『公明新聞』 1975. 8. 18
黒人脱走兵の身の上話
評論家 武藤一羊
この本の書評者として私はあまり適当でないかもしれない。なぜなら、著者テリー・ホイットモア言うところの「アル・カポネの手先」の一人として私も登場人物の一人だからだ。
「アル・カポネ一味」とは、六七年ベトナム戦争のエスカレーションのさなかに、アメリカ空母『イントレピッド』号からの四人の反戦脱走兵を助け、スウェーデンに脱出させた「ジャテック」(反戦米兵援助技術委員会)のことである。
べ平連とこの組織は多数の市民が家族ぐるみ参加する不定形の地下水脈として数十人の脱走米兵をたすけた。
「たすけた」というが、それはひどくしんどい、カッコ悪い仕事だった。「人間をあずかる」――それは大義名分でわりきれぬ、ほれ込んだり、憎んだり、怒ったりの無限地獄のようなところがある。脱走米兵のなかには麻薬中毒あり、アル中あり――それが崩壊する軍隊の姿であった――という有様であった。芥子粒ほどの反戦の志、ベトナムの人びとの顔のイメージ、そして若い米兵たちとの間に悪戦苦闘を通じて生じてきた人間的きづな――それらが「アル・カポネの手先」のささえであった。
この本の著者テリー・ホイットモアは、そのような米兵の一人だった。背の高い、ほれぼれするような爽やかさを持つ黒人青年だった。ベトナム戦争での「勇士」、ジョンソン大統領からダナンの軍病院で勲章を贈られた模範的海兵隊員。彼は七二年十二月コンチェンでの解放戦線軍との戦闘で、年若い「ベトコン」兵士たちが、黒人である自分だけをわざと見逃したのではないかという疑いをいだく。心に釣針のように引っかかるこの疑いを手がかりに彼の一生は大変化をおこすのである。重傷を負って日本に送られ、座間の病院がらベトナムに送り還らされようとする過程で、彼は脱走し、「ジャテック」の手で日本の家庭にかくまわれ、北海道から漁船でソ連へ、そしてスウェーーデンヘと脱出し、そこで新しい人生を始めるのである。
こう書くと簡単だか、それが一人の黒人青年の一生にとってどれほど大変な出来事であったか、また逆にいうと、六〇年代後半のベトナム戦争とは、どれほど深くこの世界の人間一人ひとりの人生に喰いこみ、その運命を変える出来事であったかということが、この本を、黒人の語り口特有のスピード感と、漂漂としたユーモアに運ばれて読みすすんでゆくと、あらためて見えてくる。
ホイットモアの故郷、テネシー州メンフィスでの子供時代、海兵隊入隊とベトナム侵略軍兵士としての経験、そして日本で会い、彼にはじめてベトナム戦争批判をぶつけ、そして彼を愛した女性タキ、「私を一人の人間として扱っててくれた」日本の人びと――イワギ博士、べ平連の人びと――ソ連での奇妙な経験、そしてスウェーデンでの生活、ホイットモアのこれまでの生涯に即してこれらが語られるをきくとき、彼をたすけた多くの日本人にとっても、自分たちの仕事の意味がはっきり見えてくる。
その意味とは? それはマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のような文体で書かれたこの本を一読してさがしてほしい。
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『朝日ジャーナル』 1975.11. 21
クールに脱走した人間愛好者
小中 陽太郎
血みどろ、というか、底抜け、というか、こんな人生が、現実にあろうとほ思われない。しかも、その恐るべき限界状況をついに切り抜けてしまうのだから、この本の主人公は、これはもう超人である。その男の合言葉は、
「冷静(クール)に行こう」
こんな男を相手にしていたと思うと、われながら恐ろしい。
この男は、殺人者にして、米海兵隊の勇士、嬰児殺しにして(あるいは、子ども殺しだからか)故ジョンソン大統領からの勲章拝領者、傷病兵にして性的超能力者、女性差別主義者にして熱愛者、愛国者にして、そして、ああ、脱走兵、真の意味で人間愛好者。
それが、アメリカ黒人テリー・ホイットモアである。
まったく「ジャテック」(反戦米兵援助日本技術委員会)は、その脱走志願者に、何枚もペーパーを書かせ、入れかわり立ちかわり、練達の英語の話し手が対話を試み(そして、そのために、何人ものスパイが明らかになったのだが)、しかし、それでも、「ジャテック」は、この男について、何もワカッチャいなかった。
一方、彼もまた、「ジャテック」を「アル・カポネ」と信じていた。
それでいて、そのどちらも、相手の認識において、毫も、あやまつことがなかった。
ワカッチャイナイガ、仲間だった、としか言いようがない。
テリーは、南都メンフィス生まれの活発な黒人で、高校を終え、海兵隊に入る。ベトナムのコンチェンの大激戦で勲功をたて、カムラン湾の病院でジョンソン大銃領の見舞いを受けた。
病床で彼は考えた。
「おれはなぜ撃たれなかったのか。もしかするとおれが黒人だったからではないか」
日本の病院にまわされ、彼は電車の中で一人の日本人女性と知り合う。彼女はテリーに言った。
「なぜ、あなたは罪もないベトナム人を殺すの」
テリーは脱走した。短い逃亡生活ののち、行き場を失った夜、彼女が「べ平連」を思いついた。
そして、あるジャーナリストに相談し、その地方紙の記者は、深夜、「ジャテック」に連絡をとって来た。
一九六八年、テリーは、金鎮洙(キムジンスー)(キューバ大使館に駆けこんだ朝鮮戦争の孤児)やジョー・クメッツ(基地の女性に、半年間かくまわれてアルコール漬けになっていた)とともに、ソ連経由でストックホルムに脱出した。
こういうことが、私たちの知っていたテリーの経歴である。
一九七三年、パリ平和協定調印直後、私は彼らの消息がりたくて、ストックホルムに飛んだ。そして、この本を手にした。スラングの多い英語にヘキエキして、吉川に渡した。
いま、それが本になったのを読んで、私は仰天した。
まず、日本の軍隊は封建的で、米軍は民主的だ、などというお題目を信じている人がいたら、海兵隊の訓練ぶりを読んでほしい。
民主的な軍隊などありっこないことがよくわかる。そしてベトナム。ソンミそのままの皆殺し作戦。テリーが処分し忘れたM79の弾丸で小さな男の子を連れた女性と子ともは死んだ。
「二人がどんな様だったかはいう気がしない」
べ平連に拠っていたふつうの市民が、この平和な日本でかくまっていた柔和な眼をしていた兵土は、いざとなれば何人でも殺せる男、いや殺した男だった。
そんな男が、たった一人の女の愛のために、銃と名誉と祖国と家族を棄てる、そういうことが、この日本で起こったと思うと、私は胸が熱くなる。
「ジャテック」がテリーを知らなかったように、テリーも「ジャテック」を知らない。彼が見た「ジャテック」の尾行のまき方、連絡方法、それらのどれも描写がオーバーだ。だが、全部が敵と見える日本で、彼の眼にべ平連がこう見えていたのだろうとは納得できる。
それに、もし、そこに誇張と、つじつまの合わなさを発見して、テリーの眼をうたがうなら、それは読みが浅い、というものだ。テリーは、「ジャテック」をかばっている。彼は、きちんと仲間の仁義を守っている。一方、日本人側も同じように寡黙だ。私は、「あとがき」で、彼をかくまった医師Oドクターについて書いた。だが、Oドクターのうしろに、もう一人Oダッシュ・ドクターがいたのだ。そしてOダッシュ・ドクターは今に至るもついに名のり出ることがないのである。
テリーは、私にこう聞いた。
「どうして、君たちは、おれを助けてくれたんだい」
それなら、私は聞きたい。
「テリー、どうして君は、おれたちを選んだのだい」
テリーが超人だった、とは思わない。だがテリーが脱走し、日本人がかくまったこの時代は、歴史上まれにみる激動の時代だつたことがこのなまなましいドキュメントでよくわかる。それは狂気と人間がたたかった時代、そして、人間が勝った(少なくとも一歩だけ)時代であろう。
(こなか ようたろう・作家)
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