『市民運動の宿題』の論争
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『インパクション 73』 1992年2月号 運動の〈経験〉をめぐって――ノンセクトという党派性 1 生きなおされるべき「運動体験」 天 野 恵 一 (以下の文で、原文にあった傍点は、ゴシック体に変えてある。) 1、「生きなおされた体験」としての〈経験〉 運動の体験を思想化する必要。私はこの間、それを痛切に感じてきた。そして、そうした作業にも少しづつ取り組んできたつもりである。私はなにも特別に重大な体験をした人間はそういう課題を果すべきだなどと考えているわけではない。運動の持続の中で、過去の運動体験を思想的に総括し、現在の運動に生かす。それは誰れでも、それほど自覚的でなくとも、それなりに少しは試みている作業ともいえよう。それを自覚的に正面からひきうけて持続すべきだと考えているにすぎない。 ただ、日本の左翼運動の文化的伝統には、何人もの人間の体験の思想化作業が相互に対立を含んで交流され、「思想=運動」が豊かになっていくという蓄積が、極端に少ない。それはおそらく、その思想が輸入思想であり、もっぱら教典(たとえばマルクス・エンゲルス・レーニン)の解釈学として定着してきたことが大きな原因であろう。おびただしい分量になる綱領認識あるいは運動の戦略・戦術をめぐる論争に目をやれば、それは一目瞭然である。 教典からの権威主義的引用とその解釈によって自己を正当化しようという論者以外を発見することは、かなり困難である。だから論議は奇妙に抽象的あるいは図式的かつ「アカデミック」であり、そこに多様な運動体験が生きづいていることを感じさせるものは少ない。 一方にトリビアリズムにまみれた厳密な解釈学による自己正当化と、他方では卑劣な人格非難を伴った倫理的断裁。「訓詁解釈学」プラス「あいつは小ブル的」あるいは「スパイ」といった論理以前のレッテル貼りによる倫理的非難。こうした思想論議の文化的伝統は、決して「古典左翼」だけのものではない。いわゆる「新左翼」運動の歴史の中で――マルクス主義文化においてはその負の伝統は、まさに正統的に継承され、より強化されたともいえよう(自己の集団の優位性を示すことを自己目的化した政治主張。それにデコレーションとしてひたすら思弁的な教典〈ドグマ〉の解釈学がプラスされる)。 誤まりを含めた「運動の体験」の思想的教訓が、次の世代(あるいは運動)の中で生かされるということがまったく少ないのだ(これは「世代」交流がうまく実現する大衆運動が少ない結果でもある)。極端にいえば運動は教典(ドグマ)のあてはめであり、運動が必然化する論議は、共に考える作業ではなくて、先験的に自明な真理を保持した自己(自集団)の、他者(他集団)への断裁としてもっぱら位置づけられる。だから、思弁的解釈学と倫理的非難が御都合主義的にドッキングする。こんな政治集団がいくつも出てくれば、「内ゲバ」が日常化するのはあたりまえである。 こうした運動文化のなかでは、体験の思想化がまともに果されることは少ない。誤まりは何度でも(何世代にわたって)くりかえされるのであり、数少ない継承されるべき「体験の思想」は、放りだされて無視されたままである。 もちろん、ぼやいてばかりいてもしかたがない。非力は非力なりにとにかくこうした作業を自分たちで実践してみることから、この負の文化伝統を変えるべく努力するしかない。そう考えて、私なりにあれこれ試みてきたつもりである。(注1) 私は、思想化された体験を、体験一般から区別された〈経験〉というカテゴリーで考えてきた。 〈経験〉という言葉についての私なりのイメージは、『全共闘経験の現在』(注2)の1章「運動経験について」で一応整理しておいた。ここでは、そこでの論議を、もう少し別の角度から論じなおしておきたい。 一九九一年の三月三〇日、三一日に私たちは「戦争・国連・派兵を問うフォーラム」(略称「反戦フォーラム」)を開催した。これはもちろん、アメリカ軍を軸とする「多国籍」軍がハイテク兵器のパワーでイラク軍をぶちのめしてしまうことによってスピーディーな「終戦」をむかえた湾岸戦争の意味を、日本政府はその侵略戦争に直接的な軍隊の派兵以外のすべての協力をしたという状況をふまえて、トータルに問いなおすことを目指して組織されたものであった。 そのフォーラムの第五分科会「戦後反戦運動と国連・憲法・天皇制――戦後史の中の現在」の発言者は、平井啓之、栗原幸夫、吉川勇一、池田浩士と私。話は年齢順ということで、私は最後であった。その時、私の前の発言者であった池田浩士はこのように述べたのである。 「この中で平井さん、吉川さん、栗原さんと比べればぼくはずっと若いわけで、戦争体験は全然ないんですけれども、体験が少ない人間として、相対的に体験が少ない人間の居直りと自己正当化を含んでいるかもしれませんが、体験というのは、それ自体だけではほとんど意味がないと思っています。」 「つまり何でもそうですが体験主義というのがあって、体験してみないとわからないというのが殺し文句なんですね。年寄りの、だいたいは……。ところがぼくは、体験している人間が本当に現実を体験していたかどうかが問われるべきだと思う。非常に好きな座右銘というか、自分の戒めとするために自分が心に抱きつづけていきたいと思っている言葉があるんですが、これはマルクス主義者でユダヤ人だったドイツ思想家でエルンスト・ブロッホという一〇年ほど前に死んでしまった人がいますけれども、この人の思想の根底というのは『生きられている瞬間の闇』というキャッチフレーズなんです。これはわれわれの方から見れば、われわれが生きている瞬間は闇だということです。つまり生きている一瞬一瞬は闇でしかない。これは、体験の大事さを訴える人が『体験してみないとわからない』『今、現にここで実際に痛い思いをしながら生きている人間が一番よくわかっているんだ』というのは、嘘だということですね。これは考えてみればものすごく正しいんです。『生きられている瞬間』というのは闇なんですね。瞬間というのはこれは物理学的にも点であって、アッといった時にはその瞬間はもう過ぎてしまって、もうないわけですから。今の瞬間をぼくはつかむことができないわけですから」。 「ともかく一生懸命人間が生きようとすればするほどその時のその瞬間瞬間の現実というのはやはり見えなくなると考えるべきであろうとぼくは思います。そうすると、たとえば平井さん、吉川さん、栗原さん、あるいはぼくや天野君を含めた古い世代の人間は、ある一時期ある運動なりある事件に立ち会っても本当にそれを体験したのか、本当にその現実を生きたのかということを絶えず問われる必要がある。後になってから問われなければならない。先ほどぼく自身の例を言ったのは個人的な例ではないんです。何で六〇年安保よりも六〇年代末の全共闘運動を外から見ている時の方が苦しかったかという問題もそれだと思うんです。その時はその苦しいことの意味づけをその時なりにしているんです。しかし後になるとだんだんそのことのもっと別の深い意味が見えてくる。それは年をとったから見えてくるというのではなくて、後からさまざまな試みがされる、その後からの試みと照らし合わせて自分の過去の体験をもう一度生き直すことによってなのです。そのことによってしか、過去の体験というのは闇から、いわば光をあてられる現実へと生き返ることがないわけです」。(注3) この「生きなおされた体験」といういいかたは、ストンと私の胸に落ちた。私が〈経験〉ということでいいたかったのは、そのことだったからである。 私の『全共闘経験の現在』に収められた大部分の文章は、その時、その時の”現在“の新しい試みのなかで反芻された過去の「全共闘運動の体験」について書かれたものであった。ただ、それは状況においまくられながら書かれた文書群で、そのことについてほとんど無自覚であり、結果的にそうなった文章ばかりであるが。一つ一つの文章を書く時、共通して考えていたことは、単なる「思い出話」としての体験談のようなものは書きたくない、ということだった。その思いが、体験を生きなおすという方向で書かせたともいえよう。もちろん、それらはできばえはともかく、新しい”現在”の運動が、それなりの必然性を持って、過去の私の運動体験の記憶に新しい光をあてた結果の産物である。だから、それは運動の持続があったからこそ可能になったものであることにはまちがいない。 ここ(連載)で私は、あらためて「生きなおされた体験」としての〈経験〉という方法に、より自覚的に、正面から自分の運動体験を〈経験〉化をする作業を試みてみたい。 2、「べ平連」と「形式」をめぐる論争 この間、あるやりとりがあった。「反戦フォーラム」(第五分科会)の発言者の一人、五〇年代の平和運動、六〇年代のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のリーダーでありこの間の一貫せる市民運動家である吉川勇一が「自伝的」著作ともいえる本をまとめた。その『市民運動の宿題』(注4)の中で吉川は、久野収との討論において鶴見俊輔が「べ平連」にもリンチがあった」と発言し、吉川もその点にふれていると語っていたので、対談の連載されている『朝日ジャーナル』に誤解だと投書した、鶴見は本にまとめる時、その部分を削除し、批判をうけて訂正したと「あとがき」で書いたと述べている。そして吉川は、そのやりとりを具体的に紹介しながら、これは「べ平連運動の評価をめぐる相違点」が鶴見と自分にあるために発生したものではないかと論じている。 鶴見の問題となっている単行本での発言は、こうである。 「そのまともさというのは、哲学的な問題としていえば、形式の問題です。日本の政治運動は形式の問題を落としてきた。だから運動が起こると、正義感で、感情にかられてどこまでもゆく。感情でいけば人権蹂躙します。そのことがあらかじめとらえられていない。 共産党もやったでしょう。査問のリンチ。赤軍派もリンチで殺しています。べ平連みたいな市民運動にはなかったかというと、それとふれあうことはあった。あるんですよ。『読書人』に連載していた吉川勇一さんが書いています」(『思想の折り返し点で』)。(注5) 「あとがき」として書かれた「対談を終えて」で鶴見は、この点を、こう述べている。 「私がはじめ述べた形での、神楽坂べ平連での暴力は、私がその場にいあわせたことでなく、あけがた近く、現場から私の家へ吉川勇一氏自身で電話してこられたことである。現場でおこったことの事実の把握は、吉川氏のほうが正しく、この点では、吉川さんの証言を受けいれる。吉川さんによれば、これは、べ平連外のセクトによる神楽坂べ平連事務所への暴力行為であって、べ平連内部でのリンチではなく、ましてべ平連の内ゲバではない」。 「しかし、吉川氏と私のあいだには、べ平連像のちがいが、ある。こういう大きな運動については、さまざまのべ平連像があるのはあたりまえのことだが、そのちがいは、べ平連という市民運動に形式が必要だという考え方に、影響をもつ。 私は、政党のメンバーとなったことがない。べ平連に参加したのは、米国政府による北ベトナム爆撃に抗議したいためである。このためには、思想信条を問わず、誰でもが参加するようでありたいと思った。この立場から見ると、方法についての考え方がちがうとしても、米国による北ベトナム爆撃に反対する人たちは、ひろい意味での仲間に見えた。ここに形式の問題があり、それらの人びとと一緒に行動をくむかくまないかは、それぞれの時の決断の原則があり、一緒に行動する時には共通の原則についての形式上の一致がのぞましい。しかし、それでも、共同の行動にはその場での指揮権のあらそいがあり、方針にゆれが出てくることはある。このゆらぎの中で指針となるような形式上の原則が大切になる。 吉川氏の場合、神楽坂べ平連という全国のべ平連(複数)の中で、もっとも大きな資金をうごかすところ、そして報道機関との接触のおこなわれているところの、実務をうごかしているという立場から、べ平連をほとんどひとつの全体として見る見方にたちやすい。そこが、京都にいる私とのちがいの出てくる背景である。私から見ると、昨日まで別のセクトのデモにくわわっていたものが今日はべ平連のデモに入っているという流動状態があるように見え(実際にそうだった)、正義感によるおせおせの動きは、やがて(べ平連成立の時の形式上の原則をふみこえて)自分の正義感にあわない人びとへの排除につながるものと見えた。そこにべ平連の問題があり、それは、形式上の原則をその都度、はっきりさせてゆくという困難な作業をおこたったところから来ていたと私は思う。べ平連にかぎらず、その源流のひとつになった声なき声の会にも、非暴力をつらぬくためには、形式上の条件について協定するという、その種の困難がつきまとっていた。これからの市民運動にもおこるであろうし、べ平連から、未来の市民運動へのひきつぎも、この問題をさけては有益ではない。べ平連をうごかしたような正義感が日本の市民のあいだにかつてあったという証言だけでは足りない」。 吉川は、鶴見のふれている『読書人』の文章も収められている『市民運動の宿題』のなかで、鶴見のいう「形式」の問題が「さまざまなグループの間での共同行動のルールづくり」という、自分たちが苦労し続けてきた「問題の領域」であると述べ、その問題の重要さという点では鶴見の主張を基本的に承認する。そして、べ平連が「流動状況」であったという事実の認識にも両者に違いがあるわけではないし、「正義感だけでおせおせの動き」がそこにあったことも否定しない、と語っている。その上で、このように主張しているのである。 「しかし、だからといって、べ平連全体が、当初の『形式』を捨て去り、『正義感でおせおせの動き』をするようになったとは思えない。その反対の事例が、いくらでもあった……。しかし、両方の事例があるというだけでは何の主張にもならない。要は、そういう事態が起こったとき、それまでのべ平連は、あるいは、その周辺にいた他のべ平連の人びとは、どう対応したのか、どう対応しようとしたのかという努力の方向である」。 「必要なことは、べ平連や多くの市民運動まで含めて森毅氏の見解に対立させるものとして置くのではなく、市民運動それ自身の中に、そうした傾向を克服しようとつくりだした方向があったことを認め、それを意識的に取りだして、もっとしっかりとした形式にまで固める努力だと思うのである」。 森毅の見解とは、汚職議員として世間から指弾されている人の立候補する権利、あるいは入閣する権利は保障されるべきだという主張であり、「前科者差別」につながる正義感を批判したものである。 鶴見は、対談で、これについてこう積極的に評価している。 「これは一種の名文で、市民運動も含めて、いろんな権力批判の運動に対してはっきりアンチテーゼの意思を置いているんです。そこにまともさの感覚があるんです。正義感の高揚で突つ走っていって、そこから脱落して行くものが出ると相手を殺しちゃってもかまわない。そういう運動はいけませんよ」。(傍線引用者) 吉川は、『朝日ジャーナル』誌上の対談の時、この部分の「市民運動も含めて」となっているところが「べ平連も含めて」となっていたことにもこだわっているのである。 吉川は「リンチや内ゲバ」へと流されてしまうような傾向がべ平連の運動の中にもあったことは認めている。しかし、「自分たちと意見の対立するものに、不当な扱いを加えていいという立場をとらなかった」、そうしない努力の方が支配的であったことの重要さを強調しているのである。 吉川は、いくつも具体的な例をあげている。倒れた「私服刑事」を人びとがリンチしている時、助ける動きをした「べ平連の救対」「学生べ平連」の動き。公園での集会で政治党派相互の部隊がぶつかりそうになった時、市民団体が素手で「間に割って入り」、「内ゲバ、ヤメロ」のコールで止めた話。私服とまちがわれたデモ参加者がテロられているのを大学べ平連の人たちなどがなんとか止めた例。ある集会で台湾出身者が私たちのためになにもしてくれないと特定の有名知識人の糾弾演説をした時、それに応じ「異議なし」と拍手をしたかなりの日本人がいた、それに対してべ平連メンバーの福富節男が、日本人総体に向けられた批判に対して、勝手に相手(台湾の人)の立場、すなわち批判者の立場に日本人がのりうつるのは腐敗のはじまりだと公然と批判したという話。(注6)…… こういう積極的な傾向をこそ「意識的に取りだし」現在の運動の中で「もっとしっかりとした形式にまで固める努力」こそが大切だ、と吉川は力説しているのだ。 私は『市民運動の宿題』の書評で、吉川が何を大切にして運動を持続してきているか、あの時代の運動体験のプラスのモメントをどのように考えているかがよく読める、そしてその体験へのこだわりの姿勢に共感すると書いた。(注7) (右の欄の上部につづく) |
(左の欄の下部よりつづく)
この問題を、ここであらためて、もうすこしくわしく論じたい。 3、「積極的体験」の意識化という方法 『市民運動の宿題』の書評は、ずいぶんいろいろなメディアに出た。評者の多くは、当然この「べ平連」と「形式」評価をめぐる問題にふれている。元べ平連メンバーの二人の書評をここで紹介しよう。 「……べ平連のようなスタイルの運動においてさえ、この『形式』がどこまで意識的に考えられ、運動の場面場面でどこまで保持されたかについては、わたしの場合は吉川よりももう少し否定的である。一例をあげれば、一九六八年八月に京都で開かれたべ平連主催の『反戦と変革に関する国際会議』で閉会の際にとつぜんインターナショナルが歌いだされ、会場の大多数が起立しそれに唱和するという事件があった。わたしにはその時の違和感がいまも鮮明である。インターナショナルという歌にたいする違和感ではない。ここはそれを歌う『場』ではない、という違和感だった。歌いだしたのはある新左翼党派の活動家たちだったのではあるが、べ平連の活動家にも『ラディカル』(この言葉はもっと厳密に定義する必要がある)であることはいいことだ、という心情があり、それをこの歌に託すというところがあったと思う。ここでは、もっとラディカルにという心情がべ平連という形式を崩壊させているのである。そういう場面は日常的にはたくさんあったのではないか」。 栗原幸夫の評である。(注8) 自分の書いた書評でもふれたことだが、「べ平連」運動とまったく無縁であった私は、「形式」を崩壊させる力と、「形式」をつくりだそうという力がその運動の日常の中でどちらが支配的であったかも論評する前提がない。栗原のべ平連像は鶴見よりということになるのだろう。この点についてとやかくいう気はない。ただ吉川の こだわり の意味はべ平連のトータルなイメージの評価として妥当かという問題を離れてもうすこし積極的に考えられるのではないかと思うのだ。 もう一つ、花崎皐平の評。 「鶴見さんは『正義の形式上の原則(これは原則の原則と言つてもいいくらいの抽象的なもの)』を重視することが、べ平連をふくむ市民運動に欠けていたという。この批判には、彼もおなじ抽象のレベルまでのぼっていって、素直に共感してもよかったのではないか。/私の経験と反省でも、市民・住民の諸運動は抽象的な形式を共有して(それで枠づけて)場を設けることに習熟していない。『具体的』ということが、『抽象的』より価値があり、役に立つという雰囲気が議論を支配することがよくある。正義の感情を、正義の形式より重んじてしまうというのは、そういうところに表れている。この点は、市民運動の『宿題』として受け取ってよいのではなかろうか」。(注9) 花崎のべ平連像も鶴見に近いということなのだろう。しかし、宿題として受け取るべきだといういいかたは、少し違うのではないか。吉川は、それを重大な「宿題」として受けとっているからこそ、ああいうべ平連像を具体的に対置しているのである。だからこの点は問題の解き方が違うというだけではないのか。 私は、ここで吉川の弁護をしてみせたいわけではない。トータルなべ平連像がどうであれ、私は吉川の積極的な体験を意識的に取り出し、その作業を媒介にして「形式」をより強固にする「運動=思想」をつくりだそうという方法(問題の解き方)に共感するところ大なのである。吉川の こだわり は私の長い間のこだわり とかさなっているように思えるのだ。 私は、吉川が示した具体的な運動現場での体験談を読んだ時、自分の当時の運動体験の記憶があれこれとよみがえってきた。私も自分のいた大学の二つの政治党派の暴力的対決の持続という、運動全体をメチャクチャにしてしまった「内ゲバ」状況のなかで、なんとかそれをやめさせるために二つのグルーブのリーダーが会って話す機会をっくるべく動きまわったり、徹夜の説得をしたことがあった。学生会館の一室でリンチされそうな人間を救け出したり武装した二グループ(これは前のとは別の集団)が対時している集会場で、私たちノンセクトグループが素手でわって入りそれを回避させるべく努力した体験も何度かあった。そうした記憶がいろいろと浮んできたのである。そして、ある忘れがたい体験があらためて思い出された。 六〇年代末という以上の正確な日時は忘れてしまったが、それは、事あるごとに何度も思い出される記憶である。 もう暗くなっていた時間であった。その日、新宿駅前は大量のデモ隊でうまっていた。機動隊の阻止線は、ズタズタに寸断されていた。神田の大学街で始まった敷石をはがして、砕いて投げつけるという行為が、おそらくこの日はじめて新宿を舞台にくりひろげられたのである。この大きな石を投げつける(石は砕けばいくらでもできる)という方法は、思いのほか効力を発揮した。機動隊の持つタテの間から、そして防石ネットをやぶって、石はビュンビュン飛び交った(神田や本郷の大学街はもちろん新宿駅付近から敷石がはがされ、あらかたコンクリートに変えられたのはそれからかなりたってからである)。この時も脅えた機動隊員たちは後退をかさねた。部隊の後退についていけず、逃げ遅れた機動隊員が何人も出た。青くて大きな彼等のヘルメットがはがされいくつもころがっていた。最初は機動隊の暴力的なデモ規制に対する抗議として投石が開始され、それはデモの隊列をもメチャクチャにしながら激しく展開され続けたのである。私はサークルの友人たちとそのデモの渦中にいた。 ふと眼の前を見ると逃げ遅れたヘルメットをはがされた一人の機動隊員が頭を血まみれにして倒れており、五、六人の人間がなお石を手にしてその機動隊に殴りかかっているのだ。瞬間、私はアッ、死んでしまうと思った。「殺してはいけない」。思うのと体が動くのが同時で「やめろ!死ぬぞ」と叫びながら、とにかく石で頭をなぐるのだけはやめさせようと相手の手を押さえた。私以外にも止めに入った人間はいたが殴りかかっている人間の人数の方が多かった。「バカヤロー、権力ノ犬ナンダゾー、テメエ!」「ナニアマチョロイ事ヤッテンダ!」などと叫んでかんぜんに頭に血がのぼっている男たちは止めに入った私たちにも殴りかからんばかりの勢いであった。止めきれない。ヤバイナーと思ってもみあいながらフト後を見ると、一人の女子学生が飛び出してきて、血まみれになって縮みあがって悲鳴をあげて横たわっている機動隊員の上に全身でかぶさったのである。小さな体の女性であった。一瞬われにかえった男たちは、ブツブツいいながら殴りかかることをやめた。私たちもすぐデモの隊列にもどった。その女子学生もサッと消え、顔も見えなかった。主観的にはずいぶん長い時間のように思えたが、おそらくほんのチョットの間の事だったのだろう。 「機動隊殲滅」あるいは「殺せ!殺せ!」などというシュプレヒコールをあげる部隊が増大しだした時代の話である(このシュプレヒコールに唱和を強いられる隊列にいた時のイヤーな思いも忘れがたい)。私は、おおいかぶさった彼女も、止めに入った私たち同様、この時代機動隊に対する投石を含めた実力行動を展開していた人間だと思う。局面的には暴力的に闘うことと、そうすることに私たちには矛盾はなかった。いや、軍事大国アメリカの力にまかせたベトナム侵略とそれを支える日本政府との闘いには流血も辞さずの決意を支えたモラリッシュエネルギーこそが、多人数で逃げ遅れた人間を嬲り殺すことを止める行動をも支えていたはずである。 この時だけではなく、自分たちがふるう他人の肉体を傷つけてしまう暴力の問題は、この激動の時代、私の頭を離れたことはなかった。 この新宿でのリンチの場合、それは権力の側に死者を出してしまった結果が引き出す弾圧という状況を考えるという政治判断のレベルでも、怒りの感情にふりまわされた愚かな行為というしかないものであった。ただそういった「政治判断」というレベル、あるいは「人殺し」はたまらんというヒューマニズムのレベルだけではない問題が、そこにはあった。私たちはとにかく大学生であった、機動隊員は、あらかたこの学歴社会で家庭的、経済的事情で大学生になれなかった人たちであろう。大学に機動隊が入れられる局面で、「試験うけてこい」などというつまらないヤジを飛ばす活動家もいた時代ではあった。しかし、差別選別教育を生きることを強いられてきあた人間としての怒りが、大学闘争を支えたエネルギーだったのである。さしてエリートでもない私たちも、それなりに特権的な存在であることを考えないわけにはいかなかった。もしかしたら殺してしまうか、そうでなくても回復不能な傷害を与えかねない暴力をふるわざるをえない局面をくぐりながら、私の心は「倫理的」にきしんだ(こちらが攻撃的にというより、防衛のための暴力という時が大部分であったとはいえ)。私たちの心を、この きしみ は暗くさせた。当時、この点をオーブンに運動の中で討論することはできなかった。しかし、その きしみ は少なからぬ私の運動仲間に共有されていたことはまちがいなかった。 私は今でも、その後体制エリートというほどではなくても、かなり豊かな生活をするようになり、いちじるしく保守的に生きるようになった、この時代の活動家たちと話す機会にでっくわすと、「俺たちがもしかしたら殺しかかった機動隊員、少なくとも普通に生きられなくして」まったかもしれない人間に今どういう言葉があるのだろう」というセリフがこみあげてくる。正面から口に出していったことはない。そうした問いは、まず誰れよりも自分に向けられ続けるべきだから。私はあの時代の「暴力」を、すべてではもちろんないが、ほんとうのところで肯定し続けられるように生き続けたいと今でも思っている。そのためにも、この問いは手ばなすわけにはいかないのだ。 私は、おおいかぶさる行動に出た彼女の思いや、私たちのこうした倫理的こだわりについて、後からの新たな運動の試みの渦中で、何度も思い出してきた。そして、これからも忘れられてはならない体験だと考えているのだ。 私は、同世代だけでなく自分より年長の人、若い人との間で何度も、連合赤軍の「同志殺し」や「内ゲバ」の問題について討論してきた。この問題をめぐっても、どうもスッキリと話しが通じることが少ないのだ。「連赤」へのマスコミの「人非人コール」に腹をたて、それに同調する人間に怒りから殺害はいいともちろん考えないが、あまりに人間的な惨劇を他人ごととして批判することを許さない人が多い。それは権力やマスコミのキャンペーンのみでなく自分たち革命派と無縁の「誤まれる急進主義」などというレッテル貼りをしたいくつかの自称「革命党派」たちへの怒りもそれの支えになっている主張である。私にもそうした怒りはよくわかる。しかし、である。「他人ごとではなくわがこととして考えよ」という主張する人たちに、私は本当のところ賛同できない。たとえば、地中に埋められた一人の女性は私の親しい人間の友人であった、というぐらいに近いといえば近いところでおきた問題である。しかし、私は、本当のところ「他人ごと」として考えざるをえない政治選択をこそして生きてきたことのほうにこだわっているのだ。私たちはああした武装ロマンチズムも、革命近くの武装共同体論も、それなりに拒否してそれがたいした成果をあげなかったとしても、爆弾闘争による突破という戦略と、それにもとずく、いろいろな「作戦」行動(べつにこれは赤軍派だけであったわけではない)などには参加せずに、別の運動を選択してきたのである。権力に対する暴力の神話化と内ゲバの暴力は無縁ではない。そして「内ゲバ」の日常化から「同志殺し」までは一直線である。十分にではなくとも、私たちはああした暴力にいたる作風と流儀を否定する(おかしい、へんだと感ずる)運動体験を持ち続けてきたのだ。私は、その点にこそ具体的にこだわり続けたいと考えてきた。 あれは「他人ごと」である。私たちは当時からああならない努力を様々に試みてきた。その体験の積極性をこそ考え続けたいと思っている。「内ゲバ」、同志殺しをわが事として引きうけるなどというのは偽善ではないか。私たちも、そうなってしまう可能性を生きてきたし、生きているが、それをチェックし続けたという体験の積極性にかけて、あれは「他人事」だ。 私はいつもこのように主張してきた。討論の相手からは自分たちだけが立派だったという自己絶対主義ではないかという答えがよく帰ってきた。そういう時、私はウンザリして話をやめた。こういうことが何度もあったのだ。 もちろん私は、自分たちは正しかったなどということを一般的に主張したかったわけではない。 別の例で考えればこういうことである。内ゲバを強いられることへの、あるいは党派の内ゲバ体質への疑問から党派をやめたが、今も運動を続けている人間を何人も私は友人に持つている(もちろん、そのことだけがやめた理由というわけではないだろうが)。彼等はたいがい、妙なコンプレックスから解き放された後も自分の党派体験をあまり語りたがらない。私は、どういうプロセスをたどってであれ、内ゲバやリンチに加担できないという思いを持った体験こそが大切ではないかと、そこのところは意識的に掘りおこすべき体験ではないか、というような話を、彼等を相手によくする。うまく通じているかどうかわからないが、そういう作業こそが必要だと私は思っている。否定的な体験と思われる中にも積極的なモメントはあるはずなのだ。こういう討論を通して私はそうした思いをつよめてきた。 十一月三十日に「市民は新しい世界をつくりだす」というシンポジウムがあった。鶴見俊輔、ダグラス・ラミス、辻元清美と私がパネリストでコメンテーターが吉川勇一・福富節男という顔ぶれ。コメンテーター両者の本の出版記念のための会である。メンバーからして当然、この「形式」と「べ平連像」問題にふれた発言が出た。吉川は「べ平連事務局長意識」をいまだに持ちつづけている結果が、ああいう発言につながったのだろうという以上のことは語らなかった。残念ながら、討論はそのことを中心にまわらず私は、それについて発言する時間は持てなかった。 くりかえすが、私は吉川の主張がべ平連像の客観的評価としてどうであれ、その方法のもつ積極的意味に変わりはないと思うのだ。 あまり言葉にされたことのない過去の積極的な体験をこそ、現在の運動のなかで意識化すべきだという吉川の こだわり かたは、私のこだわってきたことにつながっている。だから、私はそこに深く共感したのである。 それは私には、過去の運動体験を現在の運動の中で生きなおすためには、体験を思想化する(〈経験〉として対象化する)ためには、不可欠の方法であると思えるのだ。 (注1)この間の私の反天皇制運動の体験を軸にした、そうした作業は『メディアとしての天皇制』(インパクト出版会・一九九二年)の(T)「『無責任=欺瞞』の最高形態としての象徴天皇制――戦中派世代との交流がもたらしたもの」である。 (注2) 『全共闘経験の現在』(インパクト出版会・一九八九年)。 (注3)このフォーラムの分科会の記録は、その時の発言に新たな文章もくわえられ一冊にまとめられている。『派兵時代の反戦思想――lPKO・国連・憲法・天皇制』(反戦・平和運動研究会編・軌跡社・一九九一年)がそれである。 (注4)『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』(思想の科学社・一九九一年)。 (注5)『思想の折り返し点で』(久野収と鶴見俊輔の対談集・朝日新聞社・一九九〇年)。 (注6)この発言については福富節男の『デモと自由と好奇心と』(第三書館・一九九一年)に収められている「ある拍手」を参照。 (注7)『情況』(一九九一年十月号)の書評。 (注8)「べ平連とはなんだったのか」(『フォーラム90s』一九九一年十一月号)。栗原はここで、「形式」の問題とからめて運動のイッシューについてこう論じている。「イッシューは厳密に限定されるべきだと考える。それがその運動の形式を保証するすくなくとも一つの条件である。個別から全体に通じるような道筋を共同で見いだしていけるような場、それを支える形式が重要だ。それはたんなる倫理ではなく運動論であり組織論なのだ」。共感できる指摘である。 (注9)『朝日ジャーナル』(一九九一年九月二十七日号)の書評。花崎も、ここでこう述べている。 「全体変革型の市民運動必要論についてはどうかなと私は首をかしげる。市民運動は、『自分がやりたいから』という内発性をバネにしており、民衆の中に自生しているアナーキズムの発想や行動を解放するところに生命力があるのではないか。それをプログラム実現型に押し込めるのはどうだろうか。こういう立場に立つと『形式』の問題がさらにむずかしい宿題になるのだが」。 (注8)で紹介した栗原の提起と、かなりかさなる主張である。私は花崎の吉川のいう全体変革型の市民運動必要論へのこうした疑問には根拠があると考えている。 (この点については、この連載の何回めかで、それ自体をテーマとして検討してみたい。)
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