『失踪』書評(2)
『朝日新聞』書評欄・『週刊朝日』書評欄

 

『朝日新聞』 1979.4.29

タイ絹王の数奇な軌跡

 「第二次大戦直後のバンコクで、雑踏の街を歩いていたアメリカ人建築家が、小さな店であざやかな絹の布地に目をとめた。アマチュア画家でもあったこの男、ジム・トムソンは、運河沿いの小さな家で、それを織った織工をみつけだした。二人の話し合いから、タイ・シルク産業は生まれた」。定評のあるタイの案内書は、タイ・シルクの項をそう書き起こしている。死滅寸前にあったタイ・シルクを、今日のように盛大な輸出産業にまで発展させ、タイ・シルクの王と呼ばれたトムソンは、十二年前、マレーシアのカメロン高原で、忽然(こつぜん)と姿を消した。一九六七年三月復活祭の日曜日の午後、六十一歳になったはかりであった。大規模な捜索にもかかわらず、失踪(しっそう)のなぞはいまだに解かれていない。「マラヤ山中に消えたタイ・シルク王」という副題の本書は、すい星のようにタイの社会に現れて華々しい成功伝説をつくり上げた後、失踪という第二の伝説の中に消えた男の生涯と、事件の詳細を追った記録である。著者は、トムソンの友人で、かれに刺激されて二十年来バンコクに住んでいる文筆家。
 本書の興味は二つある。一つは失踪のなぞ解き。深いジャングル内での単純な事故説から、自殺説、身代金目あての誘かい説、そして政治的背景を重視する説まで、たくさんの推理が行われた。山地民族に詳しい英人や、内外の超能力者まで登場したが、決定的なものはないというのが著者の意見。CIAの前身OSS(戦略作戦局)の一員であったトムソンほ、自由タイ運動の指導者プリデイ・パノムヨン元首相に密着したが、ブリディが最後のカムバックに失敗した一九四九年以後、政治に全く関心を失ったと著者はみる。しかし失踪当時はベトナム戦争への米国の介入が本格化した時期であり、東北タイとの関係が深かったトムソンの失踪に、政治背景説が根強いのは当然であろう。その点で本書に六〇年代の政治分析がないのは、やや物足らない。
 いま一つの興味は、タイ・シルクの復活過程。トムソンのすぐれた色彩感覚と売り込みの熱意が最大の原因だが、タイを新しい世界の中に引き込む時代の要請も見逃せない。トムソンはシルクだけでなく、建築、古美術の面でも、タイの伝統を世界に紹介する役割を果たした。かれがバンコクに建てたタイ・ハウスは、タイ建築の典型として、いまも観光名所の一つとなっている。なお、自らトムソンの足跡をたずねた訳者の熱意は、随所に適切な訳注となって、理解を大いに助けている。

 

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『週刊朝日』  1979.6.25

伝説的な事件を彩る登場人物

 タイ・シルクの王といわれたバンコック在住のアメリカ人が、中部マレーシアのカメロン高原から忽然と姿を消した。一九六七年三月、復活祭(イースター)の日曜の午後のできごとであった。それから十余年後の今日まで、この失踪事件は謎に包まれたままである。
 アメリカ人実業家の名はジェイムズ・H・W・トムソン。すでにアジアで最も有名なアメリカ人といわれていたが、この失踪事件のためにトムソンをめぐる伝説はふくれ上がり、考えられる限りの臆測で満たされるにいたる。本書はトムソンの若い友人で作家でもある人物が書いたもので、このタイ・シルク王の伝記と事件の詳しい考察から成り立っている。
 伝記の部分は、美的センスと企業家の才能を兼ね備えた主人公がタイという国にめぐりあい、そこで絶滅寸前の絹織物を「発見」、それを有数の輸出産業にまで開発育成する物語である。一人の人間が外国でどれだけのことを成し得るか、という出世物諸としても面白く、人間にとっての出会いの不思議さを思わせる。
 ニューヨークの社交界で知られた独身男が、やがて軍隊に志願しOSS(戦略作戦局)の一員として、ドイツ占領下のフランスに潜入……という経歴からして、十分にドラマチックである。更に太平洋戦線に転属し、タイ東北部に降下せよ、という命令が下ったところで終戦。「タイという国とその民衆に惚れ込んでしまった」トムソンは、バンコックで事業を始める。
 OSSの同僚将校だったマクドナルドは英字新聞「バンコック・ポスト」を創刊したし、戦中の抗日組織織「自由タイ」運動の指導者“ルース“ことプリディ・パノムヨンは戦後の一時期首相となる。一九六五年には親友のブラック将軍がタイ駐屯米軍司令宮で赴任。
 OSSがやがてCIA(米中央情報局)に引き継がれたことを考えると、トムソンが忙しい実業家でタイ美術の愛好家という表の顔のほかに、CIAの秘密工作員だった可能性を全く否定することはできない。だから失踪の理由として、秘密活動への報復とか、中国亡命中のブリディとの関係が云々されることになる。
 しかし著者はそうした可能性をまったくといっていいほど否定している。政情複雑なタイで書かれたという事情からか、政治についての考察が弱いのがこの本への唯一の不満である。要するに著者は、身代金めあての誘拐、ジャングルで遭難したという単純事故説、自殺説などあらゆる可能枠を検討したうえで、これはミステリーだとサジを投げた形だ。しかし「真相」を知っていると称する数々の超能力者の生態、兄を原住民に殺された元イギリス軍人でマレー・ゲリラ鎮圧の専門家、トムソンを見たというシンガポールの娼婦等々、登場人物といい事件の背景といい、まさにタイ・シルクのように多彩で読むものをひきつけて放さない。
 訳者は自ら現地を踏査する熱の入れようで、当然に訳文は確かでしかも読みやすい。
〈哉〉

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