図書紹介 説得的な言葉が読者にさまざまな思索を迫る ダグラス・ラミス『憲法は、政府に対する命令である。』(06/11/16掲載)
以下は、『派兵CHECK』No.170(06年11月15日号)に掲載したダグラス・ラミス著『憲法は、政府に対する命令である。』(平凡社2006年8月刊、1300円+税)の紹介です。
説得的な言葉が読者にさまざまな思索を迫る
一般的解説ではない極めて実践的な論考
『派兵チェック』の書評欄に載るのだから、これを読んでくださる読者は、おそらく改憲反対の運動に直接かかわっている活動家か、少なくともそれに大きな関心を持っている人びとかであろう。
著者は、第1章を、「この本は日本国憲法を取り上げる。/しかし、日本国憲法についてだけの本ではない。政治学、あるいは政治そのものについての本でもある」と始める。そして、「憲法制定の瞬間は国家創立の瞬間である」とか「憲法は首都にある政府の制度を形づくるだけではなく、民衆一人ひとりの政治的アイデンティティに大きく関わる」とか、あるいは「憲法形成の逆説は政治の逆説でもある」といったような表現にぶつかる。また第2章では、ホッブスの『リヴァイアサン』や、ロック、ルソー、ソロー、アーレントらの説が引用されて、憲法、主権者、為政者、国民などの関係が論じられる。
そこで、この本は硬い抽象論が続く政治学の本かと思って、運動に忙しい活動家のみなさんが投げ出さないようにしていただきたい。最初の2章は一般的、概説的な叙述のように思えるかもしれないが、以降に展開される内容は、実に具体的、説得的であり、読む者にさまざまな思索を迫ってくる。その意味で、これは今書店にあふれている多くの憲法論の書物のなかでも、とりわけ活動家に読んでほしいと思う実践的な書物だということを、まず強調しておきたい。
書名にあるように、中心的な主張は、為政者を拘束し、主権者の権利を守る義務を課するものだという点だろうが、しかし、第九条、人権条項、思想・表現の自由、平等、政教分離などの問題を考察しながら、その憲法を実現させるためには、主権者はどのような考え方をし、どのような行動を求められているのかという、私たちの側の実践の課題がつねに提起されているからだ。
説得的な第九条論
第5章では、第九条が論じられるが、これは多くある九条論の中でも、極めて説得的な意見である。著者は、「憲法第九条とは、どのような意味なのだろうか、という長く難しい議論がある。しかし、素直に読めば、議論があること自体が不思議である」といい、法律家や政治家のややこしい議論ではない、いい意味での「常識」で納得できる意見を展開する。自衛隊や自衛戦を容認したりするさまざまな解釈論者や学者を皮肉りつつ批判した上で、「国の交戦権は、これを認めない」という文は、「自衛戦争の場合であっても、国の交戦権は認めない、ということだ」と、きわめて自然で、常識的な結論へと導く議論を展開する。
「憲法押付けられ論」への反論や、武力による「防衛」論の成功率が五割以下だという「計算」などの叙述もユニークである
日米安保条約と沖縄の問題
本書は日本国憲法を論じたものであるから、日米安保条約についての詳しい叙述ではないが、しかしそれに触れている論が含まれていることは重要だ。本書とは別の論の中で、著者は、「平和憲法を守る運動は強い。米軍基地が特定の地方に移設されないための運動も活発だ。それと比べると、反安保運動は極めて小さい」と指摘し、「安保抜き平和論」を批判して、それを「逃避平和主義」と呼んでもいいだろうと主張している。(PARC発行『オルタ』8・9月号)そこでは、坂本龍一監修『非戦』(2002年)をそうした「安保抜き平和論」の代表作としてあげているが、それにかぎらず、今溢れている九条改変反対論の多くが、安保をまったく棚上げにしていることは確かであり、この指摘に強く共感する。
同様に、沖縄の問題も、九条論議の中で捨象される場合が多くなっている。第5章の中の「これからの護憲運動のあり方」では、三つの選択肢をあげた上で、とるべき第三の選択肢、「軍事力なしの外交」なら、護憲運動と同じぐらい、反米軍基地(反安保)運動に力を入れなければならないと主張、「そうでなければ、思想と行動の矛盾はなくならないだろう」と論じるが、続けて「しかし、『憲法実現』運動が速やかに成功しない(つまり、現状が続く)のなら、……在沖縄米軍基地の平等分配に反対する根拠はないだろう」とも主張する。そして、三つの選択肢以外に、沖縄の人びとには、もう一つ「復帰を考え直す」(つまり、日本から離脱する)という選択もあるとのべている。
「政治活動は市民の義務」
第8章では平等が論じられるが、その最後を「日本国憲法は社会・経済的平等の権利を保障していない。社会・経済的平等を勝ち取るために闘う権利を保障しているのである」と結び、第9章の「政治活動は市民の義務」へと続ける。
そこにも、数々の重要な指摘が続く。「政治運動が生産活動から消費活動に変えられる」という歪みの問題や、民衆の中にある「無力感」や「あきらめ」が、「事実を客観的につかんでいる感覚」となって「公的絶望状態」が生まれてくる現象の考察などである。さらに第11章での「無関心」についての言及にも、ハッとさせられる。「政治活動家(私も含め)は『人びとが無関心だ』と批判するが、無関心を許さない全体主義のことを思い出すと、無関心権はきわめて重要な権利だとわかる」と著者は言う。
第9章では、「公的絶望状態」を逆転させ「公的希望状態」への切り換えはどのようにして起こるかの考察に進む。「社会を揺らす政治運動は稀にしか起こらない」のだが、「しかし、潜在的な可能性としていつでも存在するのだ。その潜在的な可能性がいつも裏にあるということが、もっと小規模の社会運動の力にもなる」と著者は言う。
今、さまざまな地域で、さまざまな活動に従事している人びとが、ともすれば無力感、絶望感にとらわれそうになることもあるだろう。そのとき、ぜひ本書の、この言葉に戻って考えてみてほしいと希望する。
最後に私事で恐縮だが余談を一つ。私の母は今94歳で存命中だ。先日、訪ねて会話をいろいろ交わしたが、その中で母は「長生きしていると、よかったなと思えることもたまにはあるね。一番のことは、ベルリンの壁の崩壊をテレビで見たことだ。近づくだけでも射殺されるあの壁がなくなることは容易ではないと思っていたのに、それがアッという間に崩されてしまった。ああいうことは滅多に体験できるものではないね」と言った。正直、私は、その感想に驚いたのだが、「社会を揺らす政治運動」は、「潜在的な可能性としていつでも存在する」という著者の言葉を読んで、それを思い出した次第だ。
吉川勇一(よしかわ・ゆういち、市民の意見30の会・東京)