29 今野求さんの告別式での弔辞 (2001.9.14)
(今野求さんは、2001年9月11日、食道ガンによる頚部の腫瘍からの出血多量で逝去された。65歳。今野さんの葬儀は、9月14日、労働運動、市民運動などの関係者約200人ほどが参加して、杉並区高円寺の
長龍寺斎場にて無宗教で行なわれた。以下は、そのときに述べた私の弔辞。)
弔辞 今野求さんをおくる言葉
今野さん、あなたと始めてお会いしたのは一九六〇年代末のことでしたね。ベトナム戦争の激しさが絶頂に達していたときです。私は東京ベ平連の参加者として、あなたは全国反戦青年委員会の中心的まとめ役として活動していました。
六〇年代末から七〇年代にかけ、アメリカのベトナム戦争と、それに全面的に加担する日本政府を批判し、その基盤になっている安保条約をなくすために、そしてまた沖縄の民衆と連帯するために、六月一五日に、あるいは一〇月二一日に、あるいは四月二八日に、反戦勢力による共同の行動が何度も組織されました。反戦青年委員会、全共闘、反戦市民運動、諸党派を含め、二万、あるいは三万、ときには五万を超える参加者を集めたこれらの共同行動を成功させるために、私たちは力を出し合ったのでしたね。警察当局との折衝も大変でしたが、何よりも精力を注がざるを得なかったのは、対立・抗争を続けている一部左翼党派間の調整でした。さまざまな意見や立場がありながら、その多様性を尊重し、独自の特徴を生かしながらも、全体として統一できるような場をつくるために、頑迷な一部党派の代表を相手に、何度も徹夜の折衝を続けたことがありましたね。
そのあと、三里塚での空港反対闘争の中でも、あなたと一緒に行動する場が何度もありました。
当時、あなたは第四インター、私は共労党と、党派には属しておりましたが、お互い、大衆運動の力を尊重し、共通のルールを作り出すために、力を出し合いました。あなたは、そういう努力の中で、一貫してもっとも信頼できる仲間の一人でした。
にもかかわらず、七〇年代半ばからは、いわゆる内ゲバは激化し、殺人までが行われるようになりました。三里塚闘争を支えるための「一坪共有運動」の中では、それに反対する党派から、卑劣な脅迫を受けましたね。あなたは身の危険さえ感じ、自宅に戻れないことさえありましたね。それでも、今野さん、あなたはそうした脅迫に決して屈することなく、思想や意見の相違を肉体的な抹殺や脅迫などによって解決しようとすることが根本的に誤ったものだという立場をいささかも崩すことなく、自らの立場を貫き通したのでした。
今野さん、あなたと行動の場を共有したこうした思い出を語れば、時間がいくらあっても足りません。あなたとお別れするに際して、言わねばならぬことは他にも多々あります。強さの中に優しさと他人への理解というあなたの人柄のこともそうです。昨夜の集まりや今日の告別式に多くの人が集まっていることも、その証の一つでしょう。
今野さん、一九九六年、あなたがガンの手術を受けてから今日までの闘病のあり方も見事でした。宏子夫人の看病、介護の力はもちろんですが、あなたも、痛みや苦しみに耐えながらも、私たちに愚痴や不平を漏らすことなく、病床にあっていつもさまざまな話題で話をはずませるのでした。
今野さん、あなたがなくなられた晩、多くの人はテレビの画面に釘付けになっていました。アメリカで起こったテロ事件です。あなたがご覧になっていたら、さまざまな意見を聞かせてもらえたことでしょう。その後の事態ははなはだ憂慮すべき展開を見せています。数千の死者を出した悲劇が、それへの報復、処罰と称して、さらに数千、数万の市民の死者を出すようなアメリカの攻撃が迫っているようです。世の中の仕組みが根本的に変わっているのに、旧態依然として武力の行使に頼む国家、それをまた無条件に支持する日本――あなたが生きておられたら、こうした事態への対処の策も提案されることでしょう。
古い仕組みの時代が完全に終わり、新たな仕組みをつくりださねばならぬ、まさにその転換のときに、あなたは亡くなられました。残念です。しかし、あなたが、その活動と生き方を通じて、周囲の人びとに与えた大きなものは、その人びとによって分け持たれ、受け継がれ、生かされてゆくことと思います。
私よりあとからガンに見舞われたいい人びとが、昨年の高木仁三郎さんといい、今度のあなたといい、先に逝かれてしまうことがくやしくてなりません。「いい人はガンになる」などとアホな題の本を書いたことが申し訳なくさえ思えます。
お別れの言葉とします。今野さん、ありがとうございました。今野さん、さようなら。
二〇〇一年九月十四日
吉 川 勇 一