13. 「朝鮮戦争とベトナム戦争――世界平和運動の対応状況から」(『 コリア評論』1968年1月号に掲載) (07/02/02)
以下は、ずいぶん昔に書いたもので、今では訂正したい評価や表現もだいぶ含んでいるのですが、運動の側からストックホルム・アピールの運動などをソ連の世界政策との関連で述べたものは、これが最初ではないかとも思い、再録しました。
朝鮮戦争とベトナム戦争
――世界平和運動の対応状況から―― (『コリア評論』1968年1月号)
吉 川 勇 一
ベトナムにおける戦争が激化の一途をたどり、マクナマラのエスカレーション戦略の階梯がハイフォン港の全面封鎖、戦術核兵器の使用、地上軍北進など、中ソの全面介入を招くおそれのあるきわめて危険ないくつかの措置を残すのみにまで登りつめている現在、これに対応する世界平和運動の状況が批判的に検討されるなかで、朝鮮戦争当時の半ば伝説的ともなっているストックホルム・アピールや、ベルリン・アピールの署名運動に象徴される「世界平和運動」の統一した行動が、あらためて想起されている。
全世界で5億、6億という巨大な数の平和署名を集めた二つの大統一行動を基礎とし、「偉大な希望が生まれました。今や人びとはだれしも話し合いをまとめることができるとみています。流血は終らせることができます。……平和の勝利は目のまえにあります。その成功はわれわれの双肩にかかっているのです」という力強い訴え(ブダペスト・アピール、1953年6月)を全世界にむけて発表した(そして事実それから一ヵ月後に朝鮮休戦協定成立をみた)あの世界平和運動の状況は、今、再現できないのだろうか、と。
以下、簡単に朝鮮戦争当時の民衆の運動をかえりみ、現在の平和運動の状況と対置してみよう。
周知のごとく、チャーチルのフルトン演説やNATO成立などで示される冷戦の激化に対応して、高価な犠牲によってかちえた平和を守ろうと組織的な運動がはじめられたのは、1949年4月、著名なフランスの原子物理学者ジョリオ=キュリーを議長として開かれた世界平和大会(パリ、プラーグ)からであった。72ヵ国から2,200名の代表を集めたこの大会は、運動を継続的、国際的なものとするために世界委員会を成立させ、翌年、それは世界平和評議会へと発展した。
ジョリオ=キュリーはこう訴えた。「戦争と平和の問題は直接に自分自身に関係した問題であります。しかし無力感をいだく必要はありません。なぜならば、同じ瞬間に、地球のすみずみで、何億という人びとが、同じ問題を提出しており、平和のために働くことによって、一人ひとりの努力を何億倍にしようとしているからです。」
こうしてはじめられた組織的な活動は、進行中の諸紛争(ギリシャ、ベトナム、インドネシア、マラヤ)の交渉による停止、軍縮、原子兵器禁止等を要求し、これらの決議をもった代表団が主要国を訪れて議会に訴えるなどの活動を行なった。なかでも1950年3月によびかけられた原子兵器の禁止を要求する訴え(ストックホルム・アピール)への署名運動は重要な意義をもっていた。多くの論文で指摘されているように、署名という行動は、自己の意志の積極的、具体的な表明であり、国境をこえた連帯の意識をたかめるとともに署名者自身を受身から能動的なものにかえる適切な形態であった。短期間のうちにこの運動は全世界で5億が署名するという未曾有の規模のものに拡がった。
この世界的運動が展開されているなかで、ごきごう50年6月25日、冷戦はついに爆発して朝鮮における熱戦に転化した。国連安保理事会は、ソ連欠席のまま、北鮮軍制裁を決定、諸外国軍隊の介入による「大国際戦争にまで発展した。戦闘地域は限られてはいたが、その激しさは第二次大戦につぐものであり、動員兵力は米軍だけで150万を記録、さらに「国連軍」と称して総計15ヵ国250万の兵力が投入されたのだった。
世界委員会は8月、プラーグで会合を開き「朝鮮戦争はもっとも危険な全面的紛争の火種となっている。平和擁護者は、朝鮮戦争を停止させるためにこれまでにとられた平和への提唱を歓迎し、支持する。……平和擁護者は、五大国代表を包含する国連安保理事会ができるかぎり速かに朝鮮問題の平和的手段による取極めを行なうことを要求する。その際、当事者双方の代表に意見をのべる機会が与えられねばならない。」と訴えた。
同年12月にはワルシャワで第2回世界平和大会が81ヵ国2,065名の代表を集めて開かれ、「平和は待って得られるものではなく、たたかいとるものである。われわれの努力を結集して、こんにち朝鮮を荒廃させ、明日は全世界をその火中に投じようとしている戦争の中止を要求しよう」という世界諸国民への宣言を採択した。
この直後、トルーマン米大統領は、朝鮮で原爆使用を考慮中と言明した(11月30日)。すでに5億の署名を集めていた世界平和運動は、この言明に大きく反撥した。イギリスの労働党政府は、このアピールへの党員の署名を禁じていたが、イギリスでの120万という署名を背景にしたトルーマン言明への世論の反撥に驚いたアトリー首相は急拠訪米し、原爆使用を思いとどまるようトルーマンに要請した。イタリアやフランスでは抗議ストや街頭デモが展開され、パリの米大使館前には数千の人が抗議におしかけたのだった。
翌52年2月、ベルリンで開かれた世界平和評議会の第1回総会は、五大国問の平和協定の締結を要求するベルリン・アピールの署名運動展開を決定した。このアピール冒頭は「われわれは、世界戦争の危険を生み出す原因についてどのような意見をもつにせよ、世界幾億の人びとの望みにこたえ、平和を強化し、国際安全を保障するために、米、ソ、中、英、仏の五大国による平和協定の締結を要求する。」とのべている。この署名運動は、ストックホルムのそれを上回る6億1200万の人ひとを結集した。
開戦後一年を経て、開城では朝鮮休戦会談が開かれることになったが、会談は難行をつづけた。1952年には細菌兵器がアメリカによって使用され、6月には水豊ダムが爆撃された。ジョリオ=キュリーは「第一回世界大会以来、今の情勢がいちばん危険である。今ほど戦争の危険がこく、大きかったことはかつてない」(52年7月ベルリン会議)と警告した。水豊ダム爆撃に世界の世論ほさらに大きく昂まった。イギリス議会では、6月から7月にかけ大論戦がまきおこり、ペヴァン、アトリーら左右両派労働党ばかりか、保守党の中にもアメリカを鋭く攻撃する意見が現れた。
11月5日、朝鮮休戦の実現を公約してアイゼンハワーが米大統領に当選した。これは、アメリカの母親をはじめ、米国内各層にひろがっていた平和への要求の一定の強さを示すものでもあった(母親たちの運動については後述)。
「世界平和運動」は、この年12月、ウィーンで諸国民平和大会を開催した。この大会は85国1,880名という参加者の数からだけでなく、広範な大衆運動としての平和運動をそれまでの行動を基盤としてはっきりと成立させたという点で、決定的な意義をもっていた。ジョリオ=キュリーは、こう演説した。「朝鮮、ベトナム、マレーで戦争がつづいている現状において、はたしてわれわれは本当に国際緊張の緩和に到達することができるのだろうか? この問題についても、平和運動はすでに明確な提案を出している。もしわれわれが、これらの戦争の原因について、それぞれの責任を明らかにしようとしたら、われわれ全員の間に一致を見ることは、恐らく不可能であろう。しかし少なくとも、停戦によって殺戮と破壊を今ただちに中止せよと要求する点では、われわれの全部が一致できるのでほないだろうか?」
この大会で示された「まず停戦を」という諸国民の要求は、翌53年、まず共産側によって受けいれられた。難点となっていた捕虜交換協定について中国の周恩来が提案をし、ソ連が支持した。ついで5月、チャーチル英首相がこの共産側の提案を認めたうえ、大国首脳会談を提唱した。6月8日、捕虜交換協定が調印され、事実上の休戦が実現した。こうして先に引用したブダペスト・アピールが発表されるのである。
こうした流れは、翌54年はじめ、五年ぶりに開かれる四国外相会議(ベルリン)へとつながり、4月からはジュネーブで中国を含めた会合が開かれ、インドシナ戦争を停止するいわゆる1954年のジュネーブ協定(7月)が締結されることになる。この年の4月、周恩来、ネール両首相によってまとめられた平和五原則も有名である。
以上は、1949年から54年までの五年間、戦後平和運動の歴史の中で第一期として区分しうる期間のごく大まかな出来事である。この期間は、組織的平和運動の成立期として特徴づけうる。まず特記すべきことは、二つの大署名運動である。それは歴史に前例を見ぬ人類の大統一行動であり、現実に朝鮮で原爆が破裂するのを阻止した大きな力となったことは否定できず、また54年のジュネーブ会議から55年の巨頭会談への道を切り開く世論形成の上で大きな役割を果したということも、過大評価ではないであろう。
そして、この大きな具体的な行動を通じて大衆的な平和運動がその基盤を確立しえたのであった。ジュネーブ会議を報道したガンサー・スタインは、この平和をもたらした真のカ――第六の大国、世論の力をつぎのように感動的にのべている。「それは、あたかも、世界中のふつうの人民たちが、見えざる、しかも力強い彼ら自身の代表を、外相たちと並んで出席させ、彼ら自身の専門家を、パレ・デ・ナシオンに派遣したかのようである。……世界の人民の見えざる代表はそこにいる。そしてもっとも力のある代表であることを証明しているのである。」
ところで、こうしたことは、すでに多くの人びとによって指摘されてきたところである。だが、もう一つ、考えてみるべき点として、このような世界平和運動の発展に、社会主義諸国、とくにソ連の政策との関連の問題がある。
運動の展開とともに、それに対しては「ソ連の陰謀」であり、署名は「共産主義者どもの登録簿である」(『ニューヨーク・タイムズ』)といった非難がたかまった。非難だけではなく弾圧も激しくなり、逮捕、投獄、なかにはストックホルム・アピールの署名を集めたというだけで射殺した国(パラグァイ、コロンビア)まであった。日本でも、米占領下でベルリン・アピールを集め、軍事裁判にかけられた東大生の事件は有名である。
ストックホルム・アピール署名者数 |
|||
社会主義国 |
資本主義国 |
||
中 国 |
22,375 |
イ タ リ ア |
1,700 |
ソ 連 |
11,551 |
フ ラ ン ス |
1,500 |
ポーランド |
1,800 |
日 本 |
650 |
東ドイツ |
1,704 |
ブ ラ ジ ル |
400 |
ルーマニア |
1,004 |
ビ ル マ |
350 |
チェコスロバキア |
950 |
ア メ リ カ |
300 |
ハンガリア |
750 |
西 ド イ ツ |
200 |
ブルガリア |
617 |
アルゼンチン |
150 |
北 朝 鮮 |
568 |
イ ギ リ ス |
120 |
|
|
オーストリア |
95 |
|
|
フィンランド |
89 |
|
|
キ ュ ー バ |
70 |
計 |
41,319 |
計 |
5,624 |
事実、冷戦のきびしい条件の下で、こうした運動に献身した人びとは共産主義者が多かった。ストックホルム・アピールの署名数5億のうち、別表の示すように、中国2億2375万、ソ連1億1551万と社会主義国だけで過半数を占めていた。
また、コミンフォルムの決議は、各国共産党の任務として、平和勢力を組織、結集するための闘争をあげていた。第1回コミンフォルム会議(1947年9月)のジュダーノフ報告、第3回会議(1949年11月)のスースロフ報告は、いずれも第二次大戦後の国際情勢が社会主義体制に有利に一変したことを指摘している。そして「国際舞台での力関係が、平和と民主主義の陣営に有利に変ってゆくにつれて、帝国主義戦争放火者は、気狂いじみた憎しみと怒りにおいやられる。米英の帝国主義者は、戦争で、歴史的発展の方向をかえ、自分の、内外の矛盾と苦しい立場をきりぬけ、独占資本の地位を強め、世界を制覇しょうと企んでいる」(第3回会議決議)と規定している。
だが、この期間、ソ連は原爆保有を表明していた(49年9月)ものの、核兵器開発の点ではアメリカにほるかに引離されており、52年11月の米水爆実験成功発表、53年8月のソ連水爆保有声明と、その差は次第にせばめられてゆくとはいえ、軍事的劣勢の不利を大衆運動でおぎないつつ時間をかせぎ、その関係を逆転させる努力を必死に払わねばならなかった。サルトルが指摘しているごとく、「孤立し、とりまかれ、敗北の可能性のあったソ連は、平和への自己の意志をたえず確認しつつ、強硬な態度をとることができた。力関係はソ連にとって不利であった。ソ連外交の非妥協性と、あえていえばその攻撃性とは、もともと防禦的なものであった。相対的な劣等性からソ連は、少なくとも外見上は、いっさいの譲歩を拒否せざるをえなかった」のだ(『スターリンの亡霊』)。
したがって、ソ連としては、ストックホルム・アピールの署名に示されたような五億の民衆の力によってアメリカの核兵器の優勢に対抗し、当面の平和を維持しなければならなかったのである。この意味で、49〜54年の世界平和運動が、ソ連に有利に作用し、客観的にはソ連外交の補完物となっていたことも確かである。
とくに、この運動の発足当時にあってはソ連外交政策の方向への追随の傾向が著しかったことは否めない。コミンフォルムがユーゴスラビアをアメリカ帝国主義の手先きとして除名するや、ジョリオ=キュリーもユーゴを非難し、世界委員会の会議から閉め出した(49年10月のローマ会議)ことなどはその例であろう。朝鮮戦争の解決にしても、ソ連外交のその時々の提案の変化につれて、世界平和評議会の方向はかなり動揺した。たとえば、50年〜52年の問、朝鮮戦争の問題はなかなか運動の中心課題とされず、中国の国連加入、大量破壊兵器の禁止、軍縮に重点がおかれていたのであった。朝鮮の即時停戦が運動の中心にすえられるのは、52年11月のウィーンにおける諸国民平和大会だったのである。
だが、だからといって、これらの運動がすべて「ソ連の策謀」であり、「ソ連や共産主義者の平和運動が、平和を目的とするものでなくて手段とするものだ」(安倍能成「いわゆるストックホルム・アピールに就いて」1950年12月)とするのは、いちじるしく事実に反する。
当初、革命運動や特定の体制擁護と区別された平和運動の特自な領域を認める点で必ずしも明確でなかったこの運動が「ストックホルム・アピールに参加した民衆の数が5億にも達し、「人民民主主義制度にたいして特別の同情をもったこともなく、現在ももっていない人びとがたくさん」(キュリー、ワルシャワ大会での演説)署名することによって、独自の論理をもって進みだしたのである。1949年の大会では「資本主義諸地域に不可避的に発生する経済恐慌」、「恐慌とは縁のない社会主義制度」という対比をしたキュリーは、50年の大会では「われわれがただ平和のなめにのみ行動するもの」であり「ある特殊な政治的または経済的制度のチャンピオンとなろうなどとは少しも考えていない」とのべるようになる。同じ大会の演説で、彼は朝鮮戦争についてつぎのようにのべている。「侵略者はだれであるかについて多くの論争をよびおこした悲劇的な紛争の事例は朝鮮戦争である。この戦争発生の起源や条件については、われわれの間にも違った意見があるが、われわれが第一に心がけなければならないことは、この紛争をやめさせるためにとられることができた、また将来とられうるであろうすべてのイニシアティーヴを支持することである」と。
こうして、イリヤ・エレンブルグのつぎのような発言が現実的意味をもってくるのである。すなわち、「戦争の支持者たちは、さまざまな国のさまざまなイデオロギーの人びとを結合しているわれわれの運動を、まるでソ同盟を擁護する運動であるかのように見せかけようとしている。私は、私自身としても、またソ連の全代表団の代表としても、つぎのように声明する必要があると思う ――平和者たちがソ連を守っているのではなく、ソ連の国民が他の諸国民とともに……平和を守っているのだ、と。」
1952年のウィーン諸国民平和大会で、世界平和運動が一応名実ともに自立した大衆運動として成立したといえるまでには、以上のような経過が必要だったのであり、大衆の行動によって運動の性格が変えられてゆく過程をこそ重視すべきであろう。
さて、最初にのべたように、ベトナム戦争の激化と関連して、ストックホルム・アピールのような国際的大統一行動の展開と、それを通じてブダペスト・アピールのような自信に満ちたよびかけを示せるような状況をつくりだすことは、今、困難なのであろうか。世界の一部には、当時の苦しいながらも確信にあふれた運動を想起する声もある。そして、それが当面不可能となっている原因を、周知の中ソ対立に求め、とくにソ連を含めた反米国際統一行動をかたくなに拒否している中国を非難している人びともいる。たしかに、社会主義諸国の分裂が、ベトナムでのアメリカの侵略行動を容易にさせ、また世界平和評議会の活動力をほとんど奪い去り、評議会は行動のイニシアティーヴを失って、昔日のおもかげをなくしてしまっている。中国の活動が、評議会を破壊する上で大きな責任があったことも事実である。(かつて中国はストックホルム・アピールの署名運動を全土でくりひろげ、2億2000万を集めた。この経過は北京の革命博物館に展示されていたが、その展示はすでに1962年には完全に撤去されてしまっていたという。)
だが、原因を中ソ対立と国際共産主義運動の分裂だけに求めるのは、あまりにも単純にすぎよう。50年代と現在とを違えているものは、単にそれだけではない。世界の平和運動の構造自体が大きく変化しているのであり、その根底には国際情勢の根本的構造変化があるのである。
たとえば、もっとも大きな違いをみせているものとして、先にはふれなかった当時のアメリカの平和運動と、現在のそれとを対比してみよう。
朝鮮戦争の解決の延引につれ、アメリカ国内での不満は次第に昂まり、兵士のサボなども起った(1952年1月19日号の『サンフランシスコ・クロニクル』紙によると、ストーマン・キャンプでは、朝鮮行きを脱れるため軽犯罪を犯す兵士の数は毎月百名にも達したという。)52年暮には、朝鮮出征兵の家族たちによってSOS委員会(セイヴ・アウワ・サンズ――我々の息子たちを救え)が結成された。SOS委員会はアイゼンハワー大統領宛に朝鮮停戦と「愛する者たちを故国に帰らせるよう」要求する署名を提出したり、また「アイゼンハワー宛のつぎの手紙の写しを二通つくり、一通を親せきに、一通を在鮮兵の友人に送れ」というような手紙による連鎖式宣伝を組織したりした。SOSの活動は53年に入って急速に拡がった。
激しい反共宣伝がある中で、この運動の展開ぶりはたしかに見るべきものがあった。事実、アイゼンハワーは、朝鮮休戦や米国青年の帰国を選挙の公約にして当選したのであった。だが、ここで注意すべきことは、アイクの「米国青年帰国」の意味する内容であった。
彼はイリノイ州での選挙演説でこうのべていた――「朝鮮戦争のため多くのアメリカ青年が血を流している。われわれがまず第一にしなければならぬことは、二千万もいる韓国人に自分の戦線を守らせるようにすることである。もし、われわれがどうしても朝鮮戦争で勝つことができなければ、少なくともわれわれの血をあまり流さないようにしようではないか。」またニューヨーク州知事デューイもテレビ放送でこう言った――「もしアイゼンハワーが大統領に当選すれば、一年以内に朝鮮戦争の十分の九までアメリカ兵を韓国兵におきかえるであろう。300万の韓国人は戦闘任務を引受けることを切望している」と。
そればかりではない。52年8月末、アメリカ在郷軍人団は、トルーマン大統領に決議文を提出し、「アメリカの兵隊に代って日本人75万ないし100万を朝鮮に送るべきである。これによって75%安上がりになる」と言い、またアイケル・バーガー中将も、かねてから「アメリカの兵隊は世界一高くつくが、日本の兵隊は安上がりだ」と主張していたのだ。アジア人をアジア人同志で戦わせよ――これは今日のベトナム戦争でもそっくり用いられている手である。たしかに安上がりだ。ベトナムでの米兵の給料は兵長で月給304ドル75セントに対し、韓国兵は37ドル47セントにすぎない(韓国『東亜日報』)。
52〜3年のSOS委員会は、こうしたワシントンの世論操作に十分に対応できなかった。日本再軍備は急速に進められたのであった。
だが、現在、アメリカで展開されている反戦運動、徴兵反対運動は、当時の運動とその性格を根本的に異にしている。徴兵カードを焼く青年たち、それを支持する家族たちは、単に自分がベトナムに行きたくない、息子や恋人をとられたくないという個人的な願望から出ているものではない。カード一枚焼くことによって、青年に課せられる処罰は、罰金1万ドル、禁固5年という重いものである。それをあえて行なう青年たちを支えているものは、個人的願望ではなく、アメリカのベトナム戦争政策、外交政策全体、さらにはそれを可能としているアメリカの社会の体制そのものに対する根本的批判であり、さらにそれと戦うベトナムの人民との連帯なのである。朝鮮戦争当時は、僅かに歌手ポール・ロブソンの活躍によってしか知られなかったアメリカ黒人が、現在の闘争の中で決定的な役割を占めていることも周知のとおりである。
ニューヨーク、サンフランシスコ、ワシントンに、数万、数十万の人びとを結集して、米国史上未曾有の反戦デモも行なわれている。
世界平和評議会が50年代後半以来、懸命に努力してきた米国内での反戦運動の昂揚とそれとの連携は、別の形で今誕生しつつある。しかし、それは、「ベトナム戦争の原因についてどのような意見をもつにせよ」というアピールや、侵略者は誰かの論争をよびおこすのではなく、まず紛争をやめさせるために」といった、かつてのベルリン・アピールの時、多くの人びとを結集しえたような方式を採用したことによって可能となったのでは決してない。1957〜60年代に生れまたSANE(健全な核政策のための全国委員会)やWSP(婦人よ平和のために立ちあがれ)に対し、世界平和評議会はこうした方法で働きかけてきたが、これらは今の反戦運動の主流にいるとは必ずしもいえない。
こうした傾向は、ひとりアメリカだけではなく、他の諸国にも見られる。現在、フランスでもっとも大きな組織力をもっているのは、依然として世界平和評議会につながるフランス平和運動全国評議会であるが、しかし、活動の面でもっとも注目をあびているのは、数学者ロラン・シュバルツを中心とする「ベトナム全国委員会」で、北ベトナムと解放戦線支持を掲げて「ベトナムのための10億(旧)フラン運動」を展開したり、サルトル、ラッセルらと組んで「国際戦犯法廷」を開くなど、ラディカルで活発な行動をみせている。一方、従来からの平和評議会は、必ずしもこの委員会と同調せず、ベトナムに平和のスローガンの下に「幅広い大衆を結集する」という従来からの方針で活動している。両者の関係は、全く同一ではないにせよ、羽田にデモをした全学連、反戦青年委員会と、それを批判する日本の「革新勢力」の関係を幾分連想させる。
さらに、ラテンアメリカ連帯会議で指導的役割を果し、高度に発達した資本主義国の運動にも強いインパクトを与えているゲバラのメッセージと、それに代表される潮流がある。
国際的に多様であるだけでなく、一国の中でもさまざまなイニシアティーヴが生まれ、ベトナム戦争解決への方向を模索しつつある。これを今、かつてのウィーン大会、あるいはストックホルム、ベルリン・アピールのような枠でくくることは、たとえ中ソが和解しようと、可能ではない。現に今年の7月、ストックホルムで開かれた「ベトナムにかんする世界大会」は、古くから併存していた多くの潮流の国際的平和運動団体の共催によって開かれたが、それはアジア、アフリカ、ラテンアメリカの運動や欧米諸国のラディカル派の運動を吸収しえずして、大きな効果はあげられなかったようである。
10月21日には、アメリカをはじめ全世界各国で大規模なベトナム反戦のデモンストレーションが行なわれようとしているが、この国際統一行動は、アメリカの「ベトナム戦争の中止を要求する動員委員会」や日本の総評などの独立したイニシアティーヴによってよびかけられたものであり、世界平和評議会や、前記「ベトナムにかんする世界大会継続委員会」がそれを支持して加わる形で行なわれる。このこと自体がきわめて象徴的である。
世界の革命運動と同様に、平和運動も、変化した世界構造に対応するような新しい次元での戦線形成が求められているのである。
(『コリア評論』1968年1月号)