Archive 1.「自由の危機――権力・ジャーナリズム・市民」(03/08/29に転載)
最近、「WORLD PEACE NOW」の中の有力グループである「チャンス」のメンバーによる警察との会食問題が起こり、それとの関連で、かつての「ベ平連」運動と警察との関係のありかたが、話題に登場してきている。このことにについては、 「ベ平連運動」のサイトの「談話室」欄 No.64〜66 で触れてあるので、それを見ていただきたいが、その後、「チャンス」のグループはかつてのベトナム反戦運動参加活動家を招いて、当時の運動の実情を聞く勉強会を始めている。第1回は、井上澄夫さんらを招いて、警察と運動との関係を聞き、2度目は7月に入ってから、吉川勇一を招いてベ平連と権力との関係などについての話を聞いた。その際、配布されたかつての実態を示す各種資料の中に、1972年に発表された吉川勇一「自由の危機」と題する論文のコピーがある。これは、この年、当時岩国市にあって、米海兵隊基地の中の反戦米兵運動との連携の拠点となっていた反戦スナック「ほびっと」に関する、大きな弾圧事件の全貌をあきらかにした論文で、研究社から、鶴見俊輔、山本明さんらの編集で刊行された「講座 コミュニケーション」の第5巻『事件と報道』に収録され たものだった。日米両国政府が連携し、議会、軍部、警察、そしてマスコミ報道をあやつりながら、この反戦反軍活動に、どのようなあくどい弾圧を加えたか、ベ平連運動と権力との間の鋭い緊張関係が、ここでは述べられている。今の運動の参加者が、当時の実情を知るうえで重要な論文と思われるが、現在では入手はかなり難しくなっている。それで、 以下にこの論文を全文、再録して利用に供することにした。
原本では、傍点の箇所がいくつもあるが、ホームページ上ではそれが再現できないため、その部分は、
太字ゴシック・タイプで明らかにし 、同時に「傍点筆者」とあった部分も「太字は筆者」に変えた。また原文縦書きをここでは横書きに変えてあるため、引用部分は除き、日付などの数字を漢数字から算用数字の表現に変えた。
自 由 の 危 機 ――権力・ジャーナリズム・市民―― 吉 川 勇 一 1 ある事件と報道 まず、最近のある事件とそれをめぐる報道について、私自身が経験したことも加えて紹介したい。 事件は1972年6月4日に起こった。この日、山口県岩国市のある喫茶店が広島県警の依頼を受けたという岩国署の制服・私服の警官23名によって家宅捜索をされた。経営者の中川文男氏に示された捜査令状によれば、それは「容疑者岡田泰に対する銃砲刀剣類不法所持等取締法違反被疑事件」にかかわる捜索で、その「犯罪事実」とは「被疑者はほか数名と共謀の上、一九七一年十一月中旬頃から七二年六月四日までの間、広島市以下番地不明、名称不明のビル内等において、反戦米兵、岩国べ平連等と通じ窃取した銃砲刀剣類所持等取締法第二条にいう銃砲である米軍用AR・15自動ライフル銃(コルトAR・15セミ・オートマチック・ライフル)を一丁何ら法定の除外理由なく所持していたものである」ということであった。約1時間半にわたる捜索ののち、押収すべきものは何一つなくそれは終了した(注1)。 捜索を受けた喫茶店は〈ほびっと〉といい、数年前から岩国の海兵隊基地の米兵に対して、反戦のよびかけを続けてきた岩国をはじめ、広島、京都、福岡などのべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動家が、その運動の拠点として、岩国の市民や全国のべ平連の支援を得て、この年の2月末に開店した反戦のコーヒーハウスである。廃屋同然になっていた旧医院の建物を借り受け、京都や東京などから大工仕事のできる素人の協力者が集まって内外装をととのえ、客用の椅子、テーブルにいたるまで自作。専門家の手になったのは電気の配線とガス・水道の配管だけ、という、まったくの手づくりの喫茶店で、しかし、中には、岩国べ平連の事務室、PCS(パシフィック・カウンセリング・サービス)(注2)の事務室、米人弁護士が常駐する兵士向け法律相談室、さらに図書室、談話室のほか、居住用の部屋5室、浴室まであるという広さで、店は、その素朴で暖かみのある雰囲気から開店後の評判もよく、毎日多くの米兵や近所の日本人市民を客として迎えて経営されてきたもので、なかには話を聞いて、広島や下関からわざわざ通ってくる人までいるほどであった。住み込んで働いている人びとは京都や福岡の若いべ平連のメンバー5人で、近所の人びととの交流も次第に厚くなり、市民のなかに強い支持層やファンも生まれてきていた。 1967年暮、米空母イントレピッド号からの4水兵の脱走援助に始まったべ平連の米軍兵士とのかかわりは、その後、脱走の勧誘ではなく、軍隊に留まってその内部で反戦・抵抗の活動をするのを支援するようにその方向を転換、以後、米民間人活動家によるPCSとも協力して、三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保、沖縄(コザ)など、主要在日米軍基地の周辺に活動の拠点となる事務所や反戦バー、反戦スナックなどをつくり出し、兵士自身の手による英文反戦機関紙誌を基地ごとに多数発行するようにもなっている。なかでも岩国海兵隊基地内の反戦グループは、世界各地の米軍基地内反戦グループのなかで最高の組織率をもつ一つといわれ、機関誌『SEMPER・FI』は、多数の中心活動家兵士に対する逮捕、軍裁、強制送遭、配転、不名誉除隊などの弾圧にもかかわらず、毎号20〜40ページで月3回発行という見事なものに発展してきていた。 それだけに、新しく開店した喫茶店〈ほびっと〉は、この活動にとって重要な地位を占めていた。それは、闘争のもりあがった華やかな時だけ、一時的に都会から現場へやってくるオルグやデモと違い、この基地の街に生活の場をつくり、闘争者が現場での生活者であるという長い展望をもって活動しようとする人びとの、半永久的根拠地でもある。そこへ、突然、この捜索であった。〈ほびっと〉で働く人びとは誰一人、示された令状の「被疑者岡田泰」なる人を知らなかった。 捜索に来た警官は、たまたま店内にいた米兵を含む数名の客や、捜索中に店に入ろうとした客の身体捜査を令状もなく行ない、なかには靴や靴下までぬがせて調べたり、「こんな店へ来るとろくなことはないぞ、帰れ」などの暴言を吐いたり、所持金、店へ来た回数、住所氏名などを聞いて追い返したりした(注3)。 さて、問題はこの捜索を報じた翌6月5日付の各紙(各本社版)の紙面である。いくつかの例を挙げてみよう。 『毎日』(西部本社)は「米軍ライフルが赤軍派に?(七ダン) 仲介男≠逮捕(四ダン) 事実なら……また銃撃戦の恐れ(ヨコ四八行ブン〉 捜索、銃は未発見(一ダン) 岩国の喫茶店も捜索(一ダン)」、『読売』(大阪本社)は「PFLP在日組織を徹底追及(ヨコ五五行ブン) アラブ人旅行者洗う(五ダン) 武器調達にべ平連が介入?(五ダン) 関西赤軍派と接触(四ダン) 中核派の元広島大生逮捕(四ダン〉 米反戦組織の拠点、捜索受けた喫茶店(三ダン)」、『サンケイ』(東京本社)は「赤色工作隊を手入れ、日本人ゲリラ送り出しの秘密軍団?(ヨコ四四行ブン) 元中核派の岡田、武器調達の男逮捕、反戦喫茶など五か所捜索(五ダン)」と、各紙とも社会面トップの大見出し。『サンケイ』(東京)の記事によれば「米国製の自動小銃で訓練したゲリラ戦士をパレスチナに送り出した疑いが濃い赤軍派赤色工作隊を追及している広島・山口両県警合同捜査本部は、四日昼前、同工作隊の武器調達員、元広島大生岡田泰(二五、住所=広島市〈中略〉)を銃刀法違反の疑いで逮捕、岡田の自宅や 勤め先の岩国市内の反戦喫茶〈ほ びっと〉など五か所を捜索した。捜査本部では、テルアビブ空港乱射を起こした三人のうち、生き残った鹿児島大生岡本公三(ニ四)は、この組織と個人的に接触した程度だが、死亡した二人はこの組織と深いつながりがあるのではないかと見て、岡田の逮捕を突破口に、この秘密軍団とアラブ・ゲリラとの関連を徹底的に追及する……〈以下略〉」(太字は筆者)とあり、またべ平連や〈ほびっと〉との関係について、『読売』(西部)によれば、「……山口県警の調べによると、PCSと赤軍はかなり前から接触。PCSと岩国べ平連の関係はかなり深い。岡田が赤軍に自動小銃を渡したといわれるのは昨年十一月だが、同年暮れには、若松プロの映画『赤軍――PFLP、世界戦争宣言』の関係者が岩国市旭町にあったPCS事務所(現在は〈ほびっと〉内)を訪れていたという。こうしたことから県警はべ平連・PCS――赤軍――PFLPとの間になんらかのつながりがあるとみており、問題の銃もこのルートを通じて流れたとの見方をしている……。」さらに『毎日』(大阪・東京本社版)は 「……岡田は取調べに対し黙秘しているが、逮捕の容疑は昨年十一月中旬、岩国市の反戦喫茶〈ほびっと)に出入りしているうち、入手した米軍のライフル一丁を自分で分解したうえ、大阪に運び、赤軍派関西地方委員会の幹部に渡した疑い。……」とある。各紙とも二ダンないし三ダンの写真つきで、『読売』(西部)は「警官に囲まれ捜索される喫茶店〈ほびっと〉」、『サンケイ』(東京)は「岡田が武器調達の場所としたという喫茶店〈ほびっと〉」という写真説明をつけている。さて、こうした大見出しや記事、写真を見れば、まさに『読売』(西部)の見出しが言うように「反戦米兵→赤軍→PFLP」なる武器入手ルートが秘密裡に確立しており、その一環にべ平連とPCSが位置し(PCSとPFLP、なんとなく名前も似ているではないか!)、特に〈ほびっと〉は重要な武器受け渡し所になっていて、こんな喫茶店でうっかりコーヒーでも飲んでいようものなら、いつテルアビブ空港事件犯人の仲間にされるかもわからない、といった感じである。実際、この報道以後、出入りしていた高校生などが親から〈ほびっと〉へ行くことを禁じられたりするケースがいくつか出てきている。 だが、マスコミがこれだけの大騒ぎの報道をしたにもかかわらず、肝心の「事件」のほうは旬日にしてまったく消えてしまった。 まず、いくつかの新開では、その記事自体のなかにも読んですぐ気がつく重大な矛盾があった。『毎日』(西部)によれば「岡田が昨年 十一月中旬、岩国市の反戦喫茶〈ほびっと〉に出入りしているうち、入手した米軍のライフル銃」とある一方、同じ紙面には「同店はべ平連関係者が出資、二月二十五日鉄筋二階建ての家を借りて開店した」ともある(注4)。2月とはもちろん1972年の2月で、その2月に開店した喫茶店にどうして前年11月に出入りできるのか、という単純な疑問がすぐ出てくるはずなのだが、記事を書いた記者、それを読んだデスク、見出しをつけた整理係、校正した記者……印刷までに多くの人が目を通したはずなのに、こういう疑問をもったものはこの新聞には一人もいなかったわけである(東京本社版では、2月開店の記事が落とされていたから、読者は矛盾に気づけない)。こんな事実関係の矛盾のほか、この事件のそもそもの中心人物″とされていたはずの岡田氏を検察庁は起訴できず、6月25日、証拠不十分で釈放した。当初、岡田氏の逮捕状や〈ほびっと)の捜索令状を出した裁判所自体が、岡田氏の逮捕後「被疑者岡田泰と被疑事件を結びつける充分な証拠がなく、被疑者が被疑事実を犯したと疑うに足りる相当な理由があるとは言い難い」として勾留の取消命令を出したほど、この事件は根拠薄弱なものだったことが判明してくるのである(注5)。つまり、大山鳴動したが、銃一丁、弾丸一発どこにもない、まったくの虚構にもとづく事件だったわけである。2 権力の意図と報道機関 浅間山荘事件、リンチ事件、テルアビブ空港事件と続くなかで、報道機関は自らがつくり出した赤軍ヒステリーにすっかり狂ってしまった(注6)。そしてこの事件でも、警察から「赤軍」 「PFLP」という言葉を聞かされてセンセーショナルな記事をつくりあげ、岩国の反戦米兵とべ平連をついにテルアビブ空港事件にまで結びつけてしまった。日本の警察の狙いとしては、こういう紙面が出ればそれで目的の九割九分は達成されるわけで、だからこそ、捜査直後に広島署はわざわざ記者会見を行なって、べ平連と赤軍・PFLPとの関係″を説明することまでやったのであった。この時、一度でも〈ほびっと〉なり「べ平連」なりに開店日や岡田氏との関係を確かめることをしていれば、「十一月に同店で武器が取引きされた」とか「岡田の勤務先の喫茶店〈ほびっと〉」というような「事実」がありえないことはすぐわかるはずなのだが、警察の発表内容に疑問をなげたような報道はなかった(注7)。いや、警察の発表には疑問はもたないことを前提にするのだ、ということを、記者自身が主張したのである。 それはつぎのような経過の中で起こった。 東京本社版では『サンケイ』と『毎日』が、大阪本社版、西部本社版では『読売』がとくに事実と反する記事を載せたことがわかったため、東京と福岡の本社へはそれぞれべ平連の代表が抗議し、謝罪と訂正を要求した。『毎日』と『読売』の場合は、手落ちを認め、数日以内に事実上の訂正を意味するかなりの長文の記事を載せた。(『毎日』は6月8日付で「べ平連が抗議 岩国の〈ほびっと〉捜索」一ダン四五行。『読売』は6月17日付で「米軍銃みつからず、岩国喫茶店の容疑消える」二ダン六四行。) 驚いたのは『サンケイ』であった。あらかじめ抗議の内容を電話で伝え、面会の約束をした上、東京本社を訪れると、応接に出てきた社会部のサブデスクの岩野という記者は、最初から開きなおった態度を示した。たとえば、あの記事で、喫茶店は営業上の打撃を受けており、営業妨害の結果を生んでいるという抗議に対して「必ずしもそうは言えない。あの記事を読んで、逆に反戦分子がたくさん喫茶店を訪れ、かえって儲かるということだってあるんじゃないですか」という始末で、岡田の勤め先 の〈ほびっと〉≠ニいう明白な誤りについての指摘に対しても、「ああ、それは単純な誤植ですね。岡田の自宅や勤め先の岩国市内の反戦喫茶〈ほびっと〉≠ニいうのは〃岡田の自宅や勤務先と岩国市内の……≠フたった一字の誤植ですよ」と恬として答えるのだった。そして、この種の事件については当事者双方の取材をするべきなのに、なぜ警察側の発表だけで紙面をつくったのか、という抗議に対して、彼は「私たちは、国家――警察もそうですが――の言うことには間違いはない、ということを前提にして記事をつくっていますから」と言ってのけた。抗議に行ったのはベ平連の鶴見良行、福富節男の両氏と私とだったが、あきれかえってしまったものの、以上の答えは必ずしも社としての正式なものではないというので、社としての正式の解答を文書で一週間以内に渡すことを要求、彼もそれを約束したのでいちおう引き上げた。が、以後、同社から何の回答もない(注8)。べ平連は、8月7日、この事件に関し、国(法務大臣)と広島・山口両県警(両県知事)を相手どって名誉毀損、営業妨害、職権濫用のかどで損害賠償の訴訟を起こし、さらに10月2日、広島・山口両県警の警察官20名以上を広島地検に告発した。またアメリカでも、ナショナル・ローヤーズ・ギルド所属のエリック・ザイツ弁護士らが、あとでのべるように〈ほびっと〉に対して岩国基地司令官がオフ・リミッツ命令を出したことについて、その取り消しを要求する訴訟をワシントン地方裁判所に提起している。 かなり長くなったが、以上が岩国の事件の表面的な――というのは、後述するように、まだまだ大きな背景があるからなのだが――概要である。 いずれの報道も、「広島県警の調べによれば……」とか「……の疑いがあるというもの」とか、あるいは見出しの「……か?」など、新開自身の責任を逃れるような言葉を前後にほんの少しつけてはいる。しかし新聞は、警察側の見解のパブリシティの役割を果たし、それによって〈ほ びっと〉やべ平連が受けた打撃は回復に容易ではい。いまや、 捜索という事実と警察の虚偽の発表だけによって、報道の上に重大な事実≠ニして登場する、すなわち事実になってしまう、という非常に恐ろしい時代にたち至っている。昨年、いくつか続いた爆弾事件のなかで、東京12チャンネルTVの「予告・爆弾時代」をめぐる騒ぎに始まり、「赤衛軍事件」(朝霞の自衛官殺害事件)による『朝日ジャーナル』と『プレイボーイ』記者の逮捕、それに連合赤軍事件の狂気にいたる間の報道関係者への弾圧と、それに応ずる報道機関側の自主規制のなかで、事態はついにここまで来てしまっているのである。3 報道の危機 報道機関が「知る権利・知らせる権利」や権力からの自由を主張しながら、一方でこのような権力との連携プレーをするという堕落を示すにいたった根本には、報道機関のもつ権利を民衆のもつ権利と切り離しているということがある。いうまでもなく、新聞、TV等が事実上有する特権のようなものは、すべて主権者である一般の民衆がもつ知る権利、表現の自由の権利に便宜を提供し、奉仕するものとの仮定の上に認められているだけであって、権力が報道機関に与えている特別の便宜や特権(たとえば裁判所や国会での記者席、取材上の種々の自由)も、すべてその報道機関の背後にいる主権者のもつ基本的権利の反映として存在しているにすぎない。ところが、報道機関は、あたかも報道機関なるがゆえに社会正義の体現者であり、生得の特権をもっているかのように思い違いをする。その上、権力側は、報道機関がもつ権利を、報道機関が一般民衆と 違うから特別に与える権利のように扱い、報道機関もこれを事実上容認するようになってしまう。(警察機構や官庁内のクラブへの便宜提供、報道向けの特殊なPR資料、たとえば警察庁発行の週刊誌『焦点』、デモ取材の際など警察が大手の新聞、大手TV局のみに支給する記者腕章等。)(注9)原理としてあらたまって論ずる際には、学者も報道関係者も、報道機関の表現の自由と知る権利とが、民衆のもつ日常的な基本的権利の反映であり、それを離れては存在しえないことを認めており、またそれは繰り返し論じられてもいる。しかし、現実の日常生活のなかではけっしてそうほなっていない。ニュース・ソースについての法廷での証言要求や警察・検察庁などからのTVニュース・フィルム提出要求があったり、あるいは外務省「秘密」文事事件や首相の新聞攻撃暴言など、直接報道関係者の自由や権利に対する攻撃、侵害があった時だけ、特権擁護の根拠としてお題目のようにかつぎ出されるだけで、実際にはそれが貫かれていない。自由の危機は、権力者側からの権利抑圧と同時に、報道機関側のこうした態度によってもたらされる。 つぎの事実はこのことをもっとも象徴的に示している。 1970年5月16日、米三軍統合記念日のこの日、全米各地でいっせいに行なわれた反戦GIの抗議行動に連帯して、東京では在日米人の「東京動員委員会」なるグループ主催のデモが、数十名の在日外人と1,500名ほどの日本人参加者によって行なわれた。この時、米大使館前でデモを取材中の各社記者、カメラマンが機動隊員に暴行され、『サンケイ』記者らが負傷させられるという事件が起こった。これは直ちに各社記者の間で大問題となり、警視庁記者クラブや各社社会部長会が抗議、警視庁側もそれに謝罪し、責任者として警備部長ら13人の処分まで行なっていちおうのケリがついた。だが、問題はそれから先で、謝罪に際して警視庁の一人が、経過の弁明として「実は新聞記者とは知らなかった。ペ平連のデモ隊員かと間違えたのだ」と言ったというのである。そしてこの弁明に対して報道関係者が抗議したということはついに聞かれなかった。 表題の自由の危機は、ここでは、暴行した機動隊員、警察の側によってもたらされているだけでなく、このような弁明を可能にさせる報道関係者の側の腐敗によってもたらされている。デモ参加者なら殴られても仕方がないが、それを取材する記者は知る権利・知らせる権利を安全に行使できるはずだとし、警視庁発給の記者腕章を何の痛みも感じずに受け取るといったように、民衆の日常の生活の場で二つを切り離すようなことでは、取材・報道の自由が脅かされた場合でも、民衆の側からの支持が得られるはずがない。 『毎日』の沖縄「秘密」文書事件も、結局は「西山 記者事件」となって「蓮見さん事件」にはならなかった。福富節男は「毎日新聞社は『西山記者の私行についておわび』した。個人の私行を会社が代ってわびることはできないし、代ってさせてはならない。私行まで会社に所有されることに反対しよう」と書いている(注10)。一私人の権利を認めないような報道機関の権利は、民衆から擁護されない。だから、佐藤首相の引退表明の記者会見での暴言に新聞が怒って「記者団、一斉に怒りの退場」「首相こそ感情的偏向 大衆の声、抗議運動の盛上げを」(『朝日』72年6月17日夕刊)などと大見出しを掲げても、大衆の抗議運動など起こらなかった。4 民衆自身の権利と義務として そもそも、民衆は、「知る権利」はあるがそれについての手段がない情報の「受け手」であり、そのため報道機関は情報の「送り手」として知らせる権利を有し、かつそのために民衆以上に「知る権利」をもつ、というような情報の「送り手」→「受け手」という一方的関係が、実は幻想なのである。 沖縄「秘密」文書事件について鶴見俊輔が言うように「蓮見事務官の行動なくしては、西山記者の報道もあり得ないし、国会における横路議員の政府追及もあり得なかった」(注11)。知らせる権利――というよりは義務――をもつのは、国会議員や記者のみにあるのではなく、民衆の一人ひとりにある、ということが肝心な点なのである。この事件でいえば、蓮見喜久子さんの立場のほうが根本であった。 すべての民衆にとって必要な情報、民衆に知らされなければならぬ秘密を握っているものは、けっして一大臣や一握りの会社幹部だけではない。その周辺には、蓮見さんのようにたまたまその事実を知っている権力者以外の人間が必ずいるはずである。たとえば、牛乳水まし事件は、社長と重役だけで可能ではなく、汚水たれ流しも工場長一人では行なえない。それを実行させられ、事実を知っている一般労働者や事務職員らがいるはずである。相模原からいつ戦車輸送が再開されるかというような情報にしても、さらには沖縄の米第七心理作戦部隊が何をやっているかということや岩国基地に核兵器があるかないかというような軍事上の重大機密にしても、それは記者が「知る権利」を行使して権力者や軍首脳部からさぐり出したことではなく、工場労働者や下級反戦兵士らによってもたらされた情報だった(注12)。すでに公害については企業内から告発した労働者や、自衛隊のなかから治安出動訓練を拒否し、暴落した兵士などが登場しはじめている。アメリカでは、エルズバーグの事件は有名だが、そのほかにも、たとえばセイモア・ハーシュのソンミ事件の暴露は22歳の一除隊兵ロナルド・ライデンアワーの努力なしにはあり得なかった。「彼はそれまで反戦兵士とみなされるようなことは何ひとつしていなかった。しかし、彼は心の底から憤激していた。『わたしはこの連中をつきとめたいと思いました。……やつらのやったことを暴露してやりたいと思ったのです。』」(注13)(そしてそれ以後ライデンアワーがやった努力と彼から情報を受け取った議会関係者、あるいは出版関係者の反応も実に興味深い。) こう考えてくる時、知る権利と結びついた知らせる権利・義務の間題は、全民衆の日常生活のレベルにおろされ、民衆が情報の「受け手」としてだけではなく、重要な情報の「送り手」であるという問題、民衆自身の権利・義務の問題として民衆自身に迫ってくることになる。さらにまた、それは報道関係者にも同じ重さで迫るのであって、企業内告発を記事にする記者が、自分の新聞社やTV会社内部の自主規制や権力との癒着などを、どう知らせるかという問題にもなるだろう(注14)。 ベトナムへの出動と関連して、岩国べ平連はこの意味での「知らせる義務」にずっと取り組んできたし、〈ほびっと〉に対する捜索は、このような活動の拠点に対する弾圧という意味をもっている。 こうした点と関連して、中薗英助が紹介している「平和のためのスパイ」事件はきわめて象徴的な出来事だった。1963年4月、恒例のイギリス復活祭核兵器反対行進(いわゆるオルダーマストン行進)のデモの際、「平和のためのスパイ」と署名したパンフレット4,000部がばらまかれたが、これには核戦争に備える最高の国防機密が暴落されていた。特にイギリス国内に旧松代大本営式のRSG(地方政府)と呼ばれる巨大な地下壕が14か所も分散、設けられているという事実が明らかにされ、デモ隊が行進の途中、RSG6号に殺到するという結果も生んだ。このパンフはつぎのような訴えを載せていた。「秘密があなたから隠されているのは、あなたがスパイであるかもしれないからだ。ロシアのスパイというのではない。あらゆる国のあらゆる人びとのためのスパイだ。というのは、あなたはおそらく、あなたの名において、あなたの費用で、しかもあなたの同意なしに、あなたの将来のために何がなされつつあるか、ということを知る権利があると、信ずるだろうからである」と(注15)。 エルズバーグのベトナム秘密文書暴露は、知る権利、知らせる義務の点で画期的なことだったが、しかし、今から十年近くも前に起こったこの事件のビラが、「知る権利」の問題を、一般民衆(この場合デモ参加者)の知らせる義務(つまり あなたがスパイになるということ)と結びつけて訴えたということは、さらに注目すべきことである。5 岩国事件の背景と連関 さて、岩国の〈ほびっと〉捜索事件と関連して、報道機関の現状は深刻であると書いたが、では、報道が捜索の経過をもっと客観的に注意深く書き、被害を受けた〈ほびっと〉側の言い分を対等に載せたならば、それで真実を明らかにしたことになったか、といえば、事態はけっしてそんな単純なものではないというところに、危機のいっそうの深刻さがひそんでいる。ふたたび岩国の事件にもどって、自由の危機の現状を考えてみたい。 当初は、岡田泰氏の逮捕をきっかけとして、広島・山口県警が日頃から狙っていた岩国の反戦喫茶店を強引に捜索し、マスコミを使って〈ほびっと〉のイメージ・ダウンをはかり、それを市民から切り離そうと意図した事件と思われた。しかし、この捜索はけっしてそんな一地方の警察の判断によって行なわれたものではないことが次第に明らかになってきた。 まず、福岡べ平連の抗議を受けた『読売』(西部本社)は、前述したように6月17日付紙面に事実上の訂正記事を載せ、2月開店の店が昨年11月に銃を渡す舞台≠ノなることはあり得ず、「〈ほびっと〉そのものの容疑は消えた」と書いたが、その記事のなかに「〈ほびっと〉捜索ほもともと初めから無理があったようで、木山の自供から、 急ぎ警察庁の指示で捜索したが……」(太字は筆者)という個所があり、広島や山口の判断でほなく、東京の指示であったことが明らかにされた。ついで、その後の事態で、さらにこれが東京だけからの指示でもなく、太平洋を越えた日米共同の陰謀であるらしいということもわかってきたのである。すなわち、岡田氏が釈放される4日前の6月21日、海の向こうのアメリカでは、米下院国内安全委員会(HCIS)のリチャード・アイコード委員長が記者会見を行ない、同委員会は「米国軍隊の兵士の士気を衰えさせようとしている(アメリカの)過激派集団の破壊活動」について1年間にわたって調査してきたが、「それ(破壊活動)は完全に失敗に終った」とのべ、基地内外で兵士向けアングラ新聞を発行したり、兵士のストを煽動してきた団体の名を列挙した。 この記者会見は、翌22日付の『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』に大きく報じられた。特に『ワシントン・ポスト』は三ダンの見出しを掲げ、PCSと日本でのホビット(注16)の活動について同委員会調査員のスチュアート・ポットの「国防省によれば、PCSの(他のグループとは違う)特徴は、それがべへイレンと緊密な連携をもっている点にあり、べヘイレンとは日本共産党に支配されている%本の運動体である」という証言を載せ、兵士の法律相談に応じたり、ジェーン・フォンダを日本に招いたりしているなどと詳しく報道した(注17)。 そして、この記者会見の翌日の6月22日(といっても時差の関係からすれば、実際には記者会見の直後にあたる)、岩国海兵隊基地司令官バン・キャンペン大佐は、〈ほびっと〉経営者の中川文男氏あてに正式文書を送り、在日米軍要員の〈ほびっと〉立ち入りを禁止するというオフ・リミッツ命令を出したことを伝えてきた(注18)。現在、米国内を含め、全世界に20以上ある反戦喫茶店のなかで、立ち入り禁止命令が出たのは、これが初めてのケースである。 そして岡田氏が釈放された日である25日には、4台のトラック、ジープでMPが〈ほびっと〉前の道路にやってきたほか、〈ほびっと〉付近にたまたまいた米兵1名を逮捕していった。(この米兵はオフ・リミッツ命令違反のかどで、72年10月現在、岩国で軍事裁判にかけられている。) 日本の警察が事件をウヤムヤに終熄させようとしている時に、アメリカ・サイドが引き継いで事態をドライブさせだしていたのである。 こうしてみる時、『読売』(西部本社)が見出しに掲げた「反戦米兵→赤軍→PFLP」という関係どころか、岩国基地司令←米国防省→米下院HCIS→(日本政府)→警察庁→広島・山口県警→日本マスコミ各紙という関係、さらにHCIS→米マスコミ各紙という連携プレーの関係が浮かびあがってくる。 そしてこの関係は岩国基地だけでなく、実は日本各地にまで拡大する。以下、それを列挙してみよう。 6月20日、九州地区麻薬取締官事務所沖縄分室と米軍CIDの合同捜査によって、沖縄コザ市内にある反戦米兵組織「フリーダム・ファミリー」のアパートが麻薬取締法違反で家宅捜査され、同時にこの組織のリーダーの婦人兵士ボグナス・テルサ軍曹が空軍情報部に出頭を命じられ、身体・所持品検査や尋問を受けた。この事件は翌21日付沖縄各紙で大々的に報じられた(『琉球新報』五ダン見出し)。続いて28日付『沖縄タイムス』は四ダン見出しで「反戦米兵と連携か 中部各署 過激派警戒続ける」という警察情報の予測記事(事実は何もなく、本土から来た「新左翼系学生集団が」「反戦米兵と連絡をとりあい、地下活動を行なっている との情報もあり、コザ署では二十四時間厳戒態勢をとっている」というだけのもの――太字は筆者)を掲載した。7月2日には、青森県三択市で米兵向け反戦スナック〈アウル〉を経営する原田隆治氏に対し、三沢基地司令官デイビッド・クンツ空軍中佐名で好ましくない人物≠ニして永久的な基地立ち入り禁止の命令が伝えられた。『読売』だけが7月5日付で「反戦スナック店主寄せつけず 米軍が隔離″戦 三沢基地、黙秘一転、永久禁止」と題し(四ダン)、「さきに山口県、岩国基地近くの反戦喫茶に対し、同基地がGIの立入りを禁止、これに抗議するべ平連が米連邦裁判所へ提訴する動きがあったが、三沢基地の場合、日本人に対する軍命令というまったく異例の措置」と報じた(注19)。 ついで7月7日、横田の米空軍基地では、ベトナム戦争への従軍を拒否するという共同声明を発表した在日各基地米兵の合同記者会見(1972年4月22日)に出席した米兵4名に対し、「いかなる形にせよ、日本の一切のマス・メディアにかかわること」、「すなわち、ラジオ、テレビ、映画に出ること、新聞、雑誌、書籍、パンフ、ニュース類にものを書くこと、請願に加わること、インタービューに応じたり、テープに吹き込むこと、集会で演説すること、手紙を出すこと、電報を打つこと、を禁止する」という、米国憲法にもまったく違反する軍命令が、中隊司令官L・ビアロストック大尉から出され、数日ののち、うち3名が米本国に送遷され、除隊処分を受けた(報じた新開なし)。 翌8日夜、今度は横須賀基地で、前日にべトナム戦争に参加したくないと良心的兵役拒否を申し出たばかりのゲーリー・ウォルター・スミス一等機関兵が、艦内で2人の白人水兵にリンチを受け、「鼻の骨二ヵ所骨折、左眼失明の恐れ」の重傷を受けるという事件が起こった。『朝日』は72年7月9日付で「兵役拒否でリンチ、横須賀で米兵訴え、仲間がなぐるける」(四ダン)と報じ、『毎日』は三ダンで「反戦米兵を袋だたき 横須賀基地」と報じた。 米軍の北ベトナム海域封鎖と大量猛爆撃という状況のなかで、6月4日に岩国の一喫茶店に対して行なわれた捜査は、このような事実の関連のなかに位置づけて、はじめてその真実に近づきうる。 以上、これらの出来事とともに、それを報じた日本やアメリカの新聞の日付けや見出し、その大きさをいちいち付記してきたが、『朝日』『毎日』『読売』『琉球新報』『沖縄タイムス』……と、どこかの新聞のどこかの本社版では報じられながらも、これらの事件を一貫して報じ続けた新聞は一つもないことがわかる。 山本明は「小状況の中で取材する報道者は、つねに大状況を念頭におくと同時に、報道が『事件』を『事件』たらしめていること、つまり、いやが応でも事件に参加していることを自覚する必要がある」と書いている(注20)が、まさに6月4日から約1か月間の、この一連の事件や、あるいは7月19日付『朝日』が載せた悪名高いデッチ上げ記事と関連する三里塚青年行動隊への弾圧事件では、マスコミのコミットなしには「事件」は始まらなかったし、また完成もなかった(注21)。しかし、報道者は、「事件」へのコミットの自覚などまったくなく、かつその後の事態の推移のなかでも、個別の諸事件をつくり出している全体の流れを見失っている。 6 民衆の日常生活のレベルで 自由の危機は、行為それ自体に対するあからさまな抑圧、弾圧という形をとった場合、たとえばデモに対する機動隊の暴行とか大量逮捕、あるいは裁判所のひどい訴訟指揮などは、容易にそれとわかるし、社会的問題ともなりうる。だが真の自由の危機は民衆の日常生活のレベルでより深刻な形で現われ、しかも容易に表面化しない。 岩国の〈ほびっと〉捜索事件の場合でもこの側面を見落とすわけにはいかない。 〈ほびっと〉の活動をさまざまな形で支援している人びとは、岩国から離れたところにもたくさんいるが、そのなかに、ある都会で印刷所を経営している中年のTさんというべ平連の活動家がいる。彼はその商売のために何人かの知人から融資を受けていたが、この事件の前後にそのすべての人からつぎつぎと金の返済を迫られた。表面的な理由はさまざまであったが、その時期のあまりの符合に、不審に思ったTさんが事情を調べてみると、公安調査庁の名刺をもった人物が融資先を一軒ずつ訪ね、あの印刷所に金を貸すということは過激暴力集団に資金を貸していることになると告げ、金の回収を勧めている、ということがわかった。だが、同時にその人物は、自分が来たことはTさんにはけっして言わぬように、それが伝わればあなたはますます面倒な立場になる、と釘をさすこともやっていた。このことは、融資者の一人が好意でIさんにそっと教えてくれてわかったわけだが、それだけにTさんとしては、その人の名を挙げるわけにはいかず、公安調査庁に抗議したくても適当な手段がないという。 もう一つのケースも報告されている。岩国の〈ほびっと〉と三沢の〈アウル〉の二つの反戦喫茶のために「岩国・三沢反戦喫茶基金」を設けて、支援のための募金実務にあたっている若い大学研究者が広島にいる。ところがこの〈ほびっと〉捜索直後、彼の借家の持主のところに警察からたびたび彼についてさまざまな問い合わせがあり、居づらい空気も生まれそうだという。 すでにこの6月の捜索事件前から、岩国ではこの種の圧迫が何度か問題になっていた。〈ほびっと〉の客の常連のなかに、若いOLがいたが、ある日、彼女の自宅の母親のところへ会社の上役から電話がかかり、あなたの娘さんは〈ほびっと〉に出入りしているそうだが、そのことで警察から連絡があった、あの店のカウンターのなかには警察と通じているものもいるので、それがわかったそうだが……というようなことを告げたという。こうしたことは、話としては紹介できても、いざ正式に抗議、というふうにはなかなかならないし、報道の対象にはけっしてならない(注22)。しかし、それが日常生活のレベルで起こっていることだけに、いっそう深刻である。 表現の自由の危機についても同じことがいえる。報道機関への直接の攻撃に対しては、それなりの反撃や抵抗もあり、社会問題化もする。だが、表面に現われぬ危機は、報道機関内部の腐敗という側面のほかに、民衆レベルでの表現手段に対する事実上の制限、圧迫として進行している。 民衆が知っていること、考えていること、主張したいことを、広く伝え、知らせ、表現する上で、記者会見や、議員を通じての国会の質問、それらを通じてのマスコミの利用という形式は、すべての人が誰でもすぐにやれる方法ではない。誰でもがやれる表現、伝達の手段といえば、街頭や集会での演説、ビラまき、ビラはり、パンフレットやミニコミの発行、配布、そしてデモなどの活動である。 こうした基本的な表現行為が、公安条例、道路交通法、屋外広告条例、軽犯罪法、さらに凶器準備集合罪などによって、ますます制限されてきていることは、すでに多くの指摘があるが、東京では、最近、大組織ならともかく、小さな市民グループだと、公安条例にしたがってデモの届けを出そうにも、それ以前に障害にぷつかってデモが不可能になりつつある。 71年秋以来、たとえば4月28日の沖縄デーとか6月15日の安保反対闘争の日、あるいは10月21日の国際反戦デーといった各政党や政治団体がいっせいに大きな集会をやることが予想されるような日にあわせて、わざわざ公園の改修をはじめて貸し出しを一時的に停止したり、あるいは付近住民から「請願」や「陳情」があったことを理由に、集会やデモ出発地として使ってきた公園の数を減らしてきた上に、各区では区議会の審理も経ずに行政事務段階で区の公園管理規則を改悪し、あるいは窓口事務での内規を変えて借用手続きをことさらに複雑化させたり、使用料を大幅に値上げしたりした(注23)。 民衆に保障されているはずの表現の自由、つまり知らせる権利・義務の行使が、憲法や法律、あるいは地方議会の条例などの面では何一つ変わっていないのに、事実の上では不可能になりつつあるわけである。 一つには、運動の側が集会場や公園などを使用する際に、これまで、そこをただ集まる場所、デモ出発の場所として考えるだけで、そこが周辺に住む人びとにとっては日常の生活の場なのだということへの注目が足りなかったと思う。集会やデモの会場として公園を使う時、近所の人びとにその日の行動を知らせ、場合によっては参加を訴えるというような活動や、またそのことについて付近の人びとと話し合う場をつくるというようなこともあまりやられてきていない。だから付近の人びとには、それぞれのデモの独自性もわからないし、デモ一般が自分たちの生活のなかに介入してきた異質なものとしか受け取れない。 警察はそこに目をつけて、事前に町内会の回覧板などを用いて、デモの予告だけでなく、たとえば市民のデモの場合でも、危険だから雨戸を閉め、子供を外に出すな、自動車やその他燃えそうなものをしまっておけ≠ニいうような注意を流す。そして、たまたま機動隊とデモとが衝突するようなことでもあると、こんな街なかの公園で集会を許可すること自体が無理なのだ、という、住民側からの「自主的」陳情や請願を地域のボス的世話役を通じて組織させる。 最近、東京の市民団体のデモでは、集会の前に、会場周辺の家々を個別訪問し、その日の行動について理解と協力を求めるビラを配ることをはじめた。 生活の場へきりこんで、そこで実質的に権利を擁護し、自由の危機に対抗してゆくことは容易ではない。しかし、表現の自由の問題にしても、それを報道機関と権力との間、あるいは議会内での政党間の問題というようなレベルにとどめておくのではなく、民衆の日常生活のレベルでの問題として認識しなおされないかぎり、新聞の大見出しと議論の空転のうちに事態がいっそう悪化していくだけという状況を変えることはできないだろう。岩国の〈ほびっと〉の存在も、そうした民衆の日常生活のレベルにおける努力の一つなのだと考えられる。 -------------------------------------------------------------------------------- (注1) 同じ日、これより先にすでに岡田泰氏は広島市の自宅で逮捕され、氏の勤務先であった教学出版社(株)や同僚の友人宅二か所も捜索を受けていた。ただ岡田氏に示された逮捕状によると、「岡田泰はほか数名と共謀の上、昭和四十六年一一月中旬頃、大阪市以下不詳の共産同赤軍派構成員西村某のアジトにおいて、反戦米兵、岩国べ平連等を通じて窃取した……」とあり、期間と場所が、岩国の喫茶店の捜索差押許可状とくい違っていた。(もとへ戻る) (注2) Pacific Counseling Service は本部を米サンフランシスコにもつ反戦グループで、日本各地をはじめ、香港、フィリピン、タイ、南ベトナム各地に米兵向け法律相談所や活動事務所をもって活動している。活動資金は米国内の教会関係者や多くの市民からの寄付にあおいでいる。(もとへ戻る) (注3)〈ほびっと〉経営者中川文男を原告とし、広島・山口両県と国を被告とする国家賠償請求事件の広島地方裁判所民事部宛「訴状」1972年8月7日提出)参照。(もとへ戻る) (注4)〈ほびっと〉は鉄筋ではなく、『毎日』のこの部分も誤り。(もとへ戻る) (注5) 岡田氏に対する嫌疑は、神戸拘置所に勾留中の木山高明氏の供述調書を主たる根拠とすると言われるが、この供述調書は71年11月中旬頃、大阪市内でライフルを目撃したという程度で、「一一月中旬以降」のことや「広島市内」のことはまったくなく、また岡田氏は赤軍派となんの関係もない。岡田氏は岩国の〈ほびっと〉を訪ねたことは一度もない。(もとへ戻る) (注6)「一種の興奮状態ですよ、新聞社全体の。……国民総発狂というか、ヒステリーですよ。そういう中で新聞が地味な原稿なんか出したって、デスクで通りゃしないんです。読者の興奮に新聞もワルノリしちゃってる」(『展望』72年6月号「各紙記者匿名座談会」)。だが、読者の興奮は、報道機関がつくりだしたもので、たとえば『毎日』72年2月9日付「現場記者は証言する」の記事に「逮捕された連合赤軍の五人が一人ずつ待ちかまえた報道陣のライトのなかに浮びあがると、 報道陣からバ声が激しく飛んだ」(太字は筆者)とある。野次馬などから、「被疑者」にバ声が飛んだという報道は以前にもあったが、報道陣自体がそれを飛ばし、かつ紙面でそれを認めたというのは珍しい。現場の記者が、まず狂ってしまったのだ。(もとへ戻る)(注7) この事件に関して『朝日』だけは終始控え目な報道をしたし、また『中国新聞』は事件そのものについては他紙と同様、警察の主張をそっくり大きく報じたが、同時にべ平連や〈ほ びっと〉側の抗議と主張もあわせて三ダン見出しで大きく報じた。(もとへ戻る) (注8) 福岡の『読売』に対する抗議の経過は『べ平連通信ふくおか』第20号(72年7月10日付)に詳しい。(もとへ戻る) (注9) 前警視総監秦野章が現職時代に書いたつぎの文章は、警察のマスコミへの態度をよく示している。「この情報化社会の中で、警察が、新聞、テレビ等のマスコミに対しどういう姿勢をとり、協力をしてゆくかということを、警察幹部は自分の重要な任務として、むしろ警察プロパーの問題として銘記しなければならない。七〇年代では、警察というものは、いまや全く民衆とともに、民衆の中にあるのであって、決してらち外にあるのではない。それゆえ、警察とマスコミの関係は、協力というか、それよりもいわば協業的協力の立場にあるぐらいに考えてみる必要があろう」(「新しい警察――七〇年代への挑戦」『フォト』70年3月15日号および『自警』70年4月号)。(もとへ戻る) (注11) 『世界』72年6月号「根もとにある問題」(もとへ戻る) (注12) 田英夫『マスコミの危機』(市民書房)230ページ参照。(もとへ戻る) (注13) S・ハーシュ、小田実訳『ソンミ』(草思社)133ページ以下。(もとへ戻る) (注14) こうした考えは国分一太郎ものべている。『新日本文学』72年6月号「議政壇上のこととしてではなく」(もとへ戻る) (注15) 中薗英助『現代スパイ物語』(講談社)「まえがき」(もとへ戻る) (注16) この「ホビット」は喫茶店名ではなく、在日PCS活動家のペンネームで、喫茶店〈ほびっと〉の名はそれからとられた。(もとへ戻る) (注17) われわれ日本人や、日本の事情に詳しいアメリカ人にとっては「日本共産党に支配されたべ平連」などという発言は噴飯ものだが、人道主義的立場からの反戦兵士の援助に金を出している一般のアメリカ人や教会関係者にとって、この一言はまだかなりの影響力をもっている。岩国基地のなかでは、将校は下級兵士に対し、べ平連とは「北朝鮮の共産党の手先だ」と教えこんでいる。(もとへ戻る) (注18) 同文書の全文はつぎのとおり。――〈ほびっと〉の店を米軍構成員が訪れていることは、それら構成員自身の福祉に有害な影響を及ぼすとともに、当基地隊、居住部隊、ならびに米合衆国の安全にとっても有害である。よって〈ほびっと〉への「立入禁止」(オフ・リミッツ)をただちに実施する。公務執行中の軍官憲を除き、在日米軍構成員が日本国岩国市今津二丁目二ノ三九所在の当該建物に入ることを禁止する。(もとへ戻る) (注19) 「べ平連が米連邦裁判所へ提訴」というのは誤り。さきにのべたように、アメリカのザイツ弁護士らがワシントン地方裁判所に提訴したもの。なお『朝日』は、この問題が青森県議会にもち出されたのをきっかけに10月2日付で報じた。(もとへ戻る) (注20) 『展望』72年6月号「ジャーナリズムと『良識』」(もとへ戻る) (注21) 同日付『朝日』は五ダン見出しで「三警官殺害を自供 過激派学生と共謀し襲う 成田、逮捕の青行隊員五人」と報じ、秋葉憲一氏、戸村重雄氏の二人が「ほぼ完全に自供し」「自供したら胸の中がすっきりした」「残された家族が反対同盟から村八分される」と非常におそれている、と書いたが、この記事の出た朝、戸村氏は自宅にいて、スイカの出荷を部落の人びと15人とやっていたというし、また獄中の秋葉氏は「冗談じゃない、ウソもいいかげんにしてくれよ」と弁護士に語っている(三里塚・芝山連合空港反対同盟と三里塚空港反対青年行動隊の7月20日付共同声明「『三警官殺害事件』を偽造する官憲、マスコミ合体の大謀略に抗議する!」)。なお、この直後、獄中にある三里塚青年行動隊員14人は、ことごとくこの『朝日新聞』を見せられたり、取り調べ官から話されて、自供を迫られたという(同声明)。(もとへ戻る) (注22) べ平連は72年3月末、この件を含むいくつかの〈ほびっと〉に対するいやがらせや営業妨害行為について、岩国署に正式に抗議した。『べ平連ニュース』72年4月号。(もとへ戻る) (注23) 『人間として』10号(72年6月)「表現の自由は、いま」29〜32ページ。および『法学セミナー』72年10月号「セミナーの眼」 (もとへ戻る) (江藤文夫・鶴見俊輔・山本明編「講座 コミュニケーション」第5巻『事件と報道』 研究社 1972年刊に掲載) |