news-button.gif (992 バイト) 64  もっと自由な議論を! ( 月刊 『自然と人間』 2005. 04.) (04/05/05搭載

 
もっと自由な議論を! ――ベ平連からイラク反戦へ――
                                 吉 川 勇 一

よしかわ ゆういち 1931年、東京生まれ。市民運動家。べ平連では74年の解散まで事務局長役を務めた。予備校教師などをしながら、80年には作家の小田実と「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)を、88年には「市民の意見30の会」をつくるなど、一貫して市民運動で活躍してきた。

ベ平連という名前を知っている人は若い世代にも多いだろう。正式な名前は「ベトナムに平和を!市民連合」。アメリカによるベトナム侵略に反対した人びとによる、それまでの枠組みにとらわれない新しいタイプの市民運動として、60年代から70年代にかけて大きな支持を得た。このべ平連の立役者だった吉川勇一さんに、今の平和運動について話を聞いた。

 ――インターネットが普及したことで、運動の質は変わりましたか?
 情報の量という面では、情報源は増えたし、メールは早いし安いし、実に便利になりましたよね。私がべ平連を始めたころは電話すら持っていなかったんですから(笑)。
 もちろん、メールをしないアナログ派の人々だって大量にいるわけですから、そういう人々を無視するような進め方はいけないと思いますし、それに、インターネットでは議論が成立しにくい面がありますよね。相手の表情が見えないからなんでしょうか。
 運動のなかの議論とは、お互いの違いがどこにあるのかを明確にしつつ、どこで一致できるかを相互了解していく過程だと思うんですが、インターネットだと、議論がむしろ分裂を促進する道具みたいになっちやうんですよねぇ。一方では、運動で議論など無用だという意見もあります。新宿の赤提灯で飲みながら議論したって意味なんかないじゃないか、と。しかしそれは不幸な議諭しか体験していないからじやないかと思います。議論したって対立も分裂も招かない例はいくらでもあるはずですし、少なくともべ平連はそうでした。
 べ平連では激しい議論をしょっちゅうやっていました。それでも分裂はしなかった。その基盤には、これからの世の中についての大きな展望を共有できていたということや、お互いの人間としての信頼関係もありましたよね。
――もっと議論しようと吉川さんは呼びかけ、実践されていますね。
 まだまだ議論が少ないですよね。むしろ議論することを避けているようなところがあります。講演会ぐらいでお茶を濁すのではなく、運動を担っている人々のあいだで、もっと詰めた議論をしていかないといけないと思いますね。
 共闘の原則の問題や、警察などの権力側との関係のこと、そして憲法の問題でいったって、もっと議論しなければいけないことがあるはずです。
 たとえば、最近の運動のなかで強調される「非暴力」という点についても議論があります。つまり、非暴力とは無抵抗とイコールではないわけです。そこが混同されているのではないでしょうか。非暴力であっても実力で抵抗することはありえるわけです。私は「非暴力直接行動、市民的不服従」と言っています。
 私たちは公文書偽造をしたことがありますよ(笑)。ベトナム戦争の時代、脱走した米兵を海外に送り出す活動にべ平連は取り組みました。それで最後はパスポートの偽造までしたんですね。出入国のハンコまで偽造して、羽田空港からパリヘ飛んだ脱走兵が何人もいます。偽造の技術をヨーロッパの対ナチレジスタンスをやったグループが知っているというので、メンバーが一人パリヘ飛び、その技術を半年かけて習得したんです。メモを一切取れないから、すべて頭と手で覚えてくる。市民運動だってそこまでやれるんです。
ーーすごいですね(笑)。今は弾圧が激し  くなっていますが、べ平連の時代はどうでしたか?
 弾圧があったときは、向こう側の意図がどこにあるのかを見ることです。
 かつても警察によるひどい弾圧はありました。べ平連でも数十人の逮捕者が出たことは何度もありました。これに弁護士をつけて差し入れをして…、大変でしたねえ。
 べ平連では「ほびっと弾圧事件」という弾圧がありました。
 その頃、アメリカに反戦喫茶運動というのがありました。軍事基地の前にスナ ックを開くんです。反戦兵士のたまり場にして、反軍闘争の拠点にするわけですね。日本でもべ平連が山口県の岩国と青森県の三沢に作ったんですよ。岩国に作ったのが「ほびっと」という喫茶店です。
 いきなり家宅捜索を受けたんですが、すべての主要新聞が社会面トップで報じましたね。たとえば『毎日』が「米軍ライフルが赤軍派に?」と報じれば、『サンケイ』は「赤色工作隊を手入れ、日本人ゲリラ送り出しの秘密軍団?」などと見出しをつける。岩国基地からべ平連に武器が流出し、それが赤軍にわたって、さらにそれがパレスチナで武装闘争をしているグループにわたったという筋書きですが、もちろんすべてがデッチアゲです。
 結局、起訴すらされませんでしたが、この筋書きを作ったのはアメリカの国務省あるいはCIAだということが後にわかりました。しかし、マスコミがあのように報じたことで、権力側としては目的はほぼ達成しているわけですね。
 日本政府や米軍、自衛隊の幹部などの意図がどうなのか。そういうシナリオが今も存在しているかもしれないですし、立川や葛飾のビラ撒き弾圧も、それに基づいた動きかもしれませんよ。
――かつてのような人数の集会やデモを開くことは今は難しくなっています。どうしてでしょう?
 私は冗談で、「私たちの頭が悪かったからだ」と言うんですが(笑)。実際、今のような状況、特に湾岸戦争〜9・11以降の激変は誰も予測できなかったと思うんです。自衛隊が海外の戦地に行って、日の丸の旗を立てて走り回るなんてことが、こんなに早く現実化するとは、少なくとも私は予想できませんでした。
 こうなった契機としては社会党と総評の解体、そして、小選挙区制の問題がありますよね。民衆の側の少数意見が国会にまったく反映できないような仕組みができてしまった。
 この背景には、マスコミと政府による二大政党制キャンペーンがありました。二大政党であれば何でも良くなるかのようなことを、恥も外聞もなくマスコミがキャンペーンした。まるで少数意見なんか存在しないかのように。
 市民運動の側から考えると、60年代から90年代にかけては、国会に社・共で3分の1以上の護憲派がいて、国会の外にも総評があり、市民運動にもそれなりの結集力があったわけです。
 この時代の市民運動は、大勢力である社・共や総評などの既成勢力の硬直したありように批判的な人々を結集して、自由で自立的な運動を展開しつつ、それに対してもっと左の位置から批判的な意見を出すという、あえて言えば「補完的役割」だったのですね。
 批判の対象そのものがなくなってしまうというような事態に備え、それに対応できる主体的な力量を、市民運動も、また新左翼勢力も持ち得なかったのです。だから私たちの頭が悪かったんです(笑)。
――時間的制約その他を考えないとするなら、吉川さんはどのような運動を作りたいですか?
 政治の中心に対する運動と、生活地域の運動との連動ですよね。
 今もかかわっているんですが、地域のミニコミに意見広告を出してみたり。私たちが運動で取り組んでいる全国紙の広告とは比べものにならないほど安いんですよ(笑)。私たち夫婦の名前も出ていますけど、隣人の名前が出ていると受け取る側の見方も違いますよね。
 そういう地域の運動と、政治の中心に向かう運動が有機的に結びつき、連動するような運動を全国で強くしたいですね。
 地域と離れた「中央」で仮に5万人のデモができても、その5万人が家に帰ってからテレビを見て眠るだけでは、世のなかは変わらないと思いますよ。
 べ平連をやっていたときにそのことを痛感したんで、以後は両方やろうと決めたんです。都心でばかり運動していて、近所の人の顔も知りませんでしたからね。
 でも、これはもう僕らの問題ではなくて、若い人々の課題です。若い人たちに託すしかないですね。
――それでは、これから運動に参加するかもしれない若い人々に一言。
 とにかく、思っていることをどんどん表現していってほしいですね。
 やっぱり表現されないものはオピニオンとして存在していないのと同じなんすよ。その表現の方法は、なにもデモ行進じゃなくたっていいんです。近くの駅でメッセージボードを持って立つだけでもいいし、たとえば私たちが取り組んでいるのは新聞への意見広告です。
 意見を顕在化させていく多様な手段を考えながら、その歩みに加わってほしいですね。いろんな方法がありますよ。

 (月刊 『自然と人間』 2005年4月号).