14. 「ポスト・オノダ フィリピン印象記」(『 アサヒグラフ』1974年6月14日号に掲載) (07/04/27)
ポスト・オノダ フィリピン印象記
写真と文 吉川勇一
マニラを訪れる日本人観光客の数は、ここ一年で倍増した。いい国ですね。観光客は皆そういう。商社員もいう。戒巌令以来、日本商社員が強盗にやられることもなくなりましたね。一昨年のバターン・デーにマニラにあふれた対日感情は、表面的にはいまはないように見える。小野田寛郎氏を日本へ送り返した直後のマニラでも、観光客がそれを感じることはけっしてないだろう。だが、見たくないものは見えないのだし、また見えないようにされているだけなのである。
終わっていない
「バターン死の行進」
日本をたったのは三月の半ばで、ちょうどフィリピンから小野田寛郎氏が復員してくるのといれ替わりだった。
香港、バンコク、シンガポール、ジャカルタと、回る先ざきの新聞では、そのために、つぎつぎと小野田問題の論評におめにかかることになった。いずれも小野田氏を熱狂的に迎える日本へのきびしい批判であって、このオノダ・サガ
(SAGA=英雄譚)を、カミカゼ特攻隊や三島のハラキリと結びつけて日本人の軍国主義的心性への警戒をよぴかける論調もあれば、日本の商社マンやジェトロの活躍ぶりと関連させた皮肉たっぷりの風刺物語もあった。とくに、この「英雄」とその仲間たちが、戦後、三十人以上ものフィリピン人を殺害していることに対し、日本の大新聞がほとんどふれずに
、ただただ英雄扱いしていることへの、強い憤りの表明があった。
それだけに、私はフィリピンには、なんとしてでも四月九日に到着したかった。四月九日――それは、太平洋戦争におけるバターン半島陥落の日であり、いま、フィリピンの国定記念日にされ、一昨年のこの日などは、マニラの日本大使館や日本文化センターへ数千人のデモがおしかけ、日本の経済侵略への抗議を表明するということさえあったからである。
◆ ◆ ◆
飛行機の接続が悪くて、四月九日の夕刻マニラに着いた私は、ホテルでその日の新聞を集めて読んでみた。意外なことに、東南アジア各国でふれた対日批判の空気は、ここの紙面にはなかった。もちろん、この日
バターンの最激戦地だったサマット山頂の巨大な十字架の前では、政府主催の記念行事が行われ、それにかんする報道やあるいはバターンの戦闘にかんする紹介記事などはあったのだが、その記事にせよ、戦った相手の侵略者日本軍の姿は薄れていて、現大統領マルコス氏が、当時フィリピン軍の中にあっていかに勇猛に民主主義のために戦ったかという、いわばマルコス・サガの文章になっていた。
【写真:バターンでの最激戦地サマット山のいただきには 巨大な十字架が建っていた。(右)】
日本語も日本円も通用するマニラ市内の一流ホテルでは、この日も日本人団体観光客が札びらきって土産品を買いあさり、キャバレーやナイトクラブから連れてきた若い女と腕を組んでは、各自の部屋へと続々消えていっていた。 バターン・デーにつづく一週間は、イースター(復活祭)にあたり、アジア唯一のキリスト教国フィリピンの首都は、ちょうど日本のゴールデンウイークさながらの大型連休の中で、教会を中心に、イースターの諸 行事が熱狂的にくりひろけられていた。一訪問者としてマニラの表面を見ている限り、それまでの国ぐにで感じた対日批判も小野田批判も、さらにこの国が戒厳令下にあるという事実も、わからないようになっていた。
◆ ◆ ◆
私は数日のち、マニラをたって地方へ出ることにした。日本の賠償でつくられたという幅広いハイウエーを、日本製バスで北へ向かい、アンへレスで降りると、有名なクラーク米空軍基地がそこにある。ベトナム戦争で大きな役割を果たしたこの基地も、土曜日のために飛ぶ飛行機もなく、正門の護衛の米兵は遠来の日本人観光客としての私にいろいろ説明をしてくれた。――キヤノンか。いいカメラだ 私のはニコンだ。その米兵がいうと脇から愚人兵がいった。――私のはヤシカだ。【写真:マニラの 北アンヘレスにあるクラーク米空軍基地 ベトナム戦争当時の硝煙のにおいは いまは薄らいでいる(左)】
さらにバスをのりついでバターン半島を横断し、西海岸のオロンガポに向かう。ここにはアジア最大の米海軍基地がある。【写真:アジア最大の米海軍基地のあるオロンガポの街 街なみといい 人々といい どこか横田や横須賀に似ていた(右)】
人ロ三万の街だが駐留する米兵一万五千、それを相手としてキャバレーなどで働く女性の数五千人。基地正門前は、横項賀や岩国でみかける例の光景と同じである。写真をとっていると若い米兵が「いいのがとれたか」と話しかけてくる。
――日本人か、僕は日本に住んでるんだ、女房、子どもも佐世保にいる、いやなに、ちょっと一週間だけ訓練で来てるんだ、エンタープライズはこないだ出てった、空母オリスカニーがもうじきはいる。
そんなことをいって、米兵はナイトクラブにはいっていった。
夕食後、ホテルの食堂で日本人らしい人物に気がつき、話しかけてみた。彼は米兵相手のステレオ・セールスマンで、一年近くそこに滞在しているという。彼によると、オロンガポには日本人が八人いて、すべてがステレオ・メーカーの社員。ナショナル、東芝、サンヨー、ソニー、テアック、トリオ、パイオニア、アカイ。
そんなにいて商売になるのかと聞くと.年の平均売り上げは.三億円、成績のいいのは四億円はいくという。こんなへンピな所に来た日本人観光客には初めてあったという彼に案内されて、街のキャバレーに行ってみることになった。
そして仰天したことには、テーブルによってきて周囲に座ったそこの女たちが、片ことにせよ、なんと日本語を話すのだ。
――アナタ、ドコ? トーキョー? シャチョーサン、コンヤノヨテイナニ? ――いったい、どこで日本語覚えたの?
――ニッボンエカンコーデイッタヨ。 ――え? 観光? どこへ? 京都? 奈良?
――ノー、ワタシ行ッタヨ、ヨコスカ、ヨコハマ、カミセヤ(上瀬谷)、ヨコタ、タチカワエ行ツタヨ!――
バターンの西岸、この人口三万の街は、出入りする第七鑑隊の艦艇だけではなく、こうして、妻子を佐世保におき、ちょっと訓練に来たという米兵や、年間三〜四億を売り上げるステレオ・セールスマンや、そしてフィリ ピン版カラユキさん(いやジャパユキさんか)たちによって、私の予想以上に日本と結びついていたのである。
◆ ◆ ◆
翌朝、私はふたたびバスでバターン半島を下り、サマット山をたずねることにした。標高六〇〇bの山頂までは.幅広い舗装自動車道路が通じていて、下から見上げると容易に登れそうに思えた。とにかく、ふもとから先は バスなどの交通手段はなく、歩く以外になかった。
ふもとには数日前のバターン・デーにここで行われた行事のためのアーチが残り、それをくぐって少し歩くと、アスファルトの上に砕石をこすりつけて書いたと思われる「バターン・デー」という落書きを見つけた。たれが、どんな思いをこめて、ここにこれを書いたのか。
【写真:4月9日「バターン・デー」の行事の名残か サマット山の入り口には アーチがあった(左) フィリピン国民から 抗日感情を直接うけとることはまずない 路上のこの落書きは どのような気持をつたえようとしているのだろう(右)】
さて、歩き出してみると、これは思ったよりつらい旅となった。第一、この道は自動車のためのもので歩く道ではなく、勾配はゆるいかわりにやたらと大きくくねっていて、実際の何倍もの距離を歩かせられる。それに四月のフィリピンは真夏で、太陽は次第に真上に近づき、道のアスファルトはもう溶け出している。三〇度はゆうに越えていよう。汗びっしょりのところへ熱風がほこりを吹きつけ、泥んこにまぶしてくれる。
途中、古い大砲の残骸を目にしたが、もう米軍のものか、旧日本軍のものかを確かめようとする元気さえ失せ、二時間半かかって山頂へたどりついたとき生まれてはじめて足がつるという経験までした。それでも、これは「死の行進」の五十分の一にもならぬ距離だ。(死の行進は一一二`で、一万六千人が途上で死んだ)
【写真:サマット山頂への道すがら 激戦の跡を忍ばせる大砲の残骸を見た(右)】
山を降りて、バターン最南端のマリベレスへ着いたのは、午後二時。ここは有名な「死の行進」の出発点「0`b」の地点である。その記念碑の場所をいろいろの人にたずねたのだが、ある若者は、それはサマット山の上にある十字架のことだなどといい、別の若者に聞いてそれらしき所へ行ってみると、工業用地として開発中の広い土地に埋っている造船会社の看板だったりした。
【写真:「バターン死の行進」のスタート地点の記念碑 海の向こうには コレヒドール島が見える(左) バターン半島最南端の町マリベレス もとはちっぽけな漁村だったが いまは大工業団地が造られつつあり
日本の企業も進出の予定という(右)】
マリベレスは、マルコス大統領によって自由商業地域に指定され、大工業団地がつくられようとしており、トラクターやパワーショベルがうなりをあげ、山を崩し、田畑を埋め、さながら三里塚の光景で、日本の企業もだいぶ進出してくる予定だとの話だった。
ようよう年配者から教えられて、バターン死の行進出発地の碑までたどりつくと、そこはコレヒドール島を沖に見る小さな丘の峠で、日本ではとても見ることのできぬ深い青空に銃と鉄カブトを組み合わせた記念碑が浮かびあがり、そばに咲く赤い花が実に美しかった。しかし、ここに大工業団地が完成したとき、この空と海は、いつまでこのままであるのだろうか。
◆ ◆ ◆
一昨年のバターン・デーに、日本大使館を囲んだ人びとは、いま、どこに行ったのか? フィリピンの友人に聞くと、彼らは、牢獄にいれられているか、市内でひそかに反マルコスの地下活動をしているか、あるいはルソン北部の山中へわけいって銃をとっているかだという。そしてマニラの街では、イースターの行事が、大規模に、華やかに進行し、観光客の目を奪っていた。だが、私はつぎのようなことも経験した。
マニラでタガログ語の映画を見た。ドルフィという人気喜劇俳優が主演する「サルへント(軍曹)・フォフォンガイ」という戦争もの喜劇で、だらしない街頭菓子売りの青年が恋人を日本兵に奪われそうになって発奮し、ついにはゲリラに身を投じて、悪虐日本軍をバッタバッタとやっつけるという筋である。
そこに登場する日本の上級将校は、なんと「キャプテン・アジノモト」という名前で、そう呼ばれると満員の観衆はドッと笑い、彼がフォフォンガイ軍曹の自動小銃の前を逃げまわり、ついに倒されると、大きな柏手かまきおこるのだった。
また、ある日、マニラの本屋の子ども向け売り場で、シリーズものの劇画か並んでいるコーナーの中に、『FALL OF BATAAN( バターン陥落)』と題する一冊があるのに気がついた。
英語版とタガログ語版とがあるが、内容も絵も同じで、日本軍の虐殺、略奪、婦女暴行のすさまじさを物語にして描いた劇画である。ところどころには「パカ」「コラ」、あるいは「 MUSUMESAN UTSUKUSHIINE HE HE HE」 「BANZAI」などと、片仮名やローマ字の日本語がはいり、主人公として登場するフィリピン青年のセリフの中には「ヤツらは動物以下の残虐さだ。こんな民族はこの地上からまっ殺しなければならない」という激しい言葉さえあった。【写真:マニラで売られている劇画本「バターン陥落」 旧日本軍の虐殺や略奪が描かれ セリフには 日本語まで登場する(左)】
これをホテルの食堂でながめていると、顔なじみになったボーイがのぞきこんで、そしてポツりといった。――私の兄もバターンで殺された。
【写真:バターン・デーに続いて イースター(復活祭)の一週間が続く マニラ近郊で見た行事は からだを傷つけ倒れるまで歩くという すさまじいものだった(右)】
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マニラの新聞で日本の春闘ゼネストの記事を見た。平均月収十万円(三百三十三j)、三万円(百j)アップを要求して戦後最大規模のスト、と報ずる新聞を見て、フィリピンの若い友人は、一ケタ違ってるんじゃなかろうね、インクレディブル(信じがたい)、といった。
最低日給八ペソ(三百七、八十円)、年収三百五十jはザラという人びとにとって、たしかにこれは理解に困難な額だろう。私は、日本のインフレ、物価高について力説し、同時に、心中では、この春闘がアジアの人びととどこでどう結びつき、つながろうとしているか、そのスローガンなり方向なりが、このストに含まれていることを期待し、希望していた。
そして日本へ帰ってきて聞いてみたのだが、そうしたスローガンはなかったという。
そのあと、私は、反戦自衛官小西氏の裁判を傍聴に新潟に行った。そして新潟のホテルで聞いた話は、私にまたフィリピンとの関係をするどくつきつけるものであった。――お客さん、いま、ここの一流キャバレーやバーには、フィリピンから若いキレイな コがずいぶん来てますよ。半年か一年契約で連れてこられるんですが、カタコトの日本語もしゃべりますしね――。
サンダカン八番館は、いまや逆の形で新潟にあった。いや、そのほかの日本の主要な都会にも広がっているのだろう。
(元ベ平連事務局長)