『兄弟よ 俺はもう帰らない』書評(5)
『神奈川新聞』書評欄・『夕刊フジ』書評欄

 

『神奈川新聞』 1975. 8. 2

ベトナム脱走黒人兵の手記

 昭和四十三年三月、ベトナム戦線から脱走した六人のアメリカ兵がべ平連のルートによって北海道から漁船で脱出、ソ連の警備艇に引き継がれ、ソ運経由でスウェーデンに亡命した。イントレピッド号の四人の脱走兵が世界を騒がせてから四ヵ月後のことだった。この本はその六人の一人で、当時二十一歳だった黒人兵の手記である。日本で脱走兵を援助したべ平連やジャテック(反戦米兵援助日本技術委員会)は既に解散し、脱走援助の具体的な発表を何もしておらず、しかも今まで脱走当事者の詳細なレポートがなかっただけに、希少価値が高いといえる。
 文も平明で、しかもドラマチックだ。
 テリーはテネシー州メンフィスの金属工の息子。ちゃめっ気や冒険心もあったが、信仰心の厚い母親の影響でメソジスト系の信者で、卒業する時には総代にさえなったまじめな青年であった。大学へ行かない限り高校卒業生は軍隊に入るしかなかった。彼は募兵係の誘いにのって海兵隊を選んだ。新兵訓練所とベンドルトン基地で四ヵ月間激しい軍事教育を受けた後、彼はベトナム戦線に配置された。その時まで彼はベトナム戦争に参加することはアジアの平和を守り、アメリカを守ることだと固く信じていた。
 しかしベトナムで、罪のない婦人、子供まで虐殺する戦争の本質に接し、彼の考えは少しずつ変化してくる。戦場には「殺せ(キル)殺せ(キル)」の合言葉しかないのだ。そして彼も重傷を負い横浜の岸根野戦病院へ送られる。健康を回復して外出した彼の目に映った横浜の街は平和で、うそのような光景だった。その街で彼はタキという女子大生と知り合った。彼女はは人種差別観を持っていなかったが、アメリカのベトナム政策にはに批判的だった。彼は彼女と関係を持つまでになるのだが、健康になった彼の帰りを待っているのは戦場だった。彼はもう人殺しをしたくなかった。その彼の心情をくんでタキは大胆にも新聞記者を通してベ平連との接触をはかる。無事ベ平連の組織に、”保護”された彼はしばらくの間東京都内のシンパの家にかくまわれた末、同じような脱走兵とともに北海道へ飛ぶ。発見されれば軍事裁判で重労働五年の刑を受け、不名誉除隊となって市民権まではく奪されるだろう。それでなlくても人種差別の激しいアメリカでは、不名誉除隊の黒人は社会から完全にスポイルされる運命にある。しかし彼は決断した。ソ連では”大歓迎”を受け、テレビにも出演させられるが、目的地のスウェーデンではパスポートを持たない彼らは第一夜を警察の留置場で過ごすことになる。最も多い時で七百五十人のアメリカ脱走兵や徴兵忌避者がいたスウェーデンでは彼らを“亡命者”と認めてはくれても、ソ連のように”国賓”扱いではなかった。迎えにきてくれたアメリカ脱走兵委員会の先輩たちが荒れはてたバラックの事務所で言った言葉は「諸君は今晩どこに泊まるつもりかね?」だった。彼が持っている金はソ連の平和団体がくれた三百ドル。しかもスウェーデンで外人が就職するには許可がいり、三ヵ月もかかるというのだ。先輩のジョイの助けで当面住むアパートを獲得した彼は、黒人との間の子供を持ったチキータという女性と知り合い、同せいする。そして反戦映画に出演したりしたが、やがて彼女とも別れる。今は保険会社に勤める女性を妻に、電気技師になるべく職業学校に通っている。母親から帰国するよう手紙が再三来ているそうだが、彼には人間を差別するアメリカには帰る意思は全くないと言い切っている。
 脱出までの記録にはスリルもあり、楽天家らしいユーモアもあるが、全編を貫いているのは差別されつづけた黒人の哀歓と喜怒であ理、戦争に対する告発である。しかも興味深いのは多分彼の永住地となるスウェーデンよりも、”国賓”“珍客”として政治的に利用しながらも、彼らを歓迎してくれたソ連よりも、安保条約によってベトナム戦争の後方基地となった日本の国民に最も好意を寄せていることである。そして自分に目を開かせてくれたタキという女性に限りない感謝と愛惜の念を寄せている。人間味ある反戦記録というべきだろう。

back.GIF (994 バイト)    top.gif (3079 バイト)

 

『夕刊フジ』 1975.8.14

アメリカを捨てた逃亡黒人兵

 コン・チェン。あの神に見捨てられた丘。疑いもなくベトナムで最も恐ろしい激戦地の一つ。それはいかなる猛者にとっても身の毛がよだつ場所を意味していた。
 一九六七年十二月十五日。斥候に出たわれわれはジャングルから開けた場所に出た。五、六メートルも行かぬうちだった。世界が一挙に阿鼻叫喚の巷と化した。ありとあらゆる火器が一斉に火蓋を切った。
 この戦いでやられた。岩の土にあおむけにぶっ倒れた。目の前は真っ暗。ひどい痛み、出血もひどい。足を見るのがこわかった。
 ――やがて横浜の陸軍病院に移され、まもなく松葉杖で歩けるようになった。最初の外出の日。中華街に向かう市電の中に彼女がいた。後を追って繁華街の喫茶店へl。店のジュークボックスにはウィルソン・ピケットの「ソウル・マン」がかかっていた。それが、女子大生タキだった。
  夢のような毎日。明日は二十一歳の誕生日という夜、ベトナムヘの帰隊命令が出た。畜生、私はタキのアパートヘタクシーを走らせた。あと数時間しか残っていない。彼女はいった。「どうしてあなたたち黒人が戦わなくちゃいけないの? アメリカがあなたのために何をしてくれてるの?」
 すべてはここから始まる−べ平連などの手でスウェーデンに逃れた、アメリカヘはもう帰らないいう黒人海兵隊員の自伝。心うたれる。吉川勇一訳。

 

back.GIF (994 バイト)    top.gif (3079 バイト)