hon-small-green.gif (121 バイト)   図書紹介と感想――小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』

 以下は『季刊 運動〈経験〉』 (反天皇制運動連絡会編集・ 軌跡社発行) 2003年冬号の「本を読む」というコラムに書いた文章です。

小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社刊 定価 6,300円+税)

吉 川 勇 一

 1000ページに近い大著である。それに書名にある「愛国」という言葉だの、その字体(太字教科書体か)だの、そして天皇裕仁が原爆ドームの前の大群衆に帽子を振る写真といった装丁などから、一見、右翼を論じた書物かと思え、すぐ手に取る気持ちになれないかもしれない。だが、「戦後日本のナショナリズムと公共性」というサブタイトルからもわかるように、これは戦後の思想史についての労作、力作である。

第二次大戦中と戦争直後の丸山眞男と大塚久雄の思想を解析、詳述した第2章「総力戦と民主主義」の最後で、著者はこうのべる。……丸山や大塚の思想は、戦争体験から生れた「真の愛国」という心情のもとに、多くの矛盾する理念が束ねられていた、いわばパンドラの箱であった。そして戦後思想の以後の流れは、戦争の記憶が風化してゆく中でそこに含まれていた多くの思想潮流がしだいに分裂し、「民主」と「愛国」の両立が崩壊してゆく過程をたどることになるのである。…… こういう文脈で語られる「民主」と「愛国」が本書のタイトルとなっているのである。

この時期の一部でも社会的運動に加わったことがある人ならば、本書は、自己の活動をあらためて検証する契機となるだろうし、この時期をまったく経験していない若い人びとにとっては、戦後思想を評価するにせよ、批判するにせよ、本書によって根拠のない思い込みによる歪みを避けることができるだろう。記述は、「序章」で述べられているように、一般の読者の読みやすさが優先されていて、決して難解なものではない。お薦めできる書物である。 

著者は、敗戦から1955年までを「第一の戦後」とし、それ以降を55年体制と高度成長に象徴される「第二の戦後」として、70年代初頭まで――運動で言えば、全共闘とベ平連まで――の戦後思想を検討する。「結論」の章で著者は「第二の戦後」が終わる90年代以降の論者、加藤典洋、福田和也、橋爪大三郎、佐伯啓思らの説が、「事実無根の主張」であったり、批判の対象としている「戦後知識人」の説の完全な読み違えをもとにしているものであったりすると断定する。本書はその事実無根の主張や読み違えが生れてきた根底にある事情を、事実に即して徹底的に論述したものである。 

そのために著者が用いた方法論が、まず「序章」でのべられる。ここの後半は抽象的な論であるため、理解しにくいかもしれないが、「研究上の手法に関心のない読者は、序章の以下の部分はとばして、先に進まれたい」という著者の勧告に従ってとばしても確かに差し支えないだろう。具体的な以下の各章を読み進めば、おのずと本書の手法は納得できるはずだ。要は、戦後の日本思想史を論ずる場合に、論ぜられた時期、時期によってそこで用いられている用語に含まれる意味、内容、感情が異なり、変遷しているのに、論者はその時代の「心情」を理解せずに、論者の理解している意味だけからその用語をとらえるために、それらの議論が、暗黙の前提としている「戦後」のイメージのほとんどが誤ったものになり、まったくの見当違いな論を展開することになってしまうというものだ。以降の各章では、丸山、大塚をはじめ、渡辺清、中野重治、徳田球一、小泉信三、阿部能成、荒正人、平野謙、福田恆存、石母田正、矢川徳光、宗像誠也、竹内好、吉本隆明、江藤淳、鶴見俊輔、小田実といった多くの戦後思想家の主張や、共産党、日教組などの論調が、個人の場合にはその生い立ちにまでさかのぼって考察され、それぞれが用いている言葉――民主、民族、愛国、近代、国民、国家、市民など――に付与されている意味、内容、感情が厳密に腑分けされ、その変容がたどられてゆく。

その際、著者は、戦後思想家が残しているそれぞれの膨大な文献から、多くの引用をしていくのだが、この引用は無理なく本文の記述の中に位置づけられ、読むものを納得させる力を持っている。

とりあげられる戦後の課題も、憲法、非武装中立、講和問題、近代文学論争、国民文学論争、富士宮の村八分事件、60年安保闘争、「平和と民主主義」批判、全共闘、ベトナム反戦運動と実に多岐にわたる。(重要な沖縄問題がないのは、それへの無視ではもちろんなく、前著『〈日本人〉の境界』で論じられているからだ。ただし、私としては、スターリン言語学論文と歴史教育問題との関連などがとりあげられたのだったら、中ソ対立の影響と原水爆禁止運動の分裂、共産党の50年分裂と党内抗争および内ゲバ・リンチなどといった問題、そして中国文化大革命と新左翼のそれに対する共感などは、戦後大衆運動や思想に大きな影響を与えただけに、項目としてとりあげて論じてほしかったと思う。) 

私は、1931年生まれ、敗戦は中学3年生のときだった。大学2年のときに朝鮮戦争が起こり、共産党の分裂による学内の対立の狭間で悩み、山村工作隊まがいの調査活動をやったりしたのち共産党(所感派)に入党、講和・安保条約の発効に反対するストライキの責任者として退学処分、わだつみ会の常任として村八分事件にもかかわり、そのあと日本平和委員会の常任として60年安保闘争に参加、原水禁運動の対立・分裂の中で共産党を除名処分され、ベトナム反戦運動に参加する。こうした自分の過去を重ね合わせながら読んでゆくと、当然ながら、さまざまな思いが広がる。運動のさなかにあってはまったく見えなかったことも、本書ではずいぶん教えられた。しかしまた、欠けている考察もあるのではないかと思えたところもいくつかはあった。 

ここでは、その一つ一つをとりあげることはとてもできないので、2点だけに触れてみよう。

一つは、60年安保闘争の問題だ。その論述はおおむね納得できるものだが、ただ、あの闘争を支えた大衆の心情の中に一種の保守意識があったはずだと思えるのだが、本書にはその指摘はない。著者は第14章の中で、高度経済成長によって吉本隆明の生活が安定してゆくとともに彼の「大衆」観が変化してゆくことを指摘し、59年になると、吉本はそれまでの主張とは違って日本社会の「後進性」を否定するとともに、「大衆」は生活を守るために政府の戦争スローガンを拒否すると主張するようになった、と書いている。こうした吉本の「大衆」観の変化への注目は重要と思うが、しかし、この「大衆」観は吉本一人の主張ではなく、事実として60年前後の大衆の状態を反映したものだったと思う。つまり、電気洗濯機を購入したという吉本家だけのことではなく、敗戦直後の大変な窮乏の中から営々と努力を続け、ようやくどうやら人間らしいと言えそうな暮らしを手にしつつあった一般大衆が、岸内閣の強引な安保改定強行採決を見るとき、そこに東条内閣の姿勢をオーバーラップさせ、このようやく手にしたささやかな幸福を二度と戦争によって奪われてなるものか、という反応を示したことが、あの60年の大規模な運動の根底にあったはずだと思う。私自身の家庭でも、必死で11人もの家族からなる家庭を支えてきたサラリーマンの父親が、夕食のとき、たまに1本だけ取り出した冷えたビールを、実にうまそうに味わいながら、岸はひどいな、とつぶやいていた姿が忘れられない。この意味での大衆、当時の市民は、今ある生活を守りたいという「保守的市民」という側面をもっていたと言えるだろう。

それに対し、60年代後半以降のベトナム反戦運動の中の「市民」は、とくに69年〜70年の70年安保闘争以降の「市民」は、その生活を守るべきものとしてではなく、運動の中で変えてゆくべきものとして捉えるようになる。そのとき、60年当時の「市民」の概念を拾い上げて掲げるようになるのは、著者も指摘するように一つは警察側であって、「一般市民」という言葉までつくって「ベ平連がデモ行進をしております。一般市民の方はこちらに来てください」などと規制するようになった(791ページ)のだし、また、マスコミも、ベ平連など「市民」運動は、というように市民にかぎ括弧をつけて表現し区別するようになる。ベ平連側では、小田実は、「よい市民」と「わるい市民」の区分け、武藤一羊は「ベ平連市民」と「自警団市民」の分裂などと表現して、「市民」というこの当時双方の側から使われていた表現の内容が分裂していることを指摘していた(『資料・「ベ平連」運動』中巻224,228ページ)。このときベ平連側が使っていた「市民」は、吉本が60年に言おうとした「市民」ではなく、また、ベ平連の発足当初、「橋のたもとで暮らす人、大きなブルドッグ飼って暮らす人、でも、平和が一番だ」という歌を何の抵抗もなく歌って行進していた「ふつうの市民」でもなくなっている。鶴見俊輔のいう「市民」が、すでに1960年のときから「丸山眞男や福田歓一などが唱えた国民主義的な『市民』とは異なり、『国家』を拒否するものだったこと」は著者の指摘するところである〈本書730ページ〉。

こうした脈絡でいうと、後期のベ平連も60年「市民」への批判をもったわけで、現状維持の論理としての「平和と民主主義」への批判に加わったと言える。とすると、本書563〜6ページの「『平和と民主主義』への批判」にあげてあるその背景や理由だけでは一面的に過ぎると言えるのではなかろうか。 

第二は、ベ平連に関する考察についてである。著者は、第16章の「注(1)」の中で、「ベ平連の活動の記述については最低限にとどめた。ベ平連の活動や内情、メンバーの一九七〇年代以降の動向に詳しい運動関係者には、本章の記述はやや概略的かつ公式的と感じられるかもしれない」とあらかじめ弁明し、また、「本章の対象は、鶴見と小田のナショナリズムおよび「公」をめぐる思想展開であり、彼らの思想がベ平連(とくに初期)の活動といかに関連したかであることを付記しておく」と断っている。だから、記述が「概略的かつ公式的」というつもりはない。私の運動の仲間である日蓮宗のある僧侶は、本書を読んで「『ベ平連』でおもしろかったのは、鶴見→アメリカ哲学、小田→ギリシャ哲学が背景にあるというところでした。現代と古代のデモクラシーのベ平連への影響は興味あるテーマです」と書いてきた。ベ平連の思想を論ずるのに、まず鶴見、小田の二人を取り上げることに私も異存はない。だが、それではどうしても落ちてしまう部分が残る。それは、ベ平連運動を構成した要素の一つとしての「共産党除名者」(あるいは離党者)グループの存在である。私がその一人であることは本書の中でも触れられているが、私のことはおいて、武藤一羊、栗原幸夫、花崎皋平、いいだももといった人びとのベ平連に与えた影響は無視できないと思う。ベ平連が広い意味では「新左翼」勢力の一部とされながら、しかし新左翼勢力の中心であった多くの党派や全共闘などと違った傾向を持つのは、鶴見・小田の思想とともに、これらの人びとの影響も大きかった。地方のベ平連グループでも、札幌、静岡、金沢、京都、大阪、福岡などの有力グループの中心にはそういう人びとがいた。 

それと関連して、本書の中で戦後知識人が持った共産党への嫌悪感が、「獄中非転向の神話を厭わしく感じ」たから(本書635ページなど。これは重要な指摘だ。だが、同時にそれは、戦後の共産党系知識人の党への無批判的盲従の根拠ともなった)、あるいは吉野源三郎の平野義太郎嫌いに見られるような戦時中に戦争協力に熱心だったマルキスト知識人への不信(467ページ)から生じた、とされているように思ったのだが、それだけでは不十分なように思う。戦後の共産党に一貫して見られるその無謬性の主張、そして過ちや失敗の原因をすべて一部の除名処分される指導者の責任だけに帰するやり方、また、異なる意見を持った党員への異常なまでの攻撃、処分なども、共産党の力を認める知識人の多くを離反させる原因であったことも確かで、その意味でも、すでに述べたように、共産党の50年分裂と党内抗争および内ゲバ・リンチなどといった問題が戦後思想の一つのテーマとして取り上げられるべきだったと思うのである。 

なお、本書に付けられている「注」のことにもふれておきたい。「注」だけで121ページ、1700件を超えるのだが、これは単なる出典を示すものだけではなく、その箇所についての著者の補論の形をとる長文の注も多くある。第13章の「注(18)」で、鶴見俊輔が1970年前後に「大正」を再評価するようになったのは、学生反乱の「戦後民主主義」批判に対処した、「ある意味では一時的なものであったといいうる」という指摘を読んだり、あるいは第14章の「注(27)」で、吉本隆明が、1991年に柄谷行人から吉本の兵役免れを指摘された(と吉本が思い込んだ)ことに対し、1999年の『私の戦争論』で反論を試みていることをあげて、この問題に関する吉本の「傷痕の深さが感じられる」とあることなどにふれると、自分が気がついていなかったこと、知らなかったことを、本文だけからでなく、こうした「注」でも教えられて、何かたいへん得なおまけを貰ったような気持ちにさえなったのだった。 

以下は、本書の内容と直接関連することではないのだが、著者の言う「言葉」「表現」と「心情」ということに関連して、最近感じていることを最後に記してみたい。

1月18日、アメリカ、イギリスをはじめ全世界25ヵ国(1月15日現在でわかっているもの)で行われるイラク攻撃反対の行動に呼応して、日本でも東京の日比谷ほか多くの都市で集会やデモが行われる。東京では、多くの市民団体が連合して活発な準備を進めている。昨日15日にもその最終事務局会議が開かれ、私も顔を出した。そこでの若い人びとの積極的な活動ぶりには目を見張らせられ、私は、あの5万人の参加者があった1969年6月15日の共同行動の準備会の熱気を想起した。

『〈民主〉と〈愛国〉』のベ平連の記述の中で、著者は、1964年から国際電話が一般に自動回線で利用できることになったなどの「技術の進歩」を、ベ平連が活用したことふれている(775〜6ページ)が、もちろん、今ではインターネットである。この準備会から日々送られてくるメールや、そこが運営するホームページの情報量には圧倒される、と言うよりも、私などは、いささか辟易ぎみである。

そこで気がつくのは、この運動の中で使われている用語の問題である。まず、「デモ」という言葉が使われない。使ったからといって批判されるわけではないが、言われているのは「パレード」なのだ。ホームページで紹介されている18日の東京以外の各地での行動を見ても、「デモ」という用語は、東京・福生公園で行なわれる横田基地デモと名古屋での「ピース・デモ」だけで、ほかはすべて「パレード」「ピース・ウォーク」「街頭ウォーク」等々である。

東京での第一回準備会では、この催しの名称が議論されたが、ある若者から出された「ピース・フェスチバル」はさすがに賛同者が少なく退けられたが、30年前だったら何の抵抗感もなく受け入れられた「共同行動」「反戦行動」(その一つ前の時代なら「統一行動」「一日共闘」)などではなく「ピース・アクション」に決まってしまった。これも全国的傾向である。

私は家に帰ってから、parade を大英和辞典で引いてみた。中期フランス語が語源で、「1 行列, パレード, (示威)行進;[集合的に]行進する人たち  2 見せびらかし, 誇示;壮観  3 閲兵観兵式;[集合的に](閲兵式で行進する)軍隊……」とあった。「示威行進」という意味があるのだから、「デモ」と同じなのかとも思ったが、『広辞苑』第五版での「パレード」は「@祝賀や祭りの華やかな行列・行進。A閲兵式。」とある。日本語になると、だいぶ違うニュアンスを持つようになっているのだ。いやしくも何万という死者の出ることが予想されるイラク攻撃に反対する行動なのだから、「祝賀や祭りの華やかな行列」などではなく、「デモ」〈示威〉だろう、と私などは思うし、私とほぼ同世代の仲間の中にはもっと反発を示して「行く気がしなくなる」とまで言う人もいる。なぜ、この若い人びとは「パレード」や「アクション」という言葉をあえて選ぶのだろうか。

 今年早々、60年安保闘争の中で生れた「声なき声の会」の創立者、画家の小林トミさんが72歳でなくなられた。お通夜や葬儀に参加して、私は自分たちが力を注いだ60年〜80年の反戦闘争がこれで一つの区切りが画されたという思いを抱いたのだった。

そして、今1月18日の対イラク攻撃反対の行動に集まっている若い世代に、私たちが運動に使った言葉の一部をそのままでは引き継げなくなっており、彼らもまた、まだ自分たちの抱く心情を適切に表現する言葉を生み出しえていないのだと思ったのだった。

ベ平連が生れた当初、私たちは、それまでの「国民的平和運動」などという表現(大規模に展開された原水爆禁止運動などはそう呼ばれた)を意識的に退け、「市民による反戦運動」と自称した。これに対し、既存の集団からは「ベトナム人民が解放戦争を戦っているのに『ベトナムに平和を』などという表現は適切でない」「ベトナム人民連帯」「ベトナム人民に勝利を」と言うべきであるというような批判も受けた。しかし、「反戦市民運動」や「ベトナムに平和を」という表現は、それまでになかった新しい運動を作り出すのだという意気込みの私たちにとっては、適切であり、必要な表現だと考えていた。

そう思い返してそれを重ねてみるとき、「フェスチバル」は勘弁してもらうとしても、「パレード」には我慢して、私はこの「パレード」デモを歩くことにしている――この若い人びとが、今の時代にふさわしい新たな運動を力強く創出し、そしてそれを表現する適切な言葉も生み出しててくれることを強く希望しながら。(2003.1.16)

〈吉川注〉 私の購入したのは第1刷で、その後1月中には4刷となっているので、その後の版ではすでに訂正されているかもしれないが、すくなくとも第1刷では、巻末の注に誤りを見つけた。
 945ページ上段冒頭にある第16章の注(133)のなかで、「ベ平連に参加していた浪人生の笠原芳光は、……」という記述があるが、笠原芳光さんは、浪人生ではなく、当時同志社大学宗教部主事で、牧師さん、京都ベ平連の中で鶴見さんらと一緒に行動されていた中心メンバーのお一人だった。
 また、この笠原さんの文の題名が同上の注では「個人という権利」とされているが、『資料「ベ平連」運動』上巻には「個人という原理」となっている。