還が許されたのが、1946年10月22日でありました。

 ちなみに、この10月22日は、あの悲惨な戦争体験を風化させることなく、後世に伝える、そういう趣旨で町民平和の日として制定されております。

 許された居住地域は、戦前の集落跡地や田畑があった良好な土地への帰還ではなく、宅地としては、最悪の傾斜地や谷合でありました。現在でも基地と住居が混在し、家屋を改築しようにも建築確認が下りない。消防車や救急車が通れない地域であります。

 町の行政上は、先住地域と呼ばれて、町は、道路や公園、河川の整備に巨額の費用を投じなければならない状況であります。

 なぜこのような場所でも故郷に帰らなければならなかったかについて、当時の村長であった新垣実氏は、次のように語っております。

 生活の根拠は、何と申しましても、生まれ故郷、もしくは故郷近くの山川草木に触れることです。今は、一日千秋の思いで帰郷を待つのみです。これは当時の村民の気持ちを代弁したものと思います。

 1946年11月10日には、字嘉手納への帰還が許されました。それから2年後ですか、1948年5月、それまで自由に往来できた嘉手納飛行場への立入りが全面禁止され、村役場に行くには大きく迂回して行かなければならず、嘉手納地域の復興発展が憂慮される事態となりました。そこで、分村の世論が起き、同年12月4日付けで沖縄民政府の 認可で分村が決まったのです。これも基地がまちづくりの障害となっている一つの例として挙げられてよいと思います。

 また、基地があるために住民要求に応える公共用地の確保が難しいところがあります。例を挙げますと、終戦直後は小学校は2校ありましたが、1校は町内ではなく隣の隣接した沖縄市の中の傾斜地を削って建てられました。また、他の1校は小山を削り とった狭い敷地に建てざるを得ませんでした。最近では、町立保健相談センターの敷地はキャンプ桑江の一部を開放させてつくりましたし、現在建築中の新庁舎も、キャンプ桑江の基地内に米軍との共同使用という形で建てられます。

 このような状況から、北谷町の第3次振興計画基本構想という冊子を見ますと、米 軍基地について次のように述べております。

 本町の土地利用状況を見ると、総面積13.26平方キロメートルの約57%に及ぶ嘉手納飛行場、キャンプ桑江、キャンプ瑞慶覧などの広大な米軍基地があり、そのほとんどが平地で、国道58号線の利便性に富む地域に集中している。これら米軍基地の存在は、行政区の分断など、町の生活環境に与える影響だけでなく、道路網の整備改善など、地域開発や産業振興の上からも大きな障害となっている。町の行政の立場からも、米軍基地が障害になっていることを指摘しているのであります。 北谷村は、戦前は9割近くが農 家で、純農村地帯でありました。しかし、米軍は基地構築のため、農地のほとんどを沿岸の海底から削りとった砂利で埋めつくし、もう二度と農業ができないようにしてしまいました。めぼしい産業の発展も望めないまま、軍作業、あるいはバーやレストランなどの飲食店、貸住宅など、お決まりの基地依存経済のパターンにはめ込まれていったのであります。しかし、最近ではハンビー飛行場、メイモスからの射爆場跡地の基地開放があり、また、埋立地へのリゾート企業誘致などで、北谷町の西海岸一帯は中部地域の新しい商業住宅地域として生まれ変わろうとしております。キャンプ瑞慶覧が開放されますと、より一層の発展が望めると、多くの町民は期待をしております。

 政府防衛施設庁は、米軍への軍事基地として提供するために、私の土地を強制使用するということでありますが、しかし、以上述べましたように、基地をなくして平和的に豊かに暮らしたいという県民の願いに沿った土地利用と、他国の軍隊に危険な軍事基地として提供する土地利用と、どちらがより公共の福祉、公共性があるのでしょうか、結論は明白ではないでしょうか。県収用委員会が県民の立場に立って、明確に本件強制使用裁決申請を却下ないし棄却して下さるよう期待を申し上げまして、私の意見陳述といたします。

 当山会長:

 はい、ご苦労様でした。それでは、長野真一郎さん。


  出典:第10回公開審理の議事録から(テキスト化は仲田


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