The Tribunal of Conscience
アメリカ兵がソンミの大虐殺から引き揚げた直後、民族解放戦線の幹部たちが戻ってきて、生存者と一緒になって、死者を埋葬し、負傷者の手当てにあたり、破壊しつくされた村を建て直した。虐殺から9日目、民族解放戦線の中部ベトナム委員会は、ソンミにおける米兵の犯罪行為を激しく糾弾する緊急宣言を採択した。1968年4月16日、ハノイに本拠を置く南ベトナム民族解放戦線の常設代表部が、記者会見を行なってこの宣言を公表した。1968年の5月初めには、『リベレーション・ニューズ・エイジェンシー』と『解放放送局』は、「ソンミ村解放女性協会」によって書かれた手紙を配布した。それは、この虐殺を具体的かつ率直に示した詳細なレポートだった。1968年5月15日、パリ和平会談に出席していたベトナム民主共和国代表団は、フランス語の 二つの文書、『戦う南ベトナム』(Sud Vietnam en Lutte) と『ベトナム情報』(Bulletin du Vietnam)とを発表し、この残虐な殺戮を非難した。しかし、ベトナム駐留の米軍とサイゴンの傀儡政府が意図的にこの事実を隠そうとしたため、アメリカと世界の人びとがそれを知るにいたったのは、大虐殺から18ヵ月も経ってからのことだった。
傀儡政権のクァンガイ省当局が、彼らの撤退(1975年3月)の際に、消滅作業が間に合わず残していった書類の山の中に、1968年3月28日付けでクァンガイ省民間問題センターに送られた報告書が含まれていた。それは、その2日前にソンミで起こった虐殺に関してかなり具体的に言及している。虐殺から12日目、1968年3月28日には、ソン・チン〔Son Tinh〕地区の責任者、トラン・ゴク・タン〔Tran Ngoc Tan〕中尉が、クァンガイ省の警察長官と省知事とに『第181/HC/ST/M』という報告書を送っている。それにはこうある。「米兵がソンミに着陸すると、敵はきわめて大量の砲火を浴びせてきた。この戦闘は死を回避させることは出来ず、共産主義者は、外国軍部隊の威信を失墜させるために、真実を歪曲しうる」と。サイゴン傀儡政府は、ドゥオン・ミン巡査部長〔Sergeant Duong Minh〕が、新聞に虐殺事件の報告を書こうとしたところ、秘密情報員を送って彼を脅迫した。
この虐殺の直後、米陸軍の司令官たちは、真実を歪めて、それを偉大な勝利だったと描こうとした。クァンガイ省北部のチュ・ライにあるアメリカル師団事務局は、1968年3月16日の夕刻、バーカー機動部隊の報告書とともに、サイゴン向けのニュースを送って、何百人もの記者たちに配布した。その報告書はこうのべている。――米軍は ミライ村において一つの作戦を行なった。戦闘は正午過ぎまで継続した。結果は以下の通りである。敵兵の戦死、128名、容疑者13名を逮捕、砲3門を捕獲――。サイゴンに常駐する記者たちをニュース源として、この報告書は、『ニューヨーク・タイムズ』など各紙の第1面に掲載された。アメリカル師団自身が発行する週刊ニュース『南十字星』(Southern Cross)も、「ミライの勝利」を称えるため、戦闘態勢につく米兵を撮ったハーバールの白黒写真までつけて、長大な記事を載せた。1968年3月16日の夕刻には、サイゴンから米国防総省にも報告書は送られている。
この作戦から数日後、ベトナム派遣米軍総司令官、ウィリアム・C・ウェストモーランド将軍は、つぎのようなメッセージを送った。「3月16日にクァンガイ市の北東で行なわれたマスカティーン作戦(ミライ第4地区攻撃のコードネーム)は、敵に強烈な打撃を与えた。C-1-20(第20連隊第1大隊チャーリー中隊のこと)の将兵に、その優れた行為を称えて祝賀の挨拶をお送りする。」
3ヵ月後、機動部隊の司令官だったバーカーがヘリコプターの墜落によって死亡した。そのため、彼は、この言語道断な大嘘について釈明するため、法廷や世論の前に出ないでもすむことになった。
この「勝利」の宣言とともに、米軍の将校は真実を消し去る努力をした。ハーバート・カーターは、この状況を目撃して自分自身を負傷させていたし、マイケル・バーンハートや他の何人かの兵士たちは、この犯罪に加わることを避けていた。バーンハートが自分の選挙区の上院議員にこの事実を打ち明ける手紙を出そうとしたことを知ったメディナは、すぐさま彼に会いに来て、脅迫し、それをやめさせた。他の米軍将校も、それぞれ自分の部下たちに沈黙を守らせ、この犯罪を秘密にしておくために、同じような行動をした。
だが、ヘリのパイロット、ヒュー・トンプソンが第123飛行部隊の司令官に送った報告書のせいで、この事件の噂はアメリカル師団の各部隊の間にも広がっていった。1968年5月には、この師団の最高司令官、サミュエル・コスター少将は、虐殺の有無をチェックする調査を行なわざるを得なくなった。調査の担当を命じられた人物は、第11旅団の司令官、ヘンダーソンだった。当時、ソンミでの作戦は、アメリカル師団が行なった最大の作戦とみなされていたので、コスター、ヘンダーソン、バーカーの全員が、ソンミの上空、2000フィート、2500フィート、そして1000フィート(それぞれ、約610メートル、751メートル、305メートル )上空での空中視察を行なった。少なくとも、彼らは、それが起こったときに、地上で何があったかを正確に知ったはずである。したがって、ヘンダーソンの調査結果が、以下のようなものだったということも、まったく驚くにはあたらなかった。すなわち、「約20名の非戦闘員が、事前の砲撃と彼我の軍隊間の銃撃戦によって、故意ではなく死亡していた。そして、民間人の不必要な殺戮にかんする報告は、ベトコン戦闘部隊による宣伝技術の単なる一例であって、根拠のないものであった。」
こうした意図的な秘匿行為のせいで、血なまぐさい虐殺が明るみに出されるのは、かなり後のことになった。
1968年の夏の初め、片足が傷ついたポール・ミードロは、インディアナ州テレホートの故郷に復員した。1969年の初めまでに、チャーリー中隊の兵士の大部分はベトナムを去り、全米各地で、大学に進んだり、以前の職に戻ったりした。彼らのうち何人かは、その後も虐殺事件のショックに悩まされ、付きまとわれていた。またある者は、過去のこの犯罪を忘れ去ろうと努力した。にもかかわらず、ひそかにこの虐殺事件の糾弾を準備していた元兵士が一人だけいた。彼はチャーリー中隊の兵士でもなく、この事件にかかわった人間でもなかった。この人物こそ、ロナルド・ライデンアワーだった。
ロナルド・ライデンアワーは、アリゾナ州フェニックスの出身で、1967年3月、陸軍に入隊、その年の終わりにベトナムに派遣された。彼は、長距離偵察部隊のヘリコプターのドアのところに配置される射撃手で、この虐殺事件のあった数日後に、ソンミ上空の飛行に参加するよう命じられた。彼は、この村が完全に破壊されていることに気がついた。鳥の鳴き声さえしていなかった。1968年の4月頃から11月にかけて、ライデンアワーは、ブッチ・グルーヴァ、そして、テリー、ドハティー、ラクロワ、バーンハートといった兵士たちと、運良く出会うことになった。彼らは、ライデンアワーにソンミでの虐殺について、嫌がらずに話したのだった。1968年の12月初め、復員してフェニックスの故郷に帰ったライデンアワーは、仲間たちからは邪魔をされても、なお、この虐殺を告発する意図を心に抱いていた。元教師のアーサー・A・オーマンの助けも借りて、ライデンアワーは、自分がピンクビルについて耳にしたことを長い手紙にしたためた。それは「実に陰惨で血なまぐさい」ものでした、と彼は書いた。そして、この問題に関して、公的で公開された調査を行なうよう、提案したのだった。ライデンアワーは、この手紙のコピーをたくさんつくり、リチャード・ニクソン大統領や、国防省、国務省、統合参謀本部の幹部、上下両院の主要議員らに送った。これら重要人物の多くは、そんな手紙のことは何も知らないと言ったが、アメリカ政府と軍部はこの事件を無視できなかった。1969年の9月初め、カリーは、ソンミでの109人の意図的な殺害行為に関して起訴されることになった。1969年の10月から70年の3月までに、ほかに15人の軍人が起訴された。その中には、メディナ大尉、ウィリンガム大尉(ブラボー中隊の指揮官)、コトウック大尉(機動部隊のスパイ将校)も含まれていた。〔左の写真上:O.ヘンダーソン、下:E.メディナ、右の写真:カリーは、証言のためにクァンガイ 省に戻らねばならなかった。左側の人物は陸軍判事のラビー大佐〕 1969年11月24日、ウィリアム・ウェストモーランド将軍は、アメリカに戻り、陸軍参謀総長の地位についた。そして、陸軍長官、スタンレー・リーザーは、ウィリアム・ピアーズ中将――かつてベトナム中部高原プレイクの村を完全に破壊した人物――を、ソンミ調査団の責任者に任命した。米下院軍事委員会も、その下にソンミ調査小委員会を設置した。これらの調査作業には、大変なエネルギーが費やされたが、結果は満足のゆくものではなかった。各調査部局の結論では、14人以上の幹部将校が、軍の規則に違反し、ソンミ事件の調査と対処の仕方が完全でなかったということで非難された。その中には、元アメリカル師団司令官のコスター中将、同師団の元副司令官、ヤング少将、第11旅団の司令官、ヘンダーソン大佐、アメリカル師団の元参謀長、パーソン大佐、第6砲兵大隊の司令官、ルーパー大佐らが含まれていた。
アメリカ政府と軍部は、調査に消極的で、動きはおそかったが、アメリカのマスコミは、ソンミの記事を矢継ぎ早に伝え続けた。1969年11月13日、アメリカの日刊紙は、ジャーナリスト、セイムア・ハーシュの書いたソンミ虐殺の第一報を一斉に掲載した。
同年11月16日には、『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたジャーナリスト、ヘンリー・カムの記事は、この虐殺では567人が殺され、それは米軍に対して何の行動もとらなかった非武装の村民だったと報じた。11月23日には、ミードロがCBSテレビに出演し、ジャーナリスト、マイク・ウォーレスのインタビューに答えて、ソンミでの彼自身とカリーの小隊の犯罪行為を告白した。アメリカのジャーナリストは次々とベトナムに飛び、記事を書くためにバーカー機動部隊の兵士やソンミの生存者を尋ね回った。こうして、新聞、ラジオ、テレビには、連日のように、新しい詳しい事実が大量に登場した。ソンミのニュースは、月への二度目の到着を終えたばかりのアポロ12号宇宙船のニュースをも蔽ってしまった。そして、ハーバールの撮影した犯罪的光景のカラー写真が、まず1969年11月20日に『クリーヴランド・プレイン・リーダー』紙に、ついで1970年1月19日号の『ライフ』誌に、そしてその他多くのアメリカ、および諸国の新聞に掲載されると、アメリカ人の怒りと運動の波は高まった。この写真は、明らかに戦慄すべき現実を伝えていた。アメリカの世論は沸きかえり、憤激が広がった。なぜなら、自分たちの子弟が、思いもよらぬ極悪非道の殺人者だったとわかったからだ。
こうした状況の展開に、1969年11月26日、ロナルド・ジーグラー米大統領の新聞報道官は、命ぜられて記者会見に出席し、ホワイトハウスは、軍事規則に照らして非道で不法なこうした行為に対して、適切な措置を講ずるつもりだ、と約束した。1969年12月8日には、大統領リチャード・ニクソンが記者会見を行い、「見た限りでは、これは確かに虐殺だ。いかなる事情の下でも、こうしたことは許されない。……われわれは、民間人に対する残虐行為を見逃すことは出来ないし、かかる行為を決してやることは出来ない」とのべた。
この虐殺がアメリカ社会の中で明らかにされていく一方で、サイゴンの傀儡政権の方は、どこまでも米軍を支持していた。グェン・ヴァン・チュー大統領は、連続8日間、サイゴンの新聞に沈黙を強制した。そして1969年11月21日ななって、トラン・ヴァン・ラム外相は、大統領が調査を行なうことを決定したと言明した。翌22日の朝、国防大臣が、その調査結果なるものを提出したが、それは、以前の主張を繰り返したもので、虐殺の非難はまったく真実ではない……、と証明 しようとしたものだった。
チュー氏と対立していたグェン・カオ・キは、国防省に命じて調査を実行させようとしたが、大統領書記官、ホアン・ドゥク・ナー[Hoang Duc Nha]によって即座に禁止された。
グェン・ヴァン・チューの反対派勢力であるトラン・ヴァン・ドン[Tran Van Don]上院議員は、1969年11月25日、自らが団長となって調査団を組織するつもりだ、と宣言した。トラン・ヴァン・ドンがクァン・ガイに出かけるのを阻止できなかったグェン・ヴァン・チューは、合同参謀本部に示唆して、クァン・ガイ 省に緊急通達を送らせた。それは、同省の警察長官と知事が「この問題に対して統一的に応じるために、ソン・チン[Son Tinh]を思い出す」ようにと、勧告したものだった。換言すれば、グェン・ヴァン・チューと米軍が一緒になって、トラン・ヴァン・ドンと「鬼ごっこ」遊びをやったようなもので、その結果、トラン・ヴァン・ドンの調査団は突然、 解体を余儀なくされてしまったのだった。米軍のカノン砲の砲弾30発が、800メートル先に次々と落下したからである。その理由は、「米軍は調査団一行の旅行を予知し得なかった」からだという。(サイゴンで発行されていた新聞『チン・ルアン』[Chinh Kuan]紙、1969年12月3日号) こうして、トラン・ヴァン・ドンの調査は無に帰した。ベトナム内外のベトナム人が憤激の極に達していたというのに、グェン・ヴァン・チューは、虐殺をあくまでも否定し、「それは、ベトコンの宣伝の術策にすぎない」「戦争にありがちな一つの事件」「戦争の中の一つの行動」だったと、何度も繰り返したのだった。[右の写真:トラン・ヴァン・ドンの調査団は難民キャンプを訪問しただけに終わった。]
アメリカ国内では、告発された全将校が、軽い裁判にかけられ、その大部分が恩赦を受けた。そして、結局最後には、あらゆる責任は、黒のポーン駒であるカリーに負わされたのだった。
フォート・ベニングの軍事法廷が、カリーの裁判を行なった。それは1970年12月12日に開始され、1971年3月31日に結審となった。これはアメリカの歴史の中でもっとも長期間の法廷事件となり、アメリカの世論に深刻な衝撃を与えた出来事となった。[訳注 1] AP通信社の3人のジャーナリスト、アーサー・エイヴァセット、カスリン・ジョンソン、ハリー・F・ローゼンタールは、『世紀の裁判』と題する本を書いた。主席弁護人のラチマーは、カリーを無罪にさせる責任を負っていたが、カリーの罪を軽くすることに失敗して以後は、そのことを説明するのに腹を立て、カリーは最下級の将校にすぎない、彼は生贄にされたんだ、と言った。カリーは終身刑を宣告され、陸軍から追放、給与と手当てを打ち切られた。だが、裁判から1日後に、ニクソンはカリーを刑務所から釈放するように命じた。1975年までに、カリーは完全に自由の身となり、その後、ジョージア州コロンバスで、有名な宝石店の経営者となった。殺人犯だと言われると、彼は、穏やかに、ソンミの死体が念頭に浮かぶことなど一度もないし、自分を殺人者だなどと思ったことも決してない、と答えるだけだった。
だが、カリーを有罪にすることが問題なのではなかった。アメリカ合州国大統領、リチャード・ニクソンは、当時、ソンミで起こったことを認めてはいたが、同時にまた、それを「単独の事件」だったとして、痛手から立ち直ろうとも努めた。だが、世界とアメリカの世論は、それを信じるほど単純ではなかった。また、そのような裁判が、極めて皮相的なものであって、被告たちの実際の犯罪を裁かなかったという事実をひとまず置いたとしても、カリーや何人かの犯罪者を裁判にかけたからといって喜び はしなかった。裁判の以前であれ以後であれ、ただ人間の良心のみが、カリーら犯罪者に対して正義の裁きの声を上げえたのである。[左の写真: 一人の米兵が戦争に出かけてゆく。彼らはミライ一村のみで民間人を殺戮したのではなく、何百という村でそれをやったのだ。(UPI) 下の写真:ハノイをはじめ、南北両ベトナムで、ソンミやその他多くの場所でのアメリカの犯罪行為に抗議して、多くのデモがおこなわれた。]
ソンミは「単独の事件」などではなかった。第11旅団の古参兵士、テリー・ライドはこう語っている。「俺たちの中隊は、何百人も殺したというお墨付き部隊なんだ。この中隊がやった最初の交戦で、俺の小隊だけで40人の死者を数えた。だが俺の小隊では、だれ 一人、ベトコンの死体を見たものはいなかった。だが、俺は、多くの村民がまるでクレーの素焼きの標的のように撃たれてゆくのを、この目で見たぜ。」もう一人の元兵士、ロン・グルゼシックにとって、ミライ第4地区は数ヵ月も前から始まっていた悪循環の終りだった。彼は言う。「一歩、一歩と 、前よりももっとひどいことになるといった具合だった。最初は、連中を止めて、尋問をし、そして放してやった。次は、連中を止め、老人を殴りつけ、そして放してやった。その次は、連中を止め、老人を殴りつけ、そして撃ち殺すんだ。そして4番目には、出かけていって、村全部を消してしまうんだ」と。全体としてみれば、米兵はソンミの中だけでいくつかの犯罪を引き起こしたのではなく、ベトナム全土でもそれをやったのだ。ベトナムにおいては、いつであっても、アメリカ侵略者は、退避壕の中に毒ガスを撒き、食べ物や飲み物の中に毒物を混入し、家々を焼き払い、村民を燃え盛る炎の中に放り込み、歩兵銃で連続射殺をし、ナイフや武器を突き刺し、南北両ベトナムを徹底的に爆撃する……などといった、野蛮な殺戮シーンを、無数の火器や弾薬をもって、つくりだしたのだ。その犠牲となったのは、なんら武器を持たぬ民間人だった。犯罪者は、カリー、ミードロ、メディナといったギャングのような連中だけではなかった。残忍極まる絶滅政策によって、アメリカ軍隊は、南部クァンガイ省を根拠地とする第11機甲騎兵連隊の司令官、ジョージ・パットン大佐を象徴とするような、残虐な殺人者を、その中につくり出したのである。彼は部下たちに向かって、「俺は手や脚が吹き飛ばされるのを見たいんだ」とよく言った。パットンは、1968年のクリスマスに「地には平和を――ジョージ・S・パットン大佐夫妻より」と記したカードを送ったのだが、そのカードについていたのは、手や脚などをもがれたベトコン兵士の死体の山のカラー写真〈……)だった。パットンがベトナムを去るときのお別れパーティでは、彼は首の周りに平和のメダルをつけた恰好で、ベトコンの頭蓋骨を放り投げて見せた。クァンガイ省の中だけで、アメリカ遠征軍と韓国軍は、ビン・ホア[Binh Hoa]、ビン・チャウ[Binnh Chau]、カン・ジアン‐トルオン・レ[Khanh Giang-Truong Le]、ディエン・ニエン−プオック・ビン[Dien Nien-Phuoc Binh]、その他で、何百、何千という民間人の残酷な虐殺を行なったのだった。日本のジャーナリスト、シズド[Shizudo]は、ベトナム全土で米軍と韓国軍によって引き起こされた無数の殺戮の光景、残忍極まる破壊を記録している。これは、後、『ベトナム解放戦争』["Vietnam Liberation War"]という大部の書物になっている。[訳注 2]
ソンミ事件が暴かれると、カリーは裁判に付された。やがて、一部の好戦的アメリカ人は、おろかにもカリーを支持しようとした。ある者はカリーを英雄視し、ある宣教師は、彼を、十字架に釘付け された受難のキリストの例にたとえたし、またある者は、カリーを国防長官にしようというスローガンを掲げさえした。だが、真のアメリカ人は、自らの正義の声を上げ、カリーの犯罪 の性格に見合う裁判が必要だとし、同時に、カリーの上官たちについても、たとえその手が血で汚れていないようには見えても、彼らが持つ重大な犯罪を無視することは出来ないとした。アメリカの知識人は、この犯罪人こそ、ウェスとモーランドであり、さらにホワイトハウスの大統領執務室に坐って、この皆殺し戦争を指揮している人物さえもそうだとした。世論は、ニュールンベルグ裁判で、下級兵士の行なった犯罪の責任で15年の刑に処されたドイツのペンミ将軍の事例、フィリピンにおいて日本軍兵士が民間人や戦争捕虜を殺害した責任を問われて死刑に処された日本の山下奉文将軍の事例を挙げて、それをウェス トモーランドとベトナムで彼の指揮下にあった兵士のソンミでの犯罪の事例を関連付けたのだった。
ソンミは単独の事件にすぎず、それでカリーは裁判に付されたのだという主張に対し、世界とアメリカの世論は強く反対した。ソンミは、ベトナム戦争でのアメリカの一連の犯罪行為の一部分であり、米国政府と米国軍隊以上の犯罪者はない、というのである。
世界のいたるところで、人びとはソンミ大虐殺の写真を報道し、新聞に転載して、米軍によるベトナムでの残虐な侵略戦争に反対する声を上げた。
ソンミの事態の重大さから判断して、世論は、起こしたものがファシストかアメリカ帝国主義かの違いはあるものの、この虐殺を、第2次世界大戦中の極めて野蛮な虐殺に並ぶものだとした。フランスでは、『パリ・デイリー』紙が、ソンミをベトナムのオラドゥールだとよんだ。ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)では、『ノイエス・ドイッチュラント』紙が、ベトナムで起こったことに比肩しうるものは、チェコのリディチェ、フランスのオラドゥールでのドイツ・ファシストによる残酷な行為のみだ、と言った。ベロルシアでは、カミンスキー氏が、ソンミは、自分がただ一人だけの生存者だったカチン村でのドイツ・ファシストの大虐殺に比べうる、と語った。イギリスでは、『タイムズ』紙が、ソンミ事件は、ゲルニカ、ヒロシマ、シャープヴィルと同じであり、人間の良心に強い衝撃を与えるものであって、忘れることは出来ない、と書いた。また、『ガーディアン』紙は、ソンミ事件は実に戦慄べきものであって、さまざまな戦争における他の戦慄すべき出来事と同様に、簡単に看過されてはならぬものだ、と強調した。さらに『オブザーヴァ』紙は、ソンミ事件はベトナムでの戦争を正確に映し出したものであって、アメリカの介入の結果なのだ、と確言した。『デイリー・スケッチ』紙はこう書いた。「戦争犯罪である。これが起こりうるとすれば、アメリカは敗退したのだ」と。香港のある新聞はこう書いた。「日独ファシストによる残虐ぶりもベトナムにおけるアメリカのそれの前では顔色ない」と。『ホンコン・デイリー』紙は、アメリカの何百、何千万の人びとは、良心の深い痛みに苦しんでおり、米国軍隊の威信は深刻な影響を受けた、平和維持の兵士たちが、動物のような性格を持っていたというのだから、と書いた。ソ連では、『ノーボエ・ブレーミヤ』紙が、何百という村はアメリカ空軍によって焼かれ、何万というベトナム農民は砲爆弾やナパームによって殺害された、ソンミ大虐殺に責任があるのは、ベトナム民衆に対する他の残虐行為と同様、アメリカ帝国主義者である、と書いた。[左の写真: 国際記者会見に出席したソンミの生存者の一人、13歳のヴォ・チ・リエン[Vo Thi Lien]]
チェコのある新聞は、ソンミの悲劇はベトナムにおけるアメリカの侵略戦争という一大悲劇のごく小さな一章にすぎない、と書いた。事件については、情報が多くの新聞に載ったが、それ以外に、諸国の政治家やさまざまな階級の人びとが多くのデモを行なった。インドの元外相は、ソンミにおけるアメリカの犯罪をインドにおけるイギリス植民地主義者の犯罪になぞらえ、「ソンミの大虐殺はベトナムでのアメリカ帝国主義者による一連の犯罪行為のうちの一つだ」とのべた。スウェーデンでは、多くの人がアメリカの戦争に抗議してウプサラでデモを行なった。フランスでは、ラ・スーテランの市長、パラン博士が「われわれは、ドイツのファシストがわが故郷の土地でどんな残虐行為をしたかを知っているが、米軍のソンミ大虐殺はドイツ・ファシストのそれを超える戦慄すべき犯罪であり、われわれの良心をこの上なく憤激させるものだ」と語った。1969年12月19日、パリの国際情報センターで、イギリスのバートランド・ラッセル卿と著名なフランスの作家、ジャン=ポール・サルトルが司会を務めた記者会見が行なわれた。二人とも、その記者会見で、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を強く糾弾した。その記者会見では、アメリカの大学教授たちが、実際に目撃してきた調査に基づいて、アメリカの使用した毒性化学薬品によって南ベトナムのいくつもの地域がまるで月世界のような光景を呈している、と結論した。1967年から68年にかけてクァンガイ病院で働いていたカナダ人のクレール・カルヘインは、自分の見聞きした米兵の犯罪について語った。
戦争犯罪人については、公けにはカリーがそれだとされたが、しかし重要かつ主要な犯罪者は依然として明らかにされなかった。エジプトでは、『アル・モサワール』紙がこう書いた。「ベトナム人民に対する犯罪的戦闘について、米地上軍司令部の責任を否定できるものはいない。この犯罪を行なったのが彼らではなかったなどとは、信じられないことだ。アメリカ政府、特に大統領にこそ、米軍の行なったことに責任を負わねばならない。アメリカの民衆から抗議を受けているにもかかわらず、彼ら がベトナムで侵略政策を続けてきていることは明白である」と。イラクでは、『アル・ヌール』紙がこう書いた。「カリーの皆殺し犯罪は、アブラムの罪ほど重大ではない。なぜなら、アブラムは、アメリカのヘリコプターが焼夷弾を積載していることや、ナパーム弾や毒ガスがどれほどの効果をもたらすかということを知っていたのだから。それは、ウェストモーランド、マクナマラ、レアード、ジョンソン、ニクソンらの犯罪ほど重大なものでもない。なぜなら、彼らはこの戦争をかくも長きにわたって継続し、何万というベトナム人を殺してきたのだから」と。アジア・アフリカ人民連帯委員会の常設書記局は、「ソンミ事件は決して単独の出来事ではなく、ベトナムで『焼き尽くし、破壊し尽くし、殺し尽くす』というアメリカの政策から予見された犯罪だったのだ」という宣言を発表した。
アメリカでは、ベトナムにかんするアメリカ政府、軍部の政策への世論の糾弾がますます強まっていった。国連でも、アルジェリア、ソ連、アラブ連邦、キューバの代表の要求によって、ソンミ事件についての公開討論が行なわれた。キューバのケサダ国連大使は、「ソンミの犯罪は、単に米兵のある集団によって行なわれたというだけのものではない。それはアメリカ政府によって、慎重に準備され、実施された政策の産物である」と語った。すべてのアメリカ国民、政治家、知識人が、自分たちの態度を明らかにする声を上げた。ホワイト・ウォーター氏は、『ライフ』誌に自分の意見を発表し、「まさしく、それは、歴史の中で幾たびも繰り返されてきた極めて嫌悪すべきことである。米軍が婦女子を残酷に殺害したのは、これが初めてのことではない」と書いた。ガブリエル・コルコ教授は、「当然のことながら、アメリカの政策は、南ベトナムを火の海に変え、ベトナムをその標的とした。歴史に残る犯罪者とは、直接に銃を発射した者たちだけではない」と語った。女優、ジェーン・フォンダは、「カリー中尉は生贄にすぎない、最大の犯罪人は、主にワシントンの当局者たちだ」と語った。グッデル上院議員は、「もし、米軍の犯罪行為に対する調査が、何人かの米兵に制裁を加えるだけというものであるなら、そんな調査は受け入れがたい」と語った。アメリカ国民は、全土でその良心を呼び覚ましつつあり、それは、ピート・シーガーの『ニュールンベルグ行き終列車』という歌によく示されている。
「ニュールンベルグ行き終列車が出まーす。ニュールンベルグ行き終列車が出まーす。どなた様もご乗車下さーい。」
私は、カリー中尉に会うのだろうか?
私は、メディナ大尉に会うのだろうか?
私は、コスター将軍やその幕僚たちに会うのだろうか?
私は、ニクソン大統領に会うのだろうか?
私は、上下両院の議員たちに会うのだろうか?
私は、有権者、つまり、あなたや私に会うことになるのだろうか?
『ニュールンベルグ行き終列車』……。ニュールンベルグとは、第二次大戦の戦争犯罪人を裁くために設けられた国際法廷のあるところだ。この歌の人間的価値は、アメリカの全市民が必ずしもこの犯罪をうっかりと黙過したわけではなく、戦争犯罪を阻止することは、一人ひとりの民衆の責任なのだ、ということを自覚していることにある。
ヴォ・チ・リエン[Vo Thi Lien]は、ソンミの人びとの苦悩を全世界に深く理解せしめ、連帯させている典型的人物である。彼女は、この事件の当時、10代のはじめで、死の場から運良く逃れることの出来た僅かな村民の 一人だった。15歳のとき、彼女は、中国、ソ連、東欧諸国、北欧および西欧諸国、そして日本など、多くの国を訪問した。全世界の数百万の人びとは、彼女とその同胞とが蒙った苦難に、深く心を動かされた。ソンミの少女、ヴォ・チ・リエンは、ソンミの痛みのシンボルとなり、以後、彼女は、その全生活を、救済と平和の大義のために捧げて、積極的に活動している。
(第3章 おわり)
[訳注 1]この節の日付の記述には、疑問がある。カリーの裁判は、もっと長期間、継続しているはずである。参考に、インターネット上で見ることができるアメリカの「ミライ軍事法廷ホームページ」(MY LAI COURTS-MARTIAL HOME PAGE) ( http://www.law.umkc.edu/faculty/projects/ftrials/mylai/mylai.htm )に掲載されている年表(事件以後の部分)を訳出しておく。
1968年3月16日 | ソンミ村における虐殺事件 |
1969年3月29日 | ロブ・ライデンアワーが、ミライ事件とその隠蔽に関する手紙を書く。 |
4月23日 | 監察長官、全面的な調査を行なう。 |
6月13日 | ヒュー・トンプソンが、ウィリアム・カリーがミライにいた士官であると確認。 |
8月 4日 | ウェスとモーランド将軍が、監察長官に命じて、この問題の調査を犯罪調査部門に委任させる。 |
9月 4日 | カリー、告発される。 |
11月 3日 | ニクソン大統領、「ベトナム化計画」を発表。 |
11月13日 | ミライについての最初の記事が発表される。 |
11月14日 | 目撃証言を含む第二の記事が発表される。ハーバールの写真が発表される。 |
12月13日 | 国防長官、殺害に関与した者全員を訴追すると報告。 |
1970年3月10日 | アーネスト・メディナ大尉、殺人のかどで告発される。 |
3月14日 | ピアーズ報告がウェスとモーランドに提出される。 |
3月17日 | 14人の士官が、ミライ関連の違法行為で告発される。 |
1971年2月26日 | ミライにいなかった将校への告発が取り下げられる。 |
3月29日 | ミライにいた何人かの将校に対する告発が取り下げられる。 |
3月29日 | カリーに有罪宣告。 |
3月31日 | カリー、終身刑の判決。 |
4月 3日 | ニクソン大統領、カリー事件の再審理を行なうと約束。 |
8月17日 | メディナに対する公判、開始。 |
8月20日 | カリーの刑期が20年に短縮される。 |
9月23日 | メディナは、陪審員の60分の審理のあと、、すべての嫌疑が無罪とされる。 |
1973年1月27日 | アメリカ、南北ベトナム、解放戦線の間で停戦協定調印。 |
3月29日 | 最後の米軍地上部隊がベトナムから撤退。 |
7月31日 | 米下院、インドシナにおけるすべての爆撃の停止と、議会の事前承認のない同地域でのいかなる軍事行動も禁止することを議決。 |
12月21日 | 軍事法廷、カリーの有罪判決を確認。 |
1974年4月16日 | カリーの契機が10年に短縮される。 |
9月24日 | カリーの有罪判決が連邦地方裁判所で再審理となる。 |
11月 3日 | カリー、保釈金を積んで釈放される。 |
11月13日 | ピアーズ報告が部分的に公表される。 |
1975年4月30日 | サイゴン陥落。南ベトナムが敗北、戦争終了。 |
9月10日 | カリー、3年半の服役の後、仮釈放される。 |
1998年3月18日 | ヒュー・トンプソン、ミライ事件30周年記念式典で、ミライにおける英雄的行為に対し、表彰される。 |
1998年5月10日 | ロナルド・ライデンアワー、ハンドボールの競技中に、心臓発作で死亡。 |
現在 | カリー、ジョージア州で宝石商の経営者。(宝石店所有者の娘と結婚した。) |
[訳注 2]この「シズド」という日本のジャーナリストとは、あるいは、元共同通信社の記者、宍戸(シシド)寛氏、あるいは元『朝日新聞』記者、論説委員の丸山静雄氏のことかと思われる。宍戸氏には、『人民戦争論』(1969年、オクスフォード大学出版局)という著書があり、中にベトナム戦争を論じた章がある。また丸山氏の著書『ベトナム戦争』(1969年、筑摩書房)には、米軍による「皆殺し戦争」についての記述や、その例もあげられている。[注]のあった部分に戻る。