31 ベトナム・湾岸・報復戦争と反戦運動 〈2001/11/10のシンポジウムでの発言要旨〉( 『季刊ピープルズ・プラン』 No.17 2002年冬号)
ベトナム・湾岸・報復戦争と反戦運動
吉 川 勇 一 (市民の意見30の会・東京)
ベトナム、湾岸、報復という三題噺なんですが、実はどういう話をしていいのか分からないんです。運動とこの三つの戦争との関係について色々な話し方があり得ると思うんです。ベトナム反戦はこうだった、湾岸反戦はどうだったと反戦運動の歴史を語ればいいのか。それとも、今さら歴史でもないんじゃないか、これからどうするという話をするほうがいいのじゃないのか、というふうにも思うんです。
ここに、日本の運動が出した反戦広告を二つ持ってきました。右側が1966年、ワシントンポストに載ったべ平連の反戦意見広告です。真ん中の「殺すな」という字は、亡くなつた岡本太郎さんが書かれました。・その後、和田誠さんのデザインで「殺すな」バッジが作られました。このバッジはベトナム反戦運動のなかでずいぶんたくさん売られました。私が今つけているのに似ているんですが、Do
Not Kill in Vietnam と書いてあったんです。今は in Vietnam ではなくて、Do Not Kill Anywhere Anytime
と書いてあります。つまり、どこであれ、いつであれというふうに変えられたんですね。このバッジが今また、売れに売れています。
ベトナム反戦運動が始まったのは36年前でしたけれども、36年間経っても依然として「殺すな」ということを叫ばなくてはならない。アメリカは何を学んだんだろう。報道の仕方や報道の管制の仕方を、政府と軍は学んだ。それは湾岸戦争の時に徹底的に活かされ、今度も活かされています。しかし肝心なことは学んでいなかったと思います。
湾岸戦争は今からちょうど10年前です。その時に出した意見広告が左側で、International Conflict Cannot be Resolved by
Military Force と書いてあります。国際紛争は軍事力では解決出来ないという。これも10年前と同じことを、今私たちは言わなければならない。
ただちょっと私たち自身にも誤解があるかもしれないので、確認しておきたいんですけれど、ベトナム戦争の時には反戦運動がえらく盛んだったけれども、湾岸戦争や今はあまり盛り上がっていないというのは、マスコミが作り出した、あるいはマスコミの人が頭の中で思い込んじゃっていることであるということです。
ベトナム戦争で大規模な北爆が始まるのが1965年の2月7日で、東京で初めてのデモがあったのが4月24日です。それは爆撃が始まってから46日目なんです。湾岸戦争は、アメリカがイラクに対して爆撃を開始するのが1月17日で、終結するのが2月27日ですから、39日目で終結しちゃうんです。同じ時期をスタートラインにしてみますと、湾岸戦争のときはべ平連が生まれるまでもなく戦争は終わってるんですね。べ平連が始まったのは76日日のことで、開高健さんがニューヨークタイムズに広告を出すのが、10カ月後の11月16日だったのですから。
それに対して、湾岸戦争の時に市民グループがニューヨークタイムズに広告を出したのは58日日ですから、お金や賛同者の集まり方は、べ平連の時とは比べものにならないスピードです。今回、またニューヨークタイムズに広告が出ましたけれども、何と呼びかけられて1週間のうちに全面意見広告が出ているんです。べらぼうに速いスピードです。何が違うかと言えば、インターネットによる通信ですよね。ホームページの上に次々と情報が出され、メールが飛び交って、数百人のデモが1週間くらいの準備で行われてしまう。だから運動側の立ち上がりは、ベトナムや湾岸の時に比べて桁違いに早いと言えると思います。
運動のスピード以外に大きな違いは、アメリカの傲慢さですね。ベトナム戦争の時もかなり傲慢でした。湾岸戦争の時もそうでした。しかし湾岸戦争の時にイラク国家を潰してしまって、その後に自分たちが好きな統治機関を作ろうとは言わなかった。今度は、今あるアフ方ニスタンの政権を崩壊させて、自分たちが気に入ったのを作ろうというわけですから、傲慢さここに極まれりというか、内政干渉がこれほど露わになったことはなかった。
三番目の違いは、日本の責任が最大になったということです。ベトナム戦争の時も、日本は荷担をしました。湾岸戦争の時は、兵隊こそ出しませんでしたけれども、膨大な金で湾岸戦争を支えて、かなりのコミットをしました。しかし、今度は質的に違いますね。金の問題でもなく、基地の提供の問題でもなく、自衛隊そのものがついに出動しました。10年前にも考えられなかったことですし、ましてや30何年前には私たちが予想できなかった事態が生まれました。
ベトナム戦争の時にべ平連が考えたスローガンは三つでした。アメリカはベトナムから手を引け。ベトナムはベトナム人の手に。日本政府は戦争に協力するな。これは、そっくり今にあてはまるように思います。アメリカはアフガンから手を引け。アフガニスタンはアフ方ニスタン人の手に。そして日本政府は自衛隊を撤兵して手を引け。このスローガンは、今でも有効なような気がします。
運動の面で考えなければいけないのは、京都がずっと続けているんですが、自衛隊110番という制度が今こそ必要だと思います。ベトナム戦争の時にも、在日米軍兵士に働きかけて、私たちは脱走を支援しました。今度は、自衛官が直演出動しているんですから、あなた方が死ぬことはない、あなたがたが殺しに行くことはない、殺しに協力に行くことはないと、私たちは自らの国の軍隊に呼びかける必要が出てきているんじゃないかと思います。
もう一つは、市民グループとして独自の動きを形成しなくてはいけないだろうと私は思います。焦る必要はないと思いますが、12月の上旬が無理なら、来年の1月下旬、3月の上旬でもいい、市民グループだけで大結集をして、そして小泉政権に向かって、あるいはアメリカ政府に向かって No
War
という機会を作ろう。それに向かって色々な講演会ヤシンポジウムや何かを積み上げていく。それによって軸が見えてくるような気がするんです。とりあえずの緊急行動は悪いとは言いませんけれども、そしてどうなるという議論をする時期に来ているのではないか。
これは中心的な問題でないんですけれども、何か政治的議論を回避する風潮が生まれていなければいいなあという感じがちょっとします。例えば個人情報保護法案に反対する集会での宮崎学さんを巡る問題とか、内ゲバの問題とか、そういう問題をきちんとしようと言うと、だから年寄りだの左翼は嫌いなんだよ、すぐ誰々と一緒にやるのは嫌だなどと言い出すから、という反応が出てきます。でも、運動の結合をするときに、どういう人びとと、どういうことで一致をして、どこでお互いに信頼関係を築くのかということは大事にしたいな、というふうに私は思うんです。私はかつて思想や方針の違いを肉体的抹殺や、それへの脅迫によって解決しようとした集団が、それへの非を明らかにせずに口をぬぐつたままでいる時、そういう集団と行動を共にしたくはないのです。
ようやく、アメリカの世論やあるいはヨーロッパの世論の中で、圧倒的にブッシュが支持されるというのではない状況が出始めました。日本でも失業者は次々と増大している中で、小泉政権の圧倒的支持に対する批判が出てくると思います。まだ国論を二分するというところまではいっていませんが、そういうことを仕掛けるためにも今何をしたらいいのかといったら、やはり市民グループがどこに向けてそれぞれの運動を独自に展開していくのかという結節点みたいなものを決めることではないでしょうか。
ただ、私は1931年、満州事変が始まった年に生まれたわけですから、べ平連が始まった時33で、小田実が32、開高健も32でした。30代の人びとが中心になって運動をやりました。ベトナム戦争の時と何が違うかというとそこが違いますね。70代がしゃべらなきやいけない(笑)。ですから皆さん方の中で、30代とは言いませんが、40代、50代の中堅の方々がワーキンググループみたいなものを作って、目標の設定とか、最低限のスローガンを出したらどうか。本当にそういう気になっていただけないでしょうか。
(よしかわゆういち/文責・縞集部)