沖縄県収用委員会 第10回審理記録
新垣善春(土地所有者)
当山会長:
それでは、引き続き後半の部を始めたいと思います。キャンプ瑞慶覧関係、まず最初に、新垣善春さん。
土地所有者(新垣善春):
どうも収用委員の皆さん、ご苦労さんでございます。キャンプ瑞慶覧に土地を所有する新垣善春でございます。強制使用に反対する立場で意見を申し上げます。
沖縄県の近代史は、日本政府による抑圧と差別の歴史であると言えます。明治12年には完全武装した軍隊を引き連れた松田道之処分官によって、琉球王国を強制的に日本に併合しました。早くも明治31年には沖縄にも徴兵令が実施されましたが、国政参加は大きく遅れて、初の衆議院議員選挙が実施されたのは明治45年のことで、沖縄県の県民の直接選挙で選ばれた最初の衆議院議員は、高嶺朝教氏と岸本賀昌氏の両名でありました。したがって、沖縄県民が日本国民として処遇されたのは、明治45年(1912年)からであり、今日まで85年になるわけです。米軍支配の27年を引きますと、58年間しか日本国民として扱われなかったということになります。この事実を差別と言わずして何と言えるでしょう。
さらに第二次大戦では、日本の国土の中でただ一つ沖縄だけを地上戦に巻き込んで、はかり知れない犠牲を押しつけました。これに引き続いて、日本の占領を終わらせて、独立を回復することと引き換えに、沖縄の施政権をアメリカに売り渡したことは、沖縄に対する日本政府の差別と犠牲の押しつけを雄弁に物語っています。おかげで沖縄の私たちは、アメリカの軍事優先政策のもとで、日本国憲法とは縁もゆかりもない布令・布告を押しつけられ、基本的人権や財産権も踏みにじられてきました。
伊江島や伊佐浜、具志では、完全武装した軍隊を出動させ、農作物を踏みつぶし、家を焼き払い、戦車とブルドーザーで土地の強制収用を図ってきたのは決して忘れることができません。しかも、坪当たりの地料はコカコーラ1本代という状況で、土地所有者のほとんどが不満に思っていたところ、1956年、アメリカはプライス勧告を発表して、土地の使用料16年半分を一括して支払うことで、永代借地権の獲得をねらってきましたが、この企みは島ぐるみの闘いで打ち砕かれたことは言うまでもありません。たとえ個人所有の土地とはいえ、永代借地権をアメリカに売り渡すことは、日本の国土の上にアメリカの領土を築かせることになるということで、県民は島ぐるみの闘いで国土の売り渡しを拒否してきたのであります。
他方では、米軍が引き起こす事件・事故が多発して、県民の日常生活がたえずおびやかされてきました。沖縄の女性を小鳥と間違えたということで射殺した米兵が無罪放免となったり、青信号の横断歩道を渡っていた国場少年が、あるいは糸満市の金城さんが、米軍車両によってひき殺されても、加害者の米兵は何の罰もされないで、被害者は殺され損という人権無視がまかりとおっていたのが、米軍支配下の沖縄の実態でありました。
このような人権無視と抑圧が続く米軍支配からの脱却を目指して、県民ぐるみの祖国復帰運動が進められ、ベトナム戦争に反対する国際的な反戦運動とも結合して、在沖米軍基地に対しても大きな制約が加えられるまでに運動が発展しました。祖国復帰と米軍基地の撤去を求める県民の闘いの高まりで、基地の機能維持を心配した日米両国政府は、沖縄県民の要求を受け入れるかのように見せかけて、72年の施政権返還に合意したのであります。
返還の際には、表にあらわれなかった合意内容について、佐藤首相の密使として対米交渉を進めた若泉氏は、その著書の中で、核の通過持ち込みについて、日本政府がこれを保証する密約が行われたことを明らかにしています。つまり、日米両国政府は彼らの共通共同の軍事目的を担保する手段として、沖縄の施政権を日本に返還することを合意したのであって、事実上の沖縄処分が行われたと言えましょう。
このことは、沖縄だけに適用された公用地暫定使用法を制定して、米軍が乱暴な手段で強奪した軍用地を、そのまま日本政府が引き継いで、米軍に基地として提供し、続いて、地籍明確化を制定したり、長い間お蔵入りをしていた駐留軍用地特措法を適用する等々と、手を変え品を変えて、政府との契約に応じない私たちの土地の強制収用を図ってきました。あげくの果ては、特措法を改悪して、私たち地権者や関係自治体に有無を言わさないで、政府がやりたい放題に土地の強制使用ができる仕組みをでっち上げたことは、ついこの前のことでありました。72年の復帰の際には、5年間の暫定使用と言われていたものが、既に25年を超えて強制使用が続けられています。復帰前を含めますと、半世紀を超えて強制使用が続いています。生きているうちに自分の土地を取り戻して、野菜でもつくって食べてみたいと頑張っていた地権者が、無念の思いでこの世を去ったくやしい例もあります。
私の土地は、大量殺戮を目的とする戦争のための基地として使用することなく、人々の幸せにつながる物を生産する土地として活用するために、何としても早く返してもらいたい。この際、強制使用はとりやめてもらうよう強く要請いたします。
私は、10年前の公開審理の場でも申し上げたことですが、日本政府の抑圧と差別を身をもって経験した、今は亡き祖母から教わったことをお話し申し上げて、収用委員の先生方に対する訴えにしたいと思います。
私の祖母は明治6年生まれで、復帰後しばらくして103歳で亡くなりました。復帰の際に、当時使用していたドル通貨が現在の日本円に交換されるということで、我が家では家族みんなが持っているドル通貨を集めて交換することにしました。その際祖母は、「ヌーガ イッターヤ、ジングヮー アチミティ ヌースル カンゲーガ、ムンガワイル ヤルイ」と問いかけてきました。そこで私は「アンドゥ ヤイビール、ムンガワイ ヤイビーンドーサイ」と返事したところ、「エー アンドゥヤルイ、ムンガワイヤレー ユーガワイヤセータミシヤシガ、クンドー マーヌユーナタガ、ロシアユール ヤルイ、ドイツユール ヤルイ、マーンカイ カタジチャガ」と質問されたのであります。「ヤマトゥユーンカイ ナイビタシガ」と返事をしましたところ、祖母はすかさず「マタン ヤマトゥユーンカイル ムドゥクルパスイ、アンドゥンヤレー シカットゥ タマシ イリワルヤンドー ニーセーター、ヤマトゥーターヤ ムル ムンドゥーピケーン ヒチウクチ、アワリヌ ダンダン シミラリーンドー シグウ、ウヌムンヌチャーガル イクサン ヒチウクチ、ヤーヤシチ チンチルカ、ケー ムンマリン ケーヤカティ、ヒーサクリサ、ヤーサクリサ シミラッティン ナーヤアラン、ムトゥヌ ヤシチンカイ ムル イールクトゥン ナランセー、クヌムンヌチャーガ シーンジャチャルエールヤシガ、トゥルパイ カーパイ ソーテー ナランドー」と教えてくれたのであります。
琉球処分による明治の世変わりを身をもって体験し、日清・日露の戦争、満州・中国への侵略戦争、太平洋戦争での沖縄戦と、祖母の一生は戦争とのおつき合いを余儀なくされたものでありました。つまり、日本の近代史は戦争に明け暮れた時代であったと言えましょう。祖母が老後の面倒を見てもらうべく期待し、頼りにしていた私の父が兵隊にとられ、フィリピンで戦死したことも、ヤマトゥ政府に対する不信感を募らせる一助になったと思います。ともあれ、一世紀余に及ぶ祖母の人生経験に基づく 教えは、ヤマトゥ政府を信用するな、魂入れよということであり、政府の差別と抑圧に屈服することなく、戦争に直結する軍事基地のために、私の土地を提供することはできません。
同時にまた、昨年4月の安保再定義、ことし4月の駐留軍用地特措法の大改悪、続く9月の新ガイドラインの日米合意、これらを担保する有事法制化の策動、海上ヘリポ ート基地建設の押しつけに象徴される基地の県内移設など、21世紀も沖縄だけに基地の過重負担を押しつけようとする政府の施策を認めるわけにはまいりません。
21日に行われた名護市民投票では、海上基地反対の審判が下されました。地元の頭ごしには建設しないと幾度も言明されてきた橋本首相は、名護市民の審判を率直に受け入れて、海上基地建設を断念するとともに、普天間飛行場の無条件返還について、ただちに対米交渉を行うべきであります。名護市民投票について、政府が行ったさまざまな干渉、脅迫まがいの言動については、市民の審判が下されましたので、ここでは多くは申し上げません。ただ、防衛施設局職員を動員した責任者には、公務員の中立性を逸脱したものとして厳しく糾弾し、反省を求める次第であります。
ところで、昨晩から今朝にかけての報道の伝えるところでは、橋本首相との会談を終えた後の名護市長は、市民投票からわずか3日にしかならないのに、名護市への海 上基地を受け入れると発表し、自らも市長職を辞任すると表明したということであります。このことは、政府の圧力がいかにすさまじいものであったかを物語るものでありましょう。つまり、政府によって名護市民の自治権が踏みにじられ、民主主義が否定されたのであります。政府の圧力に屈服した市長には、その資格がなかったのであり、賢明な名護市民は何よりも市民の意思を大切にする市長を選出するものと信じます。
収用委員会の皆さんには、このたびの政府による一連の暴挙をどのように考え、どのように評価されるでしょうか。裁決に当たっては、この点もぜひ参考にして判断してくださるよう、強く要請する次第であります。
すでに収用委員の皆さんには、ご承知のことと思いますが、政府との契約に応じなかった私どもに対する不当な差別、いじめの事実を究明していただき、公正公平な歴史の審判に耐え得る裁決を求めます。
あえて申し上げますが、10年前の収用委員会は、私どもの申し立てに全く耳をかさず、10年間の強制使用を裁決しました。その際、10年分の補償金が一括して供託され、それが1年分の所得とみなされ、高い税金を取られただけでなく、10年分の利子を前もって、差し引かれたのであります。しかも契約に応じた地権者には、毎年賃貸料の増額が行われましたが、私どもには、びた一文の増額も考慮されませんでした。このたびの審理を担当されておられる収用委員の皆さんは、かかる不公平、不公正な差別を是正し、すぐる10年間私どもが被った物質的、精神的損失についても公正に償いをさせてくださることを期待する次第であります。
繰り返しになりますが、私の土地は、これ以上、大量殺りくを事とする戦争と直結する軍事基地に使用されることを拒否いたします。
収用委員の皆さんには、後世に悔いの残ることがない立派なご判断をお願い申し上げまして、意見の開陳を終わります。
当山会長:
はい、ご苦労さまでした。 では次に、新垣萬徳さん。
注:『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』若泉敬(わかいずみ・けい)著 文芸春秋
本体2718円 22cm 630p
4-16-348650-X/1994.05