89 5月に入りました。いろいろなことです が、ほとんど愚痴です。 (その2) (2013年05月05日  掲載) 

反戦意見広告は、5月3日、『朝日新聞』全国版に2ページ連続でフルカラーで: 前号でご報告しましたが、今年はこれまでと違って2ページ連続のフルカラーの掲載となりました。ご覧くださったと思いますが、紙面は 右のとおりです。右の画面をクリックされると、大きなものが読めます。

西東京市での「特攻機」製作問題について: 本欄No.82(2012年11月20日  掲載)の「西東京市での 11・18デモでは、先頭で歩きました。」の中に、解散地の公園は、かつて日本帝国軍特攻ジェット機を作った場所でした 」という文を載せ、「自分が50年近く住んでいる市なのですが、この「おおぞら公園」には一度も行ったことがなく、この場所が、特攻機にもなる日本帝国軍最初のジエット機「橘花」を作った場所だったのだ、というようなことを、まったく自覚していませんでした。自分の住んでいる街のことに、まだたくさん知らないことがあるものだと改めて考えました。 」と書きました。しかし、この中にはかなりかなり誤りが入っており、それを訂正した文をNo.83(2013年2月10日 掲載) に載せ、「秋水会事務局」の柴田一哉さんからの誤り指摘についての全文を紹介しました。
 そのあと、さらに柴田さんからは、メールをいただき、「橘花・秋水(左の写真の上が橘花、下は秋水)」問題についてさらに詳しい補足の文が届けされました。柴田さんのご了解をお願いしましたので、この新しい文を全文、ご紹介させていただきます。

 

吉川勇一 様 

 先日は突然のメール、大変失礼いたしました。
また、貴ホームページを拝見致しましたところ、私のメールをご紹介いただき有り難うございました。
「橘花」の件、ご訂正いただき大変恐縮致しております。

 私は現在表記の通り「ロケット戦闘機 秋水 テストパイロット」だった方々の親睦会「秋水会」の事務局員をしており、秋水の調査・研究をライフワークにしております。
「橘花」と「秋水」はともにその設計図がドイツから潜水艦で運ばれた関係があり、また私自身も田無にあった
IHI史料室に「ネ20」を見に行った経験があったことから失礼を顧みずメールさせていただいた次第です。
  
先日のメールでは後半部分を手直ししている途中で誤って送信してしまったため、分かりづらい文章になってしまいました。戦後において「特攻機」と呼ばれるものについて書こうとしたものです。以下、補足致します。

 「秋水」を研究していると、多少戦中の航空機に知識にある人からも「ああ、ジェット機ね。あれ特攻機でしょ」と言われます。この、二つの指摘はどちらも間違いであるといえます。まづ、秋水はジェットではなくロケットだからです。
 ついで「秋水が特攻機である」かについても、当時の関係者への聞き取り、一時資料にあたった結果、特攻機である根拠は出てきませんでした。ここで言う「特攻機」は「特攻作戦専用に開発・運用された航空機」のことです。
 
つまり私は「特攻作戦に転用された機体」と「特攻作戦専用に開発された機体」を分ける必要私があると考えています。
 なぜならば、転用された機体での特攻作戦には機体の不調などにより帰ってくることが可能であったのに対し、実用化された特攻専用機、例えば「桜花」では発射されたら生還の望みは無く「十死零生」しかなかったからです。「特攻機」とは「特攻作戦専用に開発された機体」であり「人間を誘導装置や機械の一部」としたものと考えています。
「秋水は対
B29用に開発され、我々の訓練はB29遊撃を想定したものでした。確かに全軍特攻の流れの中で秋水隊幹部にも特攻作戦への打診がありました。また隊員のなかには特攻やむなしと考えているものおりました。しかしそれは、最後の一億総特攻の時であり、それまではなんとしても秋水でB29をおとすのだとそれだけを考えていました。特攻機として開発されたわけでもなく、ましてや一機として特攻に出ていない秋水を特攻機と蔑むのはやめていただきたい。歴史にタラレバはありません、もしあのまま戦争が続いていたら特攻作戦に出ているから特攻機なのだというのは歴史を矮小化し真実を風化させるものです。秋水の試飛行で殉職された我々の分隊長は『いいか、決して特攻なんか行くんじゃない。何度も生きて還ってくるんだ。もし死ぬような事があっても敵を11機落とす迄は絶対に死んじゃいかん』と言っていました。当時の我々の技量で11機など不可能ですから、命を粗末にするなと言いたかったのでしょう」
 以上は、秋水会 会長の言葉です。会長は昭和
1810月、秋田鉱専から十三期予備学生として海軍へ入隊されています。
 また、大変長文になってしまいました。ご体調がすぐれぬご様子、ご自愛下さい。
 私自身は昭和
36年生まれ、戦争体験はありません。

            柴田一哉

川崎市中原区の戦争中の記録: 以上の元田無市での軍用機製作問題に関心をもつようになってきていましたら、市民の意見30の会・東京の事務局メンバーの對馬労さんから、川崎中原の空襲・戦災を記録する会 編集の『川崎・中原の空襲の記録』 (右の写真、2012年11月 刊 頒価¥500 連絡先は 211-0021 川崎市中原区木月住吉町22-10-121 電話&FAX:044−411−6454 松本泰雄方 )という書物を貴贈されました。各都市や地域ごとに、太平洋戦争中の空襲・戦災の記録が編集され、出版されていますが、この川崎市中原区についての記録集は実に見事な内容です。多くがもっぱら被害の記録で、その地域と戦争協力との関連などに触れる点が少ないのに対し、この書物は「川崎の軍需工場」の章があって、実に詳しくこの地域にあった軍需工場の内容が集められています(左は本書の中の図)。例えば 。「株式会社荏原製作所川崎工場」の項には、以下のように、上記に述べたジェット機「橘花」の製作の指摘も入っており、それらが述べられた後に同工場への空襲被害の記録がが続いているのです。

 「川崎工場の設立
 荏原製作所は、1920年(大正9年)に設立され、羽田工場を中心にポンプと送風機の会社として発展しました.そして1941年12月、太平洋戦争の開戦の前日に工作機械特に縦旋盤の工場として川崎工場がつくられ、軍や軍需工場向けの旋盤を製作しました。縦旋盤は当時日本に不足していて、戦争遂行のためには是非とも必要なものでした。但し、工場自体は戦後のことも考えて、ポンプの製造工場にも使えるように作ったということです。敷地は四万五千坪
で、工場と学校・厚生施設・寮8棟があり、社宅は68世帯、約1300人が住んでいました。昼間の労働人口は約2800人でした。

全従業員が徴用に。外部から
動員工が


 1941年軍の管理工場になり軍から命令されるノルマ達成を求められました。開戦当時2782名が1944年には4997名に激増し、社長以下全員が徴用になり、外部からの徴用者や学徒動員生、勤労報国隊も入ってきました。
 7時始業で仕事に追われ、夜8時・9時まで残業、10時をすぎることもあり、月2回の定休日も返上がしょっちゅうでした。

 特攻機の
ジェットエンジンを試作


 1945年の初め、荏原製作所羽田工場に海軍から、特攻兵器「ネー20」の製造命令がでました。これは 航空機のジェットエンジンの軸流圧縮機で、もともとドイツの戦闘機に使用されていたものです。海軍はこのエンジンの輸入をくわだて、潜水艦で運んでいたところ、シンガポール沖で撃沈されたので、海軍所持のエンジン断面図を頼りに試作しようとしたものでした。試作機を製作中、羽田工場が4月3日の空襲を受け川崎工場で製作を続けた結果、6月に完成しました。この圧縮機を乗せたジェット機は「橘花」とよばれ、第一回の試験飛行は成功しましたが、8月11日の2回目は離陸後すぐに墜落して失敗。ときにすでに終戦の8月15日目前でした。……」
 この書物については、市民の意見30の会・東京の機関誌『市民の意見』137号(2013年4月号)に、對馬労さんの「川崎市中原区の空襲・戦災を記録会の活動から」という紹介 が出ています。以下をクリックすると、PDFファイルでそれを見ることができます。http://www.ikenkoukoku.jp/iken12/siryo/news137/news137_28.pdf

西東京市での戦争中の記録:この川崎市中原区の戦争中の記録集の労作を拝見し、あらためて、「非核・平和宣言都市」だという我が西東京市での活動はどうなのかと調べました。まず、市役所の「生活文化スポーツ部協働コミュニティ課」を訪ね、いろいろな資料について尋ねました。そして、同市生活文化課が発行した「市民の戦争体験記」(一)〜(三)という3冊のパンフレットを渡されました。このパンフは「非核・平和をすすめる西東京市民の会」が2009〜2012年に編集した、17人の市民の記録体験記が入れられてあります。しかし、全部がこの地域での戦災についての記録ではなく、中国や韓国での体験や、深川での3・10東京大空襲での体験の文もかなり入っています。この地域にあった軍需工場、飛行機のエンジンの生産をしていた「中島飛行機工場」について触れた文章が一つあります。しかし、全体としては、反戦の姿勢は確かですが、戦争への被害体験が中心で、この地域が戦争推進・軍事協力の場所であったという意識はほとんどなく、川崎市中原区の記録にはとても肩を並べることは出来ないものでした。
 西東京市の田無に総持寺という大きなお寺があります。数年前に私の連れ合いの葬儀をやった場所でもありました。この寺の山門の前に「平和観音像」があります。この像の経緯を背景にした絵本があります。日本児童文芸協会顧問の高橋宏幸著『タイムスリップ』です(明石書店、2006年刊 1,500円+税 右の写真)。1945年4月12日の、田無周辺への空爆の状況と、この平和観音が作られる経緯が絵と文31ページで作られた書物です。
 「……壕のなかは,たちまち、泣き出す声、念仏をとなえるj声でいっぱいになった。/中島飛行機製作所は、そのころ、日本で最も大きな工場のひとうであったから、B29にねらわれてもしかたがない。工場をねあらってそれた爆弾が落ちてきたのだろう。
……」という文もあります(7ページ)この絵本の最後には「戦災で亡くなった人びとの霊を慰める、丸い輪の形をしたモニュメントが建てられ、市民は4月12日を『田無平和の日』『西東京市平和の日』としいる。……」となっています。機会があればぜひご覧ください。また西東京市の方でしたら、ぜひお求めになって、小さな人たちにこの本を見せてあげて下さい。
 なお、前記の「市民の戦争体験記」(三)にはこの地域の戦争記録として20数点の書物が西東京市図書館に所蔵されてあると列挙されており、その中には、田無市立中央図書館発行『中島飛行機製作所と田無・中島航空金属株式会社と田無――」(1979年や、同発行『中島飛行機と田無――戦争を伝える――座談会の記録――』(1980年)、『西東京市芝久保公民館発行『「平和を考える講座〜その時、西東京市では・中島飛行機とのかかわりから考える〜」記録集』(2002年)なども含まれています。私はまだこれらを見ていないので、ぜひ近くこれらを見せて貰いたいと思っています。
 なお、西東京市だけの記録ではありませんが、以下の3点も重要だと思います。西東京市や付近の武蔵野市、三鷹市、東久留米市などの戦争の記録を調べ、、多摩・武蔵野の戦争遺跡をたどるにはとても有難い書物です。
@洋泉社編集部編『知られざる軍部 多摩・武蔵野を歩く――忘れられた25の戦争遺跡を写真&地図で案内!』(2010年 洋泉社 1,300円+税 左の写真の左側)、A牛田守彦・高柳昌久『戦争の記憶を武蔵野にたずねて――武蔵野地域遺跡ガイド』(増補版)(2006年、文伸/ぶんしん出版 900円+税 左の写真の右側)、B牛田守彦『戦時下の武蔵野(1)――中島飛行機武蔵野製作所への空襲を探る』(2011年 ふんしん出版 1000円+税)です。

西東京市での反原発デモ6月のご案内: 本来なら、「ご案内」欄か[西東京市の市民・住民運動」の欄に載せるべき内容ですが、ここに今書き出しているので、ここに書いてしまいます。
 第10回の「原発はいらない西東京集会&デモ」は、6月9日(日)の午後に予定されました。左をクリックすると、大きなチラシの表面が読めます。
 デモののコースは以下のとおりです。

13:30〜 集会 西東京市役所田無庁舎 市民広場
14:00〜 デモ 西東京市役所田無庁舎 市民広場〜市役所通り〜踏切〜所沢街道〜六角地蔵通り〜
緑町病院通り〜谷戸新道〜いこいの森公園
15:30〜 交流(〜16:30) いこいの森公園

主催:原発はいらない西東京集会実行委員会お問合せ先
柳田 TEL&FAX 042-461-3246 / 阿部 TEL 042-424-3410 (夜間)
メール nonuke-ntyo@nifty.com twitter:http://twitter.com/nonuke_ntyo/
 デモの地図や、この行動へのチラシのPDF版などは、http://nonuke-ntyo.cocolog-nifty.com/ に載っていますので、ぜひご覧下さい。

平和のシンボルをぶら下げ、平和のシンボルの巣を追い出す: 今度はガラッと違う話題です。私は、動く小物を置いておくのが好きで、つい買ってしまいます。食卓のある部屋には、深海魚のモビールや気球など、4種ものモビールが天井からぶら下がって、エアコンディショナルからの風でくるくる回って動いています。また、太陽電池で花が右左に動く小さな造花の飾り(150円でした)も、物入れのデスクの上で動いています。先日は、市民の意見30の会の事務所に、天井から[ピース/ピジョン」(平和の鳩)のモビールをデンマークからの輸入なのですが、買って、ぶら下げ、ぐるりぐるりと回っています(左の写真)
 これはいいのですが、実際に生きている平和のシンボル、鳩のほうにはまだ参っています。これまで、ベランダに住み着こうとしている鳩のことに弱っていると何度も書きましたが、今年も南側のベランダに巣を作り出しました。昨年は卵を抱き始めてしまったので、一ヵ月ほど壊さずに、2匹の雛が無事に飛び出すまではそのままにし、雛が飛び出した後にすぐ巣を取り、大掃除をしたのでした。ところが、先週、今年も南側のベランダに巣が作り出したのです。小枝がかなり集められ、重なっているのです。驚いて、今年は駄目だ、と早速、その小枝を取り上げて捨てました。これで諦めるはずだ、と思っていたところ、2日後に朝起きて見てみると、また、同じ場所に小枝が集められているではないですか! びっくりして、またその小枝を捨てました。そして、今朝です! また同じ場所に枝が積んでいるのです。ダメはダメだ! として、今、それをまた集めて捨てたのです。いくらなんでも、三度目に捨てたのですから、もう諦めるだろうな、と思っているのですが、明日の朝はどうでしょう。 
 ベランダの柵の上に載せたトゲトゲの邪魔用のプラスチックの帯や、張り出した糸など、まったく役に立たず、鳩はベランダを動きまわっているのですが……。 

へビースモーカーの小林一茶: 3月末の各新聞に出た記事ですが、江戸時代の俳人、小林一茶(1763〜1827年)の直筆の手紙が見つかり、長野県信濃町の一茶記念館で公開されたということでした。その手紙の写真なども載っていましたが、各紙の記事の内容は必ずしも同じではなく、また、その手紙の現代文に直してあるものがあったり、なかったりで、いろいろでした。手紙の中には「青くさき たばこ吹かける 桜哉」など、たばこを詠んだ句が多数あり、高級なたばこを購入した記録もあるとのことです。以下、その一部を紹介します。
 今度見つかったという手紙が出されたのは、文化9(1812)年、一茶が数え50歳の頃で、縦16センチ横24センチの紙に本文5行と追伸3行の簡略なものですが、文中にある杉丸がだれかは分かっていないそうです。右の写真がその手紙ですが、とても読めません。それを読み下した文もその下につけておきます。内容は、長野市豊野町浅野の門人「竜卜(りゅうぼく)」に、「杉丸さまに私のたばこ入れが落ちていなかったか、ついでの時に聞いてほしい」という依頼です。手紙は12月3日に出され、「長沼より6日朝に帰るので、それまでに知らせてほしい」と追記しています。
 残された一茶の句日記によれば、一茶は58歳のときに脳卒中で半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしたそうです。それでも、たばこは好きだったそうですし、その上、それ以後も、妻と交合(性交)への意欲はやむことがなく、連日連夜の交合に及んだとも記録しているそうです。一茶は64歳半で死んでいます。私は、「交合」のほうはありませんが、たばこへの意欲は、脳梗塞になってもまったく同じ思いで、相変わらず、高級な(!)「SOBRANIE」の紫煙を昇らせており、それでこんな紹介をしたのでした。
 一茶のたばこに関係した句はかなり多いと聞いていましたが、今度少し探してみたら、確かにずいぶん見つかりました。ちょっと探しただけで、以下にあるほど並びました。この頃も、禁煙と、たばこ法度の場所はあったのですね。例えば、「加へぎせる無用でもなし門柳」とか「大寺のたばこ法度や春の雨」などという句もありました。
1810年
埋火の天窓張りこくるきせる哉
埋火やきせるで天窓はりこくり
1811
さく花にけぶりの嗅いたばこ哉
ちる花にけぶりの嗅いたばこ哉
1813
てうちんでたばこ吹也春の風
鶯よたばこにむせな江戸の山
山人のたばこにむせなほととぎす
1814
春風に二番たばこのけぶり哉
雛棚やたばこけぶりも一気色
参詣のたばこにむせな雀の子
ちさい子がきせる加へて刈穂哉
1815
我庵やたばこを吹ておく蚊やり
ろうそくでたばこ吸けり時鳥
小猿めがきせる咥へて秋の暮
寝むしろやたばこ吹かける天の川
寝むしろやたばこ吹かける女郎花
1816
.加へぎせる無用でもなし門柳
猿丸がきせる加へて梅の花
ちる花に御免の加へぎせる哉
たばこの火手にうち抜て夕涼
春風に二番たばこのけぶり哉
1817
ちさい子がたばこ吹也麦の秋
鶯やたばこけぶりもかまはずに
たばこ盆を足で尋る夜寒哉 
青臭きたばこ吹かける秋の風
1818
花さくや伊達に加へし空ぎせる
犬ころが火入れの番や夕涼み
五月雨や線香立したばこ盆
酒法度たばこ法度や春の雨
1819
今春が来たよふす也たばこ盆
線香の火でたばこ吹くすすみかな
1820
涼しさや土橋の上のたばこ盆
赤髪にきせるをさして花見哉
1821
五月雨やたばこの度に火打箱
老らくもことしたばこのかぶり哉
小けぶりも若ひ匂ひのたばこ哉
一引はたばこかすみやわかなつみ
1822
かすむ程たばこ吹つつ若菜つみ
.菜畠やたばこ吹く間の雪げ川
永き日やたばこ法度の小金原
1824
二葉三葉たばこの上に若な哉
江戸へ出る迄はまだまだわかたばこ
大寺のたばこ法度や春の雨
1827年(65歳)
吹たばこたばこの味へ秋の風

本は読みたいが、ほとんど読めませんね: 先日、『東京新聞』に、直木賞作家の佐藤賢一の「不惑の迷い事」という文が載っており、「最近本が読みたくて仕方ない」という文で始まり、最後は「こんな歳からどんな将来の肥やしだと自嘲するほど不思議なものだと、われながら首を傾げる今日この頃だったりしている」と終わっています(3月26日朝刊)。佐藤さんはまだ40代半ですのに「こんな歳」と言っているのですが、とすれば、80歳代に入っている私など、今さら本が読みたいなどと、とてもおかしいことになるのですが、しかし、私も、本がとても読みたくなっていて、にもかかわらず、読むことがとても遅くなり、ほとんど読めなくなって、食卓やデスクには「積ん読」が山のようになっています。いや、本だけではなく、テレビ番組で見たいものもたくさんあり、佐村河内守の交響曲第1番“HIROSHIMA"の演奏(NHK)は、是非と思ってこれは観ましたが、サイトウ・キネン・オーケストラの『火刑台上のジャンヌ・ダルク』やフィリップ・グラスの『ザ・パーフェクト・アメリカン』などは忙しくて見れず、録画しておきました。こうした録画したものも片端からDVDやブルーレイにダビングしますが、そのケースもTVの脇に積み重なっています。それどころか、毎日の新聞を読むのさえ大変です。昨年秋から、『朝日』以外に『東京新聞』もとりだしたのですが、2紙に目を通すのが難しくなっている時もあるのです。
 本サイトのご寄贈いただいた書籍、映像記録等にありますように、今年になっていただいただけの書籍でも20冊以上、その中には大部のものもいくつもあり、ぜひ読みたいものもかなりあります。新聞と一緒に毎号届いている注文のものも、月に3冊くる『よりぬき サザエさん』や、毎週届く『佛教を歩く』も来ます。その上に、市民運動の本、反戦関連の本だけではなく、例えば中野孝次『老いの矜持』、同『良寛 心のうた』だの、玄侑宗久『無常という力――「方丈記」に学ぶ心の在り方』、谷川俊太郎『ひとり暮らし』、鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』なども買ってしまいます。
  佐藤賢一さんは「通じて成長したいというような前向きな意識もないではなく」と書いています。「成長」というほどの期待は、私にはそれほどではないのですが、好奇心はちょっと強すぎて、なんでも調べたくなリ、知りたくなるのです。「物好き」、「好事家」と言われるのでしょう。ですが、よく考えてみると、片っ端から、本を読んだり、DVDを観たりとしても、すでに今あるものが一生のうちに全部読んだり、観たりすることは不可能だと思っています。『東京新聞』は、毎朝手にとった時、まず読むのは、社会面でも政治面でもなく、最終面に載っている「運勢」欄で、その日その日で面白く読んでいるのですが、今朝は、私の「ひつじ年」のところには、「欲望、皆無にすることはできないが、抑制しないと大害となる」とあるではないでしょうか! 抑制しないといけないのだな、そのとおりだな、と思っているのです。