月刊『暮しと健康』(保険同人社刊) 1999年9月号
この人この本 Book Review
いい人はガンになる 吉川勇一著
「悲哀や悲壮感や決意あふれることを言っていれば治るというのなら、いくらでも言ってみせるが、それは自分も周りも暗くなるだけで治療に貢献はしない。とすれば、生きていられる限り笑ってるよりしょうがないではないか」(本書より)
吉川勇一氏、六十八歳。不屈の精神を内に宿し、酒脱でユーモア感覚にたけた市井の運動家を突然、がんが襲った。
大の愛煙家である氏は、〈ハゲはがんにならない〉の学説?異説?を信じ、プカプカ、タバコを吸いながら、長年の生活スタイルを変えることなく市民運動、予備校講師、翻訳・執筆活動を続けていたが、八年前、“毛頭”疑いもしなかったがん患者の仲間入り。
「悪性の膀胱腫瘍で、手術がいります」とアッサリと医師に告知され「厳粛、悲槍、深刻、マーラーの交響曲第五か第六なんかが背景に流れる」間もなく、アレレと拍子ぬけ。がんは自慢にはならないと、年が明けてから内々に膀胱摘出の大手術。
ところが翌年の夏、さらに二度目のがん。今度は胃に病魔が現れた。もう隠すことはない。見舞いに来た方々への返礼と、安否を気遣う仲間や知人たちへの経過報告書をかねて病床で書きとめた雑感を送った。
これが雑誌『話の特集』に掲載され、そのユーモラスで爽快な“闘病記”が反響を呼び、ついに『いい人はガンになる』が出版の運びに。
著者は行動の人、歩く人であり、歩きながら〈等身サイズ〉でものを考える人である。。その氏が身をもって体験したがんの闘病記は人間味にあふれ、綴られたエピソードの数々は術後の孤独感や抗がん剤の激しい副作用に苦しむ同病者を慰めるに余りある“おかしみ”や“優しさ”に満ちている。
たとえば人工膀胱について。膀胱摘出の大手術、所要時間一四時間。その膀胱摘出と去勢手術をとりちがえたせっかちな友人。ヘソの横に人工膀胱(簡単にいえば貯尿袋)をとりつけ始めた頃、尿かもれて一晩に何度も腰のあたりを冷たくし、毎夜のように看護婦さんの世話になった。さらに退院後、予備校での授業のさなか、パウチ(貯尿袋)がはずれ尿かもれた。とっさに教壇にあったコップの水を当該場所にこぼし「わぁー、しまった!」と大芝居。
そんなうら悲しさが漂う話も、著者の飾らぬ文体が、いつの問にかがんとの上手なつきあい方を読む者に伝える。
病院の中を歩き、働く人々や売店や個室や喫煙室にこまやかな眼を注ぎ、大病院の抱える問題をえぐりだすくだりは、まさに「歩く人」の面目躍如といったところ。
ついでに公共機関、生命保険、障害者手帳の有効な使い方など、ほかのかん闘病記にはあまり書かれていないことまで、雑感をまじえてサラリと記している。
術後七年。定期検診という三か月ごとの“執行猶予”から解放されたとはいえ、いつまた病魔が頭をもたげるかわからない。今は半年刻みの人生設計。
「日本人の平均寿命(男・七十五歳)の九割までは愉しんだわけだから、もう、いいかなと思うけど、どうも世の中が危なっかしくて……」
新ガイドライン関連法案の成立、コソボ問題や朝鮮半島の緊迫、国旗・国歌の法制化と政情はめまぐるしく動き、時代は混沌としている。ゆっくり隠遁などしていられない。
死の足音は残された人生の行進曲、せめて余生は老いの手習いでチャイコフスキーの「四季」のピアノ独奏を、との夢もまた先延ばしとなってしまった。三十年来の市民運動の膨大な記録や資料をパソコンに整理入力すること、畏友・鶴見良行著作集の担当編集を完了させること、デモに参加し、さけては通れぬ論争に応じてしなやかな批判精神を培うこと、と氏に残された仕事は山とある。
吉川さんの歩きながら、考えながらのガンとの“並走”はこれからも続くに違いない。