ジョセフ・コンラッド 『密偵』と『西欧の眼の下に』(岩波文庫)

暴カとテロリズムとスパイ

……「殺すな!」「非暴力」を掲げる私たちにとって、運動の中における暴力、テロリズム、殺人、内ゲバなどは大きな関心事である。70年代に入って日本の運動の中でも生じたこうした傾向は、いまだに完全には終焉していない。「内ゲバはよくない」ということは、大方の認めるところにはなっていても、それがはらむ思想的、倫理的問題は解明され尽くしてはいない。

 この問題を考える上で、埴谷雄高編『内ゲバの論理――テロリズムとは何か』(74年、三一新書)におさめられた埴谷雄高、高橋和巳、鶴見俊輔、久野収さんらの論文は、まず第一に読まれるべきものだろう。ただ、残念ながら、この本は今絶版で、それぞれの人の著作集などにあたらなければ読めなくなっている。

鶴見俊輔氏の挙げるコンラッドの一一編の小説

 その中の一編に鶴見俊輔さんの「リンチの思想」(『展望』72年5月号、のち『鶴見俊輔著作集5』筑摩書房などに収録)がある。その論文で、鶴見さんはポーランド出身のイギリス作家、ジョセフ・コンラッドの作品を2点紹介している。今回ここで紹介したい本は、そのうちの1冊で、今度岩波文庫から第2刷が出された『密偵』(土岐恒二訳、760円+税)である。

 鶴見さんは、もう1冊、『西欧の眼の下に』を挙げているが、「政治学的に見れば『密偵』のほうがおもしろい。『密偵』というのは訳がないので残念なんだけれども」と書いている。

 実は、邦訳は66年(思潮社)と74年(河出書房新社)に井内雄四郎訳で出ていたのだが、いずれも今は入手しがたい。もう一つの『西欧の眼の下に』は、篠田一士訳で集英社版世界文学全集(81年)に入っているが、岩波文庫でも『西欧人の眼に』という題で上下二巻にわけて近刊の予定とのことだ(その後、この本は、岩波文庫で、中島賢二訳『西欧人の眼に』(上)1998年12月(下)1999年1月、各¥600+税として、すでに刊行されている)。

 とにかく、この問題小説『密偵』が文庫本として入手しやすくなったのは喜ばしい。『密偵』は、一八九四年に実際にイギリスで起こったアナーキストによるグリニッジ天文台爆破未遂と、その中での犯人の1人の爆死事件をモデルにしたものだ。鶴見さんは、この作品について「当時のヨーロッパの政治社会をよく捉え」たものであり、また「それだけの深さを持っているリンチとテロについての政治学の論文というものを、私はしらないんです」とのべ、さらにドストエフスキーの『悪霊』とも比べて、「政治小説」としてみれば、「『悪霊』よりはるかに成熟しているような気がする」とまで激賞している。
 文庫の訳者は、「解題」の中で、これが単なるスパイ小説や政治小説ではないといっているが、その評価は読者におまかせするとして、まずは、運動とからむテロやリンチを考える上での重要な書物として、関心を持つ人びとにぜひともお勧めしたい。
 ただ、訳者自身が「解題」で、この翻訳を「直訳調をおそれずに試み」たといっているように、翻訳の文章は硬く、日本語としては不適切な表現もあり、私としては感心できないことも付け加えておく。……

 (『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.51 1998年12月1日号掲載より、一部その後追加)


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