拙著『 民衆を信ぜず、民衆を信じる』についての書評3点。(08/05/27)
3月に出版した拙著『民衆を信ぜず、民衆を信じる』(第三書館刊)の書評が出始めました。ここでは、書評者の了解を得て、3点をご紹介します。
『サンデー毎日』2008年6月1日号より 「サンデーらいぶらりぃ」 行動する知識人の苦言 水口 義朗 吉川勇一著 『民衆を信ぜず、民衆を信じる――「ベ平連」から.「市民の意見30」へ』(第三書館/2,840円) インテリと知識人のちがいは、聞いたふうな批判はするが、イザとなると行動しない奴と、知識の充溢がやむにやまれず社会参加に自らを追い込む人にある。と、なれば、著者はまさしく後者。全学連、わだつみ会、日本平和委員会、原水協、ベ平連、日市連、市民の意見30の会など、徹底して反戦運動に参加、喜寿を迎えた。闘病歴も長い。還暦、まず膀胱がんで人工膀胱に。次は胃の四分の三切除の胃がん。腸閉塞の手術数回。ひと頃は、三ヵ月刻みで人生設計を立てていた。 四十七年苦楽を伴にした夫人の難病介護と看取りの記録を含め、半世紀をはるかに越えた連動のメモ、メッセージ、論文、追悼文集、とくにベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の事務局長として、この人なかりせば、カリスマ小田実代表は独裁者になっていた。 著者の批判と助言。末期がんの小田さんには言えなかった苦言がここにある。小田さんの遺著『中流の複興』の中で、小田さんは、戦後の日本が「平和経済」の国で見事な復興をとげたと何度も述べている。著者はそれに不満なのだ。「疲弊した戦後日本を一挙に復活させたのが、朝鮮戦争による特需だったことや、またベトナム戦争の際の特需のことには触れてほしかった。」「左翼はすぐ、これは軍事産業だ、三菱はどうしたこうしたと言っているが、基幹的には平和産業で、それで豊かさを形成した。」という小田さんの一文に、何より文句を言いたかったのだ、と。 著者が言いたいのはもっとも。なぜなら、三菱重工業への反戦一株運動の提唱者は小田さん。著者は株主総会場から叩き出されている。著者は七十七歳からピアノを始めた。
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週刊書評紙『読書人』2008年5月9日号より 小中 陽太郎 本書のタイトル『民衆を信ぜず、民衆を信じる』は、べ平連存亡の危機によく吉川の口から聞いた。表現はより直裁だった。「民衆は一人一人は、アホだが、長い目でみれば正しい」。 その例は、小田が死んだ夜、安倍が大敗した参院選にも見られるだろう。それまでは国民投票法から、教育基本法まで滔々たる憲法改正の流れで、これは勝負あったかと肝を冷やすこと再再だった。しかしふたを開けてみると、年金のせいもあろうが、有権者の多くは戦後の急激な見直しに不安を感じていたことを証明した。吉川が、民衆は正しい、と信じる例は、『民衆のアメリカ史』の著者ハワード・ジンのこんな心情が基になっている。 「勝ち目がまったく見られない状況の中で、自由と正義を求めて勝利したという例は歴史のなかにたくさんあります」 ここまでいえばだれでも気づくように、そのもっとも大きな例がアメリカに勝ったベトナムだった。 しかしだからと言って、何もしないでいいとうわけではない。 2005年の自民300議席の衆院選のあとに書かれた一文では「論理的な説得だけで多数派になれるか」と吉川としては意外な視点を導入していた。吉川、まず、「西欧社会の、個人の存在を前提とした市民社会ではない日本の『世間」」を認める。そして自立した個人を対象とする論理の高さだけでは市民を動かすことはできず「その中にあってその法則に見合ったような多数派形成の工夫をかんがえださなくてはならない」というに至る。賛成である。じつは最近、べ平連後の運動は、ともすれば、かっての経験をないがしろにしがちで少数派を守るとする傾向が強いと、ぼくはひそかに心配している。さりとて、デモをパレードと呼び変えただけでいいのかと、かれもその点は辛口だが。 吉川らしい二枚腰の現われるのは、戦争犠牲者を慰霊する四種の慰問碑を比較する『死者は分裂している』である。熱海の「興亜観音」は、中国戦線の指揮官松井石根が、当時寄進したもので、香港のテレビが紹介して、吉川も知る。ここは現在の「靖国」の映画と思いあわされる。アジアの眼をとおして、日本のグロテスクさが浮き彫りになるといおうか。次が、竹内好の書いた太平洋戦争犠牲者の記念碑。それを鶴見俊輔は「戦死者を追慕しても戦争はただしかったということにならない」と意義を認める。しかし吉川はそうはいかない、と反論している。三番目が、群馬にある「おろかもの之碑」。だがそれも戦後の公職追放を反省しているのか、戦争をしたものがおろかというのかはっきりしない、と指摘する。最後が、憲兵だった個人の建てたもので侵略戦争に参加したことを「只管お詫び申し上げます」と痛切である。吉川は、自分の足と目で碑をめぐり、最後にべ平連の先輩の福富節男の言葉を引く。「あらゆる犠牲という言葉でさまざまな死を一括りにしてはならないのだ。そこでうばわれるまえの生の多様さが一括りにできないように」。先に引いた個人を前提としない日本社会にたちむかう姿勢がここでは鮮明だ。 六〇でガン、四度の手術を乗り越え七七の今も健筆をふるう、最愛のおつれあいが召されたあとも、天国からの年賀状を共に続けて、人々を感動させている吉川の、これは愛の記念碑である。賀状が美しいカラーで収録されている。 思えば43年前の徹夜ティーチンの席上ベトナムの地図を依頼したのが出会いだった。当初看板屋さんとまちがえた吉川は、市民運動というおおきな地図を描き続けていたのである。 |
『季刊 運動〈経験〉』No.25 2008年春号より 「死者」へのこだわり 天野 恵一 吉川勇一著 『民衆を信ぜず、民衆を信じる ――「ベ平連」から.「市民の意見30」へ』(第三書館、2008年) (原典では、傍点が降られた個所がありますが、パソコンではうまくつきませんので、そこはゴシック活字に代えてあります。ご了承ください。 吉川) ひどく面喰らった。本書の八七ページの後におりこまれているカラー写真一六ページにである。トップが著者近影、ラストが著者夫妻の写真、その間に一九九五年からの年賀状(二人が別々に書いているのが一枚に収まっているもの)。二〇〇五年暮れのものから(これは年賀状ではない)亡くなった「連れ合い」の「あの世」からの挨拶が書かれている(もちろん著者の創作であろう)。 正直、私はこういう年賀状をいただくたびにひどく戸惑った。「吉川さん、どうなっちゃったんだろう……⊥などと、つぶやきながら。ところが、これらがまとめて自分の運動の中で運動に向けて書かれた本に収められているのである。 私の大いなる「戸惑い」の理由はハッキリしている。あの相手の感情などまったく無視した、切り口上のかたまりともいうべき、パサバサした口調で会議をリードする、合理主義者然とした著者。この日常のイメージからは、およそ予想できない、プライベートで「おセンチ」な感情を公然と露出させている著者がそこにいるからである。「おセンチ」であることを問題にしているわけではない。人間はだれしもそれぞれに「おセンチ」であると思うが、それを、ここまでアツケラカンと、著者のような人が露出(あるいは流出)させ続けることが、ある驚きを呼び起こしたのだ。 しかし、全体を読んでみて、わたしはそれなりに納得した。この本は、著者の前著『いい人はガンになる』(KSS出版、一九九九年)の延長線上の本(ただし運動編)として読めばいいのだ。この妙に明るく、ユーモラスなガン闘病記は、当然、プライベートなエピソードが満載されていた。本書は、「べ平連」から「市民の意見30」への運動のなかで書かれた文章を集めた文章ではあるが、著者の極私的な事柄と運動というある「公的」世界を地つづきで論じようというスタイルは一貫しているのだ。考えてみれば、その前の『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』(思想の科学社、一九九一年)も、自伝風にまとめられたものであった。本書の帯は、こうかかれている。「77歳吉川勇一が言ってきたこと、言っておきたいこと」。 『いい人はガンになる』の最後の章のタイトルは「死の準備のこと」であった。そこには死をキチンと準備していった友人たちへの「意思的」態度を称賛をこめて具体的に紹介するという方法で、自分の「準備」への決意を語っている。私には、そんなふうに読めた。七七歳を祝うパーティーでの贈呈本として編集された本書は、「準備」の意思の産物であろう。バラバラに書かれた文章は、「世の中と生き方」・「あらためてベトナム戦争のこと」・「からだのこと」・「連れ合いの死」・「先立った人びと」の章に分類され、かならずしも書かれた時間順にではなく収められている。「まえがき」と「あとがきに代えて 母のこと」さらには著者略歴(〇歳(一九三一年)から七七歳までの年表。例えば、前年11月27日、守屋前防衛省事務次官逮捕の翌日(28日)にはこうある。「念願の電子ピアノを購入」。政治社会の大事件と個人的な事柄がゴタマゼ)まで、まとめて読みぬけば、論文集なのに「自伝」風につくられていることが、よくわかる。吉川勇一という人物とその意見、さらにはその人生がつめこまれているのだ。 さて、内容の検討に向かう。 本のタイトルとなった論文は、比較的最近書かれたものであるが、おそらく市民運動を担い続けた著者の若い時からのスタンスを表明したものだろう。そこにはこう書かれている。 「結論的に私の意見を述べれば、『民衆を信ぜず、しかし民衆を信じる』ということになります。短期的には、民衆は騙されたり、恐怖したり、目先の利害に左右されたりして、誤った判断をし、誤った行動をとることがままあります。しかし長期的に見た場合、民衆の動きは信頼でき、よりよい方向への歴史の流れを確認できます。長期的とは、少なくとも五〇年単位で考える必要があるでしょう」。 「署名や集会や意見広告やデモなどの効果も、すぐさま眼に見える形で現れることはほとんどないといっていいでしょう。しかし、それは確実に、歴史を動かしていく底部の力をつくり出しているのだと、私は信じます」。 こうした結論を根拠づけるエピソードとして著者は、ハワード・ジンの革命的激動の瞬間を準備する、英雄的でもなんでもない人々の「小さな行為」の集まりという歴史的体験を語る「自伝」の言葉を紹介している。さらに、ノーム・チョムスキーの、自分の未来に対する楽観論の理由として論じられる、「アメリカの歴史が悪化しているとは思いません。もし昔のほうがよかったというのでしたら、あなたは二〇〇年前の奴隷制時代に戻りたい、というのですか」という言葉も。 私は、この著者の、この明快で「合理的」説明とみえる立場を共有しない。 歴史的大変革も、無名の人々の「小さな行為」の蓄積と集合でうまれるという歴史観は、私も共有する。しかし、すべての小さな行為が歴史的大変革と結びつくとはいえまい。結果的に「無効」としかいえない「小さな行為」は歴史に満ちあふれているのではないか。「無効」の連鎖のなかに、大きな変革と結びついた小さな「有効」が偶然にも飛び出すだけだろう。だから私たちは、「コップの中のオナニー」のごとき自己満足以外なにものでもないとののしられるしかないような「無効」な行為をあきらめずに続けるしかないのではないか。 また、核兵器の実戦での使用から宇宙軍拡へと向かう、大量殺傷の軍事テクノロジーの歴史的「発展」と、これをストップできずにその目先の利益や便利さにふりまわされ続けている私たち民衆の倫理的力量(戦争で人を殺して生活してあたりまえの日常)を考えたとき、昔がヒドくて、未来は楽観できるなどといえるわけはない。長期的にみて人類(地球)は自爆への道を歩んでいるのではないか。 だから、短期的はもちろん長期的にであれ、民衆(歴史)を信ずる、などと断言する立場は共有できない。では何故、著者同様、私は運動に帰着するのか、と問われれば、こう答えるしかあるまい。この歴史的破滅への抵抗をあきらめて、現状肯定のシニシズムに逃亡するのは、どうしても嫌だからだ。この抵抗のプロセスで殺されてしまった人間を含めた、このプロセスを共有してきた、あるいは共有している友人たちを裏切ることだけはしたくないからであると(著者のように希望を捨てない人がいるかぎり、その足を引っぼるようなことはしたくないのだ)。 なにやら異論のみ唱えてきたようだが、実は私は、本書の基調トーンとなっている思想には強く共感しているのである。 小田実は「死者にこだわる」という論文を書いている(『朝日ジャーナル』一九七九年四月二〇日号、同名のタイトルの単行本(筑摩書房)に収められている)。この本を読みながら、私はしきりとこの論文のことを思い出した。この本は、「死者にこだわる」というテーマが貫通していると思えたからだ。 このことの説明にいくまえに、一つの極私的なエピソードの紹介という、まわり道をさせていただく。昨年の夏、小田実は亡くなった(本書にも小田追悼文が収められている)。『朝日新聞』の社説が、その死を論じたりといった、思いがけない大きな騒ぎをそれはうみだした。 運動の場の付き合いは少しだけあった(私たちの主催する集会にも何度か来ていただいたこともあった)。しかし、個人的つきあいはゼロ。葬式は、かなり親しかった人の時のみ例外的に参加という私の原捌からして、行かないほうが自然と判断した(騒ぎの大ききへの反発もあった)。ところが、葬式の日の朝、武藤一半から電話。「今、準備して出かかったが、カゼの熱でフラフラして動けなくなった。吉川たちに、君のほうから行けないとつたえてくれ」。「スイマセン、僕行きませんので、御自身で吉川さんに連絡してください」。「ウム、吉川は電話すると、こわいからな……」。「そんな、自分でやってくださいよ」。こんな子供じみたやりとりが、そのときあったのだ。 大学時代からの長い長い友人ですら、切り口上な対応でピビらせてしまうようなクールな人物なのだ著者は。 小田実の追悼文で著者は、こう書いている。 「間もなく八月一四日がやってくる。一九四五年のこの日、大阪をB-29の大編隊が襲い、何万という犠牲者が出た。天皇の敗戦放送の前日のことだった。/それは畏友、故小田実の活動の原点となる経験だった。もしも「国体の護持」などにこだわらず、敗戦の決定がもう一ヶ月でも早くされていたならば、この死者も、広島、長崎の膨大な犠牲者も出ずに助かったはずだ。/彼はその死を「難死」と呼び、……」。 この「難死の思想」について武藤一羊は、こう書いている。 「空襲体験が小田の思想の原点なのか? 小田の評論の観計的研究によれば、そうだという答えがいとも容易に導き出せるだろう。しかしかりにそうだとしても、それは、たとえば安田武にとって学徒兵体駿が原点であるような仕方で『原点』なのか? まったくそうではないだろう。すべての墓守りと神官が上機嫌なように、安田武はどちらかといえば(本質的に)上機嫌だ。彼にとって戦争体験は祭祀の問題だ。それがたとえば安田にとって(そして数多くの他の戦中派イデオローグにとって)、戦争体験が原点である意味なのだ。しかし小田にとって、『難死』はまったくちがう。それは現在の、そして将来の問題なのだ。空襲体験への小田の執拗な回帰にもかかわらず、それは過去の一定点に固定された『原点』ではない。『雛死』は大阪空襲から四半世紀をへて、依然として目前にある。『難死』はこの現実として、いま存在する。ベトナムの女、男、子供として。インドの路上に横たわる人間として。とくに第三世界において『難死』にさらされる途方もない数の、しかも一人ひとりの人間の『難死』として、それ自体価値を回復されることのないおびただしい人間の死として」(「革命的不機嫌」小田実全仕事十巻の解説として書かれた。『根拠地と文化』(一九七五年)所収)。 この武藤の批評は、小田の思想の積極面をシャープに抉り出してみせたものといえよう。 先にふれた論文(「死者にこだわる」)では小田自身が、このように論じている。 「とりわけ私が死者にこだわりたいのは、私たちがとり行った侵略戦争のなかで死んだ、そして、彼らが殺したおびただしい数の死者のことを考えるからだ。/それを考えることが、ただの追悼として考えるのではなく、ふたたびこのような死者を出さない原理と手だての双方を考えることが、日本の戦後の出発だったはずだ。おびただしい数の死者を招きよせた日本にただひとつ、これからの世界に寄与できるものがあるとすれば、それはその考えの実現によってしかない――そのことも戦後の日本の出発の根底にあった。それは人びとの基本の共通の認識だった。ことばを変えて言えば、死者にこだわることから、人びとはものを考え始めた。私もそのひとりだった。そのひとりであるがゆえに、ベトナム反戦運動にもかかわった。/死者にこだわるということは、ふたたび、そのような死者を出さないことだ。そこに心をくだき、努力をするということだ。そのためには、まず、いくさをなくす。これが第一だ。結果として、平和がくる」。 「難死」へのこだわりは多くの他の戦死者へのこだわりへと拡大され、足もとの新しい戦死者(当時はベトナム戦争の死者)へのこだわりと重ねられているのだ。そして、小田は「量」(数字)としての死者にこだわるのではなく、一人ひとりの死に、その具体的な死にこだわることの必要を、そこで力説している。そして、この論文は、こう結ばれている。 「私は死者にこだわる。それは私たち自身の未来のことを考えるからだ」。 吉川も、本書に収められた文章で、過去の、そして今うみだされている戦争の死者についてこだわる必要を強調しており、死者を量的にひとくくりにして、勝手に意味づける政治的「追悼」への批判も展開している(一の「世の中と生き方」の中の7「死者は分裂している」)。吉川も、一人ひとりの具体的な「死」にこだわっているのだ。「未来」のことを考えるために。ただ、「連れ合い」はもちろん、本書で具体的にふれられている個々の「死者」は、戦死者ではない。五の「先立った人びと」に収められている「死者」は、小田実、鶴見和子、テリー・ホイットモア、小林トミ、高木仁三郎、前田俊彦、鶴見良行、今野求、藤本義一であり、みな著者とともに「死者」にこだわる反戦運動を生きぬいてなくなった人たちである。 「連れ合い」(吉川祐子)を含めて、彼や彼女の反戦を生きた「生き方」にこだわることを通して、その「死」にこだわる。その「死」へのこだわりが、「戦死者」へのこだわりへつながる。例えば、「難死」にこだわる生を生ききった小田実の死へのこだわりを通して過去の、そして現在の戦死者へのこだわりが語られる。本書は、そういう構造になっている。トップに収められた「『一人ひとりの生』の重さ――人の死の迎え方について思う」で吉川は、「連れ合い」を五年間介護した後、先立たれたことにふれた後、こう語っている。 「連れ合いの葬儀のときの挨拶で、喪主の私はこう述べた。/『……五年間の暮らしは、私たち二人にとって、かなり充実したものであったように思えます。近頃はやりの老々介護、そして障害者・障害者介護の生活だったわけですが、この五年間が与えられたことは、私には本当に救いでした。二人の間には、平等の関係を生み出すことが出来たように思えますし、また、幾分なりとも、それまでの恩をかえせたかのように思えるからです。……』/こうした別れ方を不可能にさせ、突如として一切の関係をすべて断ち切らせて殺す。それが何百、何千、何万の単位で人為的につくりだされる――許しがたいことだ。/いまさら何を当然なことを、と思われる人もいるだろう。今頃気づいたのか、と言われるかもしれない。だが、戦争への怒り、犠牲者への哀悼の気持ちが、連れ合いの危篤体験や彼女との死別を経た今、前よりもずっとずっと強いものとして実感されているというのが、ここ数年の正直な私の気持ちだ」。 一人ひとりの反戦を生きた重さを切実に感ずるからこそ、その死にこだわる、そのことを通して、過去のそして現在の「戦死者」にこだわりぬく。こういう精神(実は極私的な「おセンチ」な感情にとどまらない通路を持った「死者」を思う方法)が本書全体を貫いている。そこに私は強く共感したのだ。 最後に、もう一点。現在から未来をこそみすえ続けている著者は、自分たちの反戦運動の積極的体験が、どうして継承されないのかにいらだつ発言もしている(一の6「デモとパレードとピースウオーク――イラク反戦と今後の問題点」)。そして小田の追悼文のなかで、こう述べている。 「経験と運動の継承は、次の世代に媚びたり、理解してもらい易いように小手先の工夫をすることなどによって可能となるのではない。自らの信ずることに従って真剣に生きる、それが人びとの胸を打ち、共感の輪を拡げてゆくのだ」。 「人びとの胸」をうたず、「共感の輪」などひろがらなくても、そうするしかない。世代間の断絶を強く自覚せざるを得ない体験をし続けている私は、はるか以前から、そう決意しているので、それで当然だと考える。無自覚にマスコミの操作にふりまわされているだけで、運動の歴史(思想)などになんの関心も持たない、自称若手「活動家」などに媚びてるヒマなど持ちあわせてはいないのだ。 ただ、若者だけでなく私(たち) ――世代はずれるが――をも含めたかつてイカれた若者だった先行世代は、自分たちの時代の運動の「誤り」の根拠を思想的に対象化する作業を忘れてはいけないと思う。かつての自慢話はもうタクサンだ、と今の若者が考えるのは(それはかつて私たちが若者だった時そう思ったように)十分に根拠のあることなのだからだ。「断絶」をうみだすしかない運動の時間を、なぜ、どうして生みだしてしまったか、運動のなかで、その根拠を思想的に探る作業が私(たち)には不可欠なはずだ。 「死者」へのこだわりは、「誤り」へのこだわりとも重ねられるべきなのだ。 具体的な例を一つ示そう。 「ベトコン」や「北ベトナム」の死者だけではなく侵略戦争に動員されは民族自決といっているわけだが、それ以外にいまのところめどがないわけだね。価値基準がないわけだ。ベトナムのことはベトナム人にというスローガンでやっているわけだ。一方ベトナム国内の状況を見ると、五十四年のジュネーブ協定後、北からほぼ概算百万人の農民その他が避難してきているわけだね。それでカトリックも多い、仏教徒もいた、インテリもいたし、大半は食うや食わずの水呑百姓ですよ。それでこれがとにかく逃げ出したわけです。それの知らせを聞いたときにホー・チ・ミンは私の過ちでしたと言って、ひざを折ってよよと泣き崩れたわけだ。この人たちは理想主義者なんですね、やはり。これを狂信家とののしることはできない。島原の乱で三十万、四十万の信者が死んでいったんだが、これを狂信者の群であると、日本人がいま断言できるかどうか、この点問題があるだろうと思う。僕はこの避難民の何人かに会って話をいろいろ聞いているが、もちろんなかにははっきりとは言わないのだけれど、すでに北から逃げ出していれているアメリカ兵や南ベトナム政府軍の「戦死者」にもこだわりぬいた、かつて「べ平連」のリーダーの一人だった開高健は、著者も参加している座談会で、こう発言している。 「こういうことを言っていいのかどうか、一ぺん聞いてみたいと思ったが、ベトナムというのは複雑で、実にむずかしくて、アメリカと中国の対立という問題でみれば、地球大の戦争でね、ベトナム国内で見れば明治維新と南北朝と島原の乱と、これが重なってきたような様相があるわけだね。 いまわれわれは民族自決といっているわけだが、それ以外にいまのところめどがないわけだね。価値基準がないわけだ。ベトナムのことはベトナム人にというスローガンでやっているわけだ。一方ベトナム国内の状況を見ると、五十四年のジュネーブ協定後、北からほぼ概算百万人の農民その他が避難してきているわけだね。それでカトリックも多い、仏教徒もいた、インテリもいたし、大半は食うや食わずの水呑百姓ですよ。それでこれがとにかく逃げ出したわけです。それの知らせを聞いたときにホー・チ・ミンは私の過ちでしたと言って、ひざを折ってよよと泣き崩れたわけだ。この人たちは理想主義者なんですね、やはり。これを狂信家とののしることはできない。島原の乱で三十万、四十万の信者が死んでいったんだが、これを狂信者の群であると、日本人がいま断言できるかどうか、この点問題があるだろうと思う。僕はこの避難民の何人かに会って話をいろいろ聞いているが、もちろんなかにははっきりとは言わないのだけれど、すでに北から逃げ出している以上ベトコンに対して非常に恐怖と憎悪をいだいていることがあるわけなんだ。それで、もしかりに解放戦線がサイゴンを取って、政治をはじめた場合、このl7万人は次にどこへ行くのか。ホー・チ・ミンがいやでこの間は北から南に逃げることができたが、今度は逃げることができないだろう。おそらくそのことを知って、解放戦線は宥和政策を取るかもしれない。しかし現在すでに百万人の農民たちは、食うや食わずのうえに、自分の子弟をさし出して、ベトコンと戦わせるというようなこともやっているわけだね。それはベトコンさんが自分のイデーをいだいて、それに殉じようというのと同じ程度に、自分のいだいている一つのカトリックというもののイデーに殉じようとしているわけだ,これをわれわれは非難できない。少なくとも僕は非難できない。そうすると解放戦線がサイゴンに入った場合に、あらゆる政府は必ず過ちをおかすというのが、政治の鉄則みたいなものだけれども、そうすると百万人は次にどうなるか。南ンナ海に溺れ死ぬよりほかなくなるのではないか。溺れ死なすのがいやなら、また切り殺し合いをはじめるかもしれない。そうすると、このベトナム人同士が流し合う血に対しても、べ平連はなにか言うのか、言わないのか、その点をいちおうきめておく必要があるだろうと思う。そういう事態が起こるかもしれない。起こらないかもしれない。わからない。わからないけれどもあり得る事態というものに対しては、いちおう、考えておかなければならないだろうと思う」(開高・吉川以外には小田実、久保圭之介、寺井美奈子、穴井典彦参加の座談会「考え、そしてなお感ずること――ベ平連の運動を通じて――」『平和を呼ぶ声』番町書房、一九六七年所収)。 ここで開高は「民族自決」という一見、正当な政治スローガンによってベトナム人民の一人ひとりの具体的生と死が隠されてしまっていることに、いらだっている。 「解放」(アメリカ軍全面撤退)後にベトナムだけでなく、インドシナ半島から流出した大量の難民(少なからぬ人びとが溺れ死んでしまった)、ベトナムとカンボジアの戦闘(ヘン・サムリン政権のカンボジア支配・ポルポト政権の大量虐殺)、また中国のベトナム侵攻を後の時間で見てしまっている私たちには、実にクールに「ベトコン」の「解放・革命」も北ベトナム社会主義も、つきはなして、現実を見ていた開高の発言の切実さは、それなりによく理解できるようになっていると思う。 ベトナム反戦運動が高揚していたあの時代、こうした「闘い」は切実なものとして受け止められていなかったことは、この座談会のやりとりでもよく読める。「民族自決」のスローガンを支える「第三世界」社会主義革命幻想。これはどうして、どのように「ペ平連」をそして私自身も参加していた「ベトナム反戦運動」全体をおおってしまったのか。 小田は「死者にこだわる」(一九七九年)を、こう書き出している。 「問題は何ひとつ、本質的には解決されてはいない。ただ、延期されただけだ。今度のカンボジア、ベトナム、中国をめぐって一連の状況の推移をみていて、私は、今、つくづくとそう思う。/たとえば、そこにあきらかに読みとれた(自)国家至上主義、『大国主義』、武装解決主義、勝てば官軍主義、人権の抑圧、人命の軽視、自由を踏みにじる、平等をないがしろにする、あるいは、社会主義と国家の問題、民族主義の功罪(罪がそこであきらかにめだった)、普遍的原理の無視(社会主義の旗印だったはずの人間解放はそこで泥にまみれた)……」。 実は、こういう一般的(抽象的)「正論」に乗り移らずに、自分たちは、なにを見落とし、どういう問題をキチンと考えなかったから、大きく状況認識を誤ってしまったのか、という問題の解明に、正直に立ち向かうべきだったのではないか。ベトナム戦争の死者にこだわる態度は、そういう思想的姿勢をうながすはずではなかったか。 あの時代の開高の提起は、当時のベトナム反戦運動をつつみこんだ「誤り」を映し出し続けている鏡である。「べ平連」となんの関係もなかった私にも、そう思える。この「誤り」の根拠を対象化する作業は、今からでもキチンと果たされ続けなければならないはずだ。先行世代に対して、若い世代が持って当然の不信感を超えて対話していくためにも。それなしで「運動の継承」はありえまい。積極面へのこだわりと「誤り」へのこだわりと重ねられるべきなのだ。そうでなければ運動の流れのなかで「誤り」はかたちを変えて、スンナリ継承され続けるという負の伝統を、私たちがこわしていくことはできまい。 「死者」にこだわりぬくという一貫する姿勢への共感が大であった、この本への、私の不満は、こうした視点が、まったくくりこまれていない点にある。 思わず、長くなってしまった。若い世代も含めて、こうした問題などへの討論を著者と持続しなければ、そういう思いを強くさせる本であった。 [天野恵一(あまの・やすかず)反天皇制運動連絡会] |