72 平和委員会事務局で (池田眞規、古川純、松尾高志、丸山重威、山内敏弘、吉池公史編著『無防備地域運動の源流――林茂夫が残したもの』2006.07 日本評論社に掲載された故林茂夫さんについての話) (06/07/31搭載)
平和委員会事務局で
吉 川 勇 一
林茂夫さんのこととなれば、もちろん、彼の自衛隊論、軍事評論、そして非武装都市宣言運動などのことが大きな業績として語られねばならないのだろうが、それはほかの人も触れるだろう。私は、もうあまり知る人もいなくなった一九五〇年代の平和委員会事務局時代のことを主に振り返ってみることにしよう。
昨年は、砂川の基地拡張反対闘争で、反対同盟側のデモ隊(東京地評の労働者や全学連など)と警官隊とが激しく衝突したときから五〇年目にあたり、記念の出版や集会などが行なわれた。
日本平和委員会も、この闘争に深く関わっていた。書記局では黒田秀俊さんが、清水幾太郎さんや中野好夫さんらの基地問題文化人懇談会を支えて、徳川無声さんをふくめた広範な著名人の砂川訪問を何度も実現させていたし、林茂夫さんや私もいた平和委事務局も、現地に泊り込み、警官隊との激突では、ずいぶん殴られたり蹴られたりしたのだった。昨年なくなられた小林徹さんも含め、林さんや私も写っている砂川・小豆佐味天神境内での写真があるはずだと探してみたのだったが、見つからなかった。しかし、代わりに、なんと五〇年以上も前、私が二三歳だった一九五四年から数年間にわたってつけていた古い日記帳が見つかったのだ。砂川闘争の記述もかなりあったが(その部分は、星紀一編『砂川闘争50年――それぞれの思い』けやき出版刊に掲載されている)、平和委員会事務局での活動の記述も多くあって、思わず読みふけってしまった。
これを読むと、当時の平和委員会事務局は、仕事は多く、人手は足りず、金はなく、書記局と事務局の間の関係もうまくなく、かなり悲惨な状況だったことが、あらためて記憶に甦ってきた。
たとえば一九五四年七月二八日(水)の記述にはこうある。
……土、日、月、火と新聞突込み、棒ゲラ、大組、大ゲラと全く忙しい。毎日つけようと思った日記もつい途切れがちになる。毎晩就寝は一時、二時、そして朝も遅寝はできない。何とかもうすこし余裕が出来ないだろうか。昨夜は夜遅く赤岩さん宅を訪ねて編集について話し込んだ。今日は午前中178号編集会議。午後は関東版編集会議、それから事務局へ帰って新聞発送。夜は中原、種村、後藤さんらとやはり新聞編集と平和運動、とくに組織方針について話す。……
「新聞突込み」とは、機関紙週刊『平和新聞』の原稿を印刷所に入れ、最終校正を終えるまでの作業を指す。今の若い人びとには想像も出来ないかもしれないが、この当時、活版印刷だった新聞はすべて文選工という労働者が、鉛の活字を一字一次指先で拾い、それを組んで横に長い一段の「棒ゲラ」にし、校正をした上で、さらにそれを大きな活字で組んだ見出しのセットや写真版などと組み合わせて、一面全体の「大ゲラ」にする作業が必要だった。校正も、誤った活字を見つけたら、それを抜いて、正しいものに差し替えるという、全くの手作業、写植もなければ、もちろん、パソコンだのワープロなどあるわけはなく、大変な手間のかかる仕事だった。私は、この仕事を、先輩の林茂夫さんと、写真家の阿部恒さん(今では、折り紙専門家として有名)に教わり、仕込まれ、しまいには、素人の私でも、文選の仕事を手伝ううちに、よく使う「平和」だの「運動」だの「中国」だのといった活字が、膨大な活字を入れたケースのどの辺にあるかを覚えてしまい、活字を入れ直す校正作業までいくらかはやれるようなほどにもなった。当時の『平和新聞』編集長は、代々木上原教会の牧師、赤岩栄さんだった。編集部は、最初、阿部さんと私の二人だけだった。
その二日後の七月三十日にはこうある。
……また新聞の犠牲者が出た。阿部さんが脚気で心臓が肥大しているという。栄養失調、睡眠不足、過度の疲労が原因。困った。新聞の編集がまた一人になってしまった。阿部さんには悪いけれど、まず仕事が一体どうなるだろうということが先に立ってしまう。人間の条件に仕事を適応させていくのではなく、膨大な仕事に人間がひきずられていっているからだ。僕自身も相当参っている。……
「金もなく」と書いたが、当時の給料については、こういう記述が見つかった。同年八月十六日の日記である。「まだ七月分の給料が出ない。僕の借金は二千円になった。通勤費も出ないから……。」この当時、欠配(全く給料が出ないこと)こそあまりなかったが、一月半、ひどいときは二月近く遅配(支払が遅れる)することは珍しくなかった。この当時の私の給料は六千円、二年後に七千円になった。(参考までに記すと、当時の公務員の初任給は五四年が八千七百円、五七年で九千二百円、大学出の銀行員の初任給が一万二、三千円だった。)今でも、昼食のコッペパンを近くのパン屋に買いに行く当番の人が、「俺はジャム」「俺はマーガリン」、「俺、ピーナツバター」など、それぞれの希望を聞いて出かけてゆく様を良く覚えている。もちろん、本物のバターを塗ったり、一個五〇円のコロッケなど挟む余裕はなかった。
人手不足についての同年一一月二五日(木)の記述。
……小野(安平)君が入ってようやく三人になり、どうやらうまく行くと思った編集部も、阿部さんが事業部の仕事に移り、代わりに入った林さんが、松田さん(林夫人)の病気のため再び業務部へ戻ったので、また二人だけになってしまった。日が短くなり取材がしにくくなった上、二人の編集陣では新聞が出るのがやっとということになりそうで、またまたピンチな状態になって来た。疲れる。今日も終電に乗ったまま眠ってしまい、(乗り過ごして)西武柳沢まで連れて行かれてしまった。雨上がりのドロンコ道をエッチラオッチラ歩いて帰ってくると時計は一時を廻っている。……
引用すればきりはないが、日記には、疲れた、眠いという表現が毎日のように続き、書記局の偉いさんたちや、事務局の年配者たちへの不満や批判があふれている。もちろん、こうした辛い状況は、私だけのことではなく、林さんも含め、事務局員全体の状況だった。
林さんについての記述を日記の中から懸命に探したのだが、不思議に少ない。私などは、事務局の中で、誰彼かまわず突っかかってばかりしていたのだが、林さんは自分のペースを確実に維持し続け、あまり正面から持論を主張して、他の人に異を唱えるということが少なかったように思う。どちらかというと慎重派だったと言えるかもしれない。一言居士とも言えそうで、他の人の発言に対して「それは言える」とか「ちょっとどうかな」という程度のコメントだけをすることが多く、よほど求められた場合に述べる意見は、データに裏打ちされたものだったから、他の人も納得してしまい、あまり論争にはならない。それに、軍縮問題、基地問題、自衛隊問題などについては、事務局一の研究家だったから、私が日記の中で噛み付く余地などなかったのだと思う。
共産党の活動の場でもそうで、私などは猪突猛進、正面激突派だったからついに除名にまでなってしまうのだが、林さんは、中央の方針に強い批判はあっても、それを自己の内に秘めて、ひたすら自分のペースで、軍事問題の研究を進めていたのだと思う。もちろん、党内や平和委員会内での、上昇志向や権力欲などとも、全く無縁の人であった。
日本平和委員会の事務局には、早川康弌さんなど、早くからスターリン主義の呪縛から自分を解放していたリベラル派の知識人も多かったから、いわゆるセクト的「党派性」で凝り固まったような人はいなかった。私の除名決議は、形式的にはまずこの日本平和委員会細胞でされたのだが、だからといって、以後、「反党分子」として口もきかず、顔もそむけるといった、居住地域での共産党員のような態度をとった人は誰もいなかった。
林さんと私は、その後も普通の付き合いが出来、反戦運動ではよく協力もしてもらった。ずっと最近の話になるが、一九九四年五月には、私の住む保谷市の市民グループの集会で有事立法の話をしてもらったが、かなりの参加者を得られたのだった。
(よしかわ・ゆういち、「市民の意見30の会・東京」会員、一九五三〜六四年まで日本平和委員会事務局常任。)
池田眞規、古川純、松尾高志、丸山重威、山内敏弘、吉池公史編著『無防備地域運動の源流――林茂夫が残したもの』(2006.07 日本評論社)に掲載。