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日米安保条約の批判的検討を――ベトナム戦争終結25周年にあたって
(付 米国市民運動の緊急アピール)
(『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.60 2000.6.1..)
吉 川 勇 一
ベトナム戦争の歴史的評価
ベトナム戦争が終って二五年。マスコミ各紙は大きくこの問題をとりあげ、社説でも論じた。その直前に出版された東大作著『我々なぜ戦争をしたのか――米国・ベトナム 敵との対話――』(岩波書店)も、各紙書評でとりあげられ、話題をよんでいる。
この戦争は、第二次世界大戦以後最大規模の戦争で、アジアの一角の小農業国が、世界最強の財力、軍事力を持つアメリカを敗北させたという歴史的な出来事であったが、それにとどまらず、「旧来の世界の価値観を大きく変える文明史上の転換点」(『朝日』5月15日号)という大きな意味を持つものだった。
しかし、ベトナム戦争は、終結から四半世紀を過ぎた今も、未解決の大きな後遺症をあまた残してその解決が迫られており、また、大きな歴史的評価では大方の一致がみられているものの、個々の局面や事態では、まだ評価の定まっていない問題も多く残されている。ホーチミン市での解放二五周年記念式典に、これまで姿を消し「タブー視」されていた南ベトナム解放民族戦線の旗が再登場したことについては、『朝日新聞』だけが大きくとりあげていたが、それが意味するものも、この戦争の中における解放民族戦線の役割や位置付けの評価として、今後あらためて検討されなおすことになるだろう。また、坪井善明氏が紹介しているように、七八年のカンボジア侵攻問題の見直しも確かに「依然として手付かず」(『朝日』5月16日号)で、この評価は、反戦運動にかかわった私たちの間でも一致はみられておらず、今後の研究、解明、論議を待つことになる。
抜け落ちている日本の役割の評価
だが、今の時点でも明らかにできることで、欠落している重大な評価の問題をここで指摘しておきたい。それは、この戦争にかかわった日本の役割の総括であり、日本政府の責任問題である。『朝日』の社説「誤解と偏見を超えて」(4月30日)はさきにあげた『我々はなぜ戦争をしたのか』を紹介しつつ、この戦争の当事者アメリカとベトナムの問題としてそれを論じ、ベトナム側に「過剰なまでの対外警戒感」が見られると警告し、「ベトナムの指導者の間に、国際社会への誤解と偏見がひろがらない」ようにと、注文をつけている。また、『毎日』の社説「インドシナの安定強固に」(4月30日)も両国の問題として論じた上、日本については、カンボジア和平で見せた力量からも明らかなように、「インドシナの安定強化に貢献する国家」であるとし、五月にシンガポール、ベトナムを訪問する瓦力防衛庁長官の言葉を紹介したりしている。(ここでついでに紹介しておけば、シンガポールは、訪問した防衛庁長官に、日本自衛隊への基地提供を申し出ている。)こうした社説をはじめ、各商業紙が連載した特集記事でも、韓国でベトナム派遣韓国部隊の行動に対する厳しい再検討が始まっていることなどは紹介しながらも、日本がこの戦争で果たした役割を紹介したり論じたものは一つもない。
だが、私たちは、一九六五年、ベトナム戦争がアメリカの北爆開始によって一挙に拡大した時、当時の椎名外務大臣が、「日米安保条約がある以上、日本はこの戦争に中立であることはありえない」と国会で答弁し、歴代内閣は、一貫してこの戦争でアメリカへの協力を続けた。沖縄をはじめとする日本各地の米軍基地は、この戦争遂行のためにフル稼働し、日本の地理的位置に加えて、その経済力、工業力、技術力が動員された。実際、それなしには、あの戦争は不可能だったのである。だからこそ、日本の反戦市民運動、ベ平連は、「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に!」という主張とともに、「日本政府は戦争に協力するな!」を三つのスローガンとして大きく掲げて行動を展開し、日本政府と経済界の戦争協力に正面から対決したのだった。三菱重工業、日立、ソニーなども激しい批判の対象とされた。
ベトナム戦争は「マクナマラの戦争」とまでいわれたが、そのマクナマラ元米国防長官が、一九九五年になって、この戦争は行なわれるべきものではなかったと言い、大規模拡大の契機となったトンキン湾事件(第二次)が虚構であったこと、それにもとづいて大統領に戦争拡大の権限を与えたことが誤りだったということを認めた。(『マクナマラ回顧録』仲晃訳、共同通信社、1997年)。ところが、大悲劇をもたらしたその虚構と誤りを、アメリカ政府の言うままに鸚鵡返しに繰り返し、戦争に全面的に協力した日本政府や官僚、大企業などの責任が、二五周年に際しての検討の中からまったく抜け落ちてしまっていることは、どうしたことなのか。
『我々はな戦争をしたのか』
こうした姿勢は、さきにのべた『我々はなぜ戦争をしたのか』の評価の仕方にも共通している。これは、一九六七年に、マクナマラほか、戦争当時のアメリカの政治家、軍人に、さらに政治学者なども加わってベトナムを訪問し、三日間にわたってベトナムの軍人、政治家、外交官らと討論をした記録である。ただし、その議論の詳細な記録は、アメリカで『終ることなき議論――ベトナムの悲劇への解答を求めて』(Argument
Without End) と題して刊行されているが、岩波書店刊の書物はその翻訳ではない。この三日間の議論は、一時間のドキュメンタリ番組として翌九八年にNHKが放映したが(市民の意見30の会・東京の6月の「反戦映画クラブ」では、ベトナム戦争の記録映画とともにこのドキュメンタリを上映する)、その番組の制作を担当したディレクターが、マクナマラをはじめ、この議論に参加した両国のメンバーにその後で行なったインタービューなどを含めてまとめたものがこの書物であって、議論参加者のその後の評価や感想まで含まれているところから、ある意味では議論の議事録自体よりもいっそう興味深いものとなっている。この書物の著者、すなわちNHKの番組の制作者が、一九六九年生れ、つまり戦争が終った時は五歳だった若い世代であることにも注目したい。これは歴史の追体験についての貴重な記録にもなっているのだ。
話を、この書物の紹介のされ方に戻すが、どの書評も、議論を実現させたマクナマラのイニシアティヴや勇気を賞賛しつつ、しかしマクナマラらアメリカ側参加者の傲慢さや無神経ぶりを批判している。(『朝日』4月30日書評欄、北岡伸一、『毎日』4月16日書評欄、池澤夏樹、ほか)
『毎日新聞』は、NHKによるこの番組の放映直後の九八年八月一五日、終戦記念日の社説でもこの議論をとりあげ、「徹底的に検証しようという試みは画期的であり、こうした努力の継続が戦争回避につながると信じたい」としながら、同時に「翻って、日本が被害を与えたアジアの国々や戦勝国との間で、こうした検証の試みはなく、何よりも戦争の惨禍を語り継ぐ教育が十分ではなかった」と、日本の一五年戦争への姿勢を批判していた。『毎日』の書評では、池澤氏が「第二次大戦の後、日米の間、日中の間、東南アジアの国々との間でこんな対話は成立のしようがなかった。何が違ったのか、それがわれわれにとっての課題であるだろう」とのべている。それにはまったく同感だ。だが、ことは、直接にはベトナム戦争の評価なのだ。なぜ、その検討がアメリカとベトナムの問題に限られ、日本の立場がはずされてしまうのだろう。
日米安保条約の果たした役割
ここに立ち入れば、当然、日本の無条件戦争協力をもたらした日米安保条約の評価に入らざるを得なくなるからだ。戦争当事者が、今になってまったくの誤りだったと認めているものを、無条件で受け入れて戦争に協力させたものは、まさに当時の椎名外相が言ったように、日米安保条約があったからこそだ。二五年を経た今、アメリカやベトナムに教訓をたれたり、注文をつける前に、まず私たち日本人としては、この誤った戦争への協力を可能にさせた日米安保条約体制について、その重大な欠陥と危険性とを検討すべき時ではないのか。一九六五年以降、日本政府や経済界がとってきた戦争協力の一つ一つの政策、決定を、その時々の反戦運動の主張とつき合わせながら、その当否を議論するイニシアティヴと勇気こそが、日本にとって必要なのだ。
自分は何をして何をしなかったのか
自らの立場への批判的検討をはずして、訳知り顔に「客観的」に論ずる風潮は、ほかの分野でも私は感じている。例えば話題となったアイヒマン裁判についての記録映画『スペシャリスト』やその製作者による著書、ロニー・ブローマン他『不服従を讃えて』(高橋哲哉ほか訳、産業図書)の紹介や評価のされ方である。
この本で紹介されているミルグラムの実験の話は、ベ平連の初期に、小田実さんが何度も私たちに強調した話であった。そのとき私は衝撃を受け、この話から不服従の重要さを汲み取ったつもりだったが、「悪の凡庸さ」ということには思いがいたらなかった。確かにハンナ・アーレントが言うように「道徳的に言って、はっきりしたことを何もやっていないときに有罪と感じることは、有罪であるのに無罪であると感じるのと、ほとんど同じくらい悪い」という指摘は、そのとおりだと認めるが、しかし、今の日本にいる私たちは「道徳的に言って、はっきりしたことを何もやっていない」のかどうかを、もっと自分にひきつけて考えなければならないのではないかと感じている。
この「悪の凡庸さ」の問題や、「自らの行動の意味に直面することを拒み」、「上司から受け取った指示の範囲内で」「純粋に技術的な仕事」をやるという問題に関連して、今、日本で主に論及されているのは、警察の腐敗とその隠蔽に関わった人びとの責任の問題であったり、東海村での事故に関わった技術者や責任者の問題であったりなのだが、はたしてその範囲の問題だけとして論じていていいのだろうか、警察の問題や住友の問題に特化することで、自分を切り離していないのか、周辺事態法や国歌・国旗法などの法案が国会を通過した時、人びとは――つまり、私やあなたを含む一般の人びとは――何をしたのか、何をしなかったのか、それを考えなければいけないのではないか、という思いが強い。
米国市民運動の緊急アピール
話をベトナム戦争二五周年と反戦運動の姿勢にもどす。アメリカの市民運動のことを紹介しておこう。アメリカでは四月三〇日、ニューヨークでこの日を記念する大きな行事が開かれた。まだその詳報は入手していないが、日本からは元ベ平連代表の小田実さんが参加している。いずれ、彼からその模様が伝えられるだろう。
もうひとつ、この二五周年行事を前に、アメリカの運動が発表した緊急アピール「われわれは忘れてはいない!」を翻訳、紹介する。そのアピールでは、短い文章の中で、ベトナム戦争の持つ意味と、現在の問題がほとんどすべて、しかし簡潔に、列挙され、次の世代に何をどう伝えてゆかねばならないかが明らかにされている。これを、戦争当事者だったアメリカの運動だから当然、とすませてはならないだろう。
日本の私たちとしては、ベトナム戦争終結から四半世紀を経た今こそ、日米安保条約体制への根本的な批判、再検討が必要なのだ。私たち、市民の意見30の会が提唱している「日米平和友好条約」の構想も、それにとって代わるべき市民からの提案なのである。
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【アメリカの反戦市民運動 ――Call to Remember――】
緊急アピール 「われわれは忘れてはいない!」
――ベトナム戦争終結25周年を迎えるに当たって――
2000年4月30日は、ベトナム戦争終結25周年に当たる。
ということは、まるまる一世代の全体が、その後の世代とともに、あの抗争の恐るべき惨事を知らずに生れ、成人に達したというわけである。
だが、われわれは忘れてはいない……
何百万というベトナム人の死者、そして、無辜の人びとの虐殺をかろうじて生き延びはしたものの、傷つけられ、身体にさまざまな障害を受けたさらに何百万というベトナムの人びとのことを。
われわれは忘れてはいない、カンボジアという国家が破壊されたこと、アメリカの対インドシナ政策から生じた大虐殺のなかで殺戮された何百万というその国の人びとのことを。
われわれは忘れてはいない、貧しい農村の上にナパーム弾や黄燐爆弾が雨のように降り注ぎ、あとには焼け焦げた死体と、かつては家族が暮らしていた穴だけが黒々と残されたことを。
われわれは忘れてはいない、ラオスの民衆の半数が、アメリカの集中爆撃のために、何年にもわたって難民として暮らさざるを得なくされたことを。
われわれは忘れてはいない、ワシントンがベトナム人におしつけた「政府」によって、「虎の檻」をはじめ、さまざまな拷問がベトナムの愛国者の上に加えられたことを。
われわれは忘れてはいない、平和に暮らすことを望んでいた人びとに、ワシントンの意思を押し付けるよう命令を受けた米国軍隊が、ミ・ライ(ソンミ)をはじめとする何百という村落で、老若男女を殺戮したことを。
われわれは忘れてはいない、枯葉剤やその他の有毒化学物質が、ベトナムの森林を破壊し、その結果として、四半世紀を経た現在でも、深刻な先天性欠陥が世代から世代へと引き継がれていることを。
われわれは忘れてはいない、病院、学校、橋梁、道路、その他の非軍事インフラストラクチュアを、「石器時代に戻すまで爆撃する」という、ホワイトハウスとペンタゴンが下した政策決定のことを。
われわれは忘れてはいない、南部諸州での人種差別や、この国のいたるところにある人種主義を終らせようと、公民権運動が力を結集している時ですら、わが国の政府は、アフリカ系、ラテン・アメリカ系アメリカ人の比率が不当に高い地上軍を、アジア人に対する犯罪的戦争を遂行する中で、弾丸の餌食として送り込んだということを。
われわれは忘れてはいない、侵略に抵抗するようになった反戦運動が、公民権運動によって活気づけられ、力づけられたこと、そして公民権運動の最も勇敢な指導者たちが、この二つの運動をあわせた立場ではっきりと声をあげるようになったということを。
またわれわれは忘れてはいない、5万8千人以上のアメリカ人――そのほとんどすべては、勤労者階級の息子たちや娘たちだったのだが、1万マイルも離れたところに座す傲慢なものたちの命令によって戦闘のなかに投げ込まれ、生命を奪われたことを。
われわれは忘れてはいない、何十万という帰郷した米兵のうち、負傷を負い、かつ戦争のトラウマによって精神も傷つけられているということを。
われわれは忘れてはいない、アルコールや麻薬の中毒になった人びと、絶望の結果の行為のために投獄された人びと、そしてまた、いまもなお、ホームレスとして暮らしている人びとのことを。
われわれは忘れてはいない、わが国の政府が、こうした復員兵士たちをどのように見捨ててきたかということを。
われわれは忘れてはいない、愛する者が戦場へ送られ、あるいは愛する者がこのひどい愚行に抵抗して投獄されたり、外国に追われたりして、何千という家庭が崩壊させられたことを。
われわれは忘れてはいない、ようやく和平が訪れ、そしてわが国の政府が賠償金でベトナムの再建を援助することに同意したあと、その合意がすぐに裏切られ、そしてついに実行されることがなかったということを。
こうしたすべてのことは、わが国の生活の中に、大きく裂けた傷口を残し、それは決して閉じられていない。
そしてわれわれは忘れてはいない、ベトナム人民が合州国の政策立案者どもの意思に屈することがなかったからこそ、そしてアメリカ人民の大部分がいつまでも続く残虐なこの戦争に反対するようになったからこそ、ついにこの戦争に終止符が打たれたのだということを。
われわれの選んだ指導者たちが、14年にわたって毎日嘘を言い続けたあとで、何千という抵抗者たちが投獄されたあとで、ケント州立大学、ジャクソン州立大学、その他の大学のキャンパスで抗議する若者たちが殺害されたあとで、兵士たちが戦闘に従事することを拒み、軍隊の内部で反戦運動を組織するようになったあとで、非暴力活動家のティーチ・イン(討論集会)やシット・イン(座り込み)、そして大衆的な大デモなどによって、リンドン・ジョンソン大統領とリチャード・ニクソン大統領にその公職から去るように迫る多数派の勢力が形成されたあとで、――ベトナムの民衆と合州国の民衆は、平和を力で押し付けることができたのだった。
これは、高潔な人間精神の大きな勝利の一つであった。
われわれは忘れてはいない、こうしたことのすべてを。
そしてわれわれは、これからもそれを決して忘れることはないだろう。
それに続くアメリカの政策立案者たちは、われわれにそれを忘れさせ、この戦争を美化し、「ベトナム戦争が念頭から去る」ようにさせ、「ベトナム・シンドローム」を終らせようと努めてきた。だが、「ベトナム・シンドローム」とは、他人の帝国主義的計画のために、殺したり殺されたりすることに対するアメリカ民衆の拒否を意味しているものだ。
権力の大広間に座している男どもがこの戦争から学んだことは、戦争を今「うまく」やってのけるのに必要なことは、空からのハイテク殺戮(可能な場合には、米軍ではなく、その代わりとなる軍隊の使用)であり、経済制裁(それは結局は食料や医薬品の欠乏による子どもたちの死などをもたらすのだが)であり、家庭に届けられるテレビ・イメージの管理であり、そして米国軍隊の損傷の回避、さらには、それらを「人道主義」と「不介入」の名において行なうことだ、ということだった。
われわれが学んだことは、それとはまったく異なる教訓だった。すなわち、権力の傲慢さであり、諸民族の自決の権利についてであり、政治上の相違を平和裡に解決する必要性についてであり、そして、国際的連帯ということとグローバリゼーションなるものとはまったく別物だということなどだ。
われわれは、戦争を遂行したり、戦争の準備をしたりすることが、国家財政への第一義的要請となった場合、われわれの日常生活、公教育、そして公衆衛生の面で多大な犠牲をこうむるという経験もした。
さらにわれわれが学んだことは、われわれが決意を堅め、組織化され、統一をつくりだした時、われわれの大義が正しいものであった時、選挙で選んだ議員や政策決定者に迫って、われわれの意思に従わせることができる、ということでもあった。
われわれは、アメリカの介入、大企業の利潤と貪欲によって推し進められる外交政策、全世界の人民の権利に対する侵害に反対しつづけることを確認する。
これらは、われわれが、新しい次の世代にそのまま引き渡してゆくべき、記憶であり、道義上の責任である。
われわれは、米国がこの戦争の終結に当たって調印した諸条約を国が履行してゆく第一歩として、わが国政府が、「エージェント・オレンジ」をはじめとする枯葉剤の使用によって起こされた環境破壊や、両国の国民に与えられた健康上の悪影響を除去するため、無条件に、ベトナムと協力してことに当たる決定をするよう要求する。
われわれは、皆さんが、この春のベトナム戦争終結25周年を迎えるにさいし、われわれと行動をともにするよう、訴える。
(このあと、「ベトナム和平25周年委員会」の連絡先として、ニューヨークにある同委員会のアドレス、およびレズリー・ケーガン、スティーヴ・オールト、マーリー・ラトナーの3名のEメール・アドレスが記され、緊急アピール「われわれは、忘れていない!」の賛同者の長いリストが続いており、さらにこのリストへの参加やカンパの呼びかけ、各地での行動予定を知らせてほしいという訴え、ベトナム反戦運動の頃の写真を提供してもらいたいという訴えなどが続いているが省略。吉川勇一訳)