hon-small-green.gif (121 バイト)  ベトナム戦争関連の本のお勧め(渡辺勉) 『市民の意見30の会・東京ニュース』  No.68 より)                              

 最近、ベトナム戦争と関連した良書が続々と刊行されています。ガブリエル・コルコ『ベトナム戦争全史』(陸井三郎監訳、社会コルコ『ベトナム戦争全史』思想社、2001年7月)などは必読と思いますが、定価 \17,000+税 という値段には驚きです。
 ここでは、
『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.68 に掲載された渡辺勉さんの『毛沢東のベトナム戦争』などの書評をご紹介します。

朱 建 栄 著
『毛沢東のベトナム戦争
 −中国外交の大転換と文化大革命の起源』

渡 辺    勉

(『毛沢東のベトナム戦争』 東京大学出版会、2001年6月刊、定価 6.000円+税)

『毛沢東のベトナム戦争』 最近、ベトナム戦争についての本が、当時その戦争に関わった人たちの証言を含めて出版され始めているが、それはロバート・マクナマラの『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』〔伸晃訳、共同通信社、1997年5月〕に触発を受けてのことだと断言しても間違いではないだろう。日本でも、ベトナム戦争当時、まだこの世に生を受けていない青年による『我々はなぜ戦争をしたか――米国・ベトナム 敵との対話』(東大作著、岩波書店、2000年3月)が出版された。マクナマラの『回顧録』に刺激を受けた青年は、直接マクナマラを訪ねてインタビューを試み、『回顧録』が出版された直後に、米国とベトナム両国の戦争指揮・政策立案に関わっていた政府高官が一堂に会した(1997年6月)会談の模様を紹介した。  
  この会談に参加した両国の政治家や軍人たちは、ときには剥き出しの怒りを露に『マクナマラ回顧録』し、ときには深い内省McNamara"Argument”を吐露し、激しく戦った自分たちの行いを正確に辿りながら、なぜこのような深い傷跡を民衆に刻印せねばならなかったのかを後世に伝えることが責務であるという、歴史東大作『我々はなぜ戦争をしたのか』に関わることの重みを私に感じさせてくれた。その後、マクナマラは、もう一冊の本を上梓した。 『Argument Without End』 という題名で、近日中に前著と同じ訳者によって共同通信社から出版される予定であると聞く。この二冊の本の米国での評判は必ずしも好意的ではなかったという。
 ベトナム戦争の当事者は、直接戦火を交えた米国(南ベトナム)と北ベトナム(南ベトナム解放民族戦線)だが、当時の冷戦構造下にあって、共産圏諸国側からはソ連、中国、北朝鮮も直接ならびに後方支援に関わっていたし、西側諸国も、韓国、オーストラリアなどは直接兵力を送りこんでいた。タイ、シンガポール、なによりも日本が最大の後方支援基地に位置していた。それら諸国の為政者たちからは残念ながら、未だなにひとつ公に語られてはいない(最近、韓国がベトナムへ兵力派遣したことをベトナムに謝罪したが)。
 ここで紹介する『毛沢東のベトナム戦争』は、当時の中国の外交や軍事に関わっていた人による証言ではない。中国現代史、外交史を専門とする研究者によるものである。著者は、中国政府の浩翰な内部資料を主とし、ベトナムや中国の当時の担当者にインタビューして本書を書きあげた。マクナマラがベトナムの当事者たちと会談したことを別にすれば、いわゆる社会主義圏・中国とベトナムの資料を駆使し、要路の人たちにインタビューしてベトナム戦争を直接論じた本としては初めてではなかろうか。600ページを超える大部な本であるが、著者が扱っている時代は僅かに1963年から1965年に至る三年間である。その時期が抱えていたアポリアを、毛沢東の世界戦略から捉えかえしてみようとしたアンビシヤスな書物である。
 毛沢東が心悩ませていたこの時期は、(1)ベトナム戦争がトンキン湾事件から全面的北爆開始に至る時期、米国による中国本土爆撃が必至と見なされた時期にあたる。 (2)50年代後半に顕在化した中ソの路線の違いが惹起した軋轢は、公然たる論争――武力衝突まで誘発した。中国はフルシチョフの「平和共存路線」が「国際主義の放棄」だとして声高に批判する一方で、中国一国が孤立してベトナム戦争支援を引き受ける危険を避けるため、ソ連を必死にベトナム支援に取り組ませようとし(「連ソ反米」キャンペーン)、またエドガー・スノーなど通じて米中戦争回避のシグナルを米国に伝えようと工作を繰り返していた。 (3)米国による本土爆撃に徹底抗戦するとなれば、主要経済を沿岸地域から「戦略的大後方=第三線建設」[沿岸部(第一線)から600〜800キロ以上に位置する西安、武漢、長沙より奥地の蘭州、成都、重慶などまでを後方(第三線)として、重化学工業を移転させることをさす]に早急に着手することが喫緊の 課題となる。だが劉少奇を中心とする「実権派」党官僚は同時進行する三つの重大さの相互連関に思いが及ばず、毛沢東は文化大革命の発動によって中央正面突破を決意する。毛沢東にとっては、この三つのアポリアはひとつひとつが個別に存在しているものではなく、内的連関をもったもの、一挙同時の解を見つけ出すことで始めて解ける性質のアポリアであった。毛沢東が全精力を注いだその先は、文化大革命の大爆発――解き放たれた無制御な民衆のマグマをも誘発して行く。
 この本のもう一つの主題は、ベトナム――中国――ソ連の関係を、ベトナム戦争と国際共産主義の路線との関わりで考察することにある。1954年のジュネーブ会議で南北ベトナムという分断国家を誕生させた背景には、米国の介入という要素に加え、中ソの一致した圧力が万力のように作用し、ホー・チ・ミンは沈黙を強いられた、というところから著者は説き始める。当時はまだ中ソは一枚岩であり、朝鮮戦争によって深い傷を負った中国は、ベトナムで再び大きな戦争に入ることを極度に恐れていた。その思いはソ連にも共通で、中ソ対立が武力 衝突を起こす頃まで、ベトナムを縛り付けていた。そのこともあって、ベトナムはどのような交渉であれ中ソの介在を排除するようになる。ソ連と米国、中国と米国の交渉は表での激しい非難の応酬にもかかわらず、ベトナムにとってはいつ寝首をかかれるか、不信と不安がいつも同居していた。
 中ソの分裂は、ベトナムにとって中ソ一体で小国に縛りをかけるという1954年の悪夢からの解放ではあったが、援助を引き出すことと両国の顔の立て方では苦労の連続であった。そのことは、国際共産主義運動で少数派であった中国も同じような問題を抱えていた。いつベトナムがソ連寄りに態度を変えるか、もしそのような事態が招来すれば、国際主義の大義がベトナムとソ連に奪われ、国際社会における中国のプレスティジは一挙に後退を余儀なくされる。そのこともあってか、1963年から65年にかけ周恩来など中国首脳のベトナム訪問は、頻繁に行なわれている。
 1965年を境にして、中ソの対立はベトナムの自立を促進し、ベトナム自体が中ソ両国の支援をその対立を利用しながら引き出すようになり、またパリ会談を始め、米国との交渉にも独自色を大胆に打ち出し始めて行く。
 是非この書物を手にとり、読み進められることをお勧めする。
 最後にもう一冊、『ニクソン訪中機密会談録』(毛利和子・毛利興三郎編・訳、名古屋大学出版会、2001年7月)を紹介しておきたい。1972年のニクソン・キシンジャー訪中の際の議事録が、米国安全保障公文書館から公開されたことで、毛沢東、とりわけ周恩来がベトナム戦争期に米中開係をどう考えていたかが窺い知れて実に興味深い。インターネットで英文を入手できる。まだ私は原文を手にしていないが、文人・周恩来の言葉が、どのような英語となって綴られているのか、是非目を通してみたい。またよく整理された毛利和子氏の解説が背景を理解する上で重宝する。
 最後の最後、蛇足だが、偉大な政治家・外交官であり、文人でもあった周恩来の前に出ると、ニクソンは低学年の学部学生のように(歴史的事実を知らないことなども)、かしこまって教えを受けているのが、毛利氏の翻訳からもよく伝わってくる。
     (わたなべ べん/国際労働運動研究家)
『市民の意見30の会・東京ニュース』  No.68  2001年10月1日発行より