『「アメリカ」が知らないアメリカ』書評・紹介(4)
D・ラミス『派兵チェック』・吉川勇一『機』

 

『派兵チェック』 1998.6.15

   ダ グ ラ ス ・ C・ラ ミ ス 

 加地 永都子 訳   

  若手弁護士が言う。「裁判官に任命されたとたんから良心的な判決を言い渡していたら、絶対に上級裁判所に昇進できない。最初の頃は主流の判決を出せば、最高裁まで行けるかもしれない。そこで社会的影響力を発揮できるようになれば、良心的判決が出せる」

 若手の政治活動家が言う。「反対運動の目標には共感する。だが、抗議行動はほとんど影響力を持たない。影響力を持つには権力の中枢、決定が下される場に入る必要がある。単なる心情ではなく行動こそ私の関心事だ。私は政府部内に入るつもりだ」

  運動組織が決断を下す。「誰も読まないプラカードや誰も署名しない誓願書をもって国会の外を歩き回ることにくたびれ果てた。いくらいい提案をしても誰も耳を貸そうとしない。助言者としてどこかの政党と結びつくべきだ。そうすれば政府のインサイダーの立場を確保できる。そうなれば雑音を立てるだけの存在ではなくなる。ほんものの社会的影響力を持てるのだ」

  こういう人たちに対して私は言いたい。「デイブ・デリンジャーを読め」と。

  内容豊かで魅力にあふれた長大なデイブ・デリンジャーの自伝は、読者にさまざまな影響を与えることは間違いない。しかし、その影響には、重要な決定はどこで下されるのか、「実際の」政治権力はどこにあるのか、最大の社会的影響を与える行動はどこで生み出されるのか、といった事柄について混乱してしまうことも入る。

  デイブ・デリンジャーはボストンの弁護士の息子で、父親はよく言われる「影響力」をたっぷり持っていた。ボストンの弁護士としての信望、ボストン共和党委員会の議長という地位、重要ポストを握る友人などなどだ。エール大学法学部の著名人、カルビン・クーリジも友人のひとりだった。デイブが幼い頃、一家でホワイトハウスにいるクーリッジを訪問したことがある。クーリッジは少年の肩に手を置いて、「この子は頭がいい。出世まちがいなしだ」と言った。

  デイブ・デリンジャーは確かに出世はしたが、大統領が考えていたような出世ではなかった。

  父の後を継いでエール大学に進んだデイブは、父と同じように後に政府の有力者となった青年たちと知り合った。ケネディ政権で重要な存在となったサージェント・シュライバーやマクジョージ・バンディ。同じくケネディ政権に加わり、有名な(悪名高い)「経済成長の諸段階」を書いたW.W.ロストウとも親しかった。デリンジャーとロストウは共に奨学金を得てオクスフォードで学んだのだが、その頃共産主義者だったロストウはいつもデイブにマルクス主義の文献をくれた。卒業が近づくと、デリンジャーには「ニューディール」政権だけでなくアメリカの「一流」企業からも就職の口が舞い込んだ。どれも間違いなく「有力者になれる」ポストだった。

  彼は申し出をすべて断り、その代わりラディカルなキリスト教団体に就職した。平和運動で働き、貧しい人たちを組織し、人種差別やナチズムと闘ったのである。

  ここが興味を引く点だ。企業や政府に就職したデリンジャーの級友たちの大半は歴史から姿を消し、アメリカ株式会社の(高給ではあっても)無名の歯車やレバーとなった。伝記を出したいという出版社はどこにもない。

  ところが、デイブ・デリンジャーは20世紀後半でもっとも影響力のあるアメリカ人のひとりになった。彼の自伝を読めば、アメリカ現代史の裏面がわかる。もちろん、アメリカ史におけるデリンジャーの影響力は、たとえばケネディ政権の下で旧友のW.W.ロストウがふるったような影響力ではない。ふつうの意味での政治的権力をまったく持っていないからこそ持てる類の影響力である。

  デリンジャーの最初の重要な政治行動をあげてみよう。第二次世界大戦の当初、彼は数人の仲間と共に徴兵登録を拒否して、連邦刑務所で1年の拘禁刑を言い渡された。大半のアメリカ人の中がまったく知らないこの事実がなぜ、「影響力を持った」と言えるのだろう。第二次大戦はアメリカ史のなかでもっとも人気が高い戦争だったし、おそらくそれは今も変わらない。「ネコも杓子も」この戦争を支持した。もちろん、ごく少数の宗教的平和主義者(たとえばクウェーカー教徒)は良心的兵役拒否者として登録した。しかし、デリンジャーたちのグループは登録すること自体を拒否した。つまり、国家が戦争目的で兵士を徴集する権限を認めなかっ
た。「どこにも疑問の余地のない」戦争に対して、疑問を投げかけたのだ。びくともしない支持の壁に、小さいがほんものの穴を開けたのであり、そのために将来、歴史家がこの時代について書く時、この穴を取り上げざるをえない、あるいはなぜ取り上げないかを説明せざるをえなくなったのである。「疑いようのない」大戦は疑わしい戦争だった。この良心的な青年たちは実際にこの戦争を疑い、その信念のゆえに刑務所入りした。彼らの行動によって、この時代の歴史はいささか異なったものに変化したのである。大学を出たばかりの8人の若者としては、大した影響力である。そして彼らがおよぼした影響はその後もずっと影を落としている。

  デリンジャーの一生はこの最初の力強い行動の延長として見ることができる。デリンジャーはクリスチャンであると同時にラディカルな民主主義者である。おおかたのクリスチャンとは異なり、彼は人びとが互いに相手をどう扱うべきかという新約聖書の教えを本気で受け取っている。この観点からすると、米国経済と社会体制は腐敗しており、搾取と軍事優先主義と人種差別と性差別がはびこっているとしか思えない。しかし、彼にとってこれは単に「表明」すべき「意見」などではないのだ。デリンジャーにとっては、考えるとは行うことである。つまり、彼は革命的活動家なのである。しかし、ガンジーの信奉者である彼は、非暴力を信じている。その抗議行動に対して、彼は悪口雑言を浴びせられ、ぺンキを投げつけられ、暴行を受け、命を脅かされ、それに言うまでもなく何度も刑務所に入れられた。どんな目に合おうと、彼の原則がぐらつくことはなく、抵抗を慎む方向にも、あるいは暴力的な方法に訴える方向にも行くことはなかった。

  デイブ・デリンジャーは1960年代にアメリカ国内だけでなく世界的にも、アメリカの反戦運動の先頭にたつ「大先輩(オールド・マン)」(当時の彼は50代だった)として有名になった。60年代後半から70年代にかけて、暴力的手段を容認する反戦活動家がますます増える中で、デリンジャーはあくまで非暴力運動に徹するという点で大きな影響力を与えた。デリンジャーが最大の反戦組織、ベトナム戦争の終結をめざす動員委員会(「春の動員委員会」(MOBE))の議長になったのも、主として彼が文句なしに正直で率直な人として知られていたことによる。この動員委員会が呼びかけた1967年4月17日のニューヨークのデモにはおよそ30万人が参加しただけでなく、この時はじめてマルチン・ルーサー・キングがはじめて公然とベトナム戦争反対の演説を行った。動員委員会はさらに1967年10月21日、ペンタゴン(国防総省)への行進を組織した。この時建物内に入ろうとした1000人以上が逮捕された上に、共鳴した多数の兵士が銃を投げ捨てて逮捕された。1968年にはシカゴで開かれた民主党全国大会に対する抗議行動をよびかけ、有名なデモ隊に対する「警察の暴動事件」を引き起こした。これはアメリカの世論を反戦に変えたもっとも重要な出来事のひとつであった。

  この事件を含め当時のこうした出来事は、まさに特別な意味で「歴史的」事件だった。幅広い層を巻き込んだ大規模な事件だっただけでなく、歴史のプロセスになにか「新しい」ものを導き入れたのである。アメリカ社会では一度も大衆的に受け入れられたことのない原則と意見について、莫大な数の人びとがこれを支持するという人間的意志を表明したのだ。平和、非暴力、アジアの貧しい旧植民地国の民衆に対する公正かつ対等な処遇といった原則である。

  この政治的行動のパワーが、行動の土台である原則のもつ説得力、行動する人びとのモラルのパワーであったことは言うまでもない。このパワーがどうはたらくかを、以下の話がよく伝えている。1967年10月21日、国防省の官僚ダニエル・エルスバーグはロバート・マクナマラ国防長官のオフィスで米国の北ベトナム侵略計画を練っていた。外が騒がしいので窓の外をのぞくと、ペンタゴンの中に入ろうとしたデリンジャーやその仲間たちが梶棒で打たれ、逮捕されていた。(本人の証言によれば)エルスバーグは自分の胸に聞いた。「この人たちは自分の良心に忠実に生きている。私がそうしたらどうなるだろう」と。ここにも影響力が及んだわけで、エルスバーグはその後政府の仕事を辞め、ペンタゴン・ぺーパーを発表した。アメリカが政府ぐるみでベトナムでやっていた腐敗した工作を暴露したこの文書によって、反戦の世論はいっきに強まった。

  言うまでもなく、60年代以降のデリンジャーや反戦運動の影響を過大評価すべきでない。戦争、人種、第三世界諸国の人びとの人権をめぐる新しい考え方が、アメリカで広く論じられるようになった。だからといってアメリカが戦争をやらない、貧しい民衆を搾取しない国になったとか、いずれなりそうだという意味ではない。それだけの変化がもたらされるまでには、長い長い闘いが必要だろう。しかし、デイブ・デリンジャーの本(それに他の本)が教えているのは、政府の高官や政党政治家がそうした変化をもたらすなどと期待すべきではないということだ。そうした類のパワーを彼らはまったく持ち合わせていないのである。
 

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藤原書店『機』 1997. 12月号

「全世界が見ていたアメリカ」、
「アメリカ」の知らないアメリカ

吉 川  勇 一

 アメリカのロック・グループ「シカゴ」のCDに、『シカゴの軌跡』という一枚がある(ソニー SRCS 6305 現在では発売元が変わり、テイチク TECW 1901)。珍しいことだが、このCDには音楽でないものが一つ入っている。一〇番目の「プロローグ AUGUST 29, 1968」は、反戦デモの実況録音だけなのだ。先導者の「レッツ・ゴー!」という合図のあと、デモ参加者による"The whole world is watching!" (全世界が見ているぞ!)というシュプレヒコールだけが続く。次の一一番目、『流血の日』(Someday)」では、そのシュプレヒコールに重ねて曲が演奏される。

 これは一九六八年八月、シカゴで開催された米民主党大会の際、一週間にわたって同市で繰り広げられたベトナム反戦デモの実際の録音と、それをテーマにしたロック・バンド「シカゴ」による曲なのだ。シカゴ市長デイリーは、火炎瓶を所持している者は射殺、略奪をはたらこうとした者には不具にする程度の射撃を、無条件に警察に指示し、州軍と連邦軍も出動した。一週間、全シカゴで「警察による暴動」と表現されたほどのデモ参加者に対する暴行が荒れ狂い、死者一人、重軽傷者多数が出た。そのとき、TVカメラの前で軍隊や警察と対峙しつつデモ隊が叫んだシュプレヒコールが、この「全世界が見ているんだ」という言葉だった。やがて、世論の批判は昂まり、司法長官の指示による直接の実態調査も、大統領任命による調査委員会も、ともに市当局と警察の側に非があることを認める報告書を提出した。

 だが、大統領がニクソンに変わった翌一九六九年になって、八人の人びとが暴動の扇動、その共同謀議などの容疑で起訴され、有名な「シカゴ裁判」が始められた。「シカゴ・エイト」として知られるようになった被告のなかには、カリフォルニア州選出の現民主党上院議員トム・ヘイドン(女優のジェーン・フォンダと一時結婚したことでも有名)や、黒豹党(ブラック・パンサー)の議長、ボビー・シール、そしてイッピーの指導者として知られるアビー・ホフマンやジェリー・ルービンも含まれている。だが、ほとんど二〇代、三〇代の青年のなかで一人だけ五〇代の人物がいた。それが、本書の著者、デイヴ・デリンジャーだった。ひどい一方的な訴訟指揮のもとで、保釈を取り消され、開廷中の三二の行為に関して法廷侮辱罪で計二年五ヶ月と一六日という禁固刑まで受けながら、いささかもひるまず、最後までベトナム反戦、人種平等、正義を主張し、被告グループをリードし続けたのもデリンジャーだった。(もっとも、この裁判の主任弁護人、ビル・カンスラーが受けた四年一三日という法廷侮辱罪に関する刑は、米国裁判史上、弁護士に課されたものとしての最長記録で、この裁判がいかに強圧的なものだったかがわかる。)

 このデモで叫ばれた「全世界が見ているんだ」という言葉も、その日の集会でのデリンジャーの演説のなかの言葉だった。

 確かに「シカゴ・エイトのデリンジャー」と言えば、四〇歳代以上のアメリカ人ならば名を知らぬ人がいないほど有名なのだが、しかし、彼の人生の軌跡によって明らかにされる現代アメリカの実相は、まだ広く知られてはいない。本書に『「アメリカ」の知らないアメリカ』というタイトルがつけられたゆえんである。

 このシカゴ裁判での人間模様も本書で詳述されるが、しかし、これは裁判記録でも反戦運動史でもない。民衆のなかに息づいているアメリカ民主主義の伝統を、全生涯をもって体現した人物による現代史への証言なのだ。藤原書店からはジャネット・ランキンの伝記『絶対平和の生涯』が出版されたばかりだが、本書はそれと双璧をなして、アメリカの男女それぞれの良心の軌跡だと言えるだろう。

 本書を読むとき、人は、与えられた生を、このように自らの意志で選び直し、このように誠実に、このように勇敢に、このように生きとし生けるものへの愛に満ちて生きられるものなのか、という思いで圧倒される。デリンジャーを最もよく知る一人、言語学者のノーム・チョムスキーでさえもが、「私はデイヴ・デリンジャーを知っていたし、尊敬もしていた。いや、そう思っていた。だが、このすぐれた書物を読んだ後、私の尊敬は畏怖以上の何かへと変ってしまった」と語っているが、まさにむべなるかな、という感がある。

 六〇年代の空気を吸った人びとは、多くの感慨をもって読まれることだろうが、戦争中の暗い体験を持つ年輩の人びとにも、またアメリカという国や、あるいは人間、人生の生き方などに関心を持つもっと若い人びとにも、広く迎えられる一書だと期待しているのは、訳者の一方的な思い入れからだけではなかろうと思っている。

 

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