84 インタビュー 市民運動の経験はいかに「継承」しうるか ( 日本ボランティア学会2007年度学会誌『多様な市民知の邂逅』に掲載 2008年6月刊)(08/08/05搭載)
市民運動の経験はいかに「継承」しうるか
インタビューアー:中村陽一(なかむら・よういち/立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授、本学会副代表、編集員長。)
中村:実は先だってある記者会見で質問を受けまして、「中村さん、NPOが非常に広がったのはわかるのだけど、日常の生活でみたときにどうも実感がわかないんです。NPOが広がったことによって何が変わったのですか」と。
私は2つあると思う、と答えました。1つは別にみんながNPOで働くという時代でもないし、まして受け皿としてはなかなか食えるところもないけれど、政府行政で働こうが、民間企業で働こうがほかの仕事をしようが、少なくともNPOという存在を仕事の上でもどこかで意識をしなければいけないような時代に少しずつでもなってきたのではないだろうか、と。それからもう1点、最近は社会的企業とかコミュニティビジネスという言い方をしますが、事業として社会性のある取り組みを展開できるようになりだして、そのことでかなりおもしろい動きを示している若い世代が登場している、と。
そういう2つの変化が世の中に起こっている時代だと思うのですが、吉川さんのこれまでの経験とか立場から、率直に、どんなふうにご覧になっているのかお伺いできればと思っています。
非政治化するNPO
吉川:中村さんのお話には同感です。ただ、僕の偏見や認識不足、それによる誤解もあることを承知の上で率直に申し上げると、広い意味での政治と向き合うことを避ける傾向が強いと思います。特に若手スタッフと話していると「こういうことを言うと特殊な集団と思われますから」とか「周りから色眼鏡でみられるのが嫌なので」というようなことをよく聞きます。政治的なアクションや発言ととられそうなことに自己規制をかける傾向があるなというのが、僕の印象ですね。
1999年の日本ボランティア学会の学会誌で、楠原彰さんが、この研究会では市民運動、住民運動、反原発あるいは公害反対運動などと、ボランティア活動は分けて考えるべきではないかと思っていたが、それは違ったと気がついたと言っていますね。それを分けちゃうと、ボランティア活動から批判的精神が抜き取られてしまう、と。これは私の考えと同じ主旨だと理解するのですが、しかし現実はそうなっていないのではないかと思います。やはり依然としてそこが分けられているような感があります。
その思いを強くしたのは、この『まちづくり助成事業』の助成先のリストを見たときです。1992(平成4)年から2004(平成16)年まで、12年間という長い期間の助成事業が載っているのですが、この中に、さっき言ったような広い意味での政治に関わるものは一つも出てきません。助成されているのはすべて意義のある活動だと思いますが、中に一つくらい、たとえばイラク戦争と関連して、向こうの困っている住民を救う運動とか、平和なり難民に関わる活動もあるのではないか、と探したのだけれど1つもない。もちろん助成のテーマは「まちづくり」ですが、日本のある地域の中でイラクの住民と手を結ぶための集団が生まれたって不自然ではありません。実際、そういう地域運動やベトナムの枯葉剤被害者への支援の運動などは多くあるのです。
また、立川の反戦ビラ配布事件1)、最高裁で有罪が確定しましたね。葛飾で共産党員がビラをまいた事件2)の判決ももうすぐですが、これは警察側の狙い撃ちです。事前に全部調査しておいて、被害届けを警察が用意して、それを住民に書かせているんですね。全部ヤラセですよね。しかも立川の場合、事後逮捕で、住所も名前もわかっており、逃亡の恐れなどないのに、75日間も勾留です。明らかに市民的権利への締め付けが行われ、それが最高裁で確定してしまったのです。こういう状況に抗議の意思を表明するNPOがどれくらいあったのでしょうか。ないとしたら無神経も甚だしいのではないかと思います。市民的権利や自由など自分たちの運動に直接関わる問題なのに、これは政治的だから触れないほうがいいなということなのでしょうか、関係ないと思っているのでしょうか、不思議に思います。3万何千も存在するNPOのうち、この問題について事あげする人たちがほとんど現れないとすると、それは非常に深刻な状況だと思います。
阪神大震災と市民=議員立法
吉川:もう一つ、阪神淡路震災がボランティア元年になって、NPOの広がりがそこから生まれた、ということをいろんな人たちが言っています。しかし、その延長で起こった「市民=議員立法」運動に、この『まちづくり助成』リストにあるようなNPOや、震災で駆けつけた何万ものボランティアがどれだけ関係したのかというと疑問です。
この「市民=議員立法」運動を推進したのは、作家の小田実(旧ベ平連3)代表、故人)です。小田さんの精力的な活動には驚嘆しました。被害者の仲間といっしょに月に何回も上京して、国会の中を駆けずり回り、自民党から共産党までおよそ政党の区別なしに次々と議員を訪ねては説得し、ついに成立させるわけです。最初は非常に不十分なものとして成立しますが、去年その改正が行われて、小田さんの主張に近づいています。僕もこの運動に参加しましたよ。この西東京市(当時は保谷市)に小田さんを呼んで、地元の共産党、社民党、生活クラブの市会議員や、私みたいな地域の運動団体が一緒に宣伝カーに乗って駅前で街頭講演会をやったりね。共産党の議員と私が一緒に、同じ演台に立って演説したのは、僕が共産党を除名されて以来初めてのことでした。それまでは「敵扱い」でしたからね(笑)。
市民が法案を作ってそれを国会を通させるっていうのは、大変な努力ですよね。そういう小田さんたちの努力と、膨大な数の震災ボランティアだった人びとの思いは、どうつながっていたのでしょうかね。
中村:小田さんたちは自分たちの運動と共通するものがあったからこそ、市民=議員立法のような手法やそこでの思想が生まれたと思うのですが、それが今のNPOを担う人たちとなかなかつながらないのはなぜなのか、私もわからないのです。人脈が違うといえばそれまでなのですが、なぜつながらないのか、どうして断絶してしまうのか、その背景やバリアについて、吉川さんはどのようにお考えですか。
断絶する運動、自己規制する運動
吉川:私も前からわからなくて、いろんなところに書いては批判されたり怒られています。1つは『論座』(2004年3月号)の「デモとパレードとピースウォーク」でも書いたように、議論をしないというスタイルの問題ではないでしょうか。批判したり、反論してはいけない、ひたすらあなたの言うこともわかるよ、でも私の言うこともわかってね、違うけれども一緒にやりましょうね、といって握手するというスタイルでなければ受け入れられないのではないかとする風潮の問題にあると考えています。
もう1つ、これは反戦運動の分野に限りますが、新聞記者やジャーナリストが好んで用いる枕詞に「今度の運動はかつてなかったような、幅広い……」という表現があります。運動をやっている側もそういうメディアの注目を集めるために、「今までの声高に何かする運動とは違って私たちは……」ということを声高に言うわけです。新しい運動を起こすときには、それまでの運動との違いを際立たせる必要があるので、違いを強調する心理もわからなくはありません。しかし、そうやって切ってしまうと、それまでの運動から、批判的に学ぶということも含めて、学ぶものは何もない、という立場になってしまいます。つまり、建設的な批判ではなくて、お前なんかとは違うよ、と切ってしまうのです。つまり、断絶してつながらなくなってしまうのですね。
だから僕は最近、経験の継承ということ自体を目標としてはいけないんだ、と思っています。つまり、継承してもらいたいからといって、わかりやすい言葉に言い替えようとか、イラストを使ったらどうかとか、そういう小手先の技術で経験が継承されるようになることはないと思うのです。小田実さんは最期まで、かたくなに同じことを言い続けていました。彼の大阪大空襲の話と被害者にして加害者になるという話を、僕は何十回聞いたかわかりません。自分の原点として言いに言い続ける。それが人々に伝わるとしたらその熱意が伝えさせるのであって、変に小手先で伝えようとしても継承されるものではない、と最近は思っています。自分が言わねばならぬと思うことを言い、やらなきゃいけないと思うことをやり続ける、それが結果として受け取られるものがあるなら受け取られるのだろう、と。
中村:吉川さんとしては、若い世代の運動から拒否されているという印象が強いのでしょうか
吉川:拒否とは思いませんが、敬遠されているというのが妥当なところですかね。一種の自主規制、自己規制かもしれませんね。
自己規制といえば、映画『靖国─YASUKUNI』の上映自粛もそうですね。最近はあちこちで上映されだしたからまだいいのですが、最初は、誰も上映するなとも言わないうちに、上映計画が次々と中止され始めました。変な目で見られたくない、何かあったら困る、責任がとれない、ということですね。それはとても危ない傾向です。
とくに自治体と組んで、そこからかなりの予算が出て企画などを任されている団体などでは、自己規制が働きやすいですね。言いたいことを言ってしまうとちょっとやばい、次の予算が出ないと困る、そういうことを考えるようになりがちですね。
中村:それは確かにNPOのもっている一面として、特に行政との協働という文脈のなかで実際に現れている現象ですね。昔、栗原彬さん(日本ボランティア学会代表)が自発的服従という言葉を使いながら説明していましたが、下請け化はまさに自己規制の問題だと思います。
生活の政治化、政治の生活化
中村:さて、政治ということをめぐっては、私の場合ずっと地域を歩いていた80年代頃に、自分たちの身近なところ、たとえば食の問題であるとか、福祉や地域といったさまざまなテーマの延長線上に生まれた生活者の運動と出会い、生活の政治化、政治の生活化というイメージを描いたのですが……
吉川:天野正子の『「生活者」とはだれか』(1996,中公新書)は、生活と政治の関係を論じた良書だと思います。そのなかでは、ベ平連と生活クラブ生協が共通の接点から論じられています。ところが最近、生活クラブの非政治化が目立ってきたように思います。僕は以前、自治体の選挙では生活クラブの議員をずっと応援していました。坪井照子さんという今ゴミ問題に取り組んでいる人が立候補したときでしたが、僕は一住民として、立候補者全員に政策についての公開質問状を出しました。数人から返事が来たのですが、驚いたことに、坪井さんは直接僕の家を訪ねてきて、「質問状をもらったんだけど、お会いしてしゃべった方が早いと思って来た」と。そこで初めて坪井さんと知り合い、共感しました。それ以来、選挙のたびに坪井さんや生活クラブの議員を支援し続けていました。ですが次第に政策から政治的とみられそうなことが薄くなってゆくので、私はそれを批判しました。そして、私と主張の近い無党派の市民派立候補者を支持することに変えました。2006年の暮れの西東京市の市会議員選挙の際には、僕は選挙公報をみて仰天しましたね。立候補者の主張を全部読んだのですが、その中で憲法や平和、戦争、イラク、自衛隊、教育基本法などについて語っていたのはたった一人、私の支持していた無党派の森輝雄という候補者だけでした。共産党も社民党も生活クラブも、憲法のケの字にも触れていないのです。教育基本法改悪が大問題になった直後の時期なのでしたが、それに触れているのもその森さんだけで、あとの立候補者は教育といっても、「安全のために中学生以下の子どもの下校時に呼子笛を持たせます」というような主張があるだけです。それが教育なんですよ。政治を語らないのです。
かく言う私も、60年代後半から70年代にかけてベ平連の運動に関わっていたときは、政府を批判して、ベトナム反戦のデモをやるとか、脱走兵をかくまうといった運動にもっぱら集中していて、自分の住んでいる地域の運動というのは、ほとんど何もできませんでした。それはまずいなと思っていたので、ベ平連運動が終わってから、地域の運動にも関わるようにしました。坪井さんと知り合うようになったのはほぼ同じころでした。今はもう解散しましたが、坪井さんらと「保谷の衆のコーヒータイム」というグループも作りました。コーヒーと手作りのクッキーを囲んでまちづくりを語る会です。機関誌も私が編集を担当して出しましたし、生活クラブの人たちと市内を流れる川を自転車でたどって、水汚染や暗渠の問題を考えるなどの活動をやり、まちづくりの綱領を起草したりもしました。そういう地域の活動と、それからいわゆる国政について声をあげて批判をしていく、という両方が必要で、一個人としても、その両方を車の両輪のように関わるのが大切だというのが、私の持論です。
国政だって、住んでいる生活の場から論ずるのが一番本物のはずです。ところが住んでいるところで論じるとなると、教育問題は教育基本法ではなくて、安全のために子どもに笛を持たせる話になってしまう。市会議員のような地域と密着した政治の場での議論のなかに、自衛隊の違憲問題があっていいし、イラク派兵問題があってもいいし、教育基本法もあるべきです。もちろん僕はそれだけを論じよと言っているわけではなくて、子どもの安全も放置自転車の問題も解決しなければなりません。しかし、どうしてそこから世界の政治と国の政治にかかわるものだけが消えてしまうのか、それは国会議員に任せておけばいいということなのか、それには強い批判を持っています。
ところで、先に触れた2006年暮れの選挙では、ただ一人大きな政治の問題も論じていた森さんという候補者はトップ当選を果たしました。最下位当選者の2倍以上もの獲得票でした。当然だよ、と僕は思いました。言ってみれば他の候補者は市民を馬鹿にしていたわけですよね。そんなことを言ったら浮いちゃうとか、地域で国政を論じたって無駄だとか。
地域の身近なことも国や世界のことも、両方を考えていく必要があると思うのですが、しかし、この持論は反戦運動仲間の中でも必ずしも共有されていません。一緒にやっている連中は地域で何かやっているかというと、特に男性はほとんど「とてもじゃないけど忙しくて、地域のことはカミサンに任せているから」と言って、本人は東京の事務所で文章を書いたり、会議をしたり、デモの準備をしています。政治の地域化、地域の政治化の実現には、まだまだ課題が多いですね。
中村:そういう発想を持つ人がどんどん増えていくことを願いたいですね。生活クラブのキャッチコピーに「大勢の私」というのがあります。私たちでもなく、我々でもなく、私という個人が大勢集まって、しかも烏合の衆ではなくて、そのお互いにいろんなことを交わし合いながら作っていくのが生活クラブ運動なんだ、ということ。あれは非常にいいキャッチコピーだと思います。そういう発想から生活の政治化、政治の生活化を図るところに、生活クラブ運動の意義があるので、それを実体化したり人に伝えられる人に、もっともっと出てきてほしいですね。
経験の継承
中村:さて、市民運動のスタイルとか文法といったものの違いをつなぎたい、という思いからインタビューを進めてきましたが、私は政治という言葉の意味やイメージが貧困な状況から復権させていくフォーラムのような場の必要性を強く感じています。今回のお話もそうですが、若い世代の人たちが話を聞いて「ああ、そうなんだ」と興味を持つようなことは、まだまだあると思うのです。そういう場づくりにおいて、吉川さんのこれまでの半世紀にわたる運動経験の中で大事にしたいとお考えになるポイントなどを、お話いただければと思います。
吉川:すでに申し上げたことと重複しますが、経験の継承というのは技術的に解決するものではない、ということですね。かたくなまでに大阪大空襲を言い続けた小田さんの言葉がそれなりに伝わるように、どう受け止められるかというより自分のやらなければならないことをやる、言わなければならないこと言う。それが人々の心を打つ、ということを理解しておく必要があろうかと思います。
私が入っている「市民の意見30の会・東京」でも、若い人があまり来ないので困った、という話がたびたび出ます。しかし、若者に受け入れられる工夫も必要ですが、一方で、年配者は年配者にしかできないことを一生懸命やっていく、それが若者に伝わるのなら伝わるかもしれない、と考えるのです。焦っているわけではないのですが、若手の会員を増やすことに時間を費やすより、やはりこの世の中をどうする、自分に何ができる、と問うことこそが重要だと思うのです。そういう方針にはかなり共感する方が現れています。
つい一昨日、「市民の意見30の会・東京」の郵便振替に100万円の送金があってびっくりしました。というのも近年「生活が困難で年2000円の会費が払えないので、残念だけど長い間付き合ってきた会を辞めさせてください」というような退会の届けが目立ちだしたんですよ。そこで会報で、何年も会員だった人がこういう理由で辞めていくのは残念だ、何とかこれらの人々の会費を安くして、それをみんなで支えようという提起をしたところ、かなり賛成があって、新しくグリーン会員という年会費を1000円にする区分を作りました。そうして2ヵ月ほど経ったときこの100万円の送金があったのですね。これを経済的事情で会費の支払いが困難になっている人々の支援にお使いください、と。ところが、さらに驚いたのですが、実はそのお金は亡くなった会員の方の遺産の一部だそうで、地域でボランティア活動を続けながら「市民の意見30の会」に入っておられた方が、そういう遺言を残して亡くなったというのです。年配者は年配者なりにやれることをやらなければ、と訴え続けてきたことが、共感を得たのかもしれません。それぞれがやれることをやるという、その当たり前のことに徹する重要さを感じています。
中村:おっしゃる通り、結局のところは基本的なことをコツコツとやっていくということしかないなと思うのですが、そこに少しだけ自分の思いを付け加えるならば、異なる世代が出会う場とか、異なる発想の人間が出会って互いの話を聞ける場、そういうものは何とかして作りたいものです。そこには多少は(小手先の)スキルがあってもよいし、わかりやすく、出会いの敷居を低くしたいなと思うのです。
議論の場づくり
吉川:その場合、議論の仲介者とか、議論の仕方にも流儀が必要ですね。
僕が「建設的な相互批判をしない運動が増えている」といったことを書いたのを受けて、世代間の対話をテーマにした討論会が開かれたことがあります。ある憲法学者が仲介して、僕と若者代表が議論するといった組み立てだったのですが、これが、半分成功で半分失敗でした。というのは、若者代表で参加したK君とはとてもよい付き合いをするようになったのですが、討論会を仲介した憲法学者に対しては、ずいぶん批判を展開するようになりました。
彼は、日本の戦争責任だとか、日本の中の少数派問題、あるいは差別の問題だとか、そういう難しいことは、運動の場では言わない方がいいと言うのです。そういう議論は若い人々を遠ざけるから、難しい議論は学者と専門的運動家が別のレベルでやって、一般の人には戦争になったら被害を受けるよ、というレベルで訴え、組織しないとダメだと、2段階論を提案しているのです。僕はそれには驚いて、そんな一般民衆を馬鹿にした話があるか、と批判したわけです。中村さんを前にして悪いけど、ダメな学者は多いと思いますね。
中村:それは、運動の現場に出てこない、現場に身を置いたことがないからでしょうか。
吉川:というよりは、一般の市民と学者や専門的運動家を分けて対処することが、運動の現場での現実的方法だと思っているんですよ。
中村:そんなことを認めたら市民運動は成り立ちませんよね。
吉川:僕はその討論会でも、議論が必要だという意見を展開したわけです。昔は、僕のような運動をやっている連中と新聞記者とか雑誌の編集者とかが飲み屋にいて、わぁわぁ盛んにやり合う、それがそれなりに面白かった、という話をして、大いにやり合ったらいいじゃないかと言ったらですね、そのとき司会役をやっていた雑誌の編集長が、「私もそういうところは何回か付き合ったことはあるけど、そこから実のある結論は出たことがない、ああいう文化から何かいいものが生まれるとは思いません」と言うんですよ。それを聞いて、ああ、この人はいい議論の経験をしたことのない人なんだな、と寂しい思いもしました。
中村:今回のようなお話はもちろん一回で結論がでるものではありませんので、また機会に、今度はアフタートークまでご一緒できればと思います。ありがとうございました。
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1) 東京都立川市の防衛庁(当時)宿舎の新聞受けに、自衛隊のイラク派遣に反対するビラを許可なく入れたとして、市民団体のメンバー3人が住居侵入罪に問われた事件の上告審判決で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は11日、「表現の自由は無制限に保障されるわけではなく、他人の権利を害する手段は許されない」と述べ、被告側の上告を棄却した。
<立川反戦ビラ配布事件> 東京・立川基地の在日米軍が横田基地に移った後、自衛隊が使用することに反対した市民らが1972年、市民団体「立川自衛隊監視テント村」を結成。反戦や基地反対を訴えた。2004年1月に「自衛隊のイラク派兵反対!」と書いたビラを各戸の新聞受けに入れるため、隊宿舎の通路や階段に立ち入ったとして、警視庁は翌2月、住居侵入容疑でメンバー3人を逮捕。東京地検八王子支部が起訴した。3人は75日間拘置された。(『東京新聞』2008.4.12)
2) <葛飾政党ビラ配布事件> 男性は2004年12月23日の昼間、東京都葛飾区内のオートロックではないマンションで、共産党の都議会報告や区議会だより、区民アンケートの用紙と返信用封筒を、1階の集合ポストではなく各居室のドアポストに配布した。途中で住民男性に見とがめられ、110番通報された。警察で事情を聴かれ、帰宅しようとすると「住民男性によって住居侵入容疑で現行犯逮捕されている」と説明を受け、そのまま23日間、身柄拘束された。(『朝日新聞』2006.8.28)
3) ベトナム反戦の市民運動グループ。正式には「ベトナムに平和を!市民連合」といい、代表は作家の小田実。1965(昭和40)年4月25日発足。@ベトナムに平和を、Aベトナムはベトナム人の手に、B日本政府は戦争に協力するな、を目標に掲げたが、規約や会員制度などをもたず、行動に参加する者をもってべ平連とみなすという、新しい組織形態を創出、その後の各種市民連動の基礎をきずいた。徹夜ティーチイン、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告、米脱走兵援助、定例デモ、『週刊アンポ』創刊、反安保の大共同行動、基地内での米兵反戦運動の組織化など、ユニークで多彩な行動を展開、多くの知識人、市民、青年を結集、最盛期には全国で500近くのべ平連グループが活動した。加害者としての自己認識など思想的にも影響を与えた。74年1月に解散。
(『戦後史大事典増補新版1945-2004』三省堂,2005:823)
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(日本ボランティア学会2007年度学会誌『多様な市民知の邂逅』に掲載 2008年6月刊)