news-button.gif (992 バイト) 8. 「 全学連OB健在なり(『文藝春秋』1965年5月号に掲載)

 以下は、今読み返してみると、実につたない文章で恥ずかしいが、最近、学生時代の活動仲間が集まる会合があり、そこで当時の話がいろいろ出た。そして、それぞれが知っていることでも、共有されていない経験や情報がかなり多いことに気がついた。それで、これも再録することにした。

全学連OB健在なり
 
安保以後の全学連の諸君よ、なぜ君た
  ちは自己の信念に忠実ではないのか?                

                                                  吉 川 勇 一
                                                              (元東大学生自治会中央委員会議長
                                                                現日本平和委員会常任理事)

 
警察手帳事件の裁判

 三月十三日のことだからまだ幾日もたっていない。私はいかめしい煉瓦づくりの最高裁判所大法廷の傍聴席にすわっていた。それよりほんの数日前に、名古屋高裁でおこなわれた吉田翁のやり直し裁判は、テレビのライト、写真のフラッシュ、満員の傍聴者と、大にぎわいのようだったが、この日の大法廷は傍聴の人影もまばらで、外套を着ていても寒さが感じられたのも、前夜来の大雪のせいだけではなかったようである。
 入口にはその日の裁判についての掲示がかかっている。横田喜三郎最高裁長官以下十二名の裁判官全員の名が並び、その下に「暴力行為等処罰にかんする法律違反事件、被告人千田謙三」と記されてあった。
 この事件は、「第一東大事件」、「ポポロ座事件」あるいは「警察手帳事件」といった方が判りやすいかもしれない。
 しかし、この警察手帳事件も今から十一年も前のことになった。若い人びと、とくに今の学生諸君の中には、御存知のかたはむしろ少ないかもしれない。現にこの日傍聴に来ていた「東大新聞」の学生記者君も、詳しい経緯は御承知ないようだった。
 簡単にいうと、数年にわたつて東大に入りこみ、学生自治会やサークルの活動家はもちろん、教授の思想傾向や交友関係までもスパイしていた三名の本富士警察署員が学生に摘発され、その警察手帳に記されてあった戦前の特高警察そこのけの内容が.バクロされ、果ては衆参両院にまでとりあげられて重大な社会問題になった事件がそれである。
 ところが、学問の自由と学園の自治をふみにじった当の警察官は罰せられず(それどころか、そのうちの一人は出世(!)して警視庁勤務となった)、この憲法違反を摘発した学生が、何と「暴力行為等処罰にかんする法律違反」の名で逮捕され、十一年のちの今まで延々と裁判が続けられているのである。
 幸い一審、二審とも無罪となり、そこでは刑法学上にもよく引用されるほどの「名判決文」が出されたのだったが、それでも検察庁はあきらめきれず、最高裁へと上告した結果が、現在の公判なのである。
 最高裁が口頭弁論を開くというのも珍しい。もしかすると二審判決を破棄して差戻しの危険性も考えられるのではないか、そんな心配もある裁判である。
 大学管理法が一応引込んだなどといって安心していられては困る。これが有罪になるということは、大学の自治への警察権力による公然たる干渉、学問の自由への圧迫が認められるということになりかねないからだ。

  学生運動の老兵

 被告の学生――といっても、それは十一年前の話で、今ほ秋田県横手市の市会議員さんだが、この千田謙三君は大学の同級生。学部こそ、彼は経済、私は文学部と違ってはいたが、どちらも自治会の役員をして、同じ釜の飯ではないが、ともにコッペパンをかじり、東大病院に二百CC八〇〇円也で血を売っては藁半紙を買いこみ、ガリ版を徹夜で切って、翌朝登校してくる学友に校門でまくビラをつくった仲である。そんなわけで、私は今度の最高裁の傍聴にも出かけていったのだった。
 裁判の休憩中、求められるままに「東大新聞」の記者氏に当時の話などをしてあげたが、写真をとらせてくれ、といわれた私は多少あわててそれをことわった。
 全学連書記局にいた当時、小菅へ八十日ほど入れられた時の栄養障害のせいか、以来髪の毛がめっきり薄くなり、写真が苦手になった、というだけの理由からではもちろんなかった。
 昔の事件の模様を今の学生諸君に知ってもらうことは意義のあることだし、ましてやこの事件は単なる歴史上の出来事ではなくして、大学管理法の問題などと関連して、今後の学園の自治、学問の自由に由々しい結果を及ぼす判決が出るかもしれぬ現在の問題なのだから、いささかなりとその事情を知るものとして後輩諸氏に伝えることは、責務でさえある。
 しかし、私個人としてほ、平和運動の常任には身をおいているものの、今の全学連幹部諸氏と共通の言葉をさがすのに全く苦労をするようになった全学連OBで、マッカーサーではないが、消え去った老兵みたいな存在である。十一年も前の自治会議長の写真など、何の意味もないだろう、と思ったからであっ
た。
 しかし、その学生運動の老兵が、こうした一昔前の話を書くのは、実はそれに何がしかの意味があるかもしれない、と最近考えた。というのは、少し前、何冊かの週刊誌やラジオ番組などが、安保闘争当時の全学連指導者の何人かが、右翼、反共主義者の田中清玄氏から巨額の資金を受けでおり、その後も就職 のあっせんまでされているという記事を報道したこと、それによって沢山の誠実な学生諸君と、また今は社会に出ているが彼らの指揮の下に国会へつめかけた当時の真剣な学生諸君が、学生運動指導者一般にたいして非常な不信感をもち、自分自身をも深く傷つけているという話を聞いたこと、があったからである。
 前から多少の噂を耳にしてはいたが、これほどはっきり御本人の談話までのせられては、正直私も驚いたし、あきれもした。これら諸君には私は何もいうこどはない。
 しかし、こうした事実があかるみに出されたからといって、多くの誠実な学生諸君、あるいは真剣に学生運動の戦列で活働してきた人びとへ、さらには広く世間一般の人びとが、自治会幹部一般や、ひいては、学生運動一般にまで不信を抱かれては困るのである。
 第一、何で今この時期に、あんな.バクロがされたのか考えてみることも必要だろう。多くの国民の疑惑をおしきって強引に日韓交渉を進めてきた政府が、いま韓国の政情不安によってようやく窮地に追いこまれようとしている。この時期を捉えて、もしも今、あの安保の当時に国会周辺を圧したような何十万というデモが組織され、池田・大平の責任追及、日韓交渉打切り要求の叫びをあげたとしてみたまえ。政府が重大な危機に直面することは目にみえている。
 ところがである。かんじんの国民運動の側はどうだろうか。総評、社会党はすっかり地方選挙に頭をつっこみ、それが終るまではデモどころではないといった有様。原水協は原水協で統一が失敗、役員総辞職のまんま。残る青年・学生運動は? それ、そこへも不信と疑惑の種をまけ!……かげで誰かのほくそ
笑み。そんなことまで想像したくなるではないか。
 もしもこれで、当時の学生諸君をはじめ、今の学生諸君までもが学生運動に自信をなくし、指導者の堕落と裏切りに落胆し、自己嫌悪にまでおちこんだとしたら、それはあまりにもみじめすぎるではないか。
 学生運動を嘲弄する人びとは、よく「卒業後のことをみてみろ」という。また「学生運動出身者は分留まりが悪い」などということもよくいわれる。たしかに脱落していった仲間もいるし、互いに傷つけあって、運動の表面から消えていった仲間も少なくない。
 しかし、こういう人びとと、反対勢力から金をもらって平然としていられる諸君とは区別する必要があろう。彼らは決して嘘をつきはしなかった。自から正しいと信じ、自己の信念に忠実に運動にとび込んだのだし、多くの学生とともに悩み、ともに苦しみ、そして、闘いの戦列から離れた今でも、真剣に考え、悩み、生きぬいている誠実な人びとである。これは決して裏切りではない。そして当時結ばれた絆は、十年たった今でも固く結ばれたままである。
 だから東大事件の公判ということになれば、共産党員も、かつての党員も、ともにはせ参じる。現に私に公判の日取りを電話で知らせてきてくれた友人も、かつて東大でさかんに活動し、その後胸をやんで長く療養生活を送ってきたS君である。
 私たちの仲間からは、裏切り者はほとんど出ていない。だが、一度だけ私も一寸びっくりさせられたことがないではなかった。
 東大ポポロ座事件より二年ほどあと、全学連に入りこんだ偽学生スパイを摘発したことと関連して、私と私の同僚三人が逮捕され裁判にかけられたことがあった。(私は読んでないが大江健三郎氏の「偽証の時」のモデル事件だそうで、映画化もされたということだ)この時の被告の一人にS君という東大国際関係論の秀才がいた。
 この事件は三年の裁判ののちに無罪が確定し、私は八〇日間の小菅拘留の代償として一万なにがしの刑事補償金をもらったが(弁護士へ払う謝礼に満たなかった!)、この事件の少しあと、たまたま、中央公論誌上で、辻政信氏が左翼学生数名を連れて世界漫遊に出かけたという手記をみつけた。その数名の中
にS君の名を見出したのである。
 しかも辻氏は、その文のなかで得意気に、この左翼かぶれのS君は、東独の現実を見てショックを受け、これまでの浅はかな考えを恥じ、前非をくいて翻心を誓ったと書いていた。まさか! とは思ったが、こう堂々と活字にされるといささか不安になった。
 だがまもなく事実は知れた。S君はドイツで辻氏と別れ、なが年の念願であったフンボルト大学(東ドイツ)へ留学、今でも現地で御活躍中である。辻参謀のハッタリもこうなると底の浅いものであった。

 RP反対闘争の闘士

 話はえらく前後するが、私が東大へ入学したのは昭和二十四年。レッドパージの嵐が日本を吹きまくった。早稲田であげられたのろしはたちまち全国の大学へと拡がり、私たちも試験ポイコットという非常手段に訴えた。これが私の受けた学生運動の洗礼である。戦術の巧拙についてはいくらでも論議があろう
が、とにかく、レッドパージの嵐も、ついに大学だけには吹きあれることが出来なかったことは、事実であった。
 まだ一年生であった私は、九月二十八日、早稲田大学構内の決起大会へ下駄ばきで出かけていった。夕闇のおとずれた構内に坐りこんだ私たちの前の大学本館ベランダヘ、大柄な学生が現われて大演説をぶちはじめた。もう一つ一つの言葉までは覚えていないが、とにかく、偉い人だなアと感心したことは覚えている。早大全学協議長と名のるその大先輩の指示のままに、本館総長室前までなだれこんだのはよかったが、ふとふりかえると大変、入口をはじめ本館周囲はすっかり早稲田署の警官に取り囲まれていた。真暗な校庭を、切れた鼻緒の下駄を手に、はだしで逃げまわってようやく高田馬場駅へたどりついた時は、汗をびっしょりかいていた。
 この時のベランダの弁士が、いま原水爆禁止日本協議会の事務局長をしている吉田嘉清氏である。彼は、安井理事長が辞任したあとの事務局を守り、ようやく地方からもり上ってきた運動統一への強い要望にそって、原水協の活動を再開させるために、昼夜、東奔西走を続けている。
 原水協と同じ建物の中に、私の属する日本平和委員会の本部がある。ここ数年のうちに会員を何倍にもふやし、活発な基地反対闘争を続け、昨年モスクワの軍縮平和大会に百人もの大代表団を送るなど、いまや日本平和運動の先頭に立っているこの団体の事務局長も、またかつての全学連の闘士、熊倉啓安氏 である。
 彼が大学へ入った頃は、合格者の発表から入学式の頃ともなると、大学構内に一斉に各学内団体やサークルの新入生歓迎の掲示がはり出される。中には「合格者中の党員は至急どこそこへ連絡せよ、共産党東大細胞」とか、「反戦学生同盟員は直ちにどこそこへ氏名を報告されたい」などという掲示も大っぴらにはり出されていた。
 入学式をまたずに合格発表から直ちに本郷へ登校(?)して活動を開始した熊倉氏は、同僚の新入生活動家がはじめて自治会室に顔を出すころには一日の長どころか一週間の長を得て「先輩格」となっていた。
 「君は二十五番教室でビラをまき給え」
 「君は……ゼミで演説をぶて」
 堂々と指示する彼に同僚諸君はまったく新入生とは気づかず、あとでひどくうらまれたとかいう武勇伝の持ち主でもある。
 若干三十五歳の平和委員会事務局長も、平和運動に入ってすでに十五年、いまや原水禁運動、平和運動の大ベテランであり、総評、社会党の大幹部とわたりあう様は、かつての東大グラウンド地下の全学連本部での活躍ぶりそのままである。

  故矢内原総長と高橋英典

 吉田嘉清、熊倉啓安氏などと同期の人に、高橋英典氏がいる。初代の全学連書記長である。高橋氏については、故矢内原東大総長もこう書いている。
「学生運動と接触してきて思い出す学生ですが、私が経済学部長をしていたときの高橋英典君、彼が全学連の書記長、経友会の委員長で、私が学部長で交渉相手でした。非常に立派な人物だと私は思っています。嘘をいわないですね。ちゃんと約束をして、自分のできることはできる、やることはやると約束し
て、言葉に信用ができたのです……」
 矢内原総長はそのあと、彼の消息を聞かないがどうしているかと思っていると書いておられた。私は手紙を書いて、高橋氏は千葉県T町の町会議員をやりつつ家業についていることを知らせた。矢内原先生からは鄭重な返事が来た。
 一度先生のうちに遊びにいっていろいろと話をと思っているうちに重態の報を聞き、続いて訃報を受けてそれも果さずにしまった。東大の安田講堂であった一般葬儀に遅れてかけつけ、取片付け寸前の先生の写真に頭を下げてきたのがお別れだった。
 少々脱線したが、この初代全学連書記長も健在である。今度の地方選挙では、彼は町会議員を辞し、保守派の現町長と一騎打ちをいどんだ。正真正銘のガラス張りの公明選挙をやってのけ、費用は僅かの十数万円也。善戦善闘したが、遂に有権者一万数千の選挙にたった二千票の差で惜しくも破れた。相手候補 はその何十倍もの金を使ったという話。
 ポポロ座事件からふた月ほどあと、折から破防法が国会に上程されようとし、総評をはじめとする広範な反対運動が全国にまき起ろうとしていた。そろそろ満十一周年の記念日が近づいているが、昭和二十七年四月二十八日、この日、講和・安保両条約が発効した。
 東京都学連は、この日を国辱記念日とし、弔旗を掲げ、黒枠のプラカードをつくり、両条約発効反対、破防法粉砕の決起大会を東大のアーケード前で開催した。早稲田、慶応、明治、法政、教育、お茶の水、外語など、全都の学生が続々と正門から、赤門から構内に参集した。北大、同志社大、大阪市大、横浜 国大など、全国の多くの大学でも全学ストや学内抗議農会が決行された。
 この日の東大集会で議長をしたという責任で、私ともうー人、中島武敏君という独文科の学生が、他の七名の学友とともに退・停学の処分を受けた。彼は、私の前に東大自治会の議長をしていたいわば前任者である。
 私は就任以来まだ僅か半年。学生運動に入って二年になるとはいえ、まだ他の大学の諸君まで含めた屋外の集外で演説をぶったり、議長をした経験はなく、何とも心細かった。
まわりからみても頼りなかったのかもしれない。結局、この中島君が共同議長に引っばり出されることになってしまった。一人ですむ犠牲者をわざわざふやす結果にしてしまったわけである。
 それはともかく、この中島君は、現在、日本共産党東京都委員、北多摩地区委員長、れっきとした前衛のそのまた前衛として大奮闘である。
 私は今、北多摩郡保谷町に住んでいるから、いわば彼の支配地城下にいるわけだが、近所の時計工場の若い労働者の話を聞いても、中島地区委員長の評判は至極よく、信望も篤いようである。
 先日の保谷町の町議選では、共産党候補は全員当選して議席を一挙に三倍にし、社会党や革新系無所属とあわせて、町議会の過半数を革新系議員が占めることとなった。彼の指導よろしきをえたせいかもしれない。

 
入学許可と退学通知

 私が東大に入学したのは、さきにのべたように昭和二十四年、戦後わずかに四年しかたっておらず、物資も十分ではなかった。今はどんな入学許可通知書をくれるか知らないが、その時もらったものはひどくお粗末なものだった。藁半紙の半ベラにガリ版刷りである。
 ところがそれから三年半のちに受けとった退学処分の通知書は、それに比べてまことに立派なものであった。厚手の和紙に黄色の罫線が印刷された正式の「辞令用紙」に墨で、「學部通則第十七條により退學に處する」と、当用漢字を一つも使わずに書いてあった。
 学部長から呼出されて処分決定をいいわたされ、その通知を見せられた時、あまりの立派さに感心した。学部長室から出る時、私は、
「これ、貰っていっていいんですか?」
ときいた。今度は学部長がびっくりしたらしい。眼を丸くしながら、
「どうぞ、どうぞ」
といって頭を下げた。
 その通知を手にして自治会室に引上げてきた私は、たちまち同僚の役員諸氏に吊るしあげられることになり、はじめて学部長のびっくりした理由がおそまきながら判ったのだった。
「オイ吉川、お前そんなもの受取つて来たのか?!」
「ウン」
「馬鹿だなア、受取ったら処分を認めたことになるんだゾ。突っ返してこい。それでも自分の家へ配達証明かなんかで送ってくるが、そしたらこっちも配達証明で送り返すんだ」
 ナルホド、そういうものか、と私は思った。しかし、こっちが認めようが認めまいが、もはやその日から東大の学生でなくなったことには変りない。
 もちろん処分が全く正当とは思わなかったが、学校側として、ストライキを提案し、学内デモをやった責任者を黙認しておけるわけもなく、こっちはそれを百も承知でやったことだ。何よりも、その立派な「辞令用紙」を私はほしかった。ガリ版刷りの入学許可書とともに、僅かな学生時代の記念品である。私 はとうとうそれを返さなかった。
「今後学部通則に従い、学生の本分にもとらぬよう誓います」こういう誓約書みたいなものを書いて出せば複学できる、という話もあった。でも私は復学する意志はなかった。多少の意地もあったが、何よりも、自分たちのやったことが、すべてにわたって善ではなかったにせよ、ともかく信念にもとづいての行 動であり、また自治会と全学連の旗の下に行動した多くの学友諸君に責任のあるものであったからである。
 今でも、その立派な退学処分通知書は、すっかり色が変わった哀れな入学許可書と並んで私のアルバムに貼ってある。
 ところで、この「辞令」を突っ返せ、と私にいつた友人のN君も健在である。彼は今神奈川のある中小企業の労務課長になっているが、志はいささかも変っていない。この前会った時愉快な話を聞いた。
 その町の警察署の左翼担当の刑事にN君はよびだされた。そして内密の話を聞かされてきた。
「あのネ、課長さん。おたくの会社には五人の共産党がいることは判ってるんですよ。そのうち四人の名前はここにメモしておきましたがネ、残念ながらあと一人がどうしても判らないんですよ」
 刑事君は労務課長氏にそのメモを渡してくれた。わがN課長は、冷汗を流しながらその親切と会社への御協力を謝して引き下ったそうだ。そう話してN君ほ大笑いしていた。

 
デモでの再会

 こういう全学連義士銘々伝のようなものはいくらでも挙げられる。
 思いつくままにあげてみても、電機労連(石垣辰男――早大副委員長)、全金属(大谷喜伝次――都学連委員長)などの組合の書記をしていたり、日航の労組委員長をしていたり(小倉貫太郎)、弁護士として活躍中の人(斎藤浩二――全学連中執、田口康雄――東大法学部自治委員長)、作家、評論家として(小林勝――早大中執、武井昭夫――全学連委員長、大野明男――東大教養学部自治委員長)、映画監督として(窪川健次郎――東大十六人軍事裁判事件の一人)、建築評論家として(毎日文化賞を受けた川添登――早大中執)活躍中の人、そのほかジャーナリズムに、学界に健在である。
 もちろんすべてがすべて、共産党の第一線にいたり、労働運動や平和運動の先頭に立っているわけではないが、一日一日を自己の信念に忠実に、真剣に生きぬいている人々ばかりである。そして、その楽しかったよりは苦しかったことの方が多かった学生運動の体験は、決してそれらの人びとの心から消え去る ことはないであろう。
 彼らが悩み、苦しんでいるとすれば、それは自己をも含めて、多くの学友諸君に今でも痛感している責任の念である。
 それは単に指導者だけの話ではない。かつてアーケード前での安保条約発効反対の集会に参加した多くの学友の顔を、その後、国会周辺の安保闘争デモの中に、砂川での集会に、原爆禁止の世界大会の参加者の中に、なんと多く見出したことだろう。
 去る三月三日、横須賀で米原子力潜水艦入港反対の大きなデモが行なわれた。参加者は五万を越えた。そして、何人もの旧知の学友諸君から声をかけられたが、その中に、
「あら、吉川さんじゃないの。お元気ですか」
と、声をかける女性があった。静岡の富士宮高校で起った「村八分事件」の時の活動家Kさんだった。
 この事件も古い話だ。昭和二十八年の春の参議院選挙の不正を投書した女子高校生一家を村中があげて村八分による圧迫を加えた事件で、かつて映画化もされた。私たちはその応援に出かけたのだが、この時の高校の可愛らしいお嬢さんが、プラカードをかついでデモの中にいたのだった。
「結婚して東京へ出てきてるんですの。主人と二人で参加してますわ」
 短かい立ち話のあと、彼女はデモのあとを追っていった。
 指導者だけではない。破防法反対に、安保改定阻止に、大学管理法粉砕に、青春時代の情熱を燃やした多くの学生が、社会に出ても、平和と自由のための火を燃やし続けているのである。そして、こういう同僚諸君、先輩後輩諸君が多くいるかぎり、全学連のかつての闘士の中から裏切り者が多く出る筈はない。
(『文藝春秋』1965年5月号に掲載)

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