ですが、その2度目の佐高さんの文でも、私の違和感は解消できなかったので、再度、投書欄に投稿しました。ところが、『週刊 金曜日』には、読者からの原稿は、1回掲載すると、以降2ヵ月間は同じ人の原稿は掲載しないという規定があるということで、私の原稿は載らないという通知が同誌編集部からありました。
確かに投書欄にはそういう注意書きが載っています。実は私は「論争」欄は別扱いかと思っていたのですが、それも含めてのことだという話でした。最初からの規則だということですからやむをえませんので、以下に、載らなかった私の2度目の投稿を公開することにします。
なお、それはそれとして、この規則によると、『週刊 金曜日』誌上では。ある提言への批判が載っても、それへの反論は2ヵ月間はできないことになり(ただし、佐高さんのような編集委員は別)、およそ論争というものが、システムとして成立しえないことになってしまいます。これもおかしなルールだな、という気がしました。
同誌編集部によると、たびたび載せると、めざとい読者からすぐ抗議の電話が来るので……、という話でしたが、投書欄にこのような規則をきめることで、「投書マニア」からの度重なる投稿を避けようとすること自体が機械的であり、ある意味では編集部の自主性のなさ、あるいは安易な逃げではないか、
という感じもした次第です。このことは、2ヵ月立ったら,同誌に投稿してみようかな,といささか皮肉なことも考えました。
(この件については、「ご案内・ニュース」欄にその後の経過の報告があります。ご覧下さい。)以下が,今回,載らなかった私の原稿です。
違和感は消えません東京都・保谷市 吉川 勇一 文筆業(68歳)
3月19日号「風速計」で、佐高さんの文章を拝見しました。
『現代人物事典』は、私も市民運動の分野で編集の一端にかかわりました。その人選については、刊行直後からいろいろな意見を聞きました。私個人に関係することだけに限りますが、私の人物評を武藤一羊氏が書き、武藤氏の評を北沢恒彦氏が書き、そしてその北沢氏を私が書くという循環ができてしまっていることなど、どう考えても美的にうまくありません。「仲間ぼめ」批判は当たっている側面もあると思います。しかし、欠陥は欠陥として、あの事典は画期的なものだったと思っています。とにかく、議論はあるでしょうが、それは『現代人物事典』論としてなされればいいことで、それが久野収さんあるいは竹内好さんと鶴見俊輔さんとを大きく分ける拠り所にはなりません。
日高六郎さんや加藤周一さんのことについてもそうです。一、二のエピソードで人物全体の評価はできません。それと反対の事実を示すエピソードだってあげられるからです。また、久野さんについても、あげつらえば、「久野さん、あれはまずかったですね」と言いたいようなエピソードもあるでしょう。しかし、それをもって久野評にすることはできません。やるのだったら、もっと説得力のある論拠をもって鶴見俊輔論、あるいは日高論、加藤論として展開されるべきで、少なくとも久野さんを偲ぶ短い文章の中で触れるような問題ではないと思います。
私の意見は、前回の「論争」欄で述べたことでつきていますので、これ以上佐高さんとやりとりするつもりはありませんが、今度の「風速計」の文でも、違和感は消えていないということだけは申しあげたく、再度投稿いたしました。 以上
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