語られないべ平連 ――鶴見俊輔氏の最近の発言について――

 以下は、「第W期・反天皇制運動連絡会」(反天連)が主催して行った「反天連公開講座」の一つである「鶴見俊輔と自由主義」(1998年 月  日、文京区民センター)での、吉川の発言(全文)である。この講座では、メインの報告者として、東北大学の川本隆史氏が発言し、それに付随してのコメントとして、私と横浜国立大学の斎藤純一氏とが発言した。

 このときの川本氏のメイン報告や、質疑応答、討論の全文は、「反天連」発行の『反天連公開講座通信』第4号(1998年12月刊)に掲載されている。

 私の発言の最初の、藤田省三氏に関係した部分は、司会をした反天連の天野恵一氏が、川本氏の『みすず』(1997年9月号)に載せた「自由主義の試金石、再び」に対する藤田氏の批判に関連して、「吉川が藤田氏との個人的関係について面白いエピソードをはなしてくれるだろう」と発言したことから、最初に足したもので、本講座のテーマとは関係ない。

コメント■

語られないべ平連

吉 川 勇 一 ●市民の意見30の会・東京

 川本さんや斉藤さんと違い、学者ではなく一運動家にすぎないので、話といっても裏話とほんの感想みたいなものになると思います。このひと月、ずいぶん鶴見さんの本を私は読み返したのですが、考えてみるべき資料が次々と出てきて、メモを書いたら二十何ぺージにもなってしまい、整理どころか頭が混乱する一方というのが正直なところです。川本さんの話へのコメントというようなまとまった話はできそうもありません。

 私と鶴見俊輔さんとの関係は、べ平連からです。一九六五年四月に「ベトナムに平和を!市民連合」という反戦運動が発足しますが、それに参加するなかで、初めて鶴見さんとお会いしました。いろいろなところにも書きましたが、私の今の思想に大いに影響を与えてくださった方が、鶴見俊輔さんと、小田実さん、武藤一羊さんです。たくさんのことを私は鶴見さんから教わりました。

●藤田省三さんの思い出

 藤田省三さんの話が先ほど出ましたので、まずそのお話をしますと、一九五二年に私は学生だったんですが、ポポロ事件というものが起こりました。東大のなかに入り込んでいた私服の警察官三人を学生が摘発し、その際、奪った警察手帳のなかに、学生やら教授やらの思想傾向が詳しく調査してあるという、驚くべきことがわかって大問題になった。私はそのとき自治会の議長をやっていました。事件は国会でも取り上げられ、私も国会に証人として呼ばれたりしました。学内は大騒ぎとなって、矢内原忠雄さんが学長でしたが、学長、学部長を先頭に全学挙げての警察に対する抗議行動が起こりました。当時藤田さんは法学部の学生でしたが、自治会の部屋に来られて、何か手伝いたい、居ても立ってもいられない、何か仕事をくれと申し出たそうです。その時、応対したのが私らしく、それはありがたい、ちょっと待っていてくれ、と答えたまま、忙しかったのでしょうか、藤田さんをそのまま一時間も二時間も、自治会室に放りっぱなしにしておいたらしいんですね。藤田さんは、吉川が自分を相手にしてくれないのは、共産党に入っていないせいなんだ、共産党に入って同志になれば、信頼して仕事を与えてくれるだろうと考え、その晩、入党申込み書を書いたという話です。ずっとあとでその話を聞かされたのですが、結果的に考えると、彼を入党させたのは私だということになりそうです。そんなエピソードがありました。

 藤田さんは六〇年安保闘争のなかで離党します。共産党は全学連の行動に批判的で、国会周辺でのデモの流れ解散を指令したんですが、法政の教授だった藤田さんは学生たちが闘っているときに、自分たちが党の決定に従って流れ解散を指導するわけにはいかない、党をやめれば言うことを聞かなくったっていいんでしょということで、その日のうちに離党申込み書を出す。入るときも抜けるときも、あっという間なんですね。以上は今日のテーマと関係のない余計な話でした。

●代案主義批判と市民的不服従の思想

 以前筑摩書房から出された『鶴見俊輔著作集』の「月報」に書いた文章のなかで、私は、鶴見さんがべ平連のなかのフィードバック装置であり、メトロノームである、という表現をしたことがあります(一九七五年、第三巻付録『月報2』)。それは、川本さんがおっしゃったことと少し関連してくるのですが、権力に対するときの自分の距離の置き方、姿勢、態度の問題ですね。これを私は、鶴見さんから大変教えられました。それはいわば、自己の相対化です。つまり自分が絶対に正しいという態度をとらない。多元主義という言い方もできるのかもしれませんが、複数の立場というものを承認する――もちろん自分はある時にある考え方を正しいと思うから、その行動をとるわけですけれども、それがいつでも絶対に正しいというのじゃない。もしかしたら相手のほうが正しくて自分が間違ったのかもしれない。それに気づけばいつでもフィードバックして直していくという、それが運動のなかできわめて大切だという、そういう姿勢ですね。

 それからもう一つ、強調したいことは「代案主義」に対する警戒です。代案とは英語で言えばオルタナティブということなんでしょう。近頃えらくはやってきて、運動の側もずいぶん使うようになってきています。アジア太平洋資料センターの機関誌も『オルタ通信』ですから、いまではそれは、むしろプラスのイメージで語られるのかもしれません。しかしベトナム戦争開始当時の代案主義というのは、○○反対を掲げる運動に対して、政府の側に立つ部分が、何でも反対反対と言わないで、どうすればいいかという具体案を言うべきだ、反対ばかりでは無責任だという、近頃でもよく聞かれるようになった批判です。六〇年代の初期から半ばにかけて、それはとくにアメリカで言われ、知識人が代案主義に雪崩をうって傾いていったんですね。その結果、結局敵の側に取り込まれていった。そのことに対する非常な警戒を、鶴見さんは力説されていました。

 もう一つ鶴見さんから教わったのは、非暴力直接行動、あるいは市民的不服従といわれる立場でした。

 私がべ平連の運動をやっていくうえで、たえず運動がそこに立ち返っていく基準のようなものとして――そこからはずれそうになることもずいぶんあったんですけれど――、そこにたえず立ち返る努力は意識的にしてきたものが、こうした鶴見さんから教えられた見方でした。

●鶴見さんは「転向」したのか

 ですから、最近の鶴見さんの発言には、やはり戸惑いを感じてしまうのです。朝日新聞の鶴見さんへのインタビューは、記者がまとめたんですから、どこまで鶴見さんが責任があるのかよくわからないんですけれども、天皇制、とくに日本の終戦決定における天星の「貢献」の問題や、べ平連のティーチインにおける宮沢喜一さんの「貢献」を語っているのには、驚かされました。それから『期待と回想』の最後の部分をめぐる川本さんの批判、私も全くそうだ、と同感の思いをしました。これと関連した『みすず』の上での藤田さんの反批判、これはちょっと珍しいんですけれども、最後に「文責編集部」というのがついているんです。あれだけはっきりした川本さんへの批判をしておいて、しかし責任は編集部だと言われちゃうと、これは川本さんも困るだろうと思うんですが。藤田さんは非常に気分の高低の激しい、気分のゆれの激しい方であるのに付け加えて、現在病気の問題があって原稿執筆ができないので、しゃべるだけしゃべって、まとめさせたのかもしれないんですが、あれはないというふうに私は思いました。古い付き合いでこういうことを言うのは辛いのですけれども、率直にそう思います。

 そういう経緯があって、私たち「市民の意見30の会」のニュースの原稿(「『多少の論理』と自由主義」)を天野恵一さんにお願いした次第です。天野さんの原稿には、非常に大きな反響があり、たくさんの投書が読者から届きました。そのほとんどが天野さんへの共感で、よく言ってくれた、最近の鶴見さんの姿勢はおかしいと思っていた、というような意見です。しかし、実はその共鳴の仕方、反応の仕方にも、大きく言って二つあるようです。

 天野さんの批判には、もともと鶴見さんというのはそういう人だったんで、自分は栗原幸夫さんみたいに鶴見発言にびっくりしたり、がっかりしたりはしなかった、というような表現がありました。栗原幸夫さんの発言というのは、反天連のニュースに載ったものです(「『自由主義』以後の思想的境界」正・続)。

 実は、この点について、私と栗原さんの間でメールのやりとりがありました。さきほど栗原さんから了承を得ましたので、読ませていただきますが、栗原さんはこう言います。

 「とりあえず天野の文章を読みましたが、『うーん、これは』という感じです。『ほらね、あいつは最初からあんな奴だったんだよ』という批判の仕方は、全人格的否定に至りつく「前衛党」の典型的な批判のスタイルで、私たちの記憶に肉体的に刻み込まれているものですが、どうも天野のも、その一種であるかあるいはそれに行き着く可能性の濃厚なものであるようにおもいます。/私が「正・続」の文章で、どうしても口ごもってしまい、『これは序説だ』と言いながらなかなか本論が書けないのも、お互いに豊かになれるような批判の仕方がないものかと考えあぐねていたからです。天野は私の怒りと言っていますが、怒りではなく、敢えて言えば寂寥感とでもいう感じが湧いてきて、ジャテックで毎日のように連絡をとりあっていた俊輔さんを、ほらね、あいつは最初からあんなやつだったんだよ、という形で批判する気にはとうていなれないのです。現在の俊輔がどうであれ、六〇年代の彼は、今とは違っていました。明らかに違いました。だから、六〇年代の鶴見さんがなぜ現在の鶴見さんに変貌したのかという、そのなぜを解明したい。それ以外に私が彼を批判することはないと思っています。そのためには、あのときも実は今と同じだったんだという、一枚岩的な人間観を捨てる必要があります。(中略)とにかくヨヨギ的『本質顕現論』的批判ではない批判の仕方を追求していきたいと思っています。湾岸戦争以後の、シーソーの一方が突然消えてしまったために他方が跳ね上がってしまい、その反動で傾いたもう一方にどどっと転げ落ちた中央にいた連中(リベラルと呼ばれた人たち)を、簡単に『裏切ったなー』とやっつけて、私たちの仲間をやせ細らせることはしたくない。しかし彼らに対する批判は、厳しく説得的に行ないたい」。私はこの栗原さんの姿勢に、全面的に賛成です。

 私たちの会にきている反響のなかにも、これと共通した意見があります。つまり寂しさを感ずるという意見、残念さを感ずるという意見、どうしてなのという、これはけっして脱落したとか転向したという批判ではない意見です。たとえばお名前を出して恐縮ですが、元婦人民主クラブの委員長だった近藤悠子さんとか、さまざまな方から頂いています。

 鶴見さんは変わったのか、変わっていないのかということを考え続けていて、私は今、混乱しています。昔のべ平連の仲間たちの何人かともこの件で話し合いました。ある人は、「本家帰り」というような言い方をしました。べ平連以前の昔に戻っちゃったんだよと。そうすると、変わらないということでもあるのですね。非常に難しいところだと思います。『期待と回想』の最後の、いわゆる「アジア女性基金」への姿勢は、とにかく驚いたのですが、鶴見さんがその呼びかけ人になられたこと自体は前から承知しておって、数年前に京都でお会いした際、この問題について、私は鶴見さんに私の意見をのべました。なるべきではなかった、機会を見ておやめになっていただけないか、と申し上げたんですが、ふんふんと聞いておられるだけでした。

●語られなかったべ平連

 実は、『期待と回想』にはもう一つ私の感じた問題があります。べ平連という言葉はあの本にいくつか出てきますけれども、しかし、べ平連とはなんであったのか、べ平連から何を学んだか、ということが書かれていないんですね。一言も出てこないといっていい。(ただし、脱走兵援助の活動については別です。それについては、この本以外の多くの所で、多くのことを語っています)。それが私には意外でならなかったんです。これが私の混乱の理由の一つです。小田実さんはべ平連については書きすぎなくらい書いていますけれども、そのなかでは自分がいかにべ平連から学んだか、鶴見俊輔から学んだか、吉川やそのほかたくさんの人から学んだか、自分たちの行動から学んだかについて書いています。それに賛成、反対の立場はいろいろありますけれども、とにかく書いている。

 ところが、この『期待と回想』のなかで、鶴見さんがべ平連の運動のなかから何を学んだか探したのですけれど、私にはみつかりませんでした。これは一つには、べ平連のことはこれまで他のところでいろいろ書いているし、もういまさらということで、ここから意識的に外したんだろうという解釈ができます。ところが、このあいだ出た『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)の出版記念会の席に『期待と回想』の編集者で、聞き手の一人、北沢恒彦さんが京都からみえていたので、そういう申し合わせでもしてべ平連について話すのをやめたんですかと聞いたところ、別にそういうことはないということでした。

 なぜ、鶴見さんはべ平連について語らなかったのだろう。一つは、私もそうですが、まだ当時の仲間でさまざまな社会的・政治的運動に関わっている者が多数おり、それを考慮にいれると本当のところはなかなか語れない、という事情があるでしよう。

 ますます裏話のようになるのですが、一九六九年八月、大阪で「反戦のための万国博覧会」略してハンパクというイベントを関西のべ平連が中心になってやりました。全共闘華やかなりし頃のことです。羽仁五郎さんや鶴見さんが講師になっての、大きなテントでの大講演会も予定されていました。そこで造反が起こります。細かい経過は省きますが、造反の先頭に立ったのは、日大などいくつかの大学の全共闘と、高畠通敏さんをはじめとする「声なき声の会」の一部のメンバーでした。対象はハンパクを組織した、関西べ平連の事務局と、東京のいわゆる「べ平連内閣」といわれた小田実さんや私でした。小田と私は演壇に引っぱり出されて、何百人という参加者がいる大テントのなかで、討論が延々と半日くらいにわたって、大衆団交みたいな形で続きます。高畠さんとしては、当時の東京のべ平連に対しては強い批判があって、それが造反という形で出てきた、と後にのべています(『遠い記憶としてではなく、今――安保拒否百人委員会の10年』一九八一年、33〜34頁)。

 この時のことが、べ平連世話人たちの間にある種の溝を作り出します。小田さんは、つるし上げに対して、市民運動のあり方を必死で防戦しているのに、そこにいた鶴見さんが一緒に闘ってくれない、それどころか、討論の中で発言して、小田は中村錦之介のようになっている、つまり人集めの道具で、そこにわーっと群衆は集まってくるが、本当の力にはならないという趣旨の発言をして、小田さんはえらく傷つくわけですね。私はべ平連分裂の危機だと思いましたから、その晩、小田さんと、たまたま一緒にいた高橋和巳さんと三人で、大阪から京都に帰った鶴見さんの家まで深夜にタクシーをとばし、明け方近くまで、今度は二人で鶴見さんにつめよって批判したんです。ずいぶん冷たかったが、どういうつもりだったんだ、と。鶴見さんはそのとき、一応小田さんに謝罪したんですが、彼も、べ平連と、それ以前から深く関わってきた「声なき声の会」との間に挟まって困った立場におかれていたと思います。それ以来、鶴見さんにとって率直に語れないものが出てきたのではないかとも思います。

●鶴見俊輔の「死者」の問題

 結局のところ、鶴見さんは変わったのか。「本家がえり」と言ってしまえば、昔に戻っただけで、変わっていないんだと言えるのかもしれません。しかし、栗原さんの表現の、シーソーが傾いたために、片一方へ雪崩こんでしまった、ということと少し似ているんですけれど、鶴見さんの思想や立場は変わっていなくても、湾岸戦争以後、世の中のほうが急速に大変化を遂げるわけで、そうなりますとそれまで光が当たっていなかった側面に光が当たりすぎて、変わったように思えてくる。そんなところもあるかなと思っています。

 例えば戦争での死者に対する態度があります。竹内好さんの日記に、竹内さんが昔の戦友から頼まれて、戦死者を記念する碑文を書くという話がでてきます(1963年1月21日、24日、2月3日)。竹内さんの案文は、「かつての軍国日本の時代に強制されて兵士になり」という表現でしたが、竹内さん自身、この二句は「大東亜戦争に召されて兵士となり」と書き換えてもよいというふうな手紙を添えて、この文案を送った。そして実際にできた碑文は後者のほうになってしまいます。これは竹内好さんの問題ですから、ここではこれ以上ふれません。鶴見さんとの関連に戻しますが、鶴見さんの書いた伝記『竹内好』(リブロポート社、1995年)の中で、この碑文の話に触れ、鶴見さんは、「間違った戦争だったという判断も含めて、戦死者の忠誠心に頭を垂れる、戦死者を追悼することからさかのぽって、あの戦争を正しかったという判断におもむくことはない」といって、竹内さんが碑文を書いた問題を好意的に論じています。けれどもかつて、死者に対する思いを言うときの鶴見さんは、非常にバランスがとれていた。自国の、日本軍の戦死者への思いを述べられると同時に、日本軍が戦った相手、あるいは戦っていないけれども、戦場となったために犠牲にされる無辜の民への思いを必ず入れなくてはいけないと、一貫して言われてきました。わだつみの会の講演で、戦没学生たちへの、厳しすぎるとさえ思えるような批判もしています。そこには犠牲になっているアジアの人たちに対する思いが全くない、と(「戦争と日本人」1968年8月)。

 鶴見さんはこれに関連して、久野収さんを引用しながら、こんなことも言っています。戦死した人の墓標を見ると「陸軍歩兵軍曹勲八等誰々の墓」などと書いてあるものが多いが、戦死した人たちはそんなふうに書かれて喜んでいるのだろうか。戦時閣僚の岸信介とかその仲間が、安保条約を結んでアイゼンハワーのお土産に勲章を渡すとか、日本を爆撃したアメリカの将軍に勲一等を与えた。そういうときに、自分が勲八等なんて墓標に書かれてうれしいと思うのか、とね(「わだつみ・安保・ベトナムをつらぬくもの」1968年8月)。

 私も全くそうだと思いますが、時代が変わって、いわゆる自由主義史観とかいうものが出てきたり、加藤典洋さんの主張が出てきたりすると、それまでとは違う鶴見さんの側面に光が当たって、別の影響をもってしまうということがあるのではないだろうか。

 鶴見さんが編集したアンソロジー、『戦いの記憶』(筑摩書房、1995年)の解説のなかで「水師営の会見」という歌について書かれています。乃木大将とステッセルとの会見の歌ですが、歌詞の中では敬の将軍とこちらの将軍だけに焦点が当たっていて、死んだ一般の下級兵士のことには思い至っていないし、ましてや一般民衆のことには思い至らない。わずかに、庭にあるナツメの木の傷ついたところとか壊れた民家という部分があるが、非常に不十分だという批判をする。鶴見さんの視線は、たえず無享の民のほうへ向いていくわけです。そういう点は、いまでもずっと変わっていないはずです。

●国民基金と批判のスタイル

 そうすると分からなくなるのは、『期待と回想』の最後の章に出てくる国民基金への加担の言葉ですね。ここは間違っていると思うのです。だが藤田さんの『みすず』の文章を読みかえしていて、はたと思いついたのは、鶴見さんが「自由主義者の試金石」で見せた、都留重人への連帯と支援の姿勢ですね。いろいろなマスコミから叩きに叩かれて徹底的に追い込まれていく都留重人、それに対してただ一人、日本のなかで断固として彼を擁護していく鶴見俊輔。そこに鶴見さんの最も尊敬する点があるんだということを藤田さんは言うわけです。もうひとつ、鶴見良行さんが自分を追い抜くことに対して向けられる温かい目という二点を、藤田さんは強調されていますけれども、人が窮地に立ったときに擁護するという鶴見さんの姿勢、そのことが一つの答えを与えてくれるかなと思ったのです。つまり、国民基金をめぐって現在窮地に立っている和田春樹さんへの、救いと連帯ということですね。和田さんと鶴見さんはべ平連以来の付き合いでもありますし、特に金大中・金芝河の救援運動では一緒に韓国にも行かれました。その和田さんが髪の毛がなくなるほど周りから叩かれるわけですね。四面楚歌で孤立する。もう一つ、アジア女牲基金に対する批判の仕方に、鶴見さんには反発があると思うのです。鶴見さんはここで「民間の募金運動に対する批判のやり方は、どうしても『東大新人会』とかさなってくるんです」と言っています。栗原さんも言われたように、ここでどうして東大新人会がでてくるのか、意外な感じがあります。

 東大新人会については、一九六〇年にも一度、鶴見さんは言及しているんですね。今の全学連は東大新人会のようなやり方とは全く違う、ここにおいては非暴力に徹している――六月一八日の限りでは、との条件付きですけれども――、そこには東大新人会みたいなところは全くないのだと、高くそこを評価し、それとの強い連帯を表明するわけです(「根もとからの民主主義」1960年7月)。新人会の伝統が、いったん運動の中で切れた、と鶴見さんは考えた。ところが、七〇年代初期に内ゲバが激化してくる。彼自身も、べ平連の内部にさえも内ゲバがあったと思い込むような経験もしている。その点、私と意見が違っているんですが(吉川『市民運動の宿題』思想の科学社、1991年、163〜194頁)。和田さんたちのグループに対する批判の仕方には、かなりきついものがあると私も思います。栗原さんの言うような、間違ったところは厳しく指摘するが、相手を敵視しないという批判の態度とは違って、語弊があるかもしれませんが、退廃期の全共闘的なものを思わせる批判の仕方を感じます。鶴見さんはそれを見て、ますます和田さんへの連帯を表明しておく必要があると感じ、あんなにも強く、僕はこの立場を変えませんというような断言をしてしまったのではないかという思いが私にはしてならないのです。

●和田春樹の「代案主義」

 しかし、それは代案主義の落とし穴に和田春樹さんが落ちているという点を、鶴見さんが見ていないということでもあるのです。さきほど話した脱走兵に関するシンポジウムで、和田さんの驚くような発言――実はもうあまり驚くこともなくなりましたが――、を聞きました。自分(和田)も当時、大泉市民の集いという反戦運動のグループを作って脱走兵を勧誘したり、朝霞反戦基地闘争などもやっていた、そこから『米国軍隊は解体する』(和田春樹・清水知久・古山洋三編、三一新書、1970年)という本も生まれたし、自衛隊の解体ということすら、自分は叫んだ、それを今どう思っているのか、という人も多いだろう、それについて言えば、あの時ああいうことをやったことを、今、間違っていたとは思わない、しかし、あれはあの時の、ベトナム戦争というきわめて特殊な戦争の特殊な事態に対する、日本の市民の特殊な対応であって、いつでもそれをやっていればいいというものじゃないと思っている、そういうふうに言えば、お前は変わったかと言われれば変わったと言っていいかもしれない、と。

 その時も論争になりまして、石田雄さんがすぐ反論されたのですが、時間不足で議論は発展しませんでした。ベトナム戦争がきわめて悪質で特殊な事態だったというのであれば、言葉尻をとらえるようですが、では、悪質でない良質の戦争、市民が特殊なことをしないでもいい戦争というのは、どういうものなのかということを、聞きたい思いがしました。和田さんによれば、湾岸戦争がそうだということになるのかもしれません。私は鶴見さんへの批判よりも、和田さんへの批判のほうを強くもっています。「存在したものが現実的」「これまで見てきた歴史は結局なるようになった歴史」というような驚くべき発言も彼にはありますし、(『世界』1994年4月臨時増刊号)、「平和基本法」提案(1993年)など、代案主義の陥穽に見事に陥ってしまった例だと思います。

 鶴見さんはかつて、こういうことを言われました。「代案主義で考えている以上、ベトナムの問題というのは絶望的な問題であって、これは平和運動なんてやったって意味がないというふうにだんだんなって、押し負けているわけです。我々がしなければいけないのは、ここには正しくないことがある、政府が悪いことをやっているときには、それを良くないといって、繰り返し繰り返し徹底的に押しつめていく、そのことによって政府部内においても、より良い代案主義者が少しは力をもつように、そういう仕方で働きかけなければいけない。したがって、自らが代案主義だけで考える立場に陥ることは危険なことです」。これは「闇市と市民的不服従」(1966年6月)という文章の中にあります。

 そう考えると、和田さんがあのような立場をとったときに、どうして鶴見さんはこういうことを言えなかったのか。

 やはり六〇年安保の時に、非常に面白い提案を鶴見さんがされています。学生に対するカンパが取り組まれた時、鶴見さんのところに投書がきた。農村に行くと、学生たちだけでなく警官も負傷しているんだから、警官へのカンパもやれといわれる、考えてみてもよいのでは、という手紙です。鶴見さんは、それはなかなかいい、一般民衆のなかに入っていくには、そういう考え方をしなくてはだめだ、そこで提案だが……、と言って、募金箱を二つ作ることを提案するのです。学生に対する募金箱と警官に対する募金箱の二つを作って、どっちでも好きなほうに入れてくれと、そういう運動を学生がやったらどうか、というものです。私はそれを非常に面白いと思いました。とすれば、アジア女性基金以外にも、全く民衆の手だけの募金を集めようという動きもあったわけですから、その時、鶴見さんとしては、慰安婦問題に対する募金箱を二つ作れというような、二つの選択肢を提案する姿勢だってとれたのではないか、という思いもします。

  いずれにせよ、和田さんは代案主義の立場に陥って誤ったのだけれど、その誤った和田さんへの連帯の意志が、鶴見さんを誤らせたのではないかなというのが、今の私の仮説です。

 もしそうでないとすると、老齢による判断力の衰えということになるかもしれません。私は、この間の天野さんと栗原さんの文章を、ぜひ読んでほしいという手紙も付けて、鶴見さんのお宅へ送りました。その後、鶴見さんにお会いした時、そのことは話題になりました。受け取った、読みましたよと言われました。しかし、それへの意見は聞けませんでした。また、その後、反論もありません。この間、鶴見さんは、自分が関わった仕事についての幕引きを、一つ一つされているという気がします。『思想の科学』の廃刊もそうですし、『となりに脱走兵がいた時代』を出したこともそうです。和田さんへの連帯も幕引きの一つ。勝手な推察ですが、そういうふうに一つ一つケリをつけるとともに、鶴見さんはこの種の社会的・政治的発言は、もうこれからはなされないのではないか、という気が私にはします。そうだとすればこの問題は終りです。

  以上が私の、混乱しているいまの頭のなかにあるメモです。


 なお、このあとの討論で、参加していた石田雄氏が発言したが、その中の私の発言と関連した部分のみを一部、引用しておく。

石田雄(会場から) 鶴見俊輔については、吉川さんの考え方に非常に近い。ほとんど全面的に賛成といっていいかもしれません。今出されていた問題になるべく結びつけると、私は川本さんはちょっと彼にないものねだりをしているのではないかと思うんです。私はもともと、彼は哲学者だと思っていますから。極端にいうと権力状況に対する感度が低いと私は思っています。その点についてはもともとあまり期待していないんです。彼はプラグマティストですから、他の意見、悪魔の弁護者というのを彼は非常に大事にするわけですね。そしてあいつのいうことは面白いと、吉川さんが月報に書いているように、面白い、面白いと言うんですね。その場合に、彼はなるべく自分と違う極端を面白いと言うんです。その点でどこが一番問題になるかと言うと、彼はアメリカの生活で身につけた価値から一番遠いものが面白いんですね。だから右翼が面白いんですよ。ところが私などから見ると、だいたい同じ世代ですけれども、軍国主義をうんと叩き込まれてきているから、それはかなわんという気持ちがある。彼は面白いというんですね。そこで決定的に違うんです。「思想の科学」での言論人の育て方を、私は鶴見俊輔のケイバウマ(競馬馬)主義と呼ぶんですけれども、どんどん議論を活発に展開できるようなケイバウマを作るのがいいという発想が彼にはある。ところが僕は、それは危ないと言った。日本でケイバウマがどっちに向かって走っていくかと言えば、一億総懺悔なら一億総懺悔の方に走るし、他の方向にいけばみんな一斉に走るのだから、方向について自覚がない競争は危ないんだぞと。「思想の科学」から出てきたケイバウマの一人が上坂冬子なんですね。上坂はまさにケイバウマ主義で養われて走り出したのだから。

 ただ例外的に権力状況に目配りをしたのが「自由主義者の試金石」だと思います。あの時にはやっぱり都留さんを内面的に理解しようということで、一九三〇年代のアメリカの状況と一九五〇年代のアメリカの状況とをきれいに比較して、権力状況を見事に描き出しているんですね。そういう意味で、あれは例外的に彼が権力状況に非常に目配りをした、そういう意味で傑作だと思うんです。国民基金への態度についていえば、吉川さんもいわれたように、みんながある方向にいくとなるべく違った意見を言いたがる。みんなと言うのは彼の頭の中にあるみんななんですけどね。みんなが国民基金をやっつけているから、俺は反対のことを言おうというつむじ曲がりというか、自分が悪魔の弁護人にならなければならないという使命感がときどき起こってくるわけですね。そして、私がなぜ国民基金に賛成したかときいたとき、元従軍慰安婦の人は国民基金が金をあげるといっても断わる自由があるではないかといった。ただその場合にどのくらい権力状況に目配りできているか、つまり経済的条件も権力状況の一部ですが、それを含めた状況をぬきにして受け取らない自由があるといっても意味がないと思う。……(以下略)

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