news-button.gif (992 バイト) 50 ベトナムからイラクへ――平和運動の経験と思想の継承をめぐって ( 『現代思想』 2003年6月号)      (2003/06/17搭載) 

ベトナムからイラクへ 平和運動の経験と思想の継承をめぐって

吉川勇一/道場親信(聞き手)

道場 今度『現代思想』で反戦を特集するのですが、もちろん今回イラク反戦があってのことです。それぞれの時代にそれぞれの運動があり、それぞれ固有の文脈に即して考えていくことはもちろんのことですが、長年問われつづけている普遍的といってよい問題もあると思います。今回のイラク反戦運動の大きな盛り上がりの中で、この経験をさらにどのようにつないでいくか、より創意工夫を互いにつくってゆけるか、ということが問われていると思います。
 吉川さんは以前『市民運動の宿題』というタイトルの本を出されています。運動の宿題はいろいろとあると思いますが、もう少し長いスパンで、今回の経験、そして以前からの様々な反戦運動の経験をつなげ、対話の場をつくっていきたいということで、吉川さんにインタビューをお願いしました。吉川さんは九九年に「失敗や不成功も含めて経験を伝える場所を創りたい」という文章を書かれていますが、そういう場をいろいろつくっていくことがこれから大事だと思うんです。運動というものは、当然のことながら動いてみないとわからないことが多くて、それぞれが自分はこうだということを出し合っていくことが大事だと思うんです。
 まずは、経験を伝える場を創りたいと思われた動機と、今の事態で経験の継承ということをどうお考えになるかということから始めていきたいと思います。

吉川 私たちがベトナム反戦運動の中でこれという答えが見出せずに、今後の世代に期待したいとした問題は、いくつもありました。内ゲバをついに阻止できなかったこととか、運動の実務を担当する部分と一般の参加者との有機的な連携の問題とか、情報の集中する「中央」(東京)とそれぞれの地域との関係、あるいは、市民運動は「シングル・イッシュウ(個別課題の運動)の運動」であるべきなのか否か、などなどです。その後の運動の展開の中で、事実として解決され、卒業させられたこともいくつかありますし、依然として残されている宿題もあると思います。
 運動をしていく中で、経験の中で自然と体得され、解決されてゆくものはたくさんあるはずですし、また、かつての経験がそのまま今も通用するとは限らないでしょうが、ただ、かつての運動の失敗をもう一度繰り返して学ぶのではなく、賢明に避けるのが望ましいわけで、運動の継承ということは大事だと思っています。

 ベトナム反戦とイラク反戦との対比

吉川 かつてのベトナム反戦運動と現在のイラク反戦の運動とを比べる試みはこれからもいろいろ行われるでしょうが、そこで際立っている違いといえば、ベトナム反戦運動が大きく展開されるのは、戦争が始まってから十数年もたって大規模な北爆が開始(六五年二月)されてからだったのに対し、イラク戦争の場合は、戦争が始まる半年も前から全世界で数十万、数百万という大規模な反戦運動が行われてきたということでしょう。実際に開戦を阻止することはできなかったものの、戦争が始まる前からこれだけの人びとが動くということは前例のないすごいことだと思いますし、それは「力こそ正義」「われこそが至高の善の体現者」というアメリカの主張を孤立させる潮流を作り出しました。ベトナム反戦とはまったく違った始まり方をしています。
 六〇年安保闘争までは大規模な運動というのは、社会党・共産党といった野党勢力や、総評・中立労連といった大労組が中心になり、「動員」や「資金」も担うのが前提となっていましたし、六〇年代後半のベトナム反戦市民運動にしても、最初は一般の市民の集まりといいながらも、学者、作家、芸術家といった著名知識人がよびかけ、こんな人たちが呼びかけてんだからいいんじゃないのと、一般の人びとがと出てくるということでした。しかし今回は全然そうではない。社会党も総評もすでになく、「動員」の中心になる既成の勢力は存在していませんでした。辺見庸、池澤夏樹、あるいは坂本龍一といった著名人も反戦を強く叫びましたが、彼らが呼びかけたから集まる、というんじゃないですね。実際彼らの運動への関わり方も、ベトナム反戦のときの鶴見俊輔、小田実、開高健などとは違い、運動の中心のどろどろの場には身をおいていませんしね。
 ベトナム戦争時に五万、六万の大きなデモが行なわれたといっても、最初のうちは呼びかけは著名人の連名の形をとりましたし、それに全国からバスを仕立てて東京に集まってくる、つまり全国動員でした。ですが、今はそれぞれの地域で自発的な行動がどんどん始まっている。都道府県単位ですらなく、東京で言えば、世田谷で、三鷹で、西東京で、立川でという単位で人びとはすぐ動くわけですね。全国の各地で何十という集会が一斉に行なわれる。こうした傾向は、すでに湾岸戦争に反対する行動のころから目立ってきました。著名人が呼びかけ、一般の人びとがそれに応ずるという関係は、すでに運動の中で乗り越えられています。
 ベトナム反戦の初期は、誰かが行動の段取りを用意しないと、そういうことは普通の市民にはできないことだというような考え方が強かった。警察へのデモ届けなんて難しいことは、慣れている人がやって下さい、という気分ですよね。だけど、生まれた時からデモ届けに慣れた人なんていないわけでね。誰だって、初めてやるということがあるんですよ。
 今では、デモ届けを出し、チラシやプラカードやスピーカーを用意しということが、各地域ごとに、自発的に行われてゆく。その経験の広がり方は、かつてとは比べ物にならないほどです。そういう意味では、継承などと意識はされていないでしょうか、事実として継承され、広がっているという面もずいぶん多くあるでしょう。

六〇年安保からベトナム反戦への継承


吉川 しかし残されている問題や新しく生じてきている問題もあります。
 ベトナム戦争の時はその五年前に六〇年安保闘争というものがあるわけですね。原水爆禁止運動と並んで、戦後前半期における最大の大衆闘争です。その経験は多くがベトナム反戦運動に継承されたんですよ。というのは、安保闘争に参加したほとんどの人が、ベトナム反戦に参加していきます。例えば安保の時の「声なき声の会」の小林トミ、高畠通敏、鶴見俊輔といったひとたちは、そっくりベ平連に参加しており、六〇年安保の市民運動のやったこと、工夫したことが引き継がれました。
 それに、ベトナム反戦運動では、そこに参加していた知識人の影響力が非常に大きくありました。一番大きかったものの一つは小田実の「加害者/被害者論」です。他に国家から個人を切り離すという提起もありますね。もう一つは鶴見俊輔の「市民的不服従」の思想です。
 さきほど、運動の初期は、著名人が呼びかけ、一般市民が応ずるという関係があったといいましたが、しかし運動が展開されてゆく中に、著名人や知識人の権威への依存や従属があったわけではない。偉い小田さんが言ったからとか哲学者の鶴見さんが言ったからということはなくて、そういう人びとを含めて、平等に議論できたですね。偉いさんのお話を伺って勉強になりました、といって後は何もしないというんじゃなくて、平等な議論の場があって、若者たちも結構勝手なことを言っていました。
 そういう中で、知識人のもつ社会意識や歴史意識がかなり共有されていきましたし、六〇年安保までの運動の経験も継承されていったと思います。

今、なくなった議論の場

吉川 ところが今、こうした議論がなくなってしまった。もう一〇年以上も前からのことですが、若い人びとの間で「やさしさ」が最高の価値基準になってしまったせいでしょうか、他人の意見に介入して議論するということがない、「お互いにそこは違うんだよね」で終わっちゃう。それを相手の立場の尊重と勘違いしている。全共闘時代の、「お前何だよ、そこを展開してみろよ!」といった議論のふっかけ方がすべていいとはいいませんが、もうちょっと議論があってもいいと思います。若者にかぎりませんね。社会全体がそうであって、新聞記者も編集者も議論しない。当時は飲み屋なんかであっちでもこってでも喧々諤々とやっていた。活動家と新聞記者でもやった。それは、問題意識が共有されていたからできたんですね。どちらも、そこから学ぶことがあったんです。

道場 記者が運動につきあわなくなりましたね。

吉川 何も知らないしね。常識もない。今の記者たちは、サラリーマンとして言われた仕事をこなすために、ただ取材してるだけ、というのが大部分。一番肝心なところが伝わらない。 

 「教える」のではない伝え方の問題

吉川 先日、ある雑誌に『〈民主〉と〈愛国〉』の書評を書いた(『運動経験』03年冬号)ところから、著者の小熊英二さんと何度かメールや手紙のやりとりをすることがあったのですが、小熊さんは、ベ平連の経験が伝わることが今必要だ、授業で取り上げたところ、小熊さんの本でベ平連のことを知った学生が、こんなに面白かったのか、わくわくすると言ったというんです。つまり単なる歴史上のこととして年表のように勉強させられると、そこに参加していた人の生の息吹までは伝わってこない。そして、昔の運動は暗かった、というイメージだけしか持てないということになる。だけど、べ平連の具体的な話をすると、そんなに面白いことがあったのとなるらしいんです。小熊さんは、ベ平連の参加者の体験が、生の声として伝わるよう、ホームページの上などに載せてみたら、と提言されてきました。ただし、その際、「教えてやる」という姿勢はいけない、教えるんではなくて伝わるようにしなければ、というんです。彼らのプラスになるようなものとして提供していく、そういう場所もつくる、そして平等に議論できる場を用意することが大事なんですね。
 去年の一二月八日に道場さんにも出ていただいてベトナム反戦からイラクまでをつなぐシンポジウムをやりましたね。その記録はパンフレットにもなっていますが
(『殺すな! ――ベトナム・アフガン・パレスチナ・イラク……と私たち』)、あれはよかった。しかし惜しむらくはそこにイラク反戦のデモに出てきているような若い人たちはほとんど参加していなかった。若い人びとを含めたああいう集会が今後開けないものか。経験の継承にとって大事なことですね。

五〇年代運動とベトナム反戦とのつながり

吉川 先ほどいいましたように、ベトナム反戦運動へは六〇年安保までの運動経験の継承がわりと無理なく行われたんです。べ平連の要素は、一つは鶴見俊輔、小林トミ、高畠通敏、鶴見良行といった「声なき声の会」、「思想の科学」系統の人びと、もう一つは小田実や開高健ら作家や芸術家たち、谷川俊太郎とか粟津潔、横尾忠則といったかなり広範な文化の最前線の知識人がいて、さらに第三の要素として共産党離党者や除名組、いいだもも、栗原幸夫、武藤一羊とかがいた。その三つが融合してベ平連の核をつくっていくから、それ以前の運動との断絶がないんですね。運動としては、それまでにはなかった新しいものを創りだしたいという意気込みはあったし、事実、それまでとは違った運動が展開されるんですが、しかし経験の断絶はないんですね。
 日高六郎編の『5月19日』という本があります
(岩波新書)。この中に、六〇年安保闘争に参加した市民の意識もよく紹介されていますが、そこで荒瀬豊がまとめている章の中に、子どもをデモに連れてゆくかどうかの判断をめぐる声なき声の会のある父親の例をのべた鶴見和子の文をひきながら、「そこにはすでに、すべての組織者に要求される義務が、きびしく問いつめられ、実行されている。参加者が同時に指導者としての義務を感じ、指導者なき集団にやがて到達する芽が、ここにはあった」という記述がある(208〜209ページ)
「参加者が同時に指導者としての義務を感じる」というのは、運動のありかたとして最高の理想で、それが達せられたわけではないのですが、しかしこの精神は、ベトナム反戦運動に持ち込まれ、追求されてゆくことになったと思います。

 継承のされ方と新たなものの創造

吉川 さっき、六〇年安保までは、大規模な「国民運動」といわれるような行動は、社・共・総評といった大組織が中心だった、と言いました。私は、原水協や、六〇年闘争のいわゆる「安保共闘」にも関わりましたが、そこでは、一般の人びとの思いなどとは無縁な、大組織間のかけひき、取引きに精力が注がれました。そもそも、運動の中の勢力としては非常に大きく、無視しえなかった共産党が、安保共闘の中では、終始オブザーバーという地位しか与えられていなかったということ自体がとても不自然でしたよね。しかし、大集会の呼びかけ人を決めようというようなことになると、社会党系、共産党系の文化人のランクや数が問題になり、その「オブザーバー」を相手に、こっちはこれを外すから、そっちもこれを削れ、といったような取引きが行われるのです。著名人も大衆団体もまさに将棋の駒みたいでした。
 ですから、ベトナム反戦の中で、諸グループの共同行動が用意されるときには、市民運動としては、そういうことだけは決して持ち込ませないようにしよう、という努力がなされたのです。六八年六月一五日の共同行動では、共産党系の文化団体連絡会議
(文団連)やリアリズム写真集団などからは、「反共団体」である新日本文学会を排除したいという主張が強く出され、その見返りに民主主義文学同盟も下げてもよい、などという、今ではあきれ返るような取引き提案も出されたんです。結局、その問題をめぐって、文団連系の団体は、共同行動から去ってゆくのですが、そのあと、参加団体の間では、参加グループの自主性の尊重や、批判は自由だが、誹謗中傷はしないというような、重要な共同行動の原則が生み出され、その後の大規模な運動に大きな影響を与えてゆくことになります。
 とくに、各グループが、自分の責任で選択する行動形態の自主性は尊重する、しかし同時に、各グループ、個人の意に反して、特定の行動形態を強要したり、他のグループの行動に介入妨害したりしない、という原則は、重要だったと思います。これは、自分たちのとる行動が、その運動全体の中で、どういう位置を占め、それが他の参加者にどんな影響を与えるかを十分に配慮して自分の行動を選択してゆくということであり、全体の中で自分を相対化して考えることを求めるものです。言うことは容易ですが、これはかなりレベルの高い運動倫理だといえるでしょう。ある意味では、さっき言った六〇年安保での「参加者が同時に指導者としての義務を感ずる」ということにつながるものでしょう。
 今度のイラク反戦のデモなどを見ていると、必ずしもそこはうまくつながっていないという感じがある。
 団塊の世代といわれている人たちは、当時は大いに参加した筈なんですが、層としては今そこが抜けている。非常に若い人とかなり年配の人、という感じでそこをつなぐ世代の人はどうしちゃったのですかね。かつてのベ平連時代の若者たち、今五〇代の半ばの人びとでは、個人情報保護法案反対運動での吉岡忍、有事法制反対での井上澄夫、あるいは横田、横須賀など基地周辺での市民運動や、浦和、福岡、金沢など地域の市民運動で活発に動いている人たちがいますが、元全共闘の中心的活動家では反天皇制運動の天野恵一を別にすると少ないですね。

道場 全共闘の下もしばらくいない感じがありますけど。

吉川 そうですね。そこがきれていることが、運動の継承をかなり難しくしている要因の一つですね。
 さっきのべた共同行動の原理については、数学者の福富節男さんが、『デモと自由と好奇心と』
(第三書館)という本の中で経過を含めて詳しく詳しく紹介しています。いまのイラク反戦の中心にいる若い人びとにぜひ読んでほしいと希望しますね。
 念のためにいっておきますが、継承と創造ということで今話したのは、主として運動の組織論的な部分のことで、六〇年安保での大衆運動と六〇年代後半以降のベトナム反戦運動での質的相違点は、それにとどまりません。六〇年安保では戦争の危機から守ろうとした日常生活そのものが、侵略の枠組みに入っていることを認識し、それ自体を変革の対象としてゆこうという運動となってゆく点は、決定的な分岐点だったでしょう。

朝鮮戦争時の反戦運動

道場 ところで、六〇年安保の十年前には朝鮮戦争があったわけですが、そのときの反戦運動というのはどういうものだったんでしょうか。

吉川 そのころ僕は一九か二十歳だったのですよ。その時代に共産党に入党するんですけどね。当時どう思っていたのか、あまりはっきり覚えているわけではないので、古い日記を引っぱり出して見てみました。といっても、つけているのは五四年からで朝鮮戦争が終わってからですが、当時の雰囲気はわかるでしょう。五四年というと、ビキニの水爆実験が三月で、朝鮮戦争停戦が前の年の七月にあったわけです。
 何十年ぶりかでこれを読み返して思うのは、表現が非常に民族主義的ですね。「我らが国土を外靴に踏みにじらせてよいものか」とか、非常に感情的な表現で民族主義的です。日本や中国の共産党の方針の影響は当然あるでしょう。当時の共産党の方針全体が「民族独立」で、「社会主義革命」じゃなくて「民主民族革命」だったですから。でも、その頃の記述には、「共産党はこういってるけど、そうは思わない」なんていう表現はぜんぜんないんですよ(笑)。「反戦平和」ではあります。でも反戦平和はえらく民族主義的な感情がくっついちゃってて、一緒なんですね。つながってるとかいうのでもなくて……。

道場 武藤一羊さんが「朝鮮人の同志たちとの出会い」が重要だったと書かれているものがあるんですが、この時期の日本人と在日朝鮮人の共闘についてはいかがでしょうか。

吉川 僕は大学で彼の一年上なんですが、ほとんど同じ時代を同じ場所で経験したはずです。

道場 朝鮮人と一緒に活動した人たちは地下にもぐった人たちなのでしょうか。

吉川 でもあるし、そうでもない。その当時は、在日朝鮮人の共産主義者は日本共産党に入るとされていたわけですから、地下にもぐっていない私たちも、在日朝鮮人活動家と一緒になる場面はあったわけです。作家の高史明は、その頃私のいた東大細胞の上部機関である共産党の文京地区委員会のメンバーで、よく指導に来ていたんです。日本名の仮名を使っていたから、まったく当時は知らず、ずっとあとで、高史明氏の出版記念会に出たとき、かつての文京地区委員会のオルグだった人物がその人だと知って、ほんとに驚いたですね。彼は、しかし、その文京地区委での活動以後に、あの『夜がときの歩みを暗くするとき』にあるひどい体験をさせられることになるわけですが……。
 五〇年〜五二年に学生細胞にいた私たちも、地下にもぐっていたのではないけれども、同じようなことをやっていたんですよ。何月何日、どこで、非合法デモをやる、東大細胞は何人動員せよ、とかいう指令がくるわけで、そうすると「今度は捕まるかなあ」なんて言いながら、逮捕覚悟で行くわけですよ。無届けのデモですから。正直言って私は怖かったですね。勇気凛々と出かけたなんてことはなかった。そしてそういう行動の中心になっていたのが、いわゆる在日朝鮮人、「ニコヨン」、そしてわれわれ全学連、この三つでした。五二年の宮城前のいわゆる「血のメーデー」だってそうでした。
 今でも忘れられないのは、今度の日曜日に火炎ビン投げる練習やるからビール瓶もって三多摩の日野の橋のわきに集まれ、という党の指令が来たときのことです。僕は嫌だったわけ、そういうのは(笑)。まったく行きたくはないんだけれど、命令だからね(笑)。ビール瓶もってこいっていうから日曜の朝早く五時ごろから台所でごそごそ空瓶を探すわけよ。と、その物音でおふくろが起きてきて「何やってんの! お前」って。こっちが必死でビール瓶隠すとね、「まさか!」とか言ってんのさ(笑)。そこを誤魔化して家を飛び出して行くわけよ。草ぼうぼうの多摩川の河原の中へね、それからわけのわからん山へ登ってね、火炎瓶投げる練習をさせられる。
 在日朝鮮人も当時は日本共産党に入ることになってんですから、一緒にやっていたわけです。一生懸命やっている人もいればそうでない人もいたかもしれないですが、彼らにしてみれば戦争をしている自分の祖国のことですから、真剣に思い込んでいたでしょうね。
 当時やってた者の意識としては、朝鮮を侵略しているアメリカ帝国主義とその走狗日本の買弁政府を打倒する、ということ一本でした。朝鮮戦争が北側からの攻撃で始められたということは今では明らかにされており、当時の運動についての評価はきちんとされなければならないはずですが、しかし、あの当時の武装闘争は間違ってました、ということだけ片付けられて、当時その運動にかかわっていた者たちの間での事実の究明や深い検討が十分にやられていないですね。空白になっている部分が多い。最近出た『日本共産党の八十年』でも、もっぱらソ・中両国共産党の介入の話と「徳田・野坂分派」への批判だけで、朝鮮戦争反対の運動のきちんとした総括はありません。
「武装闘争」っていったってどれほどの武装をしていたか…機関銃一丁、小銃一丁あるわけじゃないでしょう? せいぜい火炎ビン、あとは警官隊に肉弾でぶつかるみたいな話でね、「実力闘争」っていったって私たちが実際にやったのは、届けをしない街頭デモをやるくらいのことでね。そりゃ待ちかまえられてたら全員捕まるし、捕まりゃひどい目に遭うけど。まだ機動隊ってものはなかったんじゃないかな。ヘルメットだって、どっちもかぶってなかったしね。だからその頃の暴力闘争とか軍事闘争って言っても、第三世界のそれとは比較にならぬものでしょう。

「実力闘争」と「市民的不服従」

道場 たとえば、戦車や武器・弾薬を戦地に送らせないということでいえば、ベトナム反戦運動の時には、相模原で「非暴力」を掲げた市民の運動が相模原補給廠から搬出される戦車を止めた、という行動がありました。具体的に止めようと思ったときにどうするのか、という点では連続する面もあるだろうと思います。そのとき、「非暴力」の意味を豊かに深めていくことが必要だと思いますが、運動当事者が「実力闘争」「武装闘争」と位置づけしているもののなかにも、「非暴力直接行動」の文脈とつなげて理解した方がいいものもあるのではないでしょうか。近年の日本社会では、「非暴力」も含めて「テロ」に放り込まれかねないですが、そこは大切な作業なのではと思っています。朝鮮戦争からきちんと見直しておきたい、ということです。

吉川 そうですね。それは今から掘り返さなければいけないところですね。「テロ」攻撃、「テロ」批判っていうのがこれから意識的に大キャンペーンを張られるでしょうし、そのときにかつての行動が整理されていないと、その暗いイメージだけが残されて、足が前へ進まない、ということもあるでしょう。
 これから、朝鮮半島の事態が緊迫してくるときに、五〇年の朝鮮戦争当時の運動経験を考えるということは大事だとは思いますけど、何せあの頃の日本は米軍の占領下ですからね。その下における運動と今のそれは条件はまったく違っています。事態をどうとらえるかとか、それに向き合おうとする人間の主体的なあり方とかでは、引き出すべき教訓は多くあると思うんですが、技術とか運動の方法・手段ということで当時のことから学べることがあるかどうかは疑問ですね。携帯電話どころか、電話を引いている家も多くなく、公衆電話さえろくすっぽない、という時代だったんですから。運動形態は全然違うと思うな。
 道場さんの指摘されたことで、「実力闘争」とくくられてしまっている中にも、「非暴力直接行動」の文脈とつなげて理解したほうがいいものがあるのでは、という点は、同感です。一九六六年一〇月、田無の日特金属工業にアナーキスト系の「ベトナム反戦直接行動委員会」のメンパーが突入して兵器生産の機械類を破壊するという行動がありました。最近、鶴見良行が当時そのことを論じた文を読み返す機会があったのですが、彼は、この行動を単に暴力主義的、挑発行為と非難するだけでは駄目だ、と警告しています
(『鶴見良行著作集第2巻・ベ平連』みすず書房)。この行動の参加者のなかから、後に「反日武装戦線狼=vに加わるものが出てくるところから、そういうくくり方をされてしまうのですが、あの行動から非暴力直接行動へと向かう流れを作り出す可能性もありえたと思うんです。再検討が必要だと思ってます。

道場 朝鮮戦争のあと吉川さんはわだつみ会の事務局、平和委員会の事務局、さらに平和委員会から出向という形で原水協、と、運動に身をおかれ、六〇年代には核実験問題で平和委員会・共産党からパージされ、そうしてベ平連の事務局長になられるわけですが、その点については『市民運動の宿題』(思想の科学社)に詳しくお書きになられています。
 先ほどの経験の継承、という点では、このベ平連には、五〇年代から六〇年代で共産党に関わった人がかなり若いときから運動に関わっていて、当時吉川さんが三四歳。以前吉川さんは運動の高齢化ということを書かれていましたが、ベトナム反戦のときは、六〇年安保から五年ということもありますし、三〇代の運動だったということが言えますね。

吉川 そうですね。運動の中心を担っていたのは三〇代前半の人びとでした。ベ平連発足は六〇年安保から五年後ですが、しかし小田さんは六〇年安保の運動経験は全くなかった、アメリカにいたんですね。開高健は六〇年安保でデモに参加していますが……。

道場 共産党離党組の方が裏方でずいぶん動いたんでしょうか。

吉川 実務の面ではそうですね。最初事務局を引き受けてみたとき、ろくな名簿さえなかったんでびっくりした。今のイラク反戦運動の場合は、その点、段違いですね。
 何てったってコンピュータというすごいものがあるから。むしろ情報洪水気味ですよ。
 ベトナム戦争では開高健が『ニューヨークタイムズ』に意見広告を出そうと、半年仕事をなげうって動いたんですね。それで二〇〇万円を集めた。それに半年近くかかっている。それが今年はじめの研究者によるイラク反戦の意見広告では二ヶ月かからずに一三七〇万という金が集まりましたし、そのあとの女性が呼びかけた意見広告も同様でした。今度、私たちが呼びかけたイラク反戦と有事法制反対の意見広告でも一ヶ月半で二千以上の個人、団体から九七〇万が寄せられ、『毎日新聞』に「殺すな」という全面広告が出せました
(5月4日)。これはインターネットあるいはファックスなしでは考えられない。

運動への「新しい参加者」

道場 今回のデモでおもしろかったのは、僕はこの一〇年ぐらいしかわからないのですが、いつも人数がきまっている感じがありました。労働組合の動員があるときだけ数が多い。けれども今回は、組織に属さない個人が万単位で集まってくる、というところでとても高揚感を感じました。それから、初めて来た人がいろんな会話をしていて、「俺は左翼じゃないんだけどイラク戦争には反対なんです、あなたは左翼ですか?」と聞いて回ってる人とか、「そのプラカード面白いですね」とか知らない人同士の会話があったり、それからみんなプラカードとかシールとか、いろいろなものを持ってきているんですが、手ぶらで来た人がそれを分けてもらったりその場で一緒に作ったりして、それはいいなあと思って、そういう出会いがあるんですね。

吉川 底辺が動き始める場合に、そういうことが起こるんですね。それは昔も同じでした。デモの人数があらかじめ読めちゃうというのはここ一〇年か二〇年のことです。ベトナム反戦の時は今と同じでした。そういう新しい人が来ない限り万単位にはならない。それこそ再現なんです。と言っても、昔だってそうだったのだから、今のがたいしたことじゃない、などと言いたいのじゃありません。そういうことが繰り返されていくからこそ、運動経験の継承ということが大事になってくるんです。
 マスコミはとかく、これまでとはまったく違って新しい人が、と言いがちですが、いつだって運動が大きくなるときは新しい人が多数参加するからなんです。最初からベテランのデモ参加者なんていないんです。初めての人がどれだけの割合を占めるかが大事なんで、ベトナム反戦の時がそうで、今もそうなんです。それで新鮮な感じがします。でも、そこに年寄りが行って、昔だってそうだったよなんて言っても何の役にも立ちません。

道場 一つ大きく違うのは、ベトナム戦争の時は小田さんとか鶴見さん以外にもいろいろなことば、概念が提起されて、新しい指針になっていきましたが、今回はまだ運動の期間が短いということもあるかもしれませんが、新しいことばというのは生まれていないような気がします。

吉川 その種のことが正面から語られたことはまだないですね。イラク反戦運動では感情的、感性的なレベルにとどまっています。そこから先の議論がない。反戦の、思想史に残るような問題提起は、そんなものがあるとしてですが、まだ出てきていない。しかしそれは運動だけではなく文芸のジャンルでもそうですね。ベトナム反戦の当時は文芸の世界でも大江、小田をはじめ、高橋和己、真継伸彦、柴田翔、それに立場は違っても石原慎太郎も含めて最前線にいたのは三〇代でしたね。

道場 体験の継承ということは、当然のことながら運動のノウハウ、ということもあるのですが、それとともに、体験をそれぞれがどう受けとめたか、どんなことを考えたが、それを他者にどう伝えるかという「思想」あるいは「ことば」の継承・対話ということも大切なことではないかと思います。

六〇年代への関心と注目、追体験

道場 作家はともかく、今回は美術家、音楽家、演劇人などが目立ちましたね。特に美術家の「殺すな!」プロジェクトはおもしろかったです。

吉川 小田マサノリさんのグループはほんとにおもしろい。彼が四月初めのデモが激しい風雨になった時、雨のおかげで「パレード」から「デモ」になりましたね、といったのはよかったですね。「パレード」という祝賀の雰囲気を連想させる言葉ではなく、風雨をついて必死に歩くという行動になったわけですが、それを彼はそう表現したのです。小田さんはたまたま岡本太郎に興味を持ってそこで「殺すな」という文字にふれて、どうやらこれはべ平連らしい、ということから僕に連絡を取ってきたんです。
 世代的には全く離れている人たちが六〇年代に興味を持ってきている。アメリカではだいぶ以前から六〇年代への関心が高まってきていて、ハワード・ジンとかデイヴ・デリンジャーとか、今はえらく高齢になっている当時の指導的活動家が講演などに盛んに引っ張り出されています。ベトナム反戦の当時学生として参加していた人たちが今教師になっていて、それが学生たちに当時のことを教えたいということのようです。
 一つは湾岸戦争以来のひどさを何とかしたいということから、六〇年代の運動への関心が強くなってきているみたいですね。埼玉大学に共生社会研究センターという施設があって、そこに私がもっていたベ平連関係の原資料も寄贈したのですが、べ平連をテーマに論文を書きたい、とやってくる若い人が増えているそうです。私もいくつか、卒論や修士論文を読ませてもらいましたが、かなりのレベルに達していると思いました。まだ産まれてもいなかった時代の運動を後から追体験して、そこまでは行けるんだと感銘しています。
 ベトナム戦争中、国防長官だったマクナマラが、数年前、当時の軍人や外交官、学者を連れてベトナムに行き、ベトナム側の当事者と「われわれはなぜ戦ったのか」というシンポジウムをやりました。その記録は“Argument Without End狽ニいう本になっていまして、非常におもしろいです
(本インタビュー以後、遅れていたこの本の日本語訳が出された。『果てしなき論争』共同通信社)。アメリカがほとんど何もわかっていないということがよくわかったりします。そのときの討論の記録がNHKで放映されました。そしてそれをつくったプロデューサーが『我々はなぜ戦争をしたのか』という本を出しています(岩波書店)。東大作さんという人ですが、マクナマラも含め、アメリカとベトナム双方の討論参加者にその後の後追いのインタビューもしていて、あの議論をその後どう思うかと尋ねています。それがおもしろいんです。東さんは一九六九年生まれです。ベトナム戦争を知らない人がこういうすぐれた追体験をしているのかと知って、勉強になりました。
 何かきっかけがあれば、それ以前の経験を自分のものにすることができる。歴史というのは後になればなるほど、勉強しなければならない事実が増えていくだけなんてことではなくて、後になるほど新しい見方ができ、新しい世界観を作るのに役立ってるんだということを再確認できました。それなしには人類に希望がないということになってしまいますよね。
 小田
(マサノリ)さんには、なぜデモにこだわるのか、一度じっくり聞いてみたいですね。でも、一つ上の世代の芸術家たちとの直接の交流はないみたいですね。で、なぜそのまた一つ上の世代の岡本太郎なの、と思うんです。ベ平連グループの、とくに若い層の多くは、その後の岡本太郎が万博のとき太陽の塔を作ったことなどを批判的に見ていたんですが、小田さんはそうは見ないんだな。

道場 それは新しい出会いということになるんでしょうか。

吉川 ベトナム戦争のときも、美術家、音楽家、演劇人はずいぶん動きましたよ。ただ、ベ平連のことでいうと、演劇人あまり関係がなかったですね。芸能関係で接触があったのは永六輔さんだけですね。
 十二月八日のシンポジウムで、鵜飼哲さんが、日本の運動では、文化が継承されていない、ということを言っていましたね。たとえば六〇年代の歌が切れている。欧米ではそうではないですよ、ということでした。私は、そうでもなくて、五〇年代や六〇年代の歌を最近の集会で聞きましたよ、と伝えたんです。ナジム・ヒクメットの「扉をたたくのは誰」だの、谷川俊太郎の「死んだ男が残したものは」という歌を聞いたんです。でも、みんなが広く愛唱するというふうになれないのは、歌のせいもあるんですかね。歩いて歌える歌がないですものね。フォークゲリラの運動の中でも、替え歌はずいぶん歌われましたが、「花はどこへ行った」や「イマジン」のような思想的に深みを持ちながら広く歌われるものは当時も生まれてきませんでした。安保の時もなかったです。「民族独立行動隊」や「沖縄を返せ」は、今では歌えませんもの。室謙二から聞きましたが、アメリカでも今度のサンフランシスコでのイラク反戦集会でジョーン・バエズが歌ったんだそうですが、若い人はバエズをまったく知らなかったと言っていました。 

イラク反戦運動の中での加害者意識

道場 先ほどの議論がないという話ですが、小田実さんの「加害者/被害者論」というのは市民運動の考えを変えた大転換ではないかと思います。その後社会運動の言語・考え方が大きく変わったと言える。戦争責任、公害輸出、差別問題も含め、運動の文化が大きく変わっていくときに小田さんは決定的なキーワードを出したと思います。現在生じている歴史修正主義などの動きは、そうした国家の加害者性、われわれ自身の加害者性、という問題に大きく関わっています。加害者性の問題提起に対し、現在バックラッシュというか、いわゆる「反PC(ポリティカル・コレクトネス)」の「反動」が襲っています。そうした「加害」「被害」という問題を自分に引きつけて考えるという点については、今回のイラク反戦を考えた場合、弱いように感じました。

吉川 確かに、その点がもう一歩深まらないですね。先にも言いましたように、今のイラク反戦は、まだ感性的レベルにとどまっていて、歴史意識や社会意識に十分裏打ちされているとは言えない。そこに、右側からの攻勢や、北朝鮮脅威論の大キャンペーンが張られてきたとき、たじろぐ部分が出てくるでしょうね。これまでの運動自体の中にも未解決の部分はずっとあって、たとえば、わだつみ会が戦没学生の戦争責任問題を提起したとき、会の内部や遺族の中からも異論があって、死者をそこまで傷めなくてもいいんではないかという意見は今でも残っているようです。必ずしも外からの攻撃だけではないですね。ですから小田(実)さんの議論はまだまだ日本の中では少数派です。イラクの問題はまだ自分の中の問題となってはいないですからね。ですから、有事法制反対の行動へとすぐ結びついてゆかない心配があります。
 でも、ベトナム反戦の運動の中でも、加害者としての自覚が広がるのには五年かかっていますから、今すぐそこまで期待するのは無理といえば無理かもしれませんね。今後の実践の中で意識がどう変わっていくのかを見守るしかないのでしょう。

非暴力は無抵抗ではない

道場 加害・被害の問題と市民的不服従。もう一つは、非暴力の意味ですね。これは常に実践的につかんでいくものでしょうが。戦争が長引くと思想が生まれますから、戦争を教訓にさせないためには早く終わらせようとするでしょう。

吉川 そうですね。戦争が早く終結すれば、反戦の波は引けて行くでしょうからね。
 べ平連で前面に出てこなかった問題としては、天皇制の問題です。これはまだ運動の中では普遍性を持ち得ていないです。
 道場さんが言われた市民的不服従と非暴力に関する問題点は、今、また表面に出てきています。「非暴力」が「無抵抗」や「合法」とイコールだと誤解する傾向が見えています。非暴力自体は結構な話ですが、非暴力とはトラブルを起こさないことだと理解され、警官とトラブルを起こさないことが非暴力だと勘違いする傾向です。万単位の集会やデモをほとんど経験のない新しい人びとが準備してゆくのですから、未熟な部分や多少のまずい点が出てくるのは当然でしょうが、警察力が権力機構の一部だという意識は弱いですね。個々の警官を敵視することは間違いですが、デモの世話役の中には、警官側を背にしてデモ参加者のほうに顔を向けて隊列の幅を広がらないようにすることに熱心に見える人もいくらかいるようです。
 非暴力とは無抵抗や法の規制への服従などではないこと、ガンジーもマーチン・ルーサー・キング・Jrも、非暴力を用いた大変な抵抗闘争、不服従の行動をやったのだ、ということぐらいは勉強してほしいと思います。最近のデモでは、参加者の中から逮捕者がでたようですが、それにどう対処するのかも大事な点でしょう。市民的不服従と非暴力が切れちゃわないようにしないと。

「反戦」の枠にとどまらぬ新しいジャンル

吉川 今回のイラク反戦の行動は世界同時に行われたというのが大きな特徴です。べ平連のときは日米同時デモというのはやりましたが、今度のように太陽の動きに合わせてデモが地球を回っていくなんてのはありませんでしたし、アジア、中東、アフリカから中南米まで含めてというのは初めてです。
 そもそもこうしたイラク反戦の国際的な共同行動を呼びかけたのは、出自をいうならば反戦運動の流れからというよりは、グローバリゼーションを問題にするグループの呼びかけから始まったものでした。二月一五日の世界一周デモは、ブラジルのポルト・アレグレでの「世界社会フォーラム」の流れの「欧州社会フォーラム」の呼びかけによるものでした。もちろん集まった人はイラクをめぐって反戦平和を主張したのですが、それを国際的によびかけたのは、こうした戦争を可能にする世界的な構造全体を意識においていたんですね。ですから、表面的な戦争が終結しても、運動がひいてしまうのではなく、世界的な構造自体に向き合おうとすると流れになっていくのかどうかが注目される点です。すでにベトナム反戦運動でも、ベトナムでの戦闘が終わればいい、という枠を超えて、「内なる東大」とか「内なるベトナム」という認識が生まれ、若者たちは自分たちが生きているこの社会の構造自体を問題にし、世界のありようを変えるんだということを論じていましたね。また、行動によって変えられるんだ、という可能性も見ていました。ベトナム反戦とは言ったけれども、全共闘の若者たちにとっては、革命や独立や平等や人権と区別された形での反戦平和ではなかった。

道場 いろんな問題のつながりが重視されていた、ということですか。

吉川 単につながっているということの認識ではなくて、世界の構造全体を問題にする、戦争・平和もその中に含めて考える一体となったような考え方を持ち、行動してゆく主体が、国際的には形成されつつあるのではないかという感じがしているんです。反戦運動というジャンルが消えるわけではないでしょうが、グローバリゼーションや環境問題、食料と飢饉、疾病と保健、失業と経済などと区分され、区別されるのではない、世界の構造全体を変えようとする人びとの動きというようなものの登場です。これからそういうふうになるのかどうか、期待を含めて注目しているんです。

道場 ベトナム反戦運動では加害、被害という視点から出発したんだろうと思うんですが、だんだんアジア進出とか、入管の問題から人権問題にいくというように、戦争という実際に起きている戦場だけではなくて、それを支えるシステムがいろいろなものを内包している、ということを発見していったと思います。ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」という考えがありますが、彼に学んだわけではなくて、同じ現実を運動自体が発見していった。そういう意味でのつながりでしょうか。

吉川 その通りです。その自覚を持ってしまうと、後戻りができない人間になる。絶えず問題意識がある人間になる。その種の自覚を持った市民がどれだけ出てくるかですね。

NPOと反戦、政治的課題

道場 NGOの人間たちが今回のイラク反戦にたくさん入っていますね。ですが、ボランティア的な関わりと政治的な動きというのは、まだ離れているように感じます。

吉川 政府の側やマスコミも、意識的に離そうとしていると思うんです。埼玉のNPOセンターの東1邦さんが一貫してやろうとしているのはそこをどうつなげるかということです。名乗るときも「もと埼玉べ平連で、今NPOの東です」とやっている。つまりNPOだのNGOだのと言ったとたん、反戦や反体制ではなくなったり、政治的な問題とは関係ないとなる風潮に対して、そうではないと強く主張しているわけです。政府や自治体などは、政治と関係ないとなれば予算をだしたりして、その方向に強く誘導しています。でも、実際にアジアやアフリカの現地に行くと、これってまさに政治じゃないか、ということになるんです。日本でも、道場さんのおっしゃるように、今度のイラク反戦の中心になった「ワールド・ピース・ナウ」にはNPOや緑系の運動がたくさん加わっていました。前はそういうことはなかったんです。
 こういう傾向が今後さらに進んでゆくならば、北の大国と南の国の運動がもっと深く有機的に結びつけられるかもしれない。東北アジアの空気も、韓国の運動との関係で大きく変えられるかもしれない。フィリピンの運動との結びつきもありますね。アメリカの次の大きな意図が、一つは中国包囲網の形成でしょう。対テロ対策、アブサヤフ征伐のためという口実でフィリピンに米軍を派遣しているけど、実質上軍事顧問団を派遣したベトナム戦争初期にそっくりですね。それは対中国政策と無縁ではないでしょう。東アジアではとりあえずは北朝鮮をターゲットにしていますけど、その先には中国を睨んでいます。しばらくやばい事態が続きます。

(よしかわ ゆういち・反戦市民運動)
(聞き手=みちば ちかのぶ・社会学)

(『現代思想』2003年6月号掲載)