非暴力と非合法

――5・15嘉手納基地行動と関連して――

(その3 非暴力とは法律を守ることではない)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』第51号 1998. 12. 1.)

吉  川   勇  一 

 

5・15の嘉手納行動の企画

 5/15「基地がなくなる日」行動は、最初、この日の昼から、嘉手納基地の第一〜四ゲートの前で、一週間程度(相手がギブアップする日まで)続くものとして、冒険社内に事務局を置く「非暴力行動委員会」から呼びかけられた。何度か、東京でも準備のための打ち合わせ会が行なわれたが、そこでは、この行動が文化、とくに音楽をもって基地を包囲し、非暴力に徹するものであることが強調され、イメージとして、一九六七年一〇月二一日、アメリカ国防総省を包囲したデモとそのときの市民的不服従行動も例としてあげられた。

 最初のマル秘の印のついた企画書では、一ゲートあたり二万五千人によびかけ、計一〇万人の民宿も募集するという、壮大なものだった。この人数は、かなり希望的な数字で、実際そうなるとは期待はできなかったものの、計画の中心に、非暴力直接行動、あるいは市民的不服従の行動が含まれることは前提であった。東京での準備会の中で非暴力行動に詳しい阿木幸男氏を招いて警察の暴力から身を守る練習の機会まで用意されたのも、まさにそのためだったはずだ。

 その後、行動を呼びかけた「国際非暴力行動委員会」が出した『基地がなくなる日』というシミュレーション小説で叙述されているその日のゲート前の場面でも、機動隊と対峙しつつ、そこを埋め尽くす参加者の模様が描かれている。機動隊の中止命令も、圧倒的な力で押し返している。「やめなさい!」「強行するものは器物損壊の現行犯で逮捕する!」という命令にも誰も従うものはいない。

 これは非暴力直接行動としては、当然の情景であって、法律と警察の指示どおりに従っていたのでは、直接行動などありえないし、不服従という言葉自体と矛盾する。

 非暴力直接行動の性格

 すでに二回の連載で縷々のべてきたこれまでの実践の例でも明らかなように、非暴力直接行動とは、国家の定めた条約や法律よりも、もっと高い次元で、人間として従わねばならぬ規範、やってはならぬ行為があり、そのために必要とあれば、法に違反すること、そして決して望むわけではないが、それによる逮捕、投獄、あるいは有罪判決など、自己に不利益な事態をもあえて辞さないこと、そして、その際、相手側が暴力を行使しても、非暴力に徹し、こちらの発揮する良心の力によって相手を精神的に圧倒し、またこの行動に参加していない人びとにも、大きな影響を与えることを期待するものである。

 これは行動に参加する人の数によって左右される原理ではなく、また、さまざまな立場や条件の人びととの共同の行動の場合には、全体に一律に課される形態でもない。

 すでにのべた日本でのアメリカ大使館前座り込みの実例のように、逮捕覚悟で座り込む人、それには参加
しないが、周囲にあってそれを支持して見守る人びとなど、全体は重層的な構造をもつ。

逮捕者の有無について

 ただ、参加者が圧倒的に多かったり、その時々の政治的、社会的条件によって、逮捕などを覚悟していても、そうはならない場合もかなりある。そもそも、大衆行動を規制する警察の対応は、きわめて恣意的なものであって、単なる脅迫や見せしめ、あるいは報復のためだけに不法に逮捕する場合もあれば、警察の禁止命令にもかかわらず、長時間にわたって道路上に座り込んだりしても、一人も逮捕されない場合もしばしばある。逮捕されるかどうかは、そのときの彼我の力関係で決まったり、また、「違法」な不服従の行動をいつまで続けるか、いつ打ち切るかの、その場の指揮者の経験と判断によるところも大きい。

 だいたい、これまでのデモの多くは、不服従行動による逮捕を前提とするようなものではないのだが、それでも、ひたすら許可条件を遵守し、警察の規制の指示に従うなどということはまずなく、条件さえあれば、隊列の幅が広がったり、長時間停止してシュプレヒコールを繰り返したり、あるいは目標とする施設や機関の建物の前で座り込んだりもする。一九六〇年の安保闘争の際の国会周辺のデモなどはそうだったし、六〇年代後半からのベトナム反戦運動のデモも大部分はそうだった。

 一九七〇年六月一五日のデモの際、鶴見俊輔さんを含む「安保拒否百人委員会」の人びとは、デモの中での独自の行動として、数寄屋橋交差点での市民的不服従行動を計画し、逮捕をも覚悟してそこで座り込むことを予定した。だが実際には、このデモには約二万人(位と記憶しているが定かではない)の参加者があり、数寄屋橋では、「百人委員会」以外のデモ参加者が少なくとも数千の単位で座り込んでしまった。警察官もそこには多数出動していたが、座り込んだ万に近い人びと全部を逮捕することはできなかった。座り込んだ人びとの大部分は、決して逮捕覚悟の市民的不服従を意図していたのではなかったのだが、結果としては大規模な非暴力の不服従行動が逮捕者なしで実現してしまったのだった。

 しかし、これもそのときどきの条件によるものであり、いつでもそうなるとは限らない。六九年の新宿駅西口地下広場でのフォーク・ゲリラ集会では、毎週土曜日の夜になると、数千の人びとが広場に座り込み、何時間も歌を歌ったり、意見を言い合ったりする場となっていたが、警察側がこれを断固排除する方針を決め、二度にわたって大量の機動隊などを動員して規制に乗り出してきたことによって、中心メンバーは逮捕されたし、以後、広場の使用は不可能になってしまった。

 しかし、市民的不服従の行動であるならば、そうなっても、西口広場での行動を逮捕覚悟で続けることもありえたろう。

 5・15 嘉手納行動の実際

 さて、5/15「基地がなくなる日」の実際はどうだったか。『ニュース』48号で木村雅英さんが書いているように、五月一五日の行動は、前日から近くの公園のテントなどに泊り込んでいた人びとによる小人数での「あぶし払ェ」(祈りの行動)などで早朝から始まったが、メインは、昼前にコザ運動公園に集合して開始されたデモであった。

 参加者は、予想外に少なく、二百人ほどだった。沖縄市の市街を三〇分ほど歩いて嘉手納基地第二ゲート前についた。

 ここでの行動が問題だった。人数が少なかったこともあったが、事前の討論もほとんどなく、意識的な市民的不服従行動は可能とは思えなかった。二百人の参加者の中で、そういう用意のあった人はほとんどいなかったと言ってもいいだろう。十分な準備なしに、不服従行動を強行することは、もちろん避けねばならない。混乱だけを招いて負傷者さえ出かねないからだ。それでも、デモのコースはゲート前でUターンすることになっていたから、ゲート前の路上では、可能なかぎり停止し、座り込み、基地への申し入れ書の手交や、シュプレヒコールの斉唱などは行なわれるものと、私は思っていたし、デモ参加者の多くもそう予想していた。

 事実、デモはゲート前で停止し、数十人が道の中央を塞ぐ形になった。市内からゲートに向かおうとしていた米軍車両が何台か、進めなくなってデモと並んで停止した。「基地はいらない!」などのシュプレヒコールがその間続けられたし、北海道から参加したアイヌの人たちのグループは長い横断幕を路上いっぱいに広げた。

この間、警察官は、二、三〇人ほどがゲート前や路上にいて、デモがゲートの直前までゆくのを阻んでおり、実際、デモがUターンしたのは、ゲートからはまだ百メートル以上も離れているところだった。警官の服装は交通整理の警官同様で、機動隊の完全装備ではなかった。彼らのマイクは、立ち止まらず行進を続けるよう、言っていたように思うが、「実力で規制する」などの警告はまだなかった。

沖縄の準備会の中心メンバーの一人の人が、路上に立ち止まっている私のところへ来て、「これからどういうことになるんでしょうかね」と話しかけてきた。

「このぶんでは、まだ一〇分や二〇分は止まっていられるでしょう。そのうち、実力で排除するとかいうことを言い出すでしょうが、そのときの判断ですよネ」と私は答えた。

ヤンキー・ゴー・ホームという表現

 デモからは、停止した米軍トラックやジープに向けて、「ヤンキー・ゴー・ホーム」という叫びも上がった。

 実際にそう叫んだ人は参加者のごく一部だけだった。多くの人は唱和しなかった。私はこの表現には賛成できない。木村さんの報告にもあるとおり、デモのあとの集会で、私は、この五〇年代によく言われたスローガンは、日本ではすでにベトナム反戦運動の中で事実上のりこえられ、「GI、ジョインナス」(米軍兵士よ、私たちの仲間に加われ)という、ずっと適切な呼びかけに変わっている、と指摘した。

 さて、いかにこの叫びが適切ではなかったにせよ、その直後からのデモ責任者(沖縄側の準備会)の指揮ぶりは異常だった。

 立ち止まっているデモの前に飛んできて、(木村さんは「血相を変えて」と表現しているが、実際、私もそう思った。)両手を振り、「歩いてください! 立ち止まらないで!」「歩道に上がってください!」「進むんだったら、進むんだ!」と怒鳴りつづけた。

 このデモ指揮者の態度に、多くの人は驚き、シュプレヒコールも止まり、デモは歩道の上に移動しだした。立ち止まっていた時間は一〇分もなかったのではないだろうか。私の周辺の参加者からは、「まだいいじゃないの」とか「なあーんで?」といった不満の呟きもずいぶん聞こえた。

 このデモ責任者を私は個人的には知らなかったが、地元沖縄の準備会の事務局長であると聞いていただけに、そこでは指揮に従わざるを得ないなと判断した。

 デモは行進を続け、近くの八重島公園まで歩いた。(木村さんが報告の中で「とぼとぼと歩いてデモが終了した」と表現しているのも、この思いがけない結末から受けた彼の挫折感を表しているように、私には思える。)

 解散地に向かう途中、私はその指揮者に、デモが終ったらすぐこのデモの総括の集会をやるべきだと提案した。彼もそれはぜひやらねばならぬ、と同意した。ただ、そこでやろうとしたことは、彼と私では正反対の思いからだったことが、後でわかった。

非暴力は法律に従うということではない

 デモが公園についた直後、デモ指揮者からは、「このデモは最初から明らかにしてあるように、非暴力のデモなのです。法律を守れないようなデモでは孤立し、基地などなくせるわけがない。多くの人の共感を得るようにしなければならないのだ。ぜひとも、考えなおしてもらいたい」という演説があった。

 私は、その発言には、あらためてショックを受けた。違うよ、間違いだよ。聞きながらそうつぶやいていた。

 雨も一段と激しくなってきたが、意見の交換の場はなかなか提唱されず、参加者はそれぞれ、テントの中やあずまやの下に集まっているだけで、一向に全体への呼びかけはなかったのだが、しばらくしてようやく
会はテントの中で開かれた。

 まず、北海道から参加したアイヌの女性の方が口火を切った。今日のデモは私たちのやり方とは違う、もっと積極的な行動があってよかった、という趣旨だった。私も、すでに前号までで書いたような砂川闘争の例などをひいて、非暴力直接行動の意義を訴えるとともに、デモ解散直後に指揮者が話した趣旨には賛成できない、非暴力ということは合法ということとまったく違うし、ましてや警察の指示につねに従うなどということとは関係のない別の次元の話だ、と多少は遠慮した表現だったが、しかしその考え方に反論した。

 ゲート前で「ヤンキー・ゴー・ホーム」と言ったのは、プエルトリコからの参加者だったらしいが、彼はその言葉が適切ではなかったかもしれないと認めた上で、しかし、米軍が世界で行なっている行動を厳しく批判した。

 続いて立ったグァムからの参加者は、自分たちがグァムで行なっている反基地運動の実態を紹介した。

 グァムでの行動はあんなものではない。私たちは基地に押しかけたら、座り込みどころか、フェンスの金網を乗り越えて中に入ろうと、そこによじ登り、警備の兵隊から突き落とされるなどということもしょっちゅうやっている。ただ、日本の行動に参加する以上は、日本のやり方に従うつもりで、指揮者が歩けと言うから、自分は歩いた、と。

 これもデモ指揮に対する批判と私は聞いた。

 結論を出すという会ではなかったが、対立する意見の間で活発な討論が行われるということにはならず、意見の言いっぱなしの不消化な会に終ったように思う。それ以後の行動は、木村雅英さんが48号の『ニュース』で報告されているので、繰り返さない。

 ただ、そのあと訪ねた第五ゲート前での女性たちのデモや、翌々日、一七日の普天間基地での人間の輪による包囲行動などが、とても気持ちのよかったものだったので、嘉手納での行動でそれぞれが抱いた不満は消えた思いだったということを付け加えておきたい。

反省と今後のこと

 最大の問題は、すでにのべたように、非暴力直接行動としてよびかけられたものの、実際には現地の準備会や参加者の間にほとんどそれについての共通の理解がなかったことで、東京の準備会と実際に現地で準備し、当日の指揮にあたった沖縄の準備会のメンバーとの間のこの点でのきちんとした議論や確認がなかったことがその原因だったろう。その点の不安はあり、私も何度か念はおしたものの、実際にたしかめることはできないままに、私はこの『ニュース』の上で、嘉手納行動への支持と参加を呼びかけた。反響は大きく、「市民の意見 の会」からは沖縄行動に多くの人が参加することになった。

 基地前の行動がどういうことになるかが予想できなかったので、私は の会の事務局の千村さんに同行を強くお願いした。万一の混乱が起こった場合に、そういう事態に即応できる経験のある若い人がぜひともいてほしいと思ったからだ。

 だが、そういうことにはならなかったのは、前述のとおりであった。ただ、市民の意見の会から参加した人びとの大部分が一七日の人間の輪に参加し、おおいに意気が上がったので、まずはほっとしたのだったが、かなり責任を感じている。

 帰京後、東京で準備段階から参加していた人びとによる総括の会合があった際、沖縄出身の若い方から、今度の行動にこりず、今後へ向けて気長い努力をつづけてゆくつもりだ、という意見がのべられ、意を強くした。

 しばらくしてダグラス・ラミスさんから電話があり(彼も沖縄に行っていた)、今度は、横田か横須賀か、本土で市民的不服従の行動をやりましょうよ、という提案を受けた。

(以上)

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