Archive 6.
学生は死に、三菱は残った――淡路島南端のスリーダイヤ――
(三菱重工反戦一株主会機関紙『のろし』1972年4月1日号)(04/04/24に転載)
かつて、愛知県瀬戸市にある名古屋学院大学で、短い期間でしたが、講師を務めていたことがあり、かなり特殊な事情からですが、非常勤講師なのに卒論まで担当するゼミナールも受持つことになり、でミニコミ論をやっていたことがありました。その時(1972年)のゼミ合宿で、淡路島にいったとき、偶然知った「戦没学徒記念若人の広場」という施設を訪問しました。そのときの文章です。
――淡路島南端のスリーダイヤ―― 淡路島の南端、渦潮で有名な鳴門海峡をはさんで四国を目と鼻の先に見る福良の町の岬の上に、立派な建物の国民休暇村がある。今年(1972年)卒業する学生が、最後の合宿をここでやりたいというので、ゼミナールの学生諸君十数名といっしょに神戸から船に乗ったのは、二月の末のことだった。 福良の波止場から片道二十円の渡し舟で岬の突端につき、休暇村までの急な坂道を登ってゆくと、入江をはさんで向こう側に同じように突き出している岬があり、その上にかなり高い真白な尖塔が建っているのが見えた。 それが戦没学徒を記念する若人の広場の記念塔だった。丹下健三の設計だとも聞いたが、よくある忠魂碑の類いか、と思ったし、若い学生諸君もさして興味を示さなかった。明日は観潮船に乗って有名な渦を見たい、とみんなは言った。 翌日、コーヒーを飲みに入った喫茶店で読んだ朝刊に、この塔の記事がのっていた。碑の前に「永遠の灯火」という火が燃え続けているが、財産難でプロパンガス代が出ず、それを消すことになるかもしれない、ということだった。経営は一人百円也の戦没学生記念品観覧料でまかなってきたのだが、入場する人がまばらなので……とその記事は書いてあった。それで行ってみようという気になった。 そこまで行くバス路線は運行をやめていた。乗る人がいないからだという。仕方をくタクシーを使った。舗装も途中で切れて、デコボコの山道を車はガタガタはねながら、私たちを岬の突端まで運んだ。近づくにつれて、ヨ一ロッパの古城を思わせるような石造りの大きな立派な建物が見えてきた。建物のすぐ先にそびえる三角形の記念碑(上の写真)もさることながら、この建物の中に陳列してある戦没学徒の遺品の数々に私たちは胸を打たれた。 玄関を入ると、穴のあいた鉄兜を前に、その持主であり、大阪の住友化工に動労動員中、米機の空襲で戦死した十五歳の中学生の詩がかかげられていた。 芋でない 彼は、この詩を日誌に記した翌日の空襲で死んだという。学生たちは、この詩の前で動かなくなった。彼が詩にうたった芋でない飯や睡眠への激しい欲求を、今の学生たちがどれほど共感できているのか判らない。しかし少くとも、心の中を本当に歌いたいという気持ちは、彼らも幾分かは共有しているはずだった。就職の面接試験のために、はじめて詰襟の学生服を着たと彼らは言っていたから。 陳列品を見てゆくうち、私はスリーダイヤのマークをつけた身分証明書に注意をひかれた。 「三菱重工業名古屋発動機製作所学生動員課」発行の動労動員学生用の証明書だった。持ち主の渡辺哲男という名の学生は、昭和三年生まれで、三菱での空襲で死んでいなかったなら今、四十三歳。私が連れてきた学生たちと同じくらいの子供がいてもいい年齢になっているはずだった。 国家のために、そして三菱のため、住友のために、学業を捨てて働かされた中学生は殺され、そして三菱重工業も、住友化工も残った。名古屋の三菱重工は、四次防のために新設した小牧の航空機工場の作業をつい最近開始したところだ。 【右の写真は、三菱で働かされ、空襲で死んだ学生の持っていた証明書類。】入口で貰ったこの施設の案内のリ−フレットによると、これを運営しているのは「戦没学徒記念若人の広場」という名の財団法人とのことだった。だが、その役員の一らんを見てはじめ驚き、つぎになるほどと思った。会長に松野頼三、副会長に灘尾弘吉、原健三郎といった人びとの名が並んでいたのだ。 建物は立派で、陳列されている品々は、学生たちの血にまみれ、人の心をしめつける遺品であっても、それが世に知られず、訪れる人の数が減り、バス路線まで廃止され、行こうと思ったら往復千円ものタクシー料金を払わねばならず、そして「永遠の灯」が消えそうになる、というのも無理はないな、と思った。 ふたたびガタガタの山道をタクシーで下りながら、一緒に行ったゼミの若い諸君は、行ってよかった、と私に話した。 (三菱重工一株主・大学講師) 【三菱重工反戦一株主会機関紙『のろし』 1972年4月1日号】 |