62 石井武さんのこと ( 『石井武の生涯』 七つ森書館 2004.07.) (04/07/29搭載)
「News」欄の昨年No.87でお知らせしましたように、2003年7月8日、三里塚空港反対同盟の中心的活動家だった石井武さん(78歳)が亡くなられました。今年、1周忌に、七つ森書館から石井さんの遺稿や講演、対談、インタビューなどを集め、それに追悼文や、ご家族の記録などを載せた『石井武の生涯』(\2,000+税)が刊行されました。以下は、それに載せた私の文章です。
石井武さんのこと
吉川勇一(市民の意見30の会・東京、元「ベ平連」)
一昨年、ベトナム、ホーチミン市の戦争証跡博物館に、日本の反戦市民運動の資料をとどける運動で、私は、かつてのベトナム反戦の運動仲間たちと、2度もベトナムを訪問した。2度目のときは、山口幸夫さん、裕衣さん親子と一緒だったが、三人は、羽田からわざわざ関西空港まで行って、そこから国外に出た。帰りも関西空港経由だった。三人とも、三里塚空港を使わないことにしているためだった。三里塚空港反対へのこだわりは強い。
私も、三里塚のデモにはよく行ったし、前田俊彦さんの瓢鰻亭にもよく通ったほうだと思うが、反対同盟自体の催し物、たとえば旗開きや夏祭り、忘年会、あるいは共同の農作業などには、他の方がたほどは参加していなかった。それで、反対同盟の主要なメンバーの人たちとの個人的なお付き合いの度合いは、あまり深くなかったように思う。幹部の方の家を訪問することはよくあっても、それは福富節男さんや渡辺勉さん、あるいは故高木仁三郎さんなどと並んで、東京の市民運動グループとしての申し入れや相談といった、なかば運動の「公的」な場のような機会だったから、あまり私的なお付き合いではなかった。
石井武さんとのお付き合いも、残念ならがそういったレベルのものにとどまった。それで、おそらく、他の寄稿者の方々が語られるであろうような、石井さんに関係するエピソードなどはご紹介できず、運動の中で接した一般的な印象をつづるということになる。
三里塚闘争にかかわった人びとの中には、反対同盟の故戸村一作さんを始め、個性的な方がたが非常に多い。支援者のほうでも、先に触れた前田俊彦さんをはじめ、やはり、そうした人びとは多くいる。だが、そういう中にあって、石井武さんは、表面的には、目だって個性的というのではない、むしろ、控えめな存在だったという印象が私には強い。しかし、それは闘争の中での石井さんの役割が小さかったというようなことでは決してない。逆であった。一言で言えば、非常な安定感を持った拠り所といった存在だったと思う。
最初から自分の意見を強く主張するのではなく、大方の意見が出揃い、しかもなかなか決着がつきそうもないようなとき、石井さんがようやく口を開くと、それはまさに、最初から結論はそれしかなかったな、と誰もが思ってしまうような、実に妥当な意見がのべられ、そして、石井さんの提案でまとまったということで、全員が安心できる、そういった、反対同盟と運動全体の中で、誰もが頼れる標準点、基準点のようなかけがえのない活動家だったと思うのだ。
運動が困難な局面に遭遇して、いささか元気がなくなりかかったときなどに、石井さんから毅然とした意見や見通しが語られると、空気は変わり、もう一度やってみるか、という気分が生まれてくる、そういう活性剤のような人でもあったと思う。
亡くなられてみると、かけがえのない人であったという思いは、ますます心を離れない。残念です。