12. 東京に基地があること (『世界』1971年4月号に掲載) (06/10/05)
以下は、今から35年も前、ベ平連で活動していた時代に、岩波書店の雑誌『世界』に依頼されて、東京を取り巻く国道16号線を2日間かけて回って書いたルポルタージュです。今読み直すと、文体のつたなさなど、恥ずかしいのですが、近く、「市民の意見30の会・東京」が、同じ地域を2日間かけて回る「基地めぐりツアー」を企画していることから、35年前の状況と比較してもらうことも意味があると考え、採録したものです。
原文の傍点があったところは、以下ではゴシック体にしてあります。また、原文の縦書きを横書きに直したため、一部の数字の記述を漢字から算用数字に変えたところもあります。
東京に基地があること (『世界』1971年4月号に掲載)
吉 川 勇 一
東京や大阪には環状線という国鉄の電車路線がある。最近「山手線」を「山の手線」と呼びかえるかどうかでもめているという、あれである。この環状線を一どきに全部回るという人はめったにおるまい。こういう電車の利用はそのごく一部分に限られるはずである。
電力不足が激しかった終戦直後の旧制高校生は、冬、マントの襟をたててこの線に乗りこみ、ぐるぐる何回も回ったという。明かりと暖を求めて読書するためだったそうだが、今時、そんな学生はいない。
どう考えてみたって、東京から新橋へ行くのに、上野、池袋、新宿、渋谷、品川をまわって行く人はいないし、大阪から京橋へ行くのに福島、大正、天王寺、玉造をまわる人もいるわけがない。時間と金の無駄である。
この電車と同じような環状道路という道がある。この道の利用法も同じことだろう。東京をとりまく環状何号線とかいう道路を起点から終点まで走ってみようなどというケッタイな考えをもつものは滅多にいない。風光明媚な観光道路ならともかくとして、こんな道では排気ガスと騒音につつまれてどこかおかしくなりかねないからだ。
だが、そのケッタイなことを私はやってみることにした。それも全長二五〇キロ以上の道を二日もかけてまわってみたのである。
東京湾へ飛びこむことだけを除いて、あとはどっちの方向でもよい、東でも西でも北でもいいから都心から一時間半ほど車で突っ走ってみると、日本橋の道路原標から三〇キロか四〇キロほどで国道16号線と呼ばれる道に必ず突き当る。私がまわった道がこれである。図面上の起点は横浜の桜木町だそうだが、実際には横須賀の先から発し、千葉県君津郡富津町に終る道路で、この間に、横浜、大和、町田、相模原、八王子、昭島、福生、瑞穂(町)、入間、狭山、川越、大宮、岩槻、春日部、越谷、松伏(町)、野田、柏、沼南(町)、白井(町)、八千代、千葉、市原、袖ヶ浦(町)、木更津を通り、全部で一都三県二十一市六町を結ぶ通路である。
二日もつぶしてなんでこんなアホなことをしてみたのかというと、この道路は一名「グリーン16」とよばれ「以前はさびれた県道だったが、終戦後米軍が上陸してからは一躍軍用道路″として重要幹線となり、昭和三八年には国道に昇格し」そして「その周辺、沿道にある米軍基地網もまた、上瀬谷や淵野辺といった特殊な性格を持つもののほか、あらゆる種類の基地、施設を含んでいる」(『オブザーバー』昭42・4・21号)ということを知らされたからである。
だが、この国道16号線をまわってみて気がついたこと、驚いたこと、考えさせられたことほ、米軍基地の数と種類と大きさだけではなかった。軍用道路「グリーン16」は、いまそれ以上の新たな意味と装いとをもって首都をとりまきつつあるのだと思えたのである。以下それを思いつくままに記してみよう。
国道16号線行脚の第一日を、私は東京を西に車で進んで府中、立川を通り、砂川の団結小屋のわきをすぎて横田基地正門の前まで行き、そこを起点に南下することで開始した。そしてまず第一に気がついたことは、町と町との間の距離感、いや距離のみに限らず、その地理的関係について、いかにこれまで間違った観念を自分がもっていたかということだった。
私は保谷市に住んでいる。保谷市は東京の西郊にあるのだが、それでも練馬区の一つ先きであり(実は、このさきということもおかしな観念なので、原点を国会や天皇の住所や、あるいはそれに近い東京駅においた思想なのだが)、また日頃の活動の中心は飯田橋に近いべ平連の事務所でもあり、だから、私は、東京と大宮、東京と川越、東京と八王子、あるいは東京と相模原といった関係では、漠然としたものにせよ、ある感覚をもっている。それは環状電車の駅を起点にして放射状にのびた私鉄電車や道路による方角や距離、時間や運賃といった感じなのである。だが、東京を中心とせずにそれらを相互につなぐ感じとなると、まったく茫漠として定まっていなかったのである。そこに住んでいる人なら別だろうが、たとえば区部に住んでいる人間には、狭山、立川、福生、昭島、日野、八王子、町田、相模原などという都市の名を挙げて相互の位置関係を問われたなら、すぐには答えられないだろう。狭山市は何となく東京の北西のほうにあり、町田と相模原は西南のほうにあり、あとは西のほうにあるというぐらいの感じはするかもしれない。だが、それは、狭山といわれれば狭山湖を思いだし、子供を連れていったあのハイキングはたしか西武新宿線だったなどと考えるからであり(だが実際は狭山湖は所沢市にあるので狭山市とはまったく離れている)、町田や相模原といわれれば、新宿発の小田急線で箱根に行った時、たしかそんな名の駅があったはずだなどと思いだすからであり(だが小田急相模原で降りたら、相模原市役所までベラポーにある。横浜線相模原駅で下車しなければいけない)、あとの町は何となく中央線で行くんだな、という感じがするから、といった程度の理由からである。
ところが実際にこれらを結ぶ国道16号線を走ってみて、横田基地からちょっと南に下るとすぐ多摩川の橋を渡って八王子に出たので、私はいささか驚いたのである。八王子に住む人は笑うことだろうが、私は多摩川と聞くと羽田空港のそばを東京湾に注ぐ川、そして東京から横浜へ行く時に渡る六郷の鉄橋を思い出すだけだったし、多摩川の「川」をとった、ただの多摩と聞くと、何となく東京の西の果て、奥多摩の清流を思いだすだけで、真ん中がポッコリ抜けていたのである。だから横田基地と多摩川の河原がえらく近いことを知って驚いたし、八王子を出るとすぐ町田市に入り、しかも町田市(といっても山の中なのだが)を五分も走ると神奈川県の相模原市へ入る、などということを知って感心するのである。同様に、第二日目の行脚で、川越から大宮までの距離はお茶の水から阿佐ヶ谷までと同じくらいで、しかも時間の点ではその半分もかからないことにびっくりもしたのである。
何を馬鹿なことに感心したり仰天したりしているか、地図をよく見れば判るだろう、などと云われれば、まったくその通りなのだが、しかし、人間、必要がない時に、そうそう地図など眺めるものではない。そして今度のこの発見や驚きは、単に知識を正確に、あるいは豊かにするというだけのものではなかったのである。それをこの国道の周辺に点在する基地の間の関係としてみた時、基地と基地とを結ぶ――たとえば横田米空軍基地と相模原にある東洋最大規模の米陸軍補給腋や座間陸軍病院、厚木飛行場とを結ぶこの軍用道路の重大さにあらためて気がつくのである。残念ながら、私は、これを実際に走ってみなければ判らなかったのである。
第二の発見。昼すぎに都心を出た私の乗った車が八王子から南へ下る頃、日は西に傾き、町田市に入った時は午後六時を過ぎていた。この頃からすれ違って八王子方向へ向かう車に、三菱キャタピラーの名をつけたバスがかなりあるのに気がついた。いずれも満員のバスである。そして私はこれから向かおうとする相模原に三菱キャタピラーの工場があること、そしてまた同じく相模原に三菱重工の工場が新設されたという話をつい最近聞いたことを思いだした。最初の予定では相模原の米陸軍総合補給廠を見たら、ついで米陸軍座間病院、座間キャンプ、厚木飛行場によって、横須賀基地へ向かうはずであったのだが、ぜひともこの三菱の新工場にもよってみようと思いたった。というのは、これまで大田区の下丸子にあった三菱重工の戦車工場が、来る三月一日からこの相模原の新工場に移って操業を開始する計画であり、それに対して新劇反戦のグループや各地の反軍行動委員会、ベ平連などが抗議と阻止行動を組織しつつあったからである。もちろん私たちベ平連が、五月の三菱重工の株主総会に乗り込んで死の商人を糾弾しようと、反戦一株株主運動を始めているからでもある。
あなたの三菱、世界の三菱! あのキャッチフレーズの下で、実は武器の生産で膨大な利潤をあげている(四四年度防衛庁調達契約高は七〇一億三千万で第一位、二位の川崎重工二一四億と比べてもそのシェアの大きさが判る)三菱である。そしてそれを恥ずかしげもなく堂堂と誇っている三菱でもある。たとえば、この下丸子→相模原工場の部門である「車輌・建設機械部門」について「第四二期三菱重工業株式会社営業報告書」はこう書いている。
「この部門は、車両、輸送機器、建設機械および戦車、装甲車等の特殊車両を扱っており、当期受注高は二四三億円余でありました。特殊車輌は官庁需要が主体のため、当期は建設車両等若干の受注にとどまりましたが、この部門は当社の技術力が高く評価され、戦車、装甲車とも業界第一位を占め、安定した業績をあげております。
なお、特殊車両事業部の主要営業品目は次の通りである。戦車、装甲車、自走砲等特殊車両、魚雷艇、掃海艇用エンジン」……
あのスリーダイヤのマークの尖った先端は人民の胸元に突きささる銃剣のきっ先、弾丸の先端なのであり、あのマークの真紅の色は侵略者によって流されるアジア人民の血の色なのである。(関心のある方にお知らせ――三菱重工の一株株主になると、株券と株主総会への招待状が来るだけでなく、さきに引用したような立派な営業報告書や決算書が送られて来ますぞ。おまけに年に二円五十銭ほどの配当!も来るそうです。申込みはべ平連へどうぞ!)
さて、米軍総合補給厳の膨大な面積の周囲をまわったあと、国道16号線をはさんでちょうど反対側に位置する三菱重工の新工場(三菱キャタピラーの工場と隣りあわせにある。戦車をつくる三菱重工の工場が、キャタピラー工場の隣りにできたわけはいうまでもなかろう)をさがしあてた時は、またまた驚きであった。まずその広さ、夜も更けた時間なのに、その煌々たる明るさ、そしてこの工場区域へのまさに入口に新設されている消防署!(ゲバ学生が火焔瓶など投げ込んでも万全の備えありということか)。そしてこの両工場の前に道をへだてて並びたつ数多くの関連産業(部品、製造、鉄鋼、運輸、倉庫等々)の工場群。そしてまた、印象深かったのは、たった今見てきたばかりの米軍総合補給廠の何ともウラさびれた、薄暗い、人気のない感じ(もっともこれは夜のせいで、最近では日本人雇傭者を拡大しているという話だが)に比べて、真昼のような明るさと、建物、道路、そして、門や塀にいたるまでの近代的装いであり、「世界の三菱」「業界第一位を占め、安定した業績をあげております」三菱の姿であった。思いなしか、米軍補給厳の日本人門衛が背をかがめた様子だったのに、三菱重工の門衛は年齢も若く、体格もすぐれてさえいたようであった。
反戦団体や市民がデモをかけるには実に不便なところでもある。八王子から横浜線に乗り橋本で相模線に乗り換え、上溝からバスに乗るか、小田急で厚木に出てそこから相模線に乗り換えるかしかないのだろう。だが、労働者は、ロマンスシートの.バスで八王子や相模原、相模大野駅まで送迎されるのである。かくして国道16号線は新しい意味をもつ。軍用道路にして、軍需生産の道路、死の商人、三菱の道路。 相模原から厚木の基地へより、ふたたび16号線に戻って大和市から積浜へ向かう路上で、三菱ギャランとミニカのネオン広告、もちろん赤のスリーダイヤのネオンが、いっそう私の眼にしみたのだった。
私は自分の仕事の関係で毎週一回、名古屋まで新幹線で往復する。ついこの間、新幹線に乗った時、新横浜と小田原の中間ぐらいのところで、米軍の飛行機が頭の上を通りすぎ右手の丘のむこうに着陸姿勢をとって消えてゆくのをみかけた。おや、こんなところに飛行場があるのか、と思って目をこらすと、なだらかな丘の中腹にいくつかの建物と、ポールにはためく星条旗を一瞬見た。新幹線の窓から米軍基地が見えるということに、この時はじめて気がついた。今度この基地めぐりをして、それが厚木の基地であることを知った。そして私は、国道16号線と新幹線とが、どんなふうに交差しているかに興味をそそられた。
16号線は大和市を過ぎると、すぐ東名高速道路の上をまたぐ。そして横浜へ向かう途中で新幹線の下をくぐる。くぐったところで車をとめ、道へ降り立ってそのコンクリートの高い橋脚を見あげた。もう時間は遅く、最終列車も走り去ったあとで、ただコンクリートの橋桁が暗い夜空に白く白く、うらぶれた民家の群の上をまたいでいるだけだった。すぐそばに交番があった。「西谷派出所」という看板がかかり、前の掲示板には指名手配の犯人の顔写真が薄暗い電灯に照らされていた。その脇の横断跨橋の上にのぼってみた。それでも新幹線の路線は見上げなければならなかった。横断歩道橋の手すりに68年の10・10大デモのステッカーがまだはがれずに張ってあり、「明治公園、市民団体12時」という文字がぼんやり読めた。
新幹線に乗っていて窓外の景色を眺める気分と、路上に立って新幹線を見上げる気分とが、こんなにも違うものだということにまた驚いた。第三の発見である。見上げた時が夜で暗かったせいではなかろう。夜に新幹線で帰ることだってしょっ中ある。そんな時、窓外は暗黒で、そもそも民家も人影なども見えず、見えるのは赤いネオンだけなのだ。新幹線にとって、街の人びとなどは存在していないのだ。逆にこの街の人びとにとって、新幹線とは何なのだろう。東名高速だって同じことだ。それは決して無ではない。自分たちの住む街のど真中を、ただただ強引に、一直線に貫いて走る、騒音、あるいは排気ガスと日陰の連続、そういうものなのだろう。
相模原、大和、座間……こういった「市」の中を走りぬけながら、ここは一体何なのか、そんなことも不思議に思えた。「市」と名はついている。しかし決して都市ではない。もちろん農村でもない。また単純に都市に侵蝕され、都市化しつつある農村でもない。(都市が都市でない時、どうして郊外が都市化などするものか。)基地、工場、倉庫、有刺鉄線、ゴミの山、突如として現われる団地、背たけほどもある枯草におおわれた空地、小さな商店、マッチ箱のように並んだ建売住宅、そしてまた空地、枯草、ゴミ、近代的工場……国道16号線はそうした中を走り、東名高速を跨ぎ、新幹線をくぐりぬける。都市でなく、農村でなく、郊外でない。何といったらよいのだろう。東京でなく、横浜でないところ。暴行を受け、凌辱され、病気をうつされ、しかし死ねないで、まだ生きている土地。こういう「市」の市長や市会議員は、市について何を議論しうるのだろう? 市民は自分の住むところをどうにかできるのか。
私にはすぐに答えはでてこなかった。16号線を走り、新幹線を見上げて、そんなことを思っただけである。ただ、ひきつづく発見をついでに記しておこう。それは自分の住む保谷市についてである。
保谷市は16号線沿いではない。さきにも書いたように、練馬区のすぐさきである。遅くなって電車がなくなり、よくタクシーで家へ帰るが、昼間に車で通ったことはほとんどなかった。だから私は、保谷市を貫き、私の家のすぐそばを走る新青梅街道沿いの昼の顔をあまり見たことがなかったのだ。ところが、この国道16号線行脚の第二日目の朝、そこを通って狭山市に向かった時、私は気がついた。車から眺めた保谷市の昼の顔は、前日、16号線を南下した時、不思議に感じた街並みの印象と、どこも区別することが出来なかったのである。私の保谷市も東京ではなかったのだ。
行脚の第一日は、横須賀に深夜の〇時すぎに到着して終った。国道16号線は、いつも反戦集会の開かれる臨海公園の上をすぎ、米海軍の将校クラブである「クラブ・アライアンス」の前で一応終る。遅い晩飯を食おうと横道に入ると、革ジャンパーに長髪のアメリカの若者が五人、十人と群れをなして道をふさぎ、落ち着いて食堂をさがせるような雰囲気ではなく、食事は横浜まで戻ってすることにした。
行脚第二日は、狭山市の航空自衛隊入間基地から始めた。西武池袋線「稲荷山公園」駅の両側を埋めつくす基地。公園はどこにあるのか、通りすがりの子供をつれた主婦に聞いたら、「ちょっとばかしつつじの植わってるとこがあるんですけどね、今は貯水槽工事とかで通行どめですよ、あの駅のまわりはみんな基地ばっかしです」との答だった。この基地は、16号線が西武池袋線のガードをくぐり、熊谷へ向かう道と分かれて入間川沿いに右折してゆくところの右手の丘一帯にある。しかし、道路を走っていたのでは基地の存在はまったく知りえない。電車の乗客は知っていても、国道16号線を往来するダンプカーの運転手は気がつかないだろう。
いや、近くに住む人でも案外基地を知らない場合があるのだと思う。第一日目、厚木飛行場の近くで道に迷い、通りすがりの高校生らしい二人の若者に厚木基地への途をたずねた時だった。そのうちの一人は「飛行場なんてこの辺にあんのか?」といい、もう一人が「キャンプのことだろ。どこかなあ?」といった。マッカーサー将軍が日本占領の第一歩を印したこの飛行場も、すぐそばを歩く今の若者にとっては存在していないのだ。ちょうど、新宿の街を歩く人びとにとって、そこが「楽しいお買物の散歩道」であり「歩行者の天国」であっても、米軍ジェット機の燃料を積んだタンクローリー車の定期通過ルートであることを知らないのと、また、「平和と民主主義」のこの国に生活を送る人びとが、まさにこの国の生活のゆえに、インドシナでの侵略と虐殺が保たれていることを知らないのと、同じように。(「日本人の技術は大変優秀だ。特に細かい仕事となるとアメリカ人以上だ。日本に基地がなかったら、われわれはベトナムで平和のための戦争を遂行できなかったかもしれない」―― 在日米陸軍司令部広報渉外部長、ニコラス・ブルーノ大佐。『週刊朝日』43年8月23日号23ページ)
川越から大宮に入ると、国道16号線、および国道17号線熊谷バイパス、同新大宮国道バイパスに囲まれた三角形の中央に、陸上自衛隊大宮駐屯地がある。地図にはその名しか出ていないのだが、実際に正門の前までゆくと そのほかにも、陸上自衛隊通信補給処、陸上自衛隊化学学校、陸上自衛隊武器補給処大宮支所、埼玉地区大宮募集事務所などの看板がズラリと並んで下がっている。正門を入ったところには「敬礼の厳正月間」などという立看板も見える。左へ曲りこむと自衛官の家族用の宿舎、団地。裏手に回ると土手の上にさらに高いコンクリート万年塀と黒い板塀、その上に有刺鉄線。万年塀の下にふつうは空いている横に細長い空気ぬけの穴も、わざわざコンクリートで埋め、ベニヤ板でおさえてふさいである。中は何も見えない。戦争中の残りだと思われる迷彩色をぬった高いコンクリート製の建物だけが見えて、「化学学校」の看板を想い出すなら、ここの雰囲気はいっそう不気味である。同じく16号線上にある座間の米第四〇六部隊陸軍病院には、細菌研究の部隊があるといわれ、裏手の垣根沿いに実験用動物の羊が何頭も飼われているのを見たのと思い合わせると、16号線そのものまでもが不吉で不気味な感じがしてくる。
もはやいうまでもなく、国道16号線の特徴とは、最初に書いたようにそこに点在する米軍基地の数と規模だけではない。在日の基地の重大性を数や面積によって強調しようとしたのは一九五〇年代のことだった。それだけを問題にするのなら、旧安保条約発効の一九五二年当時の二、八二四ヵ所、一三億五、三〇〇万平方メートルあった米軍基地は、七〇年三月現在一二六ヵ所、三億六二五万平方メートルに激減しているのである。しかしこれはわが国の戦略的重要性の減少を少しも意味しないのだろう。
国道16号線沿いの米軍基地についていえば、横田、厚木の飛行場は、三沢、板付、岩国とともに、また横須賀と横須賀ノースドッグは佐世保の海軍基地とともに、米軍は最後まで確保したいとのべており(『読売』70・3・7)、また作戦指揮、情報収集などの各種通信基地(16号線周辺では大和田通信所、上瀬谷・深谷通信所等々)は現状維持もしくは面積が拡張されてさえいる等々の事実があり、これが意味する質的変化を見ずして、また、返還された米軍基地の九五%までが自衛隊によって使用されているという事実を考慮せずしては、16号線のもつ現在の軍事的意味も理解できないのだろう。この国道が横須賀(防衛大学校、陸上自衛隊少年工科学校や、海上自衛隊基地等々)に始まり、木更津(陸上自衛隊木更津駐屯地第一ヘリコプター団本部、海上自衛隊木更津航空補給処、航空自衛隊第一補給処、海上自衛隊木更津警務分遣隊等々プラス米海軍木更津補助基地)の近くで終わることも、今やきわめて象徴的なことなのである。
国道16号線が埼玉から千葉に入り、醤油で有名な野田から柏を経て千葉市に進む途中に八千代市がある。これを国道二九六号線に道をとって左折すると約二七キロ.で成田市に達する。16号線行脚第二日は二月二十二日、まさに三里塚で権力による強制代執行が開始されようとする日であった。私は千葉市へ行く予定のコースを左に曲げ、印旛沼を通って成田市へ向かった。三里塚の駒井野団結小屋に着くまでに、機動隊員を満載した十数台の警備車にすれ違った。そこへ行くまでの間、すでに公団側が二千人の実力阻止の姿勢の前に、この日の代執行の強行をとりやめたことをニュースで聞いた。団結小屋周辺は、さまざまな色のヘルメットと旗の若者たちのデモがうずまき、たき火の煙が各所からたちのぼっていた。沖縄ベ平連のO君をはじめ、多くの見知った人びとの顔に出あった。そしてここの農民たちのカと、それを中心とした闘う勢力の力は、一日二億円、千名の建設労働者、五百有余の近代的工事機械をもって強行しようとする空港工事――それは、三里塚周辺をあの16号線沿いの各地域と同じように、暴行、凌辱、腐蝕の土地にしようとする工事なのだろう――を圧倒し、現代社会に鋭い亀裂を入れてその本質をあばきだすカを示していた。
16号線の内側にあり、羽田に代わる民間空港として最適の横田飛行場が米軍にしっかりと握られ、そして日本政府はその返還安求をつぶやきさえせずに、はるかに遠い16号線外側の成田に、展望もない空港を建設しようとしているのである。
車を運転している私と同世代のKさんは、今から十五年以上も前に、この三里塚に花見に来たと話してくれた。今ほど行楽地のなかった時、観光バスで訪れる花見客を、農家の主婦たちが屋台店を出して歓迎してくれたのでしたが……、Kさんはそういった。
国道16号腺を走って感じたこと、考えたことはまだまだいっぱいある。狭山市から川越市にむかう途中に出現した川越狭山大工業団地のこと(私は中学三年から大学の途中までこのすぐそばの農村に疎開していた。懐かしさのあまり車を向けてもらったが、大八車しか通れなかったはずの野良道がアスファルト舗装され、道に迷って、二十五年前に住んでいたはずの村落にはついにたどりつけなかった)、そして木更津に向かう海岸ぞいの国道16号線上にある京葉大工業地帯の夜景のこと(不夜城というか、万博に飾られたあの光の樹のようなというか、はたまた戦艦の群というか、悪魔の住み家というか、形容の言葉が見つからなかった)、そして立川の市民グルーブが始めている反軍平和条例制定運動のこと(基地が米軍から返遺されたあと自衛隊に移されるのを阻止するため、地方自治法七四条をたてにとって制定を請求しているこの条例の第二条は「立川市が所有権又は管理権をもつ建造物・道路・上下水道その他の公共施設及び市の職員を直接間接を問わず武力集団又は武力活動の為に使用し又は使用させてはならない」といっている。「世界連邦平和都市宣言」などを採択し、かたわらで自衛官の募集をしている市議会は、この条例を制定してみろ)。あるいは横田基地で非暴力坐り込み抗議をくり返している安保拒否百人委員会の人びとのこと、グラブ・アライアンス前などで「ヨコスカ・ディビッド」など英文反戦ニュースを配っている横須軍賀ベ平連の活動のこと、などなど。しかし紙数がつきて、それらについてはもはや詳述できない。
最後にひとつだけのべておこう。今さらながらといわれるだろうが、百聞は一見にしかず、ということである。私は「大泉市民の集い」のことを考える。反戦放送や反戦テレビなどユニークな活動を創造し、ついに朝霞の米野戦病院を撤去せしめたこの市民のグループは、今や市民運動の模範ともいうべき立場にあり、その歴史も長いように思われている。だが、その発足は二年と数ヵ月前のことであり、始まりはそこに住む和田夫妻が二人の名で道ゆく人びとにビラを配り、それがきっかけで朝霞基地の見学(といっても中へ入ったのではなく、外を回ってみただけなのだが)を十数人の人がやったことだったのである。基地の実態、とくに民主的ファシズム国家、平和的軍国主義国家、皆殺し的福祉国家、日本の実態と、それをどうすべきかは、決して一部の学者や軍事専門家にまかせておいて判ることではないと思うのである。今、各地の叛軍行動委員会や「第二、第三の小西を! 行動委員会」などの反自衛隊組織と、ベ平連グループとは、協力して全国の軍事基地の精密な実態調査の活動にのり出している。一人の専門家もなしに、まったくのド素人(しろうと)だけがやる仕事なのだが、地をはう無数の人民の手と足によって進められているこの活動は、軍内部の反戦兵士のかくれた協力ともあいまって、素人の力の恐ろしさを、そして何よりも基地と地域社会との関連を自分の目で確かめ得た時の人民の闘う力の恐ろしさを、権力に知らせる結果を生むだろうと、私は期待している。
国道16号線にかぎらない。地図をたよりに基地や工場のある道をたどってみたまえ。百聞は一見にしかずである。
(よしかわ・ゆういち 評論家)
(『世界』1971年4月号に掲載)