47 夢を現実に変える努力――今、高木さんが生きていらたら…… (『市民科学通信』 高木仁三郎著作集 第8巻 月報 7) (2003/05/12搭載)
アメリカなどの無法きわまるイラク攻撃に反対する運動で、ほとんど時間的余裕がなくなった状態の中でこの原稿を書いている。デモに参加していたり、集会に出ていたりするとき、頭に浮かんでくる故人が何人かいる。一人は、三里塚瓢鰻亭の主人だった前田俊彦さん、そしてもう一人が高木仁三郎さんだ。
この4月、豊津町でまた「瓢鰻亭忌 ドブロク祭」(今年が最後だそうだ)が開かれるが、前田さんがなくなられて10年になる。
ここ数ヶ月間、次第に規模を大きくしている反戦運動では、日本では「デモ」という言い方が避けられ、「パレード」とか「ピース・ウォーク」とかいう表現が多く使われているようだ。行動の名称も、以前だったら「4・5共同行動」などと言われるところが、「ピースアクション」とか、あるいは英語そのものの表現が好まれている。こうした言葉の変遷について考えていると、「つくる」と「こしらえる」、「考える」と「思う」などを対比させて独特の論理を展開していた前田さんだったら、『瓢鰻亭通信』の上でどんな対話を展開するかな、などという思いが浮かんでくるのだ。
高木さんについてもそうだ。今、彼が生きていたら、現在のこのあまりにもひどい世界の状況に、どういう判断をし、どういう行動を提起するだろうか、と考えることがある。1984年に、高木さんが中心的役割を果たした反戦の共同行動は、「核と戦争のない世の中をめざす行動」という名称だったが、これもずいぶん議論をし、考えて決めたものだった。
今、会合に彼が出ていたら、あるいはそのあと、飲み屋へ立ち寄っていたら、開口一番、「ひどすぎる、あまりにもひどいよ」と論じだし、さらに問いに答えて専門家の立場から劣化ウラン弾や、つぎつぎに開発、試用される新兵器の非人道的性格などを熱っぽく、詳しく語ることだろう。そうした高木さんの姿が目に浮かんでくる。
三里塚闘争の中で、前田さんと高木さんが並んで写っている写真がったはずだ、と探していたら、例の風車の模型(といっても、実際の四分の一で、直径2.5メートルもあるものだったが)の前で、前田さん、作曲家の高橋悠治さんと一緒にその風車を眺めている写真が見つかった。1979年6月23日の大集会の日に撮ったものだった。
この風車のそもそもの思いつきは、前田さんだった。前田さんは、当時、風や太陽のエネルギーをどうやって蓄積するかなどと考えて、ゼンマイを巻かせる方法だの、重石を巻き上げる方法だの、つぎつぎと奇抜なアイデアを披露してきた。そうした思いを、単なる空想や頭の中の遊びの領域にとどめず、現実のものにさせる上で、高木さんや、梅林宏道さん、山口幸夫さんら、「市民科学者」たちの果たした力は大きかった。風車もそうだったし、大鉄塔の設計、製作もそうだった。だが、そうした努力は、いわゆるものつくりの技術や工学の面に限られた話ではない。なによりも、この世界から、核と戦争をなくすという、大きな、大きな人類の夢を現実のものとする工学に、私たちは従事していたのであるから。
ベトナム反戦運動は、すでに戦争が始り、次第に激化して、悲惨な実態が知られてくるにつれ世界に広がっていった。しかし、今のイラク反戦の運動は、侵略開始を阻止できなかったとはいえ、実際の攻撃が開始されるはるか以前から、数万、数十万、数百万という人びとが行動に立ち上がった。それも、著名人や大組織が呼びかけたからというのではない、自発的な行動に支えられたものだった。高木さんが今生きていたら、この人々の動きの中に、やがて「核と戦争のない世の中」を、「こしらえる」のではなく「つくる」可能性を、見てとっているのではないだろうか。