『東京新聞』 1975. 8. 5
黒人脱走兵の身の上話
評論家 鶴見 良行
テリー・ホイットモアは、元米軍海兵隊員である。
黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺された南部のメンフィスで生まれ、高校卒業と同時に〔徴兵検査を受けて海兵隊に入り、ベトナムでたたかそ負傷、岸根の軍病院で加療後、日本人の恋人の手引きで脱走、べ平連やジャテック(反戦米兵援助日本技術委員会)の助けを借りてソ連経由で、スウェーデンに亡命、現在にいたっている。
それがこの黒人脱走兵の語る身の上話の大筋である。書物の原題が、「メンフィス―ナム―スェーデン」となっているのも、かれの地理的移動と精神の軌跡をあらわしている。本当は、ベトナムをあらわすナムとスウェーデンの間にニホンが入っているのだ。
四面海で囲まれ、従って国境の概念が自明の理となっているこの国ニホンからどうやって米人脱走兵を運びだすか。そしてその行為によってひとりの人間が、国籍を離脱する。いったいそれはどういう意味をもつか。またフランスデモのいっとき、掌を重ねあった隣人たちが解散と同時に巷の群衆に溶けこんであとはいつ会えるかもしれぬという関係とはちがって、かれをかくまった日本人市民は、かれの二四時間の全生活を保障しなければならない。ひとりの人間が、ゆきずりの隣人の全生活を保障するなど、いったいできることなのか、どうか。
この書物の翻訳者である吉川勇一や後にスウェーデンまで〈その後の脱走兵〉調べにゆくほど情熱を注ぎこんだ小中陽太郎などとともに、私たちはずい分、熱っぽくこれらの問題を論じあったものだった。
べ平連の運動には、適度に観念的なところと適度に行動的なところがあって、その歯ぐるまがひびきあい、運動が伸びてゆく、そういった時代でもあった。
だが当の脱走兵の語りには、これ見よがしの深刻さがまったくない。それがこの書物を印象強いものにしている。
かれの思想が浅薄だというのではない。
「私は今、人を人として尊重し、人の思想を尊重し、人の生き方を尊重する。私は日本の人びとにそれを教えられた。」
それでじゅうぶんではないか。
かれを誠心誠意愛した日本女性タキ、かれをかくまったイツギ医師、かれらにたいする想いがこの書物にこめられていないというのでもない。
スウェーデンでかれを訪ねあてた小中は、かれを最初にべ平連に紹介した日本人記者の名刺と医師がかれに与えたシャツを見せられる。
『日本海を越え、シベリアを越えてシャツと名刺は、ついに彼の肌身を離れることがなかったと思うと感動する。」
日本人なら〈一期一会〉と表現するところを、かれは淡々と、むしろユーモアをもって語り、小さな行為をもってしめした。
そして今かれは、資本主義国アメリカに残る黒人見弟たちに「俺はもう帰らない」と宣言するまでにたくましくなった。
一期一会の功徳、これにつきるものはない。
|
|
『北海道新聞』 1975.
8. 12
『西日本新聞』 1975. 8. 13
福富節男・東京農工大助教授
テリーは黒人ゲットーで人種差別の中に育った。だが「黒人解放運動など知っちゃいない」。運動のことを知るのはテレビのニュースからだが、それは衝突事件や破壊行為ばぱかり報道し、なぜ事件が起こったかを知らせようとはしない。テリーも「なぜ」を問うことなく軍国少年に成長し、猛訓練に耐えて海兵隊の一員となったことを誇りに思う。やがてベトナムに送られ、激戦の中で重傷を負う。
戦闘中に目の前に現れた一人の「ベトコン兵」が「私」を撃たずに見ていただけなのは? もしかしたら皮膚の色のせいだったのではないかと考える。神奈川の軍病院で療養中に親しくなった日本女性から、なぜベトナムで戦うのかと問われて以来、その問いは避けようとして避けきれなくなる。身をよじるようにしてついに脱走の決意に達する。アメリカは「あの国」となり「私の国」ではなくなる。
本書は一九六八年にべ平連とJATEC(反戦米兵援助日本技術委員会)の手で脱走した黒人兵テリーの手記である。
べ平連に接触し、日本人家庭を転々とし、ついに脱出に成功する経過にはスパイ映画もどきの画面もあるが、それとは別のさまざまな角度から読ませる面白さがある。
彼が生活の中で感ずる差別のさまざまなひだ、ベトナムの村の「平定」と称する皆殺しへの嫌悪(けんお)、アメリリカの侵略性への自己批判の弱さ……。しかし戦争と国家、家族と社会について、それからの離脱について、訴える所の多いのは、彼の良き感受性と、力まず赤裸々な彼の語り口のせいであろう。
四人の若ものが米艦イントレピツド号から脱走して、べ平連と接触することに始まる脱走兵援助は、JATECなる仕組みを生み出した。さまざまな形の協力が多くの人びとに対して求められ、好好意もって受け入れられた。参加した人びとはすべてを明確には見通すことのできぬ活動の中でも、己の仕事をみごとに相対化した。時に意見の対立があっても、全体を破局に導くことは避けられた。
小中陽太郎が付記に書いているように、各人は自発性と創意と愛とをもって組織し、育てた。
初めての脱走が発表され、強烈な反反戦の意志表示として、脱走の意味が初めて日本人に公に問われたころ、例によって早速「脱走より軍隊内反乱が重要だ」と自明の論評を書いた人もいた。だが、この困難な仕事をしていた人たちは、脱走兵を保護し、援助することの意味を問い続け、やがて、一度は脱走したが反戦活動のためにあえて基地に戻って行く兵士を生み出し、米軍内の9サボタージュや反乱を組織する兵士たちとの実際的な連帯を築くことになる。それは気のきおいたつもりの論評から生まれることではない。
脱走兵は、テリーのような場合とは限らぬ。米国に戻って刑を受けたもの、他国の社会に適応せず今も世界を放浪しているもの、脱走兵をよそおったスパイなどさまきまだ。それらについての一貫した記録はない。
|