From Son My to the “Pinkville”
この虐殺が起こった場所は、ベトナム中部にある穏やかな農村の一つだった。国道一号線沿いにあるクァンガイ〔
Quang Ngai〕省の省都の北端から、トラ・クック〔Tra Khuc〕 川の左岸に沿い、東方のサキ〔Sa Ky〕河口にいたる一本の道がある。クァンガイ省都から東北東へ約13キロのところにあるソンミは、北はバ・ラン・アン〔Ba Lang An〕半島(バタンガン)に接し、南はトラ・クック川が海に注ぐダイ〔Dai〕河口(コ・ルイ〔Co Luy〕)に接している。ダイ河口は、過去においてはクァンガイ地方で最も重要な港であった。(写真はトラ・クック川)
多くの外国人、とりわけ欧米人の目にとって、竹林が生い茂る村々と広大な水田とが続くこの地域は、時に半ば未開の地とは映っても、村と村とを分ける境界を認めることはほとんど困難に近い。アメリカ人がここにやってきたとき、彼らは、もともとからある境界を無視し、なんの断りもなく、ある名前をそこにつけた。だが、事実はと言えば、この地域はアメリカ合州国の建国より少なくとも
2世紀も以前に、ベトナム人によって文明が築かれていたのである。この地のすべての土地境界線は、4000年の文明を持つこの国のすべての地域と同様に、明瞭な区画が設定され、変わることはなかった。植民地=封建時代の間、ソンミは、クァンガイ地方ソン・ティン〔Son Tinh〕地域の四つの村落共同体の一つ、トン・チャウ〔Tong Chau〕(ソン・ティン地域にある現在の数ヵ村と同じ)に属していた。1945年の八月革命によって植民地=封建制度が崩され、独立が達成されて以後、ベトナム民主共和国政府はすべての行政単位を確定しなおすことを始めた。「トン」〔tong〕(いくつかの村を集めた大きさの単位)に代わって、村ごとの行政が制度化された。「トン」では大きすぎて管理が難しかったからである。しかし、一方、地域の行政制度は基本的に変わらずに残された。その結果、ティン・ケー〔Tinh Khe〕村がつくられ、ソン・ティン地域に属する19の村の一つとされた。1954年のジュネーブ協定以後、ベトナムは異なる政治制度をもつ南北二つの部分に分割された。北部では民主主義が存在を続けたが、南部は一時的にフランスの支配下に置かれた。そしてティン・ケーは南部にあった。アメリカの援助と激励とを受け、南部の権力を握ったサイゴン政権は、革命の成果のすべてを破壊するために全力を尽くしたが、それには地名の変更も含まれていた。地域の行政単位は基本的にそれまでのとおりに残されたが、その名称「フイェン」〔huyen〕(地域)は「クァン」〔quan〕という別の名称に変えられた。また「トン」〔thon〕(村)という行政単位の名も「アプ」〔ap〕へと変更された。村の地名だけが変えられたのである。サイゴン政権の下で、ティン・ケー村はソンミと名を変えられたが、行政上の区画境界は、それ以前のベトナム民主共和国(1954年以前)のときのままに維持された。
ティン・ケー村は、西はティン・チェン〔
Tinh Thien〕、ティン・ロン〔Tinh Long〕村に接し、北はティン・ホア〔Tinh Hoa〕、ティン・キ〔Tinh Ky〕の両村、そして南はトラ・クック川とダイ河口(コ・ルイ)に接し、東は南シナ海に面している。20平方キロの面積を有するティン・ケー村は、4つの集落からなっている。すなわち、トゥ・クン〔Tu Cung〕、トゥロン・ディン〔Truong Dinh〕、ミライ、そしてコ・ルイである。緑の水田をもつトゥ・クン集落は村の西部の奥地に位置し、トゥロン・ディンは南部に、多くの盛り土や墓地を持つミライは北部に、そして、東部にあるコ・ルイ集落は、キン〔Kinh〕川によって内陸部と隔てられている。キン川は、この地域を、多くの砂の土手、ココナッツの木、フィラオの森、砂浜などを持つ「前は海、後ろは川」という地形に作っている。各集落は、さらにいくつかの小村落からなっている。1968年3月16日の虐殺は、主として、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小村落(すなわち、ソム・ラン〔Xom Lang〕)、トゥ・クン〔Tu Cung〕小村落(ミライ第4地区)、そしてコ・ルイ集落(ミライ第2地区)のミ・ホイ〔My Hoi〕小村落で、起こった。クァンガイ 省都から、
624号線(521ハイウェイ)を通ってソンミまで行くと、平坦な土地に点々とあるいくつかの丘が目に入ってくる。右手には、丘が一つながりになっていて、それがティン・ケー村とティン・ロン村との自然の境界をつくっている。ソンミに近づく間、道路の右手には「象の丘」(エレファント・ヒル、別名 第85ヒル)が見えている。その丘とは反対側、道路の左手には、虐殺の際に血に溢れた灌漑用の溝が走っている。 「象の丘」に登れば、そこからは眼下に、チェスの盤面のような緑の水田、木陰豊な集落の間を曲がりくねって縫う村道、果樹園、土饅頭、墓地など、美しい広大な光景がパノラマのように広がって見える。ソンミの東方には広々とした海が広がり、コ・ルイの金色の砂浜に波が絶えず打ち寄せ、そのそばに茂るフィラオの森が、集落を波と風から守っている様子も目に入る。晴れた日には、はるか遠くに24キロほど先のリ・ソン〔Ly Son〕島を見ることも出来る。「象の丘」は、かつては、サイゴン政権軍、韓国軍、そして米軍がこの地域を支配する上で、重要な戦略地点と考えられていた。[左の写真 上は、灌漑水路と向き合っている「象の丘」。ソンミ記念館から。下は、キン川。虐殺があった地域の一つ、ミ・ホ小集落の西部にある。]一般的に言って、ソンミはクァンガイ省で最も美しい村の一つと思われている。その美はもっぱら海と川によって生み出されている。そしてそのソンミの中で最もすばらしい集落がコ・ルイである。7キロにわたるコ・ルイの金色の砂浜(ミ・ケー〔My Khe〕海岸としても知られている)は、三日月形に広がり、近くにはフィラオの森が緑をなしている。この集落の裏手を流れるキン川(ソンミの南から北へ流れる)は、200メートルほどの幅がある。川の水位は潮の干満に左右される。川の両側の土手には、糸杉、マングローブ、ニッパ椰子が生える。ココ椰子におおわれるコ・ルイ小集落は、南コ・ルイ集落とともに、かつてはクァンガイ 省で最も美しい十地点の一つとされており、「コ・ルイ・コ・トン」〔Co Luy co thon〕(侘しいコ・ルイ)という美しいその名もよく知られていた。キン川のほとりにあるミライ集落も実に美しいところで、19世紀初頭のグエン王朝の高官、トルオン・ダン・ケ〔Truong Dang Que〕は、自分の故郷であるこのミライ村を、王都ユエに次いで、ベトナムで第二の美しい場所だと言ったほどである。伝統的に国を愛する気持ちの強いことで知られるクァンガイ 省に属するソンミは、これまでに多くの英雄を生み出してきた。すなわち、18世紀末のタイ・ソン〔Tay Son〕司令官のトルオン・ダン・ド〔Truong Dang Do〕、フランス軍がベトナムへの侵略を開始した初期(1859年)の頃から反仏運動の指導に当たったトルオン・コン・ディン〔Truong Cong Dinh〕、そして、19世紀初めの40年間、ミン・マン〔Minh Mang〕、チュー・トリ〔Thieu Tri〕、トゥ・ドゥック〔Tu Duc〕の3代にわたるグエン王朝のもとで高官の地位にあったトルオン・ダン・ケなどである。
やがて、植民地=封建制度の厳しい支配の下にあって、生活を変革したいというソンミ村民の熱望は、激しい形で噴出し、ベトナム各地での同様な動きとともに、1945年の「八月革命」を遂行し、ベトナム民主共和国が樹立された。
フランス植民地主義者による再侵略に対する9年間にわたる抵抗(1945〜1954年)の中で、ソンミは、クァンガイ省の自由を守るために、もっとも危険な立場にすっくと誇り高く立ち続けたのだった。
民族の解放を求めて、アメリカ帝国主義者に対する抵抗の中では、ソンミは、早い時期(1965年)に解放された村の一つだった。しかし、その直後(1965年)、米軍はベトナム南部に強引に上陸、多くの軍事作戦を展開し、その中でソンミの虐殺が起こったのだ 。
早い時期から文明化された美しい地域であるティン・ケーは、米軍の火力による戦場、ソンミへと変えられた。米軍にとって、ソンミとは「砲撃自由地帯」であり、「卑劣なインディアン種族の地域」であり、「ピンクビル」の一つだったのだ。米軍の地図の上では、そこには赤い円いマークがつけられていた。
事実、1967年につくら れた軍用地図(10万分の1)のある一枚には、広い地域が大きな赤い丸で囲まれ、次のような書き込みがされていた。
「1967年1月から同年12月31日まで韓国海兵隊第2旅団の特殊任務下にあった地域は、上記の時期以降、アメリカル師団第11旅団バーカー機動部隊に引き渡された。」
その丸で囲まれた地域の中にもう一つ小さな丸がソンミ村を囲んでいた。そしてその中心に小さな点があり、次のようなメモが書かれている。
「ソンミ村トゥ・クン〔Tu Cung〕集落」
[
左はミライ地区の地図、右はミライ第4地区の拡大図]虐殺は、主としてこの小さな点、すなわちトゥ・クン集落のトゥアン・イェン〔
Thuan Yen〕小集落、別名ミライ第4地区、「ピンクビル」とされていた地区で起こった。そして、この大虐殺を直接に実行したのが、アメリカル師団第11旅団バーカー機動部隊だったのである。バーカー機動部隊は3つの中隊から構成されていた。すなわち、第1連隊第3大隊に属するアルファ(A)中隊、第3連隊第4大隊に属するブラボー(B)中隊、第20連隊第1大隊に属するチャーリー(C)中隊、それに砲兵部隊である。1968年3月16日、ミライにおいて残忍な大虐殺の責任を負うのが、このチャーリー中隊であり、それを直接行なったのが、同中隊の第1小隊であった。チャーリー中隊の指揮官は、1936年、アメリカ・ニューメキシコ州生まれのメディナ大尉だった。彼は、「ベトコン」(ベトナムの革命部隊)の殺戮に飢えていた人物だったところから、「狂犬メディナ」という渾名がつけられていた。第1小隊の指揮官は、ウィリアム・カリー中尉で、彼には「意地悪カリー」〔rusty Cally〕という渾名があった。他の多くの米軍部隊もそうだったが、チャーリー中隊も、無辜のベトナム民衆を殺し、家屋や収穫物を破壊することをよくやった。多くの証言によれば、ソンミでの大虐殺は、その前夜、1968年3月15日の作戦会議で、メディナ大尉が主張したものだった。(第1章 おわり)