news-button.gif (992 バイト) 74 鶴見和子さんとテリー・ホイットモア  06/11/20の「鶴見和子さんを偲ぶ会」第二部での話 (06/11/23搭載  

 06年11月20日、東京会館で「鶴見和子さんを偲ぶ会」が開かれました(その報告は、ベ平連のサイトの「ニュース」欄 No.441 に掲載)。また、それに出席した私の感想は、同サイトの「談話室」欄 No.92 に投稿してありますので、ご覧ください。以下は、この「偲ぶ会」の第二部で私が話したことの再録です。ただし、「談話室」への投稿の中でも書きましたように、ほとんど時間がなくて、ずいぶん削らざるを得ませんでしたので、以下では、その部分を加筆して増やしてあり、実際にはお話しなかった部分も含まれています。

  鶴見和子さんとテリー・ホイットモア

 鶴見和子さんの短歌の中に、脱走兵援助の歌が何首か含まれています。そのうちの一つは、さきほど、このスクリーンに映されたDVDの中でも紹介されていましたね。いくつかを読ませていただきます。

 いみじくも辛(から)き生命(いのち)を存(なが)らえてテリーは決す人殺さじと

 脱走兵援助の歴史創りたるヨーロッパの女凛として優し   イギリス・ヨークシャーTVドキュメンタリー番組「勇気ある女たち」

 脱走兵援助の歴史アジアにて未来へ向けてうけつがむとす  
    (鶴見和子 歌集『花道』 藤原書店 2000年4月 83〜86ページより)

 このテリーというのは、テリー・ホイットモアという、アメリカの反戦脱走兵で、黒人の海兵隊員でした。彼は、ベトナム戦争中、重傷を負い、ダナンの病院では時の米大統領ジョンソンから直接勲章を授与されるような勇猛な海兵隊員だったのですが、横浜の野戦病院にいるときに日本人の若い女性との会話の中から戦争への疑問を感じだし、ついに脱走を決意して、ベ平連とジャテックの援助で、ソ連経由、スウェーデンに渡り、ストックホルムに住むことになったのでした。そのテリー・ホイットモアの自伝が出版されていますが(テリー・ホイットモア著、吉川勇一訳『兄弟よ、俺はもう帰らない』第三書館、1993年)、その中に、当時東京の練馬にあった鶴見さんの家に匿われたときのことが生き生きと書かれています。その一部をご紹介したいと思います。
 これまで、鶴見和子さんの社会学者、民俗学者、南方熊楠の研究者、あるいは短歌、日本舞踊、和服などについては、いろいろな方がお話しされましたが、どなたも話されてはおらず、しかし、どうしてもここで申し上げておきたいことは、ベトナム反戦運動への参加、とりわけ、反戦脱走兵への支援の活動についてです。この活動は、大部分、無名の日本市民によって支えられたのでしたが、同時に、鶴見和子さんほか、中野重治、堀田善衞、なだいなだといった著名な学者や作家も援助をくださいました。その活動の最先端にたって行動していたかつてのジャテックのメンバーも今日は多数、この会場に参加しております。
 では、ホイットモアの伝記の一部を朗読させていただきます。1968年のことです。

 ……東京の郊外に戻る。どこだか私にはわからないが、私たちが着いて、車から降ろされたところはある鉄道の駅だった。二駅だけ電車に乗ってから何ブロックかを歩いた。……
 ……私は、以前プリンストンでも教鞭をとったことのある東京大学の女性教授の家にやっかいになることになっていた。彼女の書斎の蔵書量は膨大なもので、そのうちまるまる一つの棚は彼女の著書だけでいっぱいだった。(注 もちろん、
当時鶴見さんは、上智大学の教授で、東大には在職していなかったが、著者は、援助に当たった日本人が特定されないように、あえてこうした職業や氏名、地理的位置などを変えて記述していたのです。)
「何を召上がる?」
「エッ?」 これはどうだ。私は日本の習慣と緑茶に慣らされてきた。ところがこのプリンストンからの女性は「何を召上がる?」なんてさりげなくおっしゃるではないか。
「アペリチフは? スコッチ? ジン?」
「ウーム。私は飲まないんです。よろしかったら、コカコーラを頂けないかと――」
 彼女は私を見ていたずらっぼくニヤッと笑った。                                         
「そうねェ。特別のお客様だから隠しておいた一本ぐらいたぶんいいでしょね」
 べ平連の男の子たちは腹をかかえて笑った。どうやらこの連中はできるだけアメリカ製品を買わないことにしているようだった。そしてもちろんコカコーラはアメリカ人の行くところどこにでも氾濫しているしろものである。
 彼女はコラコーラを出してくれ、私はそれを飲んだ。恥も外聞もなくだ。とにかくえらく喉がかわいていたのだ。……
 ……寝る前に私はこの教授と少し話をした。イントレビッドの四人のうちの一人も、冬の間ここに泊っていたのだという。彼女が、神経質になってる若いアメリカ人の気持をときほぐすのも、これがはじめてではなかったわけだ。
「朝食の御希望は?」
「何でも結構です。あなたが召上がるもめでしたら何でもおいしいでしょう」
 彼女はお手伝いさんに、私の朝食のためのメモを残しておいた。彼女は早朝のクラスを持っていて、私が降りてきた時にはすでに出かけたあとだった。朝食が私を待っていた。ハム・エッグではないか! 冷たいミルクにトーストとジャムまで。教授の客扱いはいうことなしだ。
……
        (テリー・ホイットモア著、吉川勇一訳『兄弟よ、俺はもう帰らない』第三書館、1993年)

 このあと、鶴見さんは、テリーの日本人の恋人を呼んで、一夜の愛の宿の提供までをされるのですが、時間がなく、そこは省略させていただきます。ご興味のある方は、ぜひ本をご覧ください。
 先ほど、鶴見さんの人柄を「侠客肌」「姉御肌」という側面があったというお話をされた方がおられましたが、ベ平連の若者たちの目からは隠しておいたコカコーラをニャッと笑っ出してくるなどという描写に、そういう和子さんの生き方が、ありありと目に浮かんできます。脱走兵援助に関わったイギリスの女性の姿をドキュメンタリ映画で見て、鶴見さんは「凛として優し」と詠われたのでしたが、それは、鶴見和子さんはじめ、この活動に関わった多くの女性たちの姿についても言えることでした。
 反戦脱走兵への支援などベトナム反戦運動への参加――これは和子さんの生き方について、どうしても加えてのべておきたい事柄だと、私は思っております。
 ありがとうございました。
                     (2006年11月20日、東京会館での「鶴見和子さんを偲ぶ会」第二部での話)