85 ソンミ事件と『服従の心理』 『市民の意見』 (『市民の意見30の会・東京ニュース』改題 No. 102 2009. 2.1号) (09/02/19搭載)
3月16日、あのソンミ事件(注)から、まもなく41年目の日がめぐって来る。それを前にして、スタンレー・ミルグラムの有名な実験を記した『服従の心理』の新訳が最近、出版された(河出書房新社刊)。長らく絶版、入手が困難だった書物だけに、時宜適切な刊行と言える。イラクのアブグレイムやキューバにある米軍グァンタナモ収容所での虐待、そしてイスラエルのガザ攻撃による大量虐殺が続く今、あらためてソンミ事件とミルグラムの実験を検討することは意味のあることだと思われる。
(注)ベトナム反戦運動にかかわった人なら、ソンミを知らない人はいないと思われるが、若い人びとのためにごく簡略に説明しておこう。これは、1968年のこの日、ベトナム中部の農村、ミライ村ソンミで米軍によって起こされた事件で、4時間のうちに504人の村民が虐殺され、一つの村がほぼ全滅させられた。事実は長く伏せられていたが、1年8ヶ月も過ぎた1969年末になって、参加した兵士、カメラマン、ジャーナリストらによるいわゆる内部告発で全貌が暴露され、マスコミも大々的に取り上げ、特に『ライフ』誌に掲載された虐殺のリアルな写真集は人びとにショックを与えた。軍事裁判も行なわれたが、責任者はほとんど罰せられなかったか、微罪で釈放された。
▽虐待や虐殺はなぜ可能になるのか△
虐待や虐殺を行なった兵士は、決して特殊な人間ではなかった。ソンミにかかわった部隊の兵士たちは、すべてアメリカのごく普通の家庭出身の青年たちばかりだったのだ。先日、NHKでアブグレイムでの虐待の象徴的存在とされた当時の女性憲兵にインタビューする番組が放映されたが、この兵士も決して特異な性格の所有者ではなかった。それなのに、普通の人間だったらまずやりそうには思えないこういう異常な残虐行為や虐殺はどうして可能となるのだろう。
以前、私は、教えていたある女子大のクラスで、ソンミに関するいくつかのドキュメンタリーフィルムを見せた後、そう問うたことがあった。多くの学生は、軍隊という極めて特殊な環境の中で、兵士をひたすら殺人機械に変貌させる人間性剥奪のための教育・訓練をその理由としてあげた。確かにそれは大きな要因ではある。ミルグラムもその本の中で、そのことを強調している。だがそれだけだとすると、そういう特殊な人間集団に属していないいわゆる私たち一般市民は、非人道的行為とは縁がないことになりそうだし、またごく僅かではあったが、たとえ処罰されても虐殺命令には従えないとして、命令を拒否した兵士もいたことを十分説明できない。そこを分けるものは、いったい何だったのだろう。それを考える上で、ミルグラムの実験を再考することは、大きなヒントを私たちに与えてくれる。
▽残虐は特殊環境の下でか?△
1960年から63年にかけて行なわれたイェール大学のミルグラムの実験もソンミ事件同様に有名で、結果が発表された73年当時は、ソンミのショックともからんで大きな衝撃をアメリカ社会に与えたのだが、日本ではソンミほどには知られていない。ぜひ、今度の新訳でその全貌にあたってほしいと希望するが、ごく簡略な紹介は、昨年の拙著『民衆を信ぜず、民衆を信じる』にも載せてある(57〜60ページ)。
人間は、軍隊のような特殊な環境の中で特殊な教育を受けない限り、虐待や虐殺などの行為をするものではない、ということは事実なのだろうか。そうではないということを、このミルグラムの実験は明白に証明しただけに、その衝撃は大きかったのだ。
▽ミルグラムの実験のショック△
実験に参加したのはイェール大学心理学部のある米コネチカット州のニューヘイブンで公募されたさまざまな性、年齢、職業、学歴を持つふつうの一般市民だった。
実験は学習と処罰の関係についての調査だとされ、実験参加者は、自分の相手に出した記憶に関する質問に誤った答えがされた場合、処罰として相手の手に接続された電極に電流を流すよう求められる。電流は、15ボルトから15ボルトずつ次第に増大され、最後には450ボルトにまでなるように設定されている。相手の姿は見えないが、電流が流された場合の反応の声は聞こえるようになっており、電流が強くなるにつれ、反応は苦痛から絶叫に近づいてゆく。
事前の専門家の予想調査では、実験参加者のほとんどはこの実験の途中で参加を拒否し、最後の450ボルトのスイッチまで押すのは、千人に一人ぐらいの病的な人間に限られるだろうというものだった。だが結果はまったくその予想を裏切るものだった。
大学側は、この実験が純粋に科学的、学問的なもので危険はなく、責任はすべて大学が負うと保証したものの、常識的に考えれば、生命を奪う可能性の極めて大きい450ボルトのスイッチを押したものは、なんと参加者の三分の二にまで達したのだ。権威が保証し、命じた場合、ごく普通の人びとも殺人の可能性のある行動をとるのが普通なのだということを、この実験は明白に証明したのだった。
▽服従への拒否の問題点△
もう一つ、ごく僅かではあったが存在した虐殺命令を拒否した兵士は、なぜそれが出来たのか、という問題がある。その兵士はイギリスのTVのインタビューに答えて、「そんなこと、白人も黒人も、学歴も関係ない、教会へ行ってりゃ,それがやっちゃいけないことぐらい判るだろう」と答えていた(英ヨークシャーTV)。しかし、権威への依存や服従よりも、自己の正しいとする信念を上位におくことでそれは可能となるというだけで、答えになるのだろうか。私たちの運動でもたえず主張し、強調している市民的不服従、良心的拒否の姿勢を絶えず鍛え、自己の生き方の基本とするよう努力することが重要なのは言うまでもない。しかし、ことはそう簡単ではないだろう。
今度の『服従の心理』の翻訳者、山形浩生(ひろお)さんは、「訳者あとがき」の最後に「蛇足 服従実験批判」という論を続けている。そこでは、これまでの通俗的なミルグラム批判(それについては、訳者は説得的な反論をその前に書いている)を超えた疑問点、問題点を5項目にわたり提起している。それには「権威自体の考察」(例えば、良心的不服従の「良心」自体が「権威」になっているのではないか)の必要性など、市民的不服従の実践者が真剣に検討すべきかなり重要な課題が含まれている。自己の正しいとする信念が、独りよがりのものに陥らず、人間的普遍性を獲得してゆくようにするためにも、この訳者の「蛇足」での問題提起は、運動の中で十分検討、討議される必要があるものと私は痛感している。その上で展開される残虐行為、虐殺批判、そして市民的不服従の実践でなければ、ソンミもアブグレイブも、ガザも、今後なお繰り返されることになるだろう。
今日の新聞では、オバマ次期米大統領が、公約だったグァンタナモ収容所閉鎖が「多くの人が考えるより困難だ」として先延ばしの示唆をしたと報じている(『朝日』13日)。
(よしかわゆういち、本誌編集委員)