news-button.gif (992 バイト) 15. 半世紀近く前の夢を今振り返って『遠い飛行機雲――一九四三年川越中学入学生記念誌』 埼玉県立川越高等学校 中47期・高1期同窓会刊 1992年8月に掲載 (07/04/28)

 半世紀近く前の夢を今振り返って
                 
『遠い飛行機雲 ――一九四三年川越中学入学生記念誌』 埼玉県立川越高等学校 中47期・高1期同窓会刊 1992年8月に掲載)

               吉 川 勇 一

川中への転校手続き

川中に転校したのは三年生の一学期、一九四五年の六月だった(川越高校『創立八十周年記念誌』の故佐々木信治先生の文章〔四四一頁]には、昭和十九年の二学期とあるが、これは、先生の思い違い)。東京の飯田橋にあった家が五月下旬の大空襲で焼失し、すでに母や弟妹たちが疎開していた入間川のほとりの田圃の真中、入間郡太田村大字池邊(のち大東村、現在では川越市に合併)に移ることになったからだ。東京に残っていたのは、父と私とまだ若かった祖母の三人だが、この空襲では、三人ともエレクロトン焼夷弾の破片で軽い負傷をした。木造三階建てだった家を貫いて、一階の畳の上で火を吹いている焼夷弾は、今でも脳裏にはっきりと残っている。
 転校手続きのため、母といっしょに川中の木造校舎の玄関を入り、すぐ右手にあった事務室の窓口に
書類を出した時は、休日だったのか、あるいは授業中だったのか、とにかく校舎は森閑としていて、人影はなかった。事務室の前で手続きのすむのを待っていると、玄関から一人の生徒が入ってきた。やはり事務室に何か届けを出しに来たらしかったが、えらく大柄の生徒で、私は多分五年生だろうと推察した。ところがである。彼は事務室の窓口に向って「三年何組、東孝彦です!」と怒鳴ったのだ。あんな大きなのが同級生! えらい学校へ転校してきたものだ、と私は思った。もちろん、東君は同級生の中でも一、二という背の高さだったわけだが、最初に眼にした三年生がたまたま彼だったため、私は少し怯えた。これが川中の第一印象であった。

勤労動員先の高萩飛行場

私が配属されたクラスは、遠藤浩良君が級長をしていた佐々木信治先生担任の三年二組で、動員先は日高町(現日高市)の高萩飛行場だった。それから毎日、私は二、三キロほどある「西川越」駅まで歩き、蒸気機関車にひっぱられた国鉄の列車で高萩へ通うことになった。「西川越」駅までは田圃の中の道が続き、列車がくるのは遠くから見えた。遅れそうになって駅まで走ったことも何度かあったが、駆ける中学生の私の姿も、駅員には遠くから見えた。すると、私が息を切らせてホームに駆け込むまで、駅員は発車の笛を待ってくれるという、戦争激化の中とはいえ、長閑なところもあった時代だった。
 転校前の学校は第一東京市立中学校、のちに都立九段中学校(現在の都立九段高校)で、勤労動員先
は東京駅前の中央郵便局だった。郵便小包の差し立て(区分け)の仕事をやった。連日のような空襲で、帰りの電車が不通になって、東京駅から飯田橋まで歩いて帰らなければならないことも何度もあり、一度などは、途中、火に追われて反対の方向に進み、墨田川のほとりにまで出てしまったこともあった。
 高萩の飛行場もよく空襲に見舞われたが、こっちはB29ではなくてグラマンやロッキードなど小型の艦載機による機銃掃射だった。同級生の中からよく死傷者が出なかったものだと思うが、これは引率の先生がたのたいへんな気遣いのおかげだったのだろう。今でも、防空壕のなかから自分は頭を出しながら、生徒達に向って「頭を下げい、頭を下げい!」と怒鳴っていた長谷川貞平先生の姿が眼に浮かぶ。
 休み時間に、監督の工員や先生の眼を盗んで、飛行機の風防ガラスの破片を細工して将棋の駒をつくったりするのと、仲よくなった陸軍の飛行将校から航空糧食(今から思うと、キオスクなどで売られている「カロリーメイト」とそっくりな味だったと思うのだが、どうだろう?)をもらうのが実に楽しみだった。最初それを恐る恐る口にしたとき、世の中にこんなうまいものがあるのかと驚いたのだった。

  「お説教」やいじめはなかった

「お説教」については、転校直後からずいぶん聞かされてきたが、少なくとも私に関する限り、同級の仲間からの転校生いじめはほとんどなかった。一度、飛行場の真中の草原に呼び出されたことはあった。殴られるのを覚悟で行ってみると、同級生五、六人の輪に取り囲まれて座らされた。「お前は東京からの転校生だから生意気なんだろう。東京じゃ女学生なんかと映画なんか見たのか?」と、見当違いな質問とも脅しともつかぬことを言われたのだが、「そんなことありません」と神妙に答えると「川中の質実剛健な校風に軟弱な風潮を持ち込んだら許さんぞ」という程度のことを言われただけで放免された。もちろん殴られるようなことはなかった。あとにも先にもこれだけだった。
 疎開者に対するイジメやイビリは、弟たちが通っていた村の小学校や、近所の子ども仲間の間ではひどかったようだが、川中では陰湿なイジメはなかったと思う。今でも記憶にあるのだが、当時、そこで使われていた方言で、一人称単数の代名詞として「ウチラ」という表現があった。それを私が使っていたら、同級生の一人が「せっかく東京から来た君がそんな言葉は使わない方がいいんじゃないか」と注意してくれたことがあった。むしろそんな親切やら忠告やらを、私はずいぶん多く受け取った。川中の生活は、動員先でも敗戦後、校舎へ戻ってからでも、それ以前の九段中学での生活に比して、ずっと私は幸福だった。ただし数学の授業を除いては……である。
 私は、自分では、文科系というよりも理科系の人間だと思っている。六十をすぎた今でも、パソコンの前に座って、プログラムなどいじりだすと徹夜に近くなってしまう。宇宙のことだの自然現象(たとえば火山の噴火のような)が大好きで、川越市内の古本屋でたまたま見かけた戦前に出版された『最新自然科学大系』とかいう五、六冊のシリーズものの本が欲しくてたまらず、小遣いの数ヵ月分前払いをねだってついに手にすると、何度も何度も読み返した。山本宣治の名はその本の中で知ったのだが、最初は書いているテーマから性科学の学者だと思い込んだ。学科でいうと地理が得意で、進学するのなら地球物理学か地理学をやりたいと望んでいたのだが、問題は数学だった。

 「転校生クラス」の副級長

 戦争の激化とともに、川中には私のような転校生が激増した。敗戦後、授業が再開されると、こういう疎開組の転校生だけを集めて、特別の一クラスが編成された。疎開生は「学力がとくに低い」という理由からだったようだ。学校にはそうした方がいいという理由があったのだろうが、今から思えばこれは差別だった。この疎開転校組の級長一人だけは転校生でなく、越生から通っていた、荒井栄一君だった。いわば転校生のお目付け役として派遣されてきた譜代大名か旗本といった役割で、バラバラの転校生をまとめる責任を負わされた気の毒な立場、ずいぶん苦労があったと思う。その下で副級長に任ぜられたのが私だった。まだ一度も試験はなかったはずだから、成績などとは何の関係もなく、ただ都立の中学校からの転校生だというだけの理由だったに違いない。
 東京の中学校では、動員にかり出された時期が地方都市の中学校よりもかなり早かったようだ。数学では、因数分解も終わらぬうちに授業は打ち切られてしまっていた。だが川中ではすでに終わっていた。敗戦とともに再開された授業で、最初に数学を教わったのは長谷川先生からだ。先にも触れたが、長谷川先生は決して悪い先生ではなかった。今でも多くの同級生が敬愛の念をこめて亡き先生の思い出を語っていることからもそれはわかる。しかし、それは生え抜きの川中生にとってのことであって、私たち転校生はいささか惨めな思いをさせられた。黒板にかかれた因数分解の問題を次々と指されて答を求められるのだが、出来るものはなく、やがて順番は副級長の私にまわってくる。もちろん私もできない。すると長谷川先生は「フン、これだから疎開組はダメだな。都立中から来た生徒にも出来んのか」と言って、最後に荒井君に当てる。彼には出来る。それから先生のお説教が始まるのだ。「川越中学は伝統ある名門校だ。優秀な生徒が揃ってる、そこへ戦争のせいで、試験もなしに無候件で転校生が多数入ってきた、やむをえぬとはいえ、これでわが校の質が下がるようなことは許されない。転校生にはとくに頑張ってもらわなけりゃならん」こんな話を何度となく聞かされた。これは気が滅入ることだった。
 長谷川先生の後に数学を担当したのが、東大の数学科の大学院にいるという、度の強い眼鏡をかけた若い河盛先生だった。おっかない先生ではなかったが、教えることはサッパリわからなかった。ある学期末の試験で、私は数学の答案用紙を白紙で出し、ただ「どうしたら数学が好きになれますか」とだけ書いた。やがて返ってきた答案用紙にはもちろん0点が付いていて「馬を水のそばに連れてゆけるが、馬に水を飲ませることは出来ない」と赤インクで書かれてあった。転校生のなかにも数学が優秀な生徒はいた。私の隣りの席にいた市川弥太郎君はその一人だ。彼の答案には一〇〇点がついて戻ってきたのだが、のぞきこむと、やはり何やら赤インクで書いた文字があった。見せてもらうと「群雀中の大鷹よ、ただ一羽中天を高く翔べ」というようなことが書いてあった。私は、馬にされたり、雀にされたり、もう数学なんかやるもんか、と思ったのだった。だが数学を捨てれば、理系への進学は無理で、かくして私の地球物理学も地理学も、うたかたと消え去った。地理が好きだった私は、原田節二先生が指導していた郷土班に入り、小山誠三君や、一級下の本橋藤治君らと堀兼村の宙水、いわゆるガンガン井戸の調査などをやった。理系を捨てて旧制高校の文系に進んだ私は、やがて民俗学に興味を持ち、大学に入ると柳田国男氏の民俗学研究所へ通い始めるが、それも学生運動に飛び込んで中断してしまう。このあとのことは昨年出した拙著『市民運動の宿題』(思想の科学社)に書いた。話を川中時代に戻そう。
 数学の先生では御難続きだったが、英語の西川喜四郎先生、国語の佐々木先生、市川正男先生、地理原田先生、そして一時期だったが英語の島村盛助先生などの指導や授業はありがたかった。
 さて、こんな風に思い出話を綴っていたのでは紙数がいくらあっても足りなくなってしまう。川中時代の体験で、今から振り返って言っておきたいことを最後にもう一つだけ書かせていただく。これは川中に直接かかわる問題ではない。敗戦直後の占領下に生活を送った私の感性についての苦い反省である。

  旧講堂で見たアメリカ文化映画

 敗戦後、学校で最初に見せに連れてゆかれた映画は、グリア・ガースン主演の『キューリー夫人』だったと記憶する。しかし、映画館へ連れてゆかれることはほとんどなく、映画に接するのは川中の講堂での方が多かったと思う。米占領軍のCIE(民間情報教育局)からだったか、よく米軍将校が若い兵士に16ミリフィルムを持たせてジープで学校にやってきた。そうすると全校生徒が講堂に集められ、板張りの床に腰をおろして映画を見せられることになる。
 多くはアメリカ社会を紹介する白黒の文化映画で、たとえば銀行マンのパパ、地域活動に献身しているママ、大学生の長男に高校生の妹などという一家の生活が描かれているといった類のものだった。銀行員のパパが車で出勤してゆくと、しばらくして長男の大学生がこれまた車で出かけてゆく、そして子どもたちを学校に送り出した後、ママは地域社会での慈善事業のバザーか何かのために、またも車で外出してゆく。いくらなんでもこれはひどすぎる!と私は思った。アメリカが日本より優秀なことは、敗戦後も嫌というほど痛感させられてきたが、こんな映画で日本人がだませるものか、父親が自動車で出勤して、その車が戻ってきてもいないのに長男がまた車で出かける、そしてその車が帰ってきた様子もまったくないのに、母親が車を使う、こういうのを子どもだましの嘘というのだ、私はそう思った。
 クラスへ戻って担任の佐々木先生にそれを言うと「いや、あれは嘘ではない、アメリカでは、一軒に車が三台あるなんていうのも珍しいことではないんだ」これには私はギャフンとなった。アメリカの「すごさ」をあらためて思い知らされ、そして、一体この日本もあんなになれるんだろうか、なれたらいいな、と思った。とにかく自家用車はおろか、冬の通学に着る外套もなければ毛糸のセーターも持たぬ生活だったのだ。たまたま配給でもらった旧日本軍の物資、豚皮製の軍靴を手にしてこ躍りした時代のことである。

  マニラで迎えた日本春闘

 さて、話はぐっと飛んで、一九七四年春のことだ。私が事務局長をやっていたべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の反戦運動も一区切りついて、初めて海外旅行に私は出た。東南アジア諸国を回り、反戦運動を通じて知り合ったフィリピンの友人を訪ねてマニラにも飛んだ。彼は二十歳そこそこの若い反マルコス体制の活動家で、非合法の反地下運動にもかかわっている青年だった。折りしも日本では、まだ健在だった総評を中心に大規模な春闘の真最中、この年は交通機関のゼネストも行なわれようとしていた時期だった。
 泊まっていたホテルで、私はその青年と英字新聞を読み、たまたま話題はそれに出ていた日本の春闘のことになった。英字新聞だから民衆向けの新聞ではなく、フィリピンのインテリと外国人向けのものだが、記事によると、今回の日本のゼネストはかなり徹底的で、観光客や商用の訪問者が羽田へ着いても、モノレールもバスもストだし、一部タクシーもストに入る。ホテルに泊まろうとしても、大会社が通勤不能の社員のために空き室をすべて押さえてしまっているから、泊まることも出来ない、スト中は日本訪問を見合わせた方がいい、というような警告の記事だった。
 すると隣の青年が、この記事には誤りがあると言い出した。聞いてみると、ストの要求として、労働者の平均月収三三三ドル(約一〇万円)では食えないので、三〇%、一〇〇ドル(約三万円)の賃上げを要求してストに入るとあるが、この数字が一桁違っているというのだった。数字はドルに換算してあったので、私はもう一度計算しなおしてみたが、間違ってはいなかった。これでいいんだ、と言うと、彼は「じゃあ、月収ではなくて年収の間違いだろう」と言う。私はさらに確めてみたが、やはり間違いはない。「ザッツ・インクレディブル!」(そんなこと信じられない!)と、彼は叫ぶ。私は当時の日本政府の大企業優先政策を挙げたり、住居費、教育費、医療費の高騰を挙げたりして、このストの要求が無茶な数字ではないことを縷々説明したのだが、彼はなかなか納得しなかった。彼らの生活費は、もちろんピンからキリまであるが、貧困層の割合は圧倒的で、その収入は最低の八ペソ(三七〇〜三八〇円)年収三五〇ドルはザラ、それでも失業者がいっぱいという状況で、確かにこの日本労働者の要求は理解し難かったろう。そして最後に彼が言ったことは、「月収三三三ドルもあって、それでも食えずにストをやらなきゃならないなんて、そんな国にはなりたくないなア」だった。

  マニラの夜の自省

 彼が帰った夜、私はベッドのなかで一人考えていた。そして、一家に三台の車を持つアメリカ人のようになりたいと思った中学生当時の映画の後の感想を思い出していた。一家に三台とまではいかなくても、当時夢に描いた生活のレベルに私たちほすでに達している。日本はGNP世界第二位、憧れを絵に描いたようなアメリカにさえ、膨大な貿易黒字を出している経済大国、「富裕」国家になっている。中学生だったときの夢が実現して、私たちは今幸せなのか。私の答はイエスではない。戦火と敗戦の混乱した日本を、これだけのものにさせる上で、昭和一桁世代の功績を讃える話もよく耳にする。しかし、この点では、同級生諸兄とはあるいは見解を異にするかも知れないのだが、私はそれを誇る気分にはない。
 敗戦時の暮らしは、ひもじさ、寒さ。自動車はおろか、テレビも冷蔵庫も、洗濯機もなかった。しかし自衛隊も、ミサイルも、PKO法案も、公害も、腐敗堕落した金融・証券業界もなかったし、『となりのトトロ』の画面そっくりの自然や人間があった。こういうと、単なる懐古趣味や素朴自然主義の感想ととられかねないので、いささかの釈明をすれば、私の現状批判は、弱者を切捨て、ひたすら強者の利益のみを追求してゆく日本社会のありようなのである。確かにフィリピンの人びとの生活は貧しい。私はマニラのスラム街にも何度も足を運んだが、しかし、そこの生活のなかには、私たちに失われている、人びとの間での弱者への優しさ、温い人間同士の交情の息吹があった。
 
一九四五〜六年当時、中学生だった私が頭に描いた望みの方向が根本的に誤ったものだったことを、私は認めざるを得なかった。フィリピンの青年は経済大国日本の姿を見て、「そんな国にはなりたくない」と私に言った。私は中学生のとき、映画を見て、そうは言えなかった。その違いをあらためて、マニラの夜に思い返していた。もちろん、私自身がそのために意識的に努力してきたわけではない。十五や十六歳の少年が持った夢は、その時一時だけのものだったし、また五十年先の見通しなど持てたはずはない。むしろ私のその後は、こうした流れに逆らい、反戦運動や市民運動のなかに身をおいてきたとは言える。しかし、それにしてもこの日本の方向の誤りは、左翼にも責任なしとは言い難い。
 フィリピンから帰国して、あらためて調べてみたのだが、アジア、第三世界の民衆との連帯などというスローガンは春闘の要求のどこにも見あたらなかった。それを見つけたのは、三里塚の空港建設に反対して参議院議員に立候補していた故戸村一作氏の選挙スローガンの中でだけだった。総評の瓦解、社会党の凋落も故なしとしない。敗戦後半世紀近くの日本人の努力の方向には、根本において欠けるところがあったのだ。こうして私の軌跡は、一九六〇年代後半のベトナム反戦運動のなかで、つまり日本が高度成長を達成した時期以後、大きく転換することになった。
 この日本をもう一度変えるのには、後もう半世紀ぐらいは必要なのかも知れない。六十歳を過ぎ身体の故障もあちこち出てきながら、今の私は、中学生の頃を振り返って、そんな思いを抱いている。

(『遠い飛行機雲 ――一九四三年川越中学入学生記念誌』 埼玉県立川越高等学校 中47期・高1期同窓会刊 1992年8月 より)  

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