43 デモのノウハウ 〈その1〜その6〉 ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.70 2002.2.1 〜No.76 2003.2.1に連載) (2003/02/06搭載)
これは、私の参加している「市民の意見30の会・東京」の機関誌『市民の意見30の会・東京ニュース』のNo.70(2002年.2月1日発行)から、No.76(2003年2月1日発行)まで、7回にわたり、「70翁」というペンネームで連載した文章です。
デモのノウハウ(初回) 捨てられないチラシの工夫 ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.70 2002.2.1)
9・11事件とアフガンへの戦争、自衛隊の戦争行為参加などのため、ここのところ、デモの機会が多くなってきています。
19歳で初めてデモに参加してから齢70を超える現在まで、デモをしなかった年はなかったと思います。(集団行進でしたら、6歳のときの「南京陥落祝賀ちょうちん行列」や12歳のときの「紀元二千六百年奉祝」の行列がありましたが……)これだけやってくると、デモについてのいろいろな経験や知識もたまってきます。引き継がれているものや、新しく生まれてくるものもかなりありますが、30年も経つと忘れられるものもあります。ぜひ、利用、活用していただきたいノウハウを、思いつくままに書いてみることにします。
初回はデモや街頭で撒くチラシについてです。
駅頭で撒くビラなど、なかなか受け取ってもらえなかったり、すぐに丸めて捨てられたりして、気落ちする経験はどなたもおありでしょう。ちょっとした工夫で捨てられないチラシをつくってみませんか。
紙をカラーにすることなどは、すでに行われていますが、それだけでなく、チラシの1枚1枚に、季節の植物、たとえば、秋だったら、黄色い銀杏の落ち葉、赤い紅葉やナナカマドの葉を公園などで拾ってきて、それをセロテープでちょっと留めるのです。受け取った人は、オッと思ってすぐには捨てず、中身を読んでみようという気になってくれます。
手間は少しかかりますが、こういう作業は、デモに直接参加できない老齢の人や体の弱い人などに手伝ってもらうこと(つまり、デモにそういう形で参加してもらうこと)ができます。
年頭だったら松葉と竹の葉でもいいでしょうし、これからなら桃の花びら、4月なら、もちろん桜の花びらですかね。
少しお金はかかりますが、今号の『ニュース』でご案内している「殺すなシール」も、ずいぶん目立つでしょう。(70翁)
デモのノウハウ(第2回) 音の出る小道具 ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.71 2002.4.1)
デモの案内に、「各自なるべく、音の出る楽器などをご持参ください」という呼びかけを見かけます。デモ、実際に何か楽器を持ってきている人はそれほど多く見かけません。楽器というと、思いつくのはギターやドラムということになり、そんなもの持ってないや、ということになってしまいます。
しかし、もっと簡単なものでいいのです。鍋や空き缶だっていいわけですが、それはヤカマシイだけで、どうもあまり気が進みません。少し工夫して、乾いた竹筒、古くなった自転車のベル、幼児向けのでんでん太鼓などはどうでしょう。弁護士の後藤昌次郎さんが得意とされている草笛などは最高ですね。
本物の楽器でしたら、安いのはカスタネットです。楽器店で200円くらいのものもあります。値段は張りますが、輸入された民族楽器などですばらしい音の出るものもあります。たとえば、ペルーの「チャフチャス」などで、これはマイチルという植物の乾燥した実を束ねた楽器です。民族楽器を輸入しているお店を探して、のぞいてみてください。東京でしたら、新宿、紀伊国屋ビル1階にあるライター店「加賀屋」にも並んでいます。(70翁)
デモのノウハウ(第3回) 雨に歩けば…… ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.72 2002.6.1)
梅雨の季節です。雨の中のデモも少なくありません。天気だけでなく、雨中のデモも気は晴れません。それを少しでも楽しくするノウハウです。
65年7月10日、ベトナム反戦の市民グループ「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」が3回目のデモをやりましたが、これは梅雨時とあって、最初から「アンブレラ・デモ」と名づけられ、500人の参加者は傘の骨の先に短冊のスローガンなどをぶら下げて歩きました。
その後、いろいろなアイディアが出され、雨中のデモも楽しくなってきました。そのいくつかをご紹介します。
@かさの上にカラーのビニールテープでスローガンを書く。長い字数や画数の多い文字ではダメですが、「ころすな!」とか、「派兵反対!」ぐらいなら、ビニールテープをうまく切って貼り付けることが出来ます。ふつうのこうもり傘なら、後ですぐはがせます。
Aかさの骨の1本1本の先端と先端の間に、透明のビニールシート(透明のビニール風呂敷でもいい)をぶら下げ、それにカラーのビニールテープで文字を書く。@の方法ですと、上からでないと全部が読めないのですが、これだと横からも読めます。長いビニールシートだと、雨の撥ね避けにもなります。シートは必ず透明にしてください。中で傘をさしている人が周囲が見えなくて危険ですから。(70翁)
デモのノウハウ(第4回) 火のついたろうそくの入る手製簡易キャンドル ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.73 2002.8.1)
暗くなってから行われるデモに「キャンドル・デモ」があります。昨年末、イスラエル大使館に向けての抗議デモなどがそれでした。しかし、本物のいわゆるキャンドルは高価ですし、もちろん、裸のろうそくでは、すぐ灯が消えてしまいます。そのデモでは、電池を用いたペンライトなどが多く使われていました。でも、オリンピックの閉会式ではないのですからペンライトでキャンドル代わりとは少し味気ないですね。
以下にご紹介するのは、ベトナム反戦運動の中で発行されていた『週刊アンポ』という雑誌に載っていたノウハウです。そして、この簡易キャンドルはあちこちのデモで、ずいぶん作られ、使われました。
69年11月26日、「日米共同声明と佐藤首相の帰国を悲しむ会」のデモでしたが、ブラームスの「ドイツ・レクィエム」が宣伝カーから流され、それを背景に数の揃った手製簡易キャンドルの行列は効果的でした。同じ年の12月24日クリスマス・イブでは、ベトナム戦争の死者を悼むもっと規模の大きなキャンドル・デモも行われました。
つくり方は、図のとおりです。記事によると、「紙コップ1個7・5円、ローソク1本1・3円、製作原価10円以下。材料はカンパを含め20円売り」とあります。(『週刊アンポ』第3号、69年12月15日号)(70翁)
デモのノウハウ(第5回) 1列で歩くデモ、2列で歩くデモ。最長の名称のデモ ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.74 2002.10.1)
これは、デモに参加する一人一人にとっての問題ではなく、デモの準備に当たる世話役の人へのノウハウです。
緊急の場合や、最初から市民的不服従の一つとして無届デモをするのでないかぎり、ふつうは各都道府県の条例にそって72時間以上前にデモ届けをします。いろいろ交渉がありますが、都道府県の公安委員会が出す許可証には、たとえば、「六列縦隊のこと」とか「梯団と梯団の間は、一梯団の長さだけ空けること」などという条件がついてきます。
しかし、最初から参加人数がかなり少ないことが予定されていたりする場合、5列や6列では、短い長さの、まるで団子のかたまりみたいなデモになってしまいます。そうでなくても、時には1列や2列の長いデモで歩きたい場合もあります。それにはどうしたらいいのでしょう。
デモ届けの段階から、そういう希望や意図を明らかにするとともに、届書に書くデモの名称も工夫します。実際にベ平連がやったことですが、おそらく届出の出されたデモの中でも最長の名称をもつものは、68年12月28日、ベ平連が東京・新宿でやった「絶対にジグザグデモをせず、交通に迷惑をかけず、二列になり、花束をもって、ベトナム戦争反対・米軍タンク車通過反対を訴えるデモ」の61字のものでしょう(ちなみに、第2位は、70年7月18日にあった「デモの過剰警備と機動隊の指揮官車による傷害に抗議し、新警視総監に秦野前警視総監の過ちを繰り返さないよう要求する集会・デモ」の60字だと思います)。この場合、公安委員会が出した許可証には、条件として「二列縦隊のこと」とついてきました。
今となっては、若干、背景を説明する必要があるでしょう。当時、新宿ではいわゆる「過激派」学生などの火炎瓶を使った行動がつづき、警視庁は、新宿周辺のデモを一切禁止する方針をとっていました。それを何とか打ち破ろうとして考えたのがこのデモ計画でした。弁護士さんとも十分相談し、もし不許可になったなら、即刻行政訴訟に持ち込む準備を整え、その姿勢を警察側にもわからせておきました。デモの名称も、その裁判になった際に有利な判決を出させるための一つの材料として考えられたのでした。結局、裁判を待つまでもなく、新宿デモは実現し、2列縦隊のデモも実行できました。(70翁)
デモのノウハウ(第6回) デモを一人一人の発言の場に ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.75 2002.12.1)
デモでは、ほとんどの場合、スピーカーとマイクが用意されます。宣伝カーを借りてきて、大きなスピーカーから街頭の人びとへ向けてアピールをしながら歩く場合もあれば、携帯マイクで、デモ参加者にシュプレヒコールの音頭をとることもよくあります。しかし、多くの場合、マイクを握る人は限られます。アピールするには、美しい声や力強い訴えが効果的なのでしょうが、選挙の宣伝カーではないのですから、専属の「ウグイス嬢」を決めてしまうというのは、どうかと思います。
以前よく行われていたのですが、デモ参加者全員がマイクを握るデモというやり方があります。
デモの先頭にいる人から、順々と携帯マイクを手渡してゆき、それぞれが、心に抱く思いを発言してゆくのです。自分なりのスローガンでもいいし、道行く人への参加よびかけでもいいし、自己紹介であったり、今計画中の自分たちの予定のお知らせであったり、場合によっては、現在やっているデモへの注文、批判、提言でもいいのです。前にあった発言への賛同や反論も出ることもあります。
これは、デモを全員発言の場にしてしまうことになります。市民デモでは、知らない人同士が並んで歩くこともよくあるのですが、これをやると、お互いに親しみがずっと増します。デモ終了後、解散地で仲間づくりや討論の輪がつくられたりすることにもなります。いつもそうする必要はないでしょうが、条件に応じて考えてみてください。(70翁)
デモのノウハウ(第7回・終り)断絶と継承と ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.76 2003.2.1)
11月2日、市民の意見30の会・東京がよびかけたイラク攻撃反対の市民デモに参加したときのことでした。携帯スピーカーから道行く人へのアピールやシュプレヒコールのアナウンスが響いてきます。あれは、確か梶川凉子さんの声だな、と思ってそちらを見ても、スピーカーを担いでいる若い男性の姿が見えるだけで、マイクを握って話している人はいません。もちろん、録音を流しているわけではなく、梶川さんはデモの中のどこか別の離れているところにいるのです。あとで聞いてみると、「吉川さん、知らなかったの? 遅れてるーッ」と言われてしまいました。もう、だいぶ前から、マイクは無線となって、携帯スピーカーから離れたところでも自由に動いて話せるようなものが流通しているのだそうです。前回、「デモを一人一人の発言の場に」を書いたとき、私のイメージは、あの携帯スピーカーを一人一人手渡してゆくことでした。しかし、こういう新しい機器ができて、手渡すのは小さな無線マイクだけでよくなると、手渡しはずっと容易になるのでしょう。でも、話している人が、声の聞こえてくる方向(スピーカーのある場所)ではないわけですから、顔は確かめられません。参加者の「親しみがずっと増すでしょう」と書いた前回のことが、これで果たしてどうなるのか、プラスもあれば、マイナスもあるかもしれません。
こういうことを書いたのは、デモのノウハウだって、時とともに大きく変わってゆくはずだと痛感したからです。この連載は、今回をもって終了させていただきます。といっても、決してスピーカーなどハード機器の進展のせいだけではありません。
今、1月18日に都心でイラク攻撃反対の大きな市民デモをやろうという計画が首都圏の市民団体の間で進んでいます。その場では、まだ「デモ」という言葉も使われてはいますが、「パレード」と表現するほうが主な流れとなっています。とくに若い人びとがそうです。自分たちがやろうとしていることは、「デモ」という言葉では十分に実態を表現していないと受け取っているようです。私は遮二無二イラク攻撃に突き進んでいるアメリカに対してノーという意思を強く表示したいのだから、デモンストレーション(示威行動)という言葉にこだわりたいのですが、少数派のようです。帰宅してから大英和辞典で「パレード」を引いてみると、中期フランス語が語源で、「行列,
パレード、
(示威)行進;[集合的に]行進する人たち」(ジーニアス大英和)とありますから、それでもいいのかもしれませんが、しかし『広辞苑』では、「祝賀や祭りの華やかな行列・行進。〓閲兵式」とありますから、日本語になった場合は、ニュアンスが違い、「示威」よりも「華やかさ」の色合いが強くなっているようで、どうも……という感じが捨てきれません。
この行動全体をなんと表現するのかという議論のときには、「ピース・フェスチバル」という案も出ました。「フェスチバル」はどう考えても「お祭り」ですから、これはさすがに通らず、結局「ピース・アクション」(平和行動)と称することに落ち着きました。
なぜ、「デモ」ではなく「パレード」や「アクション」と表現したいのか、考えてみました。それは、「デモ」という言葉について回るこれまでのイメージ、とくにマイナス・イメージを払拭し、新たな示威の形式を生み出すのだ、という意味を込めたいからなのでしょう。一つの時代が終わり、次の新しい局面に移ろうとするとき、それまで使われていた言葉では表現しきれないあるものを感じ取って、新しい表現が作り出される力が働きます。最近評判になっている小熊英二の大部の書物『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)もまさにその問題を扱っています。
思い返せば、30数年前、ベトナム反戦市民運動が誕生したときも、それまで言われていた「平和運動」という言葉ではなく「反戦運動」という表現にこだわりましたし、「国民運動」とは決して言わずに自らを「市民運動」と称しました。(60年代半ばまでは、たとえば「原水爆禁止の一大国民運動」などという表現が普通でした。)市民運動のデモでは、大労組などが当然のこととしていた「割り当て動員」(各労組の分会ごとに、デモに参加する人数を上部組織が割り当てて参加を指令する)や「日当動員」(デモや集会に参加する労組員に弁当代や交通費などを含む日当の金を配る)などには、強く反発しました。そして、確かにそれには一つの時代を画す意味があったと思います。
ベトナム反戦と70年安保反対の大きな流れが、湾岸戦争、社会党、総評の崩壊などをはさんで大きく後退し、ある意味では、それまでのデモの経験の蓄積やノウハウが断絶しかねない今、イラク攻撃を前にして、新たな行動が生み出されようとするとき、こうしたことがまた起こっているのだろうと思います。その将来に希望を託したいと思います。そして、その中には、これまでのデモのプラスの面も継承されてゆくことも期待したいと念じています。(70翁)