『ジム・トンプソン――失踪の謎』
   1998
年の著者あとがき  ウィリアム・ウォレン

 

 本書の初版は一九七〇年に出版された。今回の改訂版では、いくつかの細かい点を付け加えた。あるものは、この間に知ることになった事実で、初版で書いた点をさらに明確にするなど、初版の情報に関連したものであり、また、あるものは、登場してくるさまざまな人たちのプライバシーを侵害しないようにと心がけたため、かえって誤った努力だったかとも思える初版の意識的な削除部分などである。誤った努力だったというのは、それによってちょっとした誤解も生じさせたように思えるからだ。それ以外では、私は、おおむね初版のままにとどめ、第二のトンプソン伝説以降、現在までに生じたことは、ここでまとめて記しておくことにする。

 私とチャールズ・シェフィールドは、かつて、着替えやちょっとした休息のために、共同で一軒の家を使っていたことがあったが、トンプソンが行方不明になってから四日後のこと、シェフィールドがその家にやってきた。そこには電話が引いてなかったから、彼は、マレーシアなりその他からの電話にすぐに出られるようにと、その時はシルク商会の店で寝泊りしていたのだ。庭に出て一杯やっているときに、彼が突然言った。「何の情報も入ってこなかったとしたら、どうしよう。今だけじゃなく、ずうーっと来なかったとしたら、だ。」 私には、そんなことを考えること自体が馬鹿げていると思えた。場合によっては悪いニュースになるかもしれないとしても、何らかの情報が入ってくることだけは確実だと思えていた。それには時間がかかるかもしれないが、待つことは厭うまい、そのころまでに――四日間という期間は、まるで永遠のように長く感じられたのだ――私はそんな気持ちになっていた。だが、やがていつの日か、あのイースターの日曜日の午後、カメロン高原で何が起こったのかを、必ずや知ることになるだろう、そう思えていたのだ。

 だが、私は間違っていた。これまでの三十年間、新しい仮説が出されたり、古い仮説が生き返ったりはしてきたが、それらを実証すべき証拠となると、何一つ出てこなかったのだ。不用意な口の端から、あるいは初めて発表される極秘ファイルから、何らかの陰謀計画が暴露されるということもなかったし、原住民が、それまでひた隠しにしていた自分なり、自分の部族なりの秘密を明かすということもなかったし、さらにまた、ハイカーなり猟師なりが、ジャングルの洞窟の中で遺骨らしきものに出会うということも起こらなかった。

 私のこの報告の中に登場した人びとのうち、多くの人がこの世を去った。トンプソンの後を継いでタイ・シルク商会の常務取締役となったチャールズ・シェフィールドは、一九七三年にガンで死んだ。シェフィールドは、彼の前任者がカメロン高原で何らかの事件の犠牲者になったのだと信じていた。それから数ヶ月後、リチャード・ヌーンも、同じ病院で、同じ病気で死んだ。ヌーンはヌーンで、トンプソンは、生死にかかわらず、ジャングルの中にはいないという自分の主張は正しいと確信していた。この二人は、最後の数ヶ月間、よく顔を合わせては事件のことを論じ合ったが、両者とも、相手を説得して自説を捨てさせることはできなかった。「月光荘」のオーナー、リン博士夫妻、トンプソンとともにあの週末、「月光荘」にゲストとして招かれていたマンスコー夫人、トンプソンの姉のエリノア・ダグラス、そして、トンプソンのよき友、エドウィン・ブラック将軍、これらの人びともすべて世を去った。トンプソンが愛した白い鸚鵡、コッキーも死んだ。ある人は老衰死だといい、ある人は失意による死だという。

 他方、タイ・シルク商会の経営のほうは健全そのもので、タイ初訪問は軍人としてだったアメリカ人、ウィリアム・ブース社長の采配の下で繁栄を続けている。一九六〇年代のはじめ、軍を退役したブース氏は、タイ東北部でシルク事業に入ろうと決めていた。そして、そこでトンプソンとブースは出会ったのだった。タイ・シルク商会は、トンプソンの時代よりもずっと広範囲な事業を経営しており、今でもタイ・シルク産業の先導的地位にあるとみなされている。

 ジム・トンプソンは、タイとアメリカの法律が規定する七年という歳月が過ぎたあと、法律上の死亡が宣告された。彼がタイに持っていた資産の継承者である甥のヘンリー・トンプソンは、トンプソンの家と美術蒐集品とを維持し、一般に公開するために、財団を設立するとともに、その収益金をもってタイ美術に関連したさまざまな研究プロジェクトを進めている。今では、毎日、四百ないし五百人もの人がここを訪れており、トンプソンの家は、バンコックで必見の場所の一つとしてどんな観光案内書にも載せられている。

 この失踪事件への関心もまた、引き続き高いままだ。失踪から満十年とか満二十年とかいう日がめぐってくるたびに、特集記事が溢れ、さまざまな推測が蒸し返される。一九九六年には、シンガポールに住むエドワード・ロイ・デ・スーザという人物が、『伝説的なシルク王ジム・トンプソン失踪の謎、解決!』という出版物を出した。だが、題名につられてこの本を買った読者が、なんだか騙されたような思いを持ったとしても、無理はないかもしれない。デ・スーザの「解決」なるものは、彼にとって都合よくすでに死んでしまっている「元記者」だとか、正体不明の中国人「三人組」の元親分とかいう者たちの言葉なのだが、この二人はどちらも、トンプソンが麻薬の売買に手を染めており、シルク事業をその隠れ蓑として用いていた、と主張しているのだ。この告発の証拠として「元記者」は、トンプソンはカメロン高原を定期的に訪ねており、そのことは、彼が「金ボタンの揃った白のスーツと白の日よけ帽を身に着けていたから、すぐにわかることだった」などということを、力説しているのである。

 失踪から満三十年というときには、シドニーやロンドンなど、世界各地から六人もの記者たちの電話を受けた。新聞記事やラジオ、テレビの番組に出す物語に入れるのだが、最新の情報はどうか、という問い合わせだった。どうやら、絶対的なミステリーというものは、歳月とともに密度をますようであり、そしてトンプソン失踪の謎ほど絶対的なミステリーというものは、これまでは、ほとんどありえなかったことだったのだ。

 問い合わせの多くは、もちろん、事件の説明を強く求めてくる。私が一番多く尋ねられる質問は、「あなたは本当のところ、トンプソンに何が起こったと思っているのか?」というものだ。こうした質問は、ふつう、私のこの本をまずは読んだと思われる人からなされるだけに、私はいつも驚いてしまう。私は、さまざまな推測の中から、私なりの選択をした――もちろん、それは一つの推理以上のものでありえないことはまったく明白だが――と思っていたからだ。

 私としては、それは今でも依然として明白だと思いたい。たしかに、私も、かつてこの謎がすぐにも解けるだろうと誤って信じていたように、今も間違っている可能性がなくはないことを、経験から知ってはいる。だが、人間、一度信じ込んでしまうと、それは容易には揺るがなくなり、理屈だけでそれを動かすことはむつかしくなるものだ。記憶というものは、善意の人をすら、思い誤らせることがよくある。このことを、私は、トンプソンの事件とともに暮らしてきた何十年間の間に、たびたび気づかされたものだ。

 それにぴったりとした例を一つあげておこう。

 トンプソンの店で働くことに興味を持ち、かつ、それは時代の流れの先端を行く仕事だと思っていた「ファラン」(白人)女性たちの一人で、一時期、私の家の近くに住み、今でも仲のいい友人のアメリカ婦人がいる。そんなに前の話ではないのだが、あるパーティに同席した際、彼女がジムを最後に見かけたときの話をするのを耳にした。「今でもありありと思い出すのよ」と彼女は言う。「スリウォン通りのはずれにあったお客様が一杯の小さかったお店。その窓際の仕事場に座っていたの。ジムは二階から降りてきて、店の中を横切り、手を振りながら外へ出て行ったわ。飛行場へ向かったの。そしてカメロン高原へ行ったんだわ。」

 後の話だが、私は、彼女が間違っていると伝えた。一九六七年には、彼女はもうタイを離れていたし、またシルク商会の店はスリウォン通りからすでに新しい店舗に移っていたのだ。彼女が記憶していたのは、まったく別のときの出発の光景だったはずだ。

 それを聞いた彼女は、まず、ぎくっとし、ついで呆然となった。「何ということでしょう、おっしゃるとおりだわ」と彼女は言った。「何年もの間、この話を人にし続けてきたし、自分でもすっかり信じ込んでしまっていたんだわ。まったくその通りだったと思えていたの。」

 

 

 

シンガポール、EDM社からの再版に際しての訳者注

 

 このほど、シンガポールのエディシオン・ディディエ・ミレー(EDM)出版社から、『失踪』日本語版が再版されることになった。この版は、EDM社の希望によって、前の第三書館版(一九八六年)の版面をそのまま用いることにしているため、現在、EDM社から発行されている英文の『JIM THOMPSON――The Unsolved Mystery』そのものの全訳ではない。本書では、そこから「一九九八年のあとがき」の部分だけを追加翻訳した。そこで著者がのべているように、現在の英語版には若干の加筆、補正がなされている。いずれ、機会があれば、それを補った日本語版も出したいと希望しているが、事件の記述そのものについては、基本的な変更はない。前版につけた訳者の二つの「あとがき」も、改める点は特にない。松本清張氏の『熱い絹』上下は、講談社文庫に入れられて、入手は容易になっている。

2004年1月               訳者    吉 川 勇 一

 

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