news-button.gif (992 バイト) 76 栗原幸夫さんの『未来形の過去から』によせて  ( 『季刊 運動〈経験〉』 2007年No.20) 07/03/06搭載)     

  『季刊 運動〈経験〉』2007年No.20 は、〈特集〉「無党の運動」をめぐって を特集し、栗原幸夫さんの新著『未来形の過去から』をめぐる多くの人の意見を掲載している。執筆者は、福富節男、武藤一羊、伊藤晃、白川真澄、田守順子、天野恵一、国富建治、桜井大子、北野誉、青山薫、道場親信、水島たかしの諸氏で、私もそれに寄稿している。以下はその全文。

栗原幸夫さんの『未来形の過去から』によせて

                        吉川 勇一

 書評ではないので、かなり個人的な思いを書きます。日頃私の尊敬する方がたのご努力によってまとめられたご労作ですので、次の言い方をあまり言葉どおりに受けとられると困ると、腰を引き気味の言い訳をつけて言うのですが、私は、この本をいささか「被害者意識」をもって、拝読したのでした。

本書は、私、吉川の『論座』(043月号)論文への言及から始まるのですが、「あとがき」でインタービューアーのお一人、天野恵一さんが「私は……論争を挑発するという努力を自覚的に持続した」といみじくも書かれているように、まず天野さんが「……そういう点で吉川さんの論文にはすごく違和感を持ったんです」と、ずいぶん手厳しい評価を言った上で栗原さんの応答を引き出しています。「日市連」ヘの評価や「シングル・イッシュー」問題でも、そういう感じで、天野さんの「論争挑発」というより「吉川批判挑発」にやられた、という印象を受けています。

畏敬する先輩、栗原さんは、『論座』論文批判では、天野さんの意見にほとんど同調されているようですが、しかし、内ゲバ党派との協力関係をつくるか否かの原則について、「ベ平連はそういう困難を引き受けてなかったんじゃないか」という天野さんの「挑発的」問いかけには、栗原さんは「イヤー、それはね、これはもう吉川勇一に聞くのが一番いいと思うけど。一番彼が苦労したからね」と公平に応じられています。でも、私はこの件に関して、その後も聞かれたことはありませんでした。

党派間の内ゲバや、市民運動自身の中にさえあった党派主義的(セクト的)対応への、私を含むベ平連メンバーの努力については、私の『市民運動の宿題』(思想の科学社、1991年)でかなり書いたつもりですし、また、天野さんが高く評価されている福富節男さんも、その著書『デモと自由と好奇心と』(第三書館、1991年)の中で、共同行動の原則を作り出すためにベ平連がどんなに苦労したかを書かれているのですが、そこはあまりインタービューアーの方々には理解されておらず、ベ平連への評価の中からも欠落しているなという思いがするのです。

ひとつには、これは「シングル・イッシュー」問題についての、栗原さん、天野さんお二人の姿勢とも関連があるのだと思います。お二人とも、小田実さんや福富さんや私も参加した「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)や、今も私が参加している「市民の意見30の会」などを「非シングル・イッシュー」型市民運動と規定されたうえで、「まず連合をつくれば何かが生まれるという発想は逆立ちしてる」(栗原、149ページ)とか「全体を上から統括するもの、それのプロパーになっちゃうから。ある種の政治主義的市民運動型になっちゃう」(天野、同ページ)というような評価を共有されています。そして、それとの関連で、連合とか大きな共闘ということには、お二人とも、大きな関心を払われてこなかった、ということと関係があるのではないか、と私には思えるのです。

本書冒頭での、私の『論座』論文批判も、それと関連すると思っています。お二人は、私の主張が、六〇年代のベ平連運動からすぐ現在につなげてしまって、七〇年代、八〇年代、九〇年代の運動が飛ばされている、その間に六〇年代の遺産ももみくちゃになったし、社会構造もまったく変わってしまっている、吉川のように、ただ六〇年代の運動を継承しないといけないと言ってもダメだ、という風に批判されています。この批判の姿勢は、お二人の運動経験と関係があると思うのです。私はイラク戦争開戦の前後に一時盛り上がりつつあった新しい反戦運動の流れについて、ある種の期待も込めて論じたのであり、そこでは、さまざまな勢力が連合して、イラク反戦・日本の戦争協力批判への大きな流れを作り出す上で、少なくとも6770年の5万〜七万人が参加というような大行動を準備した経験が活かされ、さらに発展させられることを、私は希望したので、そういう行動がまったくなくなった八〇〜九〇年代のことが触れられなかったのは、むしろ当然だったのです。天野さんが共闘の構造について「実現することに大きなリーダーシップのエネルギーを僕はさいてきた」と言われていながら(162ページ)、しかし「それがもう通用しない時間に完全に入っている」と言われている(163ページ)ことを、私は、21世紀に入っても通じてほしい、と念じたわけです。天野さんは、それが可能であったのは「新左翼型のある種の共有感覚みなたいなものがあったから」だと言われていますが(162ページ)、しかし、この共闘構造を作り出す上での一番最初の機会は、五〇年型の運動のままであった共産党系団体をも多数含む議論の場であったのです(1968年の六月行動、前出の福富著110ページ以下)。

「シングル・イッシュー」問題は、私が先に触れた『市民運動の宿題』の中で提起したことでした(213ページ以下)。それに対して、栗原さんと花崎皋平さんからは、直ちに賛成できないという反応が寄せられました。しかし、この私の意見に対して、正面からの論理的な反論は出されてこなかったように思います。むしろ、思い込みによる批判といった感じが強いのです。栗原さんは「なんで、たとえば小田実が、それを統一してあるいは統括する権利があるのか、力があるのかということよ。……それは組織論から言えば党的なものができちゃうわけね」と批判されます(148 ページ)。栗原さんも認めているように、小田さん自身がそんなことを考えていないし、言ったこともない。いや小田さんは、「私が企図したのは、『市民の意見30』に基づいて『政党』をつくることではなかった」とはっきり言っているのですが(『強者の政治から弱者の政治へ』第三書館、1990年 262ページ)、そこのところは注目されていません。「日市連」の運動の中でも、運動全体を統括するようなものをつくろうというのでは決してない、ということがたびたび強調されていました。。この問題は、栗原さん、天野さんも含む討論集会(19913月の「フォーラム」、『派兵時代の反戦思想』軌跡社、1991年に記録)でも、私は提起していますし、派兵チェック編集委員会編の『派兵国家日本の進路』(1995年)の中でも少しふれているのですが、議論にはなりませんでした。

どうも評判の悪い私の意見なのですが、今度の『未来形の過去から』をよく拝読して思うことは、重点の置き方の違いはあっても、栗原さんたちの主張と、私の思いとは、それほど大きな違いはなく、少し意見を交換すれば一致できるところの方が大きいだろうということです。栗原・天野さんのご意見を言葉どおりに受け取りますと、組織論的に「市民の意見30の会」はまったく認められない、ということになりそうですが、現に栗原さんも「だけどあれにはもちろん協力してますけどね」と言われていますし(144ページ)、天野さんとはますます協力する場が多くなっています。それはなぜなのか、市民の意見30の会が実際にやっていることに基づいて意見を交換したら、あまり大きな意見の対立にはならないように思えます。現に天野さんが共闘の構造について「実現することに大きなリーダーシップのエネルギーを僕はさいてきた」と言われていながら(162ページ)、しかし「それがもう通用しない時間に完全に入っている」と言われている(163ページ)ことを、私は、通じてほしい、と念じたわけです。

もう一つだけ感想を言って終わることにします。小田さんについては、栗原さんはいろいろと高い評価も与えられてはいるのですが、しかし、最近一〇〜二〇年ほどの間の小田さんのさまざまな問題提起については、栗原さんもあるいは天野さんも、あまり触れられていない、という思いがずっとしてきました。たとえば、小田さんの「良心的軍事拒否国家日本」の提案、安保条約に代わる「日米平和友好条約」の立案・提起、あるいは阪神・淡路大震災以後の、災害問題についての見事な市民立法運動などについては、私は、もっと強い支援、共闘の関係が組まれてもよかったはずだと思うのですが、どうも冷たい反応だったという思いがしています。

以上、いろいろ弁解や批判めいた感想を書きましたが、しかし、この書物のいたるところで栗原さんが展開されている社会主義や、文化革命や、無党の運動などについての論には、共感するところ、教えられたところが実に大きいものであることを言わねばなりません。

「党が諸悪の根源」という栗原さんの中心的な主張には、半ば同意、半ば保留という私だったのですが、最近、絓秀実『1968年』(筑摩新書、2006年)というとんでもない本を読んであきれかえり、こんな党論、党理解が今でも存在しているのだとしたら、「諸悪の根源」説も無理ないなという思いが強くなってきています。栗原さんは、共労党とベ平連という「二足のワラジ」を履いており、「ベ平連のなかでは、わたしは単純に一人の市民運動家であった」と言われています(本書183ページ)。私の場合は「二足のワラジ」というよりは、一足に近い思いでした。ベ平連内にあって、共労党のセクト的介入や利用主義をいかに阻止するかが、共労党員である私の 党員としてやるべきことだというふうに思っていたからです。1968年というのは、そういう時代でもあったのです。絓さんという人は、そういうことがまったくわからない人なんですね。

栗原さんから今年いただいた賀状では、「革命という言葉をIT業界などに独占させず、新しい定義と共に復活させようではありませんか」とよびかけられました。また、たびたび運動の中で出会う京都の研究者からは「世界が赤い視線を失ってから すでに久しい もうそろそろ 私たちがそれを取りもどす時だ」という賀状を貰いました。60歳台〜80歳代の高齢者からの賀状は、みな相当に元気ですし、怒っています。経験の継承ということが可能だとすれば、この世代の全力投球によってなのだろうという思いを強くしています。栗原さんのいっそうのご活躍を期待しております。

[吉川勇一(よしかわ・ゆういち)、一九三一年生まれ。市民の意見30の会・東京。著書に『市民運動の宿題』(思想の科学社)ほか]

(『季刊 運動〈経験〉』2007年No.20より)