news-button.gif (992 バイト) 17 こういう宣言運動をはじめませんか 
     
(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.55 1999/08/01号掲載)

 

こういう宣言運動を始めませんか

「君が代」は歌わない、「日の丸」掲揚にも立たない

 

吉 川  勇 一 

 一九九九年という年は、おそらく日本の歴史の上で(日本という国が存続できればの話だが)特記される年になるだろう。新ガイドライン関連法を始め、盗聴法、そして「国歌・国旗法」、憲法調査会と、自由、民主、公明をかかえこんだ政府は、数々の悪法を一気に押し通してきた。

 私は、前号のこの『ニュース』で、周辺事態法の通過と関連して、「今の状況の下で、すぐ個人レベルの抵抗の戦線に身構えようという」姿勢に批判的意見をのべた。事実、何人かの知識人が「新ガイドライン関連法」への個人としての不服従宣言を発表した。それ自体に反対はしないが、実際問題として、周辺事態法が今すぐ、それも自治体や公的機関、企業ではなく、一個人に直接服従を求める形で発動されることはありえないだろう。だから、この不服従宣言は、ある姿勢の表明としては意味があっても、現実生活の上ではほとんど影響はない。関連法案については、自治体などを巻き込む組織的反対行動を創意的に進めて行くこと(たとえば、港湾法を活用しての軍艦寄港阻止など)が大切だと思ったからだ。

 だが、今、国会を通過しようとしている「国歌・国旗法案」は、個人とのかかわり方が大分違う。私たち一人一人の日常の生活の中に直接入りこんでくる問題だからだ。

 たとえば、大相撲、たとえばサッカーやボクシングの国際試合、たとえば日本シリーズの開幕、たとえば各国オーケストラの国際親善コンサート、もっと生活に密着したところでは、小・中・高校での入学式、卒業式、町内の運動会等々。そこでは、「日の丸」が掲揚され、「君が代」が演奏される。その場にいる人たちには起立が求められ、斉唱がうながされる。

 政府は、強要はしないといい、罰則はないと言いながらも、学校でそれに従わないものにはどうするのかという質問に対し、「従ってくれるまで、指導と説得を繰り返します」と答えている。そういうことを強制というのだ。

 したがって、この法律に対しては、個人レベルでの対応がすぐ問題となる。サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニーの日本公演で、指揮者が聴衆に起立を求め、日本とロシアの親善の象徴としてまず両国国歌を演奏します、と言った時に、自分だけ、谷間のように座り続けていることができるのか。スポーツの試合などで立たなくても、これまで非難の声が出ることはあまりなかったと思うが、これからは、もしかすると、「立ちなさいよ」などと周りから言われるような場面が出てくるかもしれない。子どもの入学式で、顔見知りの近所の人たちがみな起立しているのに、自分だけ席を立たないということができるのか、この場合など、どこの誰さんと顔が知れているだけに、自分一人だけ座りつづけ、口を動かさぬというのは、ちょっと勇気が要ることにもなるだろう。

 戦争にだけは絶対行かない、どんなことがあっても徴兵には応じない、教え子を戦場には行かせない、などということが、これまで時々口にされた。それはいいことだ。だが、「君が代」演奏に起立を求められて拒否できないようで、どうして戦争への参加を拒否できるだろう。その時は、指導・要請などの問題ではなく、投獄・処罰がついてくるのだから。

 ちょっと勇気は要るだろうが、この際、「君が代」は歌わない、「日の丸」掲揚にも立たない、という個人宣言の運動を全国に広めるという提案を私はしたい。先にのべたように、この宣言は、すぐさま実効性をもつ。その経験を相互に交流させ合い、組織的に行なわれるようにもなるといい。大分以前だが、この『ニュース』に載った横浜の野沢信一さんの「最後の授業――みんなが参加した手作りの卒業式」(22号、94年3月30日発行)は、心温まるいい体験の報告だった。こういう実践がどんどん集まったらいいと思う。

 各方面からは、さまざま、この「君が代」「日の丸」強制を批判し、反対する共同声明、集会、デモなどが続いているが、まだ、こういう個人宣言運動の提唱は出ていないようだ。私は、これから知人や仲間の反戦グループに、この相談をもちかけ、そういう提唱をするアピールを用意したいと思っているところだが、この会の会員、読者のみなさんのご意見や、いろいろな関連の提案がよせられるよう、希望している。(一九九九・七・九)

 (この私の提案について、ご意見が寄せられています。「論争・批判」欄の No.6 にそれを掲載しています。)