『インパクション』 1998年1月号
〈注 以下の文で、傍点はゴシック活字に、ルビは括弧内に入れて表示しました。〉
〈非暴力抵抗〉の思想と行動
天 野 恵 一
六百二十ページ、上下ニ段組ビッチリ。大変な分量の本である。しかし、一気に読みぬけた。久しぶりに知的な興奮に身をふるわせるような体験を伴った読書であった。
裕福な家庭に育ち、エリートコースを歩んでいた青年が、貧しき人々の生活の中に入る体験をし第二次世界戦争時徴兵拒否で投獄される。それ以後、何度も投獄されながら、反戦運動を生き方として持続、長いべトナム反戦運動とそれ以後も、反戦行動を展開し続けている。こういう一九一五年生まれの人物の自伝風の書物である。
著者の一貫せる原理は、「革命的非暴力」「非暴力抵抗」である。この「非暴力運動」は「愛の表現」であるとくりかえし語られている。
こういう風に紹介すると、あの神学の説教めいた話がつまっているか、東洋的神秘主義のトーンが満ちている「非暴力」主義者の主張をイメージする人は少なくないかもしれない。ところが、この本の魅力は「非暴力」の原理を説きながら、そういう抽象的な説教くささが、ほとんど感じられないところにある。徹頭徹尾、そこに示されているのは具体的な行動である。全体が生き生きとした活動記録なのだ。そこでは戦後の最大好戦帝国主義国アメリカでの反戦の闘いは、まさに、やすみなきものであらざるをえなかったことがよく読める。
それは自宅に小包爆弾が送られてくるような事態(著者はFBIがらみの犯行と考えている)、FBIによってしくまれた謀略で運動仲間が殺されてしまう事態などを伴うような状況に抗する運動のドキュメントである。監獄そして法廷(一九六八年の「シカゴ警察暴動」の時に逮捕された、「シカゴの八人」と呼ばれた内の一人)の具体的でリアルな闘いも収められているのだ。
「近代戦争のなかで生ずる人間生活の急速な破壊に反対する戦いは、富者、失業者、貧者すべての家族のなかに生ずる人間的人格の緩慢な弱体化に対する戦いと、切り離すことはできない。敵とはすべての人びとの完全な社会的経済的平等を否定している一切の制度である。敵とは、われわれがその一部となっている諸制度によって実行されている行為の結果に対する個人的無関心である」。
「われわれは制度を相手として戦うのであって、相手は人民であってはならない」。
一九四五年に著者らが発行した『直接行動』(ダイレクト・アクション)の創刊号の論説の文章である。
このくだりを読んで私は、「敵は制度であって、人間ではない」という革命観への転換の必要を力説した埴谷雄高の政治主張を思い出した。ただ、私は、マルクス主義者埴谷の、抽象的で一般的には妥当と思える鋭い権力・政治批判を読むたびに、「道徳的説教」くささという一点でいつも強い違和感を持った。それは埴谷の主張にはかつての革命のリーダーが、でなくて私たち凡人がいかなる行動をすべきかという具体的イメージがほとんど欠落しており、肉体感があまりないからであった。
反対にこの神学校中退の「愛」の行動家の文章には、具体的体験がつまっている。例えば軍隊(軍人)への積極的な働きかけ(それも国境をこえた)の姿勢が、著者(ら)には一貫している。そして警察官をも敵として固定化しない姿勢が、具体的な活動の局面で示されているのだ。
この党の権威主義と、美しい目的(理念)で政治手段のグロテスクさを正当化するダプル・スタンダードの精神を拒否する著者の非暴力抵抗の理念は、共産主義者(アメリカ共産党だけではない)運動には終始全面的に批判的である。そして、著者が絶望していたのはコミュニズムだけではなかった。
内戦のスペインにいた時の体験を、著者はこう書いている。
「マドリッドに着いて三日目、人民公園にいたときのことだが、私はほとんど銃を手にとる寸前にまでなった。フランコの軍隊が半マイル先に迫り、なおも近づきつつあったときだ。友人たちが死にに行くというなら、私だって死ぬ用意はある、それに、誰にもわからぬことだが、もしかすれば勝つかもしれないではないか、そう思った。だが、そのときまでに私にはわかっていたことだが、共産主義者はトロツキストめがけて銃を撃っていた。そして共産主義者もトロツキストも、ともにアナーキストをめがけて銃を撃った。アナーキストはというと、バルセロナで、私の乗っている車が、間違って彼らのいた地区へ向けてハンドルを切ったとき、私たちの車めがけて弾をぶちこむようなことをしてくれた。そんなやり方でどのグループが勝利を占めたとしても、勝利者は民衆ではないだろう。もっとましな方法、すなわち非暴力の方法を見つけねはならない、私はそう悟ったのだ」。
あらゆる左翼のイデオロギーの廃虚をくぐって著者の〈非暴力〉というイデオロギーはっかみだされ、多様な運動の中ではぐくまれてきたものなのである。
彼の〈非暴力〉の思想は、暴力の現場を回避することとは反対のものである。大衆行動の内側を生きる原理としての〈非暴力〉は、その行動の内側にいる武装闘争主義者(これまた一様ではない)との対立的共存をも、状況的には生きざるをえない。国家権力の暴力や謀略もすさまじいかぎりである。彼の〈非暴力〉は、そうした暴力的関係のただなかを自分の身体をかけて生きつづける具体的な行動原理なのである(対極の日常の中のマイノリティー差別の問題なども敏感である)。
もう一つ、彼の〈非暴力〉の思想は、選挙(大統領選を頂点とする)などの体制秩序の制度へのコミットを全面的に拒否するものではない。しかし、そうした制度の論理(マス・メディアの操作にささえられたそれ)が、自分たちの運動の原則的要求をダウンさせ曖昧にして制度の内側にくみこもうとする力学によってささえられていることに、彼は徹底して自覚的である。制度にくみこまれ、おかしくなってしまった友人の例を何人も彼は、ここで、示している。制度の内側の人間と、どのような時にどう会うべきか、会うべきでないか、自分たちの体制批判の運動の原理・原則からして具体的にどう対処すべきか。すこぶる慎重な態度が、そこに読める。こういうコミュニストの「革命主義」とは無縁の彼の〈非暴力〉の思想に(「革命主義者」は戦術的には原則を喪失した「議会主義者」になることも問題にならないのかもしれないが)、ダブル・スタンダードを許さない彼の思想に、私は強く共感した。
マーチン・ルーサー・キングが「情事の盗聴テープ」などでFBIに脅迫されて、自分の政治主張をまげており、ハッキリと反戦の主張をしだしたら暗殺された。こういった、よく知らなかったエピソードも大量につまっているが、紹介しだしたらキリがない。
デリンジャー関連年表、人名・事項索引なども、こまかくつけた訳者吉川勇一は、「訳者あとがき」で、自分たちの六〇年代反戦運動と、時代は共有され、問題は共通していたと語り、当時、自分らが、著者の体験や主張に学んでいれば「もっと有効な事態への対処の仕方が出来たはずだ、というような強い悔恨の念にまで襲われた」と語っている(当時、著者は「べ平連」とも交流があった〈小田実の思想が紹介されている〉)。
この最適と思われる翻訳者吉川の言葉に、私は以下の言葉をプラスしたい。
新ガイドライン日米安保体制が具体化されつつあり、米国のように人間の具体的殺傷を必然的に伴う戦争国家への日本の転換が進められている今。戦後も、一貫せる戦争国家であったアメリカの中を、反戦・〈非暴力〉の原理で運動的に生きぬいた人物の多様な体験のドキュメントである本書は、私たちの運動の未来に向けて、様々な「有効な対処の仕方」を豊かにそして具体的に示唆する内容を持ったものである。
[藤原書店刊、6800円十税]
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『みすず』 1999年1月号
一九九八年読書アンケート
〈注 『みすず』編集部は、1998年中に読んだ書物のうち、とくに興味を感じたものを5点以内挙げるようアンケートを求めたのに対し、花崎氏は第一に本書を挙げ、2.上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』、3.杉原達「越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』、4.伊佐眞一『謝花昇集』、5.堀田善衞『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』を挙げた。以下はその最初の部分。〉
花崎皐平(哲学・社会思想)
1 D・デリンジャー、吉川勇一訳『「アメリカ」が知らないアメリカ――反戦・非暴力のわが回想』、藤原書店、一九九七年。
これはすばらしい本だった。最良のアメリカ文化を継承し、発展させた稀な人物の自伝であった。最良のアメリカ文化の伝統とは、ソローやエマーソンやホイットマンたちである。吉川勇一の訳もみごと。丹念な年表、索引などもありがたい。(後略)
『図書新聞』 1998.12.26
インタビュー 花崎皋平氏に聞く〈一九九八年》思想・現況と展望
〈抄〉
〈前略)
はじめに、今年刊行された本を中心にお話していきたいと思います。
花崎 まず第一に、今年一月、デイブ・デリンジャ^ーの『アメリカが知らないアメリカ』(藤原書店)が吉川勇一さんのとても読みやすいうえに、年表などをつけた名訳で出ました。大部な本なんですが、おもしろくて一気に読めました。これは第二次世界大戦に際してすでに徴兵に反対して投獄されるというところから始まって、一貫してアメリカの政治や戦争に反対し続けた反戦活動家デリンジャーの自伝なんです。この本の原題は非常にしゃれたもので、"From
Yale to Jail"というんです。つまり、「イェール大学から監獄へ」という意味です。アメリカには徹底的にアメリカの政治権力と対決する『ウォルデン』(邦訳名『森の生活』)の著者デイヴィッツド・ソロ一のような、良心的兵役拒否の人たちや民衆詩人でデモクラシーの鼓吹者であるホットマン太刀の伝統があって、デリンジャーもその伝統を受け継ぐ一人です。彼のイメージはまるでマーク・トウェインの『トムソーヤの冒険』のトムソーヤみたいです。この本はアメリカの最良の伝統をつたえてくれるとても良い本でした。(後略)
『みすず』 1999年1月号
一九九八年読書アンケート
〈注 『みすず』編集部は、1998年中に読んだ書物のうち、とくに興味を感じたものを5点以内挙げるようアンケートを求めたのに対し、石田雄氏は第一に関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵のいた時代』(思想の科学社9本書を挙げ、2番目に本書を挙げた。3.以下は、青山学院プロジェクト95『青山学院と平和へのメッセージ』 4.Norma
Field, War and apology 5. Gregory J/ Kasza, The Conscription Society.。以下はその最初の部分。〉
石 田 雄(政治学)
1
関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵がいた時代』思想の科学社、一九九八年
ヴェトナム戦争当時反戦脱走米兵を援助する運動にかかわった人たちの記録。極度に秘密を要するこの活動への自発的参加者が、上からの命令によるのでなく、肩ひじはらずに厳格な規律を守った点が印象的である。この特徴は「日本赤軍派」(これについてはこの題でP・スタインホフの分析が九一年河出書房新社から公刊されている)など同時代の暴力志向的組織が孤立してテロや内部対立に終ったことと比較すると一層明らかになる。さらに国家の安全保障のためという名による暴力の専門家集団としての軍隊とその駐留する基地の問題を考える素材ともなる。
2 David Dellinger, From Yale to Jail
吉川勇一訳 『「アメリカ」が知らないアメリカ』 藤原書店、一九九七年
シカゴ・エイトの中心人物として六〇年代ヴェトナム反戦運動の中で非暴力直接行動の指導をしたデリンでジャーの自伝。非暴力原理を貫きながら広い反戦運動の連帯を作り出す努力が組織論上注目される。
(後略)
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