68 半世紀前の砂川闘争から学んだこと(付 「1956年10月の日記から」); (05/11/03搭載)
半世紀前の砂川闘争から学んだこと
吉川 勇一
タイムマシーンではないが、半世紀も前の自分に出会うというのは妙な気持ちだ。一九五〇年代に書いていた日記帳が出てきたのだ。その一九五六年の一〇月のところに、砂川闘争に参加したときのことが書かれている。もちろん、他人に見せるつもりなどまったくなく書いたものだから、プライバシーに関わる記述もあり、いくら若いころのことだからと言っても公開は恥ずかしいのだが、当時二五歳の一青年活動家が、どんなふうに砂川闘争に参加し、どんなように感じていたかを、そのときの時点で記録したものとして、なにがしかの資料的意味もあろうかと思い直して、その部分の公開に同意した(後掲)。
当時、私は、日本平和委員会の常任事務局員をしており、日本共産党の党籍もあった(その後、一九六五年に除名処分を受けたが)。そして、五六年の一〇月初旬から一週間、砂川に泊り込んで、拡張のための測量阻止闘争に加わった。五五年九月にも、測量阻止のための闘争、警官隊との激しい衝突があったのだが、この日記の記述は、その翌年の二度目の激突のときのものだ。若者特有の思い込みの激しさから、評価の誤りなども、もちろんある。社会党や労組幹部への不信感も露骨だし、民族主義的感情の表現など、今からすれば恥ずかしい限りだ。でも、当時の感情としては、嘘を書いたつもりはない。一〇月一六日の記述を読み返してみると、測量を中止させたときの高揚した気分が、今でもよみがえってくる思いがする。
そのなかに、当時恋愛中だった祐子のことも出てくる。私は、彼女とその二年後に結婚した。四七年連れ添ったその妻も、つい先月七四歳で死去した。その葬儀のときの挨拶で、私は、この五六年秋の砂川闘争のことにもふれたのだった。
さて、この闘争で、次は安保条約だ、という方向が、少なくとも私たち、平和委員会の仲間の間では、共通の目標となった。砂川基地の拡張は阻止したものの、根本は日米安保条約とそれに基づく行政協定にあり、これをなくさぬ限り、問題の解決にはならないという理解である。こうして、五七年の日教組の反勤務評定闘争、五八年の警察官職務執行法(警職法)闘争を経て、六〇年の安保闘争につながることになる。五九年には、かの有名な砂川裁判、伊達判決も出る。
だが、「次は安保だ」ということは、当時、運動の中ではあまり支持されなかった。とくに労働組合運動の主流は、「日米安保条約」などというむつかしい条約問題は一般労働者の理解は得られない、合理化反対や賃上げなど、日常要求や経済的要求と結び付けない限り、安保は闘争課題になりえない、という意見が強かったのだ。だが、実際の展開はそうではなかった。安保はまさに安保として、人びとの関心事となり、あの大規模な六〇年安保闘争が展開されることになったのである。
最近、「イスラム原理主義」だの「キリスト教原理主義」など、「原理主義」という言葉が広がっている。それを借りるなら、私は「反戦原理主義者」か、などと思っている。原理として、諸悪の根源である日米安保条約をなくさない限り、問題の解決にはなり得ないと思っているからだ。今、憲法第九条の改変を阻止することが大きな課題となっており、そのためには、九条改悪阻止のために大きく力を結集することが大切だとされる。その点に異論はないのだが、しかし、その結集のためには、反戦運動のなかで、自衛隊が違憲か合憲かとか、自衛力、自衛権は必要なのか否か、ましてや日米安保体制などの問題で、あまり詰めた議論をすることは、対立や分裂を招く恐れがあるので、好ましくないという風潮が生まれてきているように、私には思える。これには、私は賛成できない。憲法九条がある中で、すでに自衛隊は世界第二位の強力な軍隊となり、海外派遣までされている。九条さえ変えなければ、それでいいということにはならない。さし当たっては、九条を変えようとする動きを阻止することが必要であることを前提にしたうえで、しかし、より根本的に、この憲法前文と九条の精神にまったく反する自衛隊をどのように解体し、日米安保条約をなくして、日米平和友好条約に変えさせてゆくのかという、原理の問題をたえず考え、結びつける努力が運動には必要だろう。砂川から遠くないところにある米軍横田基地は、ベトナム戦争でも、対アフガン、対イラク戦争でも、重要な役割を果し続けたのだから。砂川闘争から、私はその原理を学んだと思っている。日本の国際貢献とは、日本国憲法を実現し、非戦・非武装の独自の立場から、新しい国際秩序を作り出す努力をすることにある。
もう一つ、砂川闘争と関連して、学んだことを記しておきたい。このことはすでに『週刊金曜日』などにも書いたことがあるので、新しいことではないのだが……。
それは、デモなど、運動の効果に関することである。いくらデモを繰り返しても、署名や集会を重ねても、その政治的影響がなかなか見えず、たえず政治によって無視されてゆくように思えて、運動の効果が空しいように思えることがある。しかし、運動の効果というものは、いつでもそう即時的に目に見えるものではない。長い時間の後に、思いがけないところでそれに出会って目を開かされることもあるのだ。私はいくつか、そういう体験をしたが、その一つが砂川闘争と関係がある。
一九九八年冬、音楽家の喜納昌吉さんが主催する反戦運動の記者会見に出たときのことだ。その場には、アメリカからデニス・バンクスさんも参加していた。彼は、会員三〇万人、原住民への差別に強い抗議運動を続けている「AIM――アメリカ・インディアン運動」の設立者だ。
日本人記者から、いつからこのような運動に関心を持つようになったのかと質問されたバンクスさんはこう答えた。
「一九歳の時でした。駐留米軍の一兵士として立川基地に配属されていました。そのとき、砂川町の基地拡張反対運動が起こり、私のいたフェンスの目の前で、主婦や学生、労働者たちが機動隊と激突しました。殴られても蹴られてもひるまない主婦や学生、そして棍棒の下で頭を割られ、血を流しながら、なおも非暴力でお経を唱え続ける僧侶たち。
それを目にして、自分はここでいったい何をやっているのだろうか、と考えさせられました。それがきっかけで、軍隊や戦争、そして政治や差別の問題に関心を持つようになったのです。私をこのような道に進ませる契機は砂川町での日本人の非暴力の闘いでした……」。
記者会見には、婦人民主クラブの山口泰子さんもいたが、私も山口さんもそれを聞いて驚いた。二人とも、まさにそのフェンスの外で殴られていた中にいたのだったから。
砂川町での激突は一九五五〜六年の秋だったのだから、四〇年以上も前のことだ。デモの一つの結果は、こんな形で国境、人種、そして時代をこえて知らされたのだった。
連れ合いに死なれて、だいぶ気落ちしている私だが、それでも、「反戦原理主義者」として、できる限りの運動を続けてゆきたいと思っている。
(よしかわ・ゆういち、「市民の意見30の会・東京」)
(付)一九五六年の日記より
十月四日 (木) 曇
今日から砂川の強制測量、社会党の腰抜け戦術。遂に第一日目から杭が砂川の土地にうちこまれたという。調達庁長官の談話をラジオで聞いたが、彼らの意図はハッキリしているではないか。「全学連もいたことはいたが、しかしわれわれは社会党議員団と話し合って平穏裡に事を運ぼうとした」と!
社会党、彼らは砂川を実力で守る意志がない。もちろんわれわれも平穏を望む。いたずらに暴力を好みはしない。しかし必要とあらば、われわれは断乎として後へひかない。日曜の夜から砂川へ泊りこむことにした。
闘い! 日本の、祖国の土を守る闘い! 祖国の土地、この闘いの中から、祖国の実体、祖国の実質、それを掴みたい。
フランス人はフランスを愛し、フランスを護る。イタリア人はイタリアを愛しイタリアを護る。その闘いと祖国の間にはいささかも間隙がない。「フランスの進軍ラッパ」「神を信ずる者も信じない者も」、「無防備都市」……日本人はもちろん、僕らも日本を愛し日本を護る。ところで、この間隙、この寂寞、この疲労、誰の顔にも浮ぶ、あの黄色い嘘偽は何かで、これを埋めること、嘘偽を追放すること。砂川の闘い。祖国の土地を守る闘い。泊り込み。僕の存在の投入。一致するか?
馬車馬の眼隠しをはずすことが、どうして腐敗なんだ? 武藤の馬鹿め! 僕は今、食欲があるんだ。何でも食う。それが腐敗か? もちろん腐ったものも食うかも知らん。少しは腹が痛くなるかも知らん。しかし僕は腐らない。あゝ、たゞ、どうしても今の仕事にはあんまり食欲がないんだ。
十月十四日(日) 晴
砂川へ丁度一週間泊りこんだ。今のニュースでは明日からの測量は中止になったという。
砂川の町はきれいだ。真直ぐに走る白い往還――これが五日市街道である。立川からのバスが七番で左に折れ、この街道を走るとすぐ右手には少し白く濁った小川が野菜の切れ端を浮べて急ぎ足に流れている。両側の藁葺き屋根を実直ぐにのびたけやきの大木の葉がやわらかくやさしく包んでいる。道の左右に所々立並ぶ「OFF
LIMITS 警官隊・測量隊立入禁止」とか「心に杭は打たれない」といった立板がなければ、そして、あゝ、あのすさまじいグローブマスターやジェット機の轟音さえなければ、何の変ったところもない普通の武蔵野の特徴をもった一農村なのだ。
夜、飛び立つ飛行機の騒音も途絶え、小川のせゝらぎと虫の音だけになった砂川町は、静けさそのものだ。
ところが、その夜の砂川町も、一度道を左に折れて数丁畠の中の間道を歩けば、突然日本の現実につき当ることになる。地平線一帯に、向うの丘陵の麓まで、一画光の海である。その光に照らされて銀色にジェット機、輸送機、双胴の爆撃機が並んでいるのが目に入る。その間に赤、青の標識燈が明滅し、探照燈が二本の光菅を放っている。一本は垂直に登って夜空の雲を射抜き、一本は水平にのびて円形を描いて廻る。その不気味な明るさは悪魔の住む城を思わせ、その怪異な動きは触手をうごめかす巨大なアミーバを聯想させる。エンジンの試動の爆音だけが、その渦の中から地鳴りの如くひびいてくる。
TACHIKAWA・AIR・BASE!
昼は耳をつんざくばかりに空気を振動させ、基地の鉄条網すれすれに飛行機がとびたち、人々の頭上をかすめ、五日市街道のけやきの小枝をざわざわとゆすぶってゆく。青色の鉄かぶとをかぶり、自動小銃を肩にかけた米兵が柵のうち側からそれを見守っている。
今、その滑走路を、原爆搭載用ジェット爆撃機が飛び立てるようにするため、多くの民家と畠を奪いとろうとするのだ。「私達ァね、何も自分の生活だとか土地だとか、そんなものが惜しくて反対してるんじゃないですだ。こゝが原爆基地になるちゅうことが一番の問題でさァね」ある農民の婦人はこう話してくれた。
十二日は雨こそ降っていなかったが三番ゲート前の泥濘の道で僕らと警官隊が衝突した。無抵抗でたゞスクラムを組んでいた僕らに腕をねぢ上げ、靴で蹴り胸を突くの暴行を加える。僕の上衣はひきさかれ、下半分がちぎれ飛んだ。あゝ、前日の晩、遅くまでかゝつてこしらえ上げ、雨中の立哨の時も手にして覚えていた中国語の単語帖がポケットと一緒に泥水の中にふみにじられた。向うずねは蹴られた時のすり傷が赤くはれて残った。
でも僕らは勇敢だった。もちろん労働者の中にも立派な人はいた。しかし、幹部の悪質な裏切り、サボタージュで彼らの戦意は極度に喪失され、闘いのエネルギーの能率はわるかった。全学連と僕ら平和委員会の部隊は不屈そのものだった。なぐられ、けられ、突かれ、倒されても、尚スクラムの中へとぴこんだ。警官のけだもののような壁を二回くぐつて三度目に隊列の最前線に立った時、警官隊は引揚げた。涙がポロポロとこぼれた。どこかの映画社がそんな僕をニュースに撮っていたようだった。泥にまみれた顔を、闘いの間中離さなかったハンカチ、祐子(※注1)からもらったハンカチでふいたら、祐子の匂いがした。ハンカチにそっと接吻をしたらまた涙が出て来た。
十三日、この日は物凄かった。朝から予想はしていたものの、雨の中の大乱閲となった。この日の警官隊は乱闘服に青鉄兜、棍棒。スクラムを組んで警官隊とぶつかる。もちろん僕らは何ももっていない。左胸のポケットにはあのハンカチが二つ。右の胸のポケットには祐子の写真の入った革の定期入。それだけが彼らの棍棒の突き上げを防ぐ武器だ。目茶苦茶に棍棒で突きあげる。軍手をはめた拳が服といわず口といわずなぐりとばす。スクラムはちぎられ、隣の同志が横倒しに倒れる。だき起す暇もない。あっという間に胃のあたりを蹴られて前のめりになった。痛かった。ウッという叫び声をあげたと思う。後から来た同志がだいてくれたが、もう警官隊の人垣の中に放り込まれていて、二人だけがかたまってきりきり舞いをする。一体僕一人に何人の警官が襲いかかったのだろう? 足、脚、腰、胸、背、肩、頭、顔、一斉に拳と棍棒の雨が降って、眼もあけられない。倒れそうになって右側の警官にぶつかると「何だ貴様、抵抗するか!」とばかりに突きとばす。突きとばされて左の警官にぶつかると「まだ来るか!」と蹴上げる。警官隊の一団からようやくはいだした時は完全に参っている。畜生! 看護隊の女子学生が大丈夫ですかとかけよってくれるが、そういわれると意地でもいや大丈夫、何でもありませんと答えてしまう。再び後へ廻って隊列に入るが数は少い。都労連はだらしない。お義理に一回警官隊にぶつかるともうバラバラに崩れてお終いだ。全学連と僕らの隊、国鉄、私鉄、金属の各労組がよく頑張る。二度目に栗原さん宅付近で衝突した時は負傷者が続出した。眼から血をふく者、唇が裂けた者、顔が紫色にはれ上った者、頭を割られる者、……「救急車です、通して下さい、重傷者が乗っています」スピーカーが鳴っても警官隊は道をあけない。数十分の乱闘の間、救急車はそこに立止ってしまう。
闘い半ばで、指揮系統が崩れた。僕らがそれにとって代る。しかしもう遅い。全学連と僕らだけの僅かの部隊では圧倒的に多い警官隊を破るわけにはいかない。労組は完全に戦意を失っている。またしてもダラ幹の裏切り!
測量のポールは立てられ、巻尺の線がふみつぶされた藷畠の上をのびてゆく。もう今日は涙も出ない。全身に痛みを感じながら、スクラムを組んで雨中に歌をうたって立っていた。雨が身体までしみ通って背中を流れた。「祐子、僕は二人分以上働いたよ。だけど、今日は勝てなかったよ。」僕らは最後に勝つまでは、いつも負けているものなんだね。僕は杉浦民平の言葉を思いだしていた。
今日、十四日はビックリした。各単産団体代表者会議から帰って阿豆佐味天神社へ戻ったら鳥居の脇に親父(※注2)と祐子がいるではないか! 心配でやってき
たという。祐子は夕べは殆ど眠れなかったと。赤旗、組合旗がなびき、革命歌がどよめく阿豆佐味天神社の境内にいた祐子は、「あーあ、こゝにずっといたい」とため息をついていた。火焔瓶を投げに帰ってきた(※注3)つもりだったという彼女。健康さえ許せばだ。早く丈夫になり給え。そう怒りたまうな。
山六老(※注4) にあった。関西地方議員団の帯を肩からかけている。「山六さん、八・六が終ってから俺少しわけがわからなくなっちゃったんだ。それで砂川へやってくれって頼んで来たんだけど、事務所にいるよりずっと元気がでるね」 こういう僕に、老人は大きくうなずいて「そうだ、そうだ。人に会い、人が何を考えているかがわかる。日本人の考えていることが判るだろう。それがいちばん大切だ」といった。
昨日のクラス会はとうとういけなかった。何年皆と会わないだろう。小林先生、幸田、加藤、佐藤、石川、大平、明石……、その日の昼まで行くつもりだったけれど、二時頃から始まった乱闘ではぬけるどころではない。血しぶきの隊伍の中で、僕は小学校の親友にあやまっていた。ごめんよ。その次の時にはきっと行くから。
十月十六日 (火) 快晴
真青な空に薄く浮ぶ雲。五日市街道に立ってまだ痛む腰をうんとこさと思いきり伸ばしてのびをすると、深い青空が目にしみる。
「あーあ、ほんとにこういうのを秋晴れ、日本晴れって云うんだろうなァ」
今日の砂川を歩く人々の顔は生気に満ち溢れている。自転車に乗ってくる人の腕章だけはまだよれよれのものでも、そのワイシャツは白く洗ってある。街道にはためく組合旗もすっかり泥を落されており、小川では全学連の学生が農家から借りていたリヤカーを秋の日射しを背に一ばい受けながら鼻歌をうたいつゝたわしでこすっている。そのうしろを毛布やかっばを肩にかついで砂川からそれぞれの自宅にもどる人々が「ごくろうさん、お先きに帰ります」と声をかけて通る。バスの中からも「さよならー、ごくろうさんでしたー」という声がかけられる。
街道一ばい、町一ばいに、測量は自分達の力で阻止させたんだ、闘いは勝利したんだという意気がみなぎり、太陽の下でピチビチとはねかえっているようだ。
宿舎の近隣の人々、地元反対同盟、団結小屋、全学連、炊事を担当してくれた婦団連の小母さんたち、町役場と宮崎町長、青木行動隊長……お世話になった人々にお別れの挨拶とお礼をして十日間の闘争のこの町を離れる。泥だらけの作業衣を脱いで背広に着換えたら、かえって本当の姿でないような妙な気さえしたのだった。
(当時の記述のままだが、「水直」→「垂直」など明瞭な誤字を一部訂正したり、「斗争」といった表記を「闘争」になおしたりした。)
※注1 この二年後、一九五八年に祐子と結婚。祐子は二〇〇五年六月、七十四歳で死去しました。
※注2 父は十年ほど前に死去いたしました。
※注3 祐子は中国・大連で幼少時を過ごし、一家は八路軍に徴用されて解放戦争に組み込まれ、戦後の北京大学に日本人として初めて入学、一九五三年に帰国しました。
※注4 山六老=元日本共産党関西地方委員会幹部の故山田六左衛門さん。
(星紀市編 『砂川闘争50年 それぞれの思い』2005.10.けやき出版 210〜218ページ)