hon-small-red.gif (121 バイト) 鶴見良行著作集12『フィールドノートU』出版、著作集完結。(04/03/09掲載)

 みすず書房から刊行されていた鶴見良行さんの著作集の第12巻『フィールドノートU』が刊行され、これで著作集は無事完結することとな りました。 私も、編集委員の一人として、第2巻『ベ平連』の編集などを担当しただけに、著作集の完結は嬉しいことです。本「読書ファンへ」欄の前号でお伝えした鶴見俊輔さんらの『戦争が遺したもの』のなかには、「鶴見良行という人」という節があり、『フィールドノート』のことや千代子夫人のことが語られています。
 この最終刊には、鶴見さんが、ナマコを追って歩いた北海道の旅や、研究の仲間たちと、木造船で巡ったヌサンタラの旅、椰子から風景が広がる千代子夫人との「めおと旅」などの、詳細なノートが豊富な写真や地図などとともに含まれ、歩き、考え、楽しむ良行さんの最後の年月が眼前に髣髴するような巻となってい ます。解説は森本孝さん。また、この最終巻には、丸井清泰さんが苦労してまとめた詳細精緻な「鶴見良行年譜」「鶴見良行著作目録」も付されています。
 \9,500 と、定価はかなり高価で、個人が求めるのはなかなか容易ではないかもしれませんが、鶴見良行さんを学び、知ろうとするには欠かせない1冊で、通う学校やお近くの図書館に、購入を求めるなどして、ぜひお手にとってください。
 この巻に挿入されている『月報』には、全巻の装丁を担当した中島かほるさんの文のほか、「旅の終わりに」と題する千代子夫人の文、編集、刊行を担当し、苦労されたみすず書房編集部の郷雅之さんの文が含まれ、また,全巻の正誤表も載ってい ます。
 以下に、その鶴見千代子さんの文を転載します。

旅の終わりに

             鶴見千代子


 ココス島、ホーム・アイランドの長老に、一九九五年は、三月にラマダンが終るとハリラヤの祭りが始まり、メイン・イベントのボート・レースが一週間続くということを教えてもらったので、その時期に四度目のココス島訪問、そして『ココス島奇譚』の結末の構想を練る計画をたてておりました。それはついに実現しなかったので、鶴見良行の旅は終っていないという思いが長く残りました。
 一九九五年という一年の間に、『東南アジアを知る私の方法』(岩波書店)、『ココス島奇譚』(みすず書房)が出版され、十一月には、国際文化会館で「ベトパナマコス鶴見良行さんが歩いた道」の集いがありました。「ベトパナマコス」というのは良行にとって活動の変革の場になったベトナム反戦運動に続き、研究調査対象になったバナナ、ナマコ、ココス島の四語をキーワードに縮めて、この集まりをイメージした造語だそうです。会は二部にわかれ、第一部では、鶴見和子、吉川勇一、村井吉敬、中村尚司、赤嶺綾子(多田道太郎氏が都合悪くなり、ピンチヒッター。龍谷大学の良行の教え子)の諸氏にお話し頂き、司会を上野博正さんが引き受けて下さいました。上野さんは昨年(二〇〇二年)亡くなられ、早過ぎる再会に良行は驚いたことでしょう。第二部は司会を吉岡忍さん、戸田杏子さんのふたりが引き受け、十一人の方々が良行とのつき合いを話して下さいました。この月報を書くので、七年ぶりに記録を読み返しましたが、赤嶺さんが大学では「鶴見語録」なるものがあって、彼女が認めるところの一番良いセリフを紹介していますので、以下、書き写すことにします。

 マレーシアに世界一うまい中華そば屋があってね。こないだそこに行くと ロングタイム・ノー・シー・ユー・サー″と言ってくれるんだよ。うれしかった。うれしかったね。ブロークン・イングリッシュでさ。涙出ちゃうよ。本当のことはリピートしなくっちゃわかりません。何度でも出かけるんです。そりゃ、金はかかりますよ。でも何度も出かけるとね、その土地の人が誉めてくれるんですよ。また来たね≠チて。何度目かに仲良くなって、そして本当の話が聞けるんです。皆さんもね、これからコツコツおやりになったらいいねん。……ゆっくり、ゆっくり、あせらんと歩きなはれ。

 たしかに、かれはこうしてまわりの若者たちには、口ぐせのようにゆっくりやるように説き続けましたが、当人は次つぎとやりたいことがあり、亡くなる直前の動きはかなり性急に見えました。
 かつて、『マラッカ物語』を書く前に、かれは一度マラッカ海峡を舟から見ることを思い立ち、「汽車、バス、タクシーで北上、南下したことは何度かあったし、海峡をはぼ東西に横切ってマレーシアのペナンからインドネシアのスマトラ島のメダンへ往復したこともある。いくつかの港からジャンクで海へ出たこともあるが、そのままもとの港へもどって海峡を貫通したことはなかった。このささやかな願望を満たそうと一念発起以来、遊覧船が、シンガポールを起点として、東南のバリ島と北西のペナン島を十五日間で巡航するという情報を得るのに四ヶ月かかった」という記録を残しました。ようやく一九七七年五月、一万八千
トンの豪華船、ラササヤン号にシンガポールのクリフォード埠頭から乗船し、ペナンで下船、夢をはたしましたが、「船から見たマラッカ海峡たいしたことなし」というそっけない表現、乗船した次の日の朝目覚めると、クラン港に着いていて、船と働く人びとの写真を撮り、「埠頭の内側の泥洲になったところにムツゴロウとカニがたわむれている」のを発見、それから十六年後の一九九三年、ヤシ調査でクアラルンプールに滞在中、クラン港を再訪、「こんなに大きくなったのか」と感慨深げに撮影した写真に「クラン新港はマングローブ沼地を拓いて造成された」とのコメントを付しました。
 歩く、みる、きく、そしてノートに記録、そのあとカードに整理し、写真の整理(プリントとスライドを含む)が続くのが基本的な作業でしたが、カード数が増えるに従って、分類項目をどうするか、その時期調査している物産にするか、種族にするか、地域にするか、最後まで悩んでいました。当時はすべて手書きでしたので、ケースを開くと一目瞭然読めるということは、ある意味では幸せだったと思います。
 調査は観光すれすれと冗談めかして言ったことがありますが、楽しくなければ学問ではないという信念の持ち主ですので、そのように表現したのでしょう。マラッカは何度も訪れていますが、この地に特に魅せられていると感じていました。『マラッカ物語』の時事通信社版あとがきにあるようにへ かれの父・鶴見憲にふれ、「父がシンガポール総領事、占領期の初代司政長官(一九四三・三〜一九四四・八)であり、大彿次郎の『帰郷』は同窓である作家が、父の官邸に滞在中に想を得たのだ、ときいた。だが、そうした個人的因縁は、本書の執筆とさしてかかわりがない」とありますが、それは、良行独特のレトリックで、マラッカに対してはなつかしく、愛情を抱いていたのではないかと思います。九三年に訪れた際にはマラッカの丘に登り、たまたま遊びに来ていた現地の中学生たちに、かつて父が勤務していたであろう官舎を指さして英語で説明していたのが、まことに楽しそうで、印象に残っております。
 一九九五年、先述の二冊の本が出版される準備期間に、自宅では記録、写真の整理が始まり、スクラップ・ブックに保存してあった一九五〇年頃からの論文、随筆をコピー、写真はスライド、ネガ、プリントを年代順に、国別に並べるという難事業を龍谷大学の院生たちが精力的に片付けてくれました。この作業が終了していなければ、本著作集刊行に際してどこから手をつけたらよいか、途方にくれたのではなかったかと思います。本当に大きな力になりました。著作目録もこうして生まれました。当時の院生、卒業生の皆さん、お世話になりました。
「鶴見良行著作集」は、一九九八年十一月に『バナナ』からスタートしてはぼ五年後に完結いたします。解説は、『出発』鶴見俊輔、『べ平連』吉川勇一、『アジアとの出会い』鹿野政直、『収奪の構図』宮内泰介、『マラッカ』池澤夏樹、『バナナ』村井吉敬、『マングローブ』花崎皋平、『海の道』秋道智禰、『ナマコ』中村尚司、『歩く学問』網野善彦、『フィールドノートT』内海愛子、『フィールドノートU』森本孝、の諸氏が、良行の歩いて来た軌跡を詳細に解明して、すばらしい鶴見良行論を展開して下さいました。深く御礼申し上げます。
 装丁を引き受けて下さった中島かほるさんについて、良行は一九九〇年、本の情報誌に「本は合作である。著者の分担は半分でしかない。編集者、装丁家の役割が大きいのである」として、特に『ナマコの眼』でカバーをはがすと、マクロのレンズで撮った砂浜のナマコがぎっしりと並ぶ写真を表紙にうまく使ってくれた、と共感の意を表しています。「著作集」の見本作りの打ち合せが京都の家であったときに、中島さんは家の中に飾られた、主として東南アジアの民芸品をカバー裏のアクセントに用い、十二巻すべてカバー地の模様には、インドネシアのマドゥラで入手したバティック――本来は赤字に黒のガルーダ模様を染めたもの――を色をかえて使い、カバー背の小さな写真は、現地の人たちの働いているところを選び出すというように、まさに良行がきわめてふつうの人びとの側からその国を伝えることに心をくだいていたことを、造本の上で象徴させて下さいました。本当に有難うございます。
 月報では思いがけない貴重な話を知ることが多く、新しい巻が刊行される都度の楽しみになりました。
 緻密な索引、注の大部分を作り上げた研究会の仲間たち、著作目録に引き続いて本巻の書誌、年譜の複雑な事実関係を、時にはパスポートを洗い出すような作業によって仕上げてくれた丸井清泰さん、有難うございました。
 今までに挙げた以外にも多くの方がたのお力でこの「著作集」は世に出ましたが、そのきっかけを作って下さったのはみすず書房の加藤敬事と郷雅之の両氏で、郷さんとは一九八六年の『アジアの歩きかた』以来のおつき合いになりました。執念深く資料を追いかけ、初めから完結にいたるまで遅れがちの作業の進行を支えて下さったことを探く感謝いたします。
 最終巻の『フィールドノートU』のカバー裏を飾ったつば広帽子(右の写真)は、西オーストラリアのフリーマントルという港町でかれが購入したものですが、色違いでもう一個あり、良行とともに一九九四年十二月旅立ちました。

                     (つるみ・ちよこ)

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