TKOPEACENEWS
  2面 NO.5号/00.4.23発行

被災46周年3・1ビキニデー全国集


◆開会あいさつ
◆歓迎あいさつ
◆海外ゲストあいさつ
◆繰り返される被曝事故
◆特別報告・「芦浜原発問題」
◆集会アピール
◆閉会あいさつ


日時: 2000. 3. 1(水) 18:00
会場: 静岡県勤労者総合会館
主催・3・1ビキニ・デー全国集会実行委員会

(平和フォーラム/原水禁国民会議・東海ブロック原水禁連絡会議・原水禁静岡県民会議)

岩松 繁俊  原水禁国民会議議長
市川 邦夫  静岡県平和国民運動センター会長
ハンズ・クリステンセン(通訳:田窪雅文)
古川 路明  四日市大学教授/JCO臨界事故総合評価会議代表
松本 修一  三重県平和・環境労働組合会議事務局長

菊田  昭  原水禁静岡県民会議  *集会アピール

被災46周年ビキニ・デーアピール


 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験は、マーシャル諸島に生活する住民のすべてと周辺海域で操業していた600隻をこえる漁船がヒバクしました。とりわけ焼津を母港とする「第五福竜丸」のヒバクは日本に大きな衝撃を与え、思想・信条をこえた原水禁運動となって全国に広がったのです。
 あれから46年の歳月が流れました。すでに米ソ冷戦は終焉し、核軍縮が現実的課題となっていますが、いまだ核への信仰が衰えていない現実も一方には存在しています。アメリカやロシアの未臨界核実験が相次ぎ、またアメリカはCTBTの批准を上院議会で否決し、ロシアでは未だSTARTIIの批准も滞っています。加えてインドやパキスタンの核実験など新たな核拡散という事態も起こっています。21世紀を目前に控えた今日の状況は、全般的に核軍縮が悲観的状況にあると言わざるをえません。
 また、昨年9月30日に起こった、東海村のウラン加工施設・JCOでの臨界事故は、原子力の安全神話を崩壊させました。この事故で多くの被曝者を生みだし、ヒロシマ−ナガサキ−ビキニに続く新たなヒバクで尊い命が犠牲となったことは、私たちに大きな衝撃を与えました。あらためて私たちに「核と人類は共存できない」という思いを新たにさせました。
 原水爆禁止運動は、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験の上にビキニの久保山愛吉さんらのヒバクから始まった運動です。以来、20世紀を通して、核兵器廃絶、被爆者救援、平和や原子力などの様々な問題を世に問うてきた運動でした。そして、昨年末の大内久さんの死は、改めて私たちと「核」の問題を、この世紀末に問うています。
 私たちは、「核」という負の遺産をそのまま21世紀に引き継いでいくことはできません。20世紀に生きた人間の責任として、21世紀に核を持ち越してはなりません。核を無くす道筋を大きく作り出すことが私たちの責任です。
 私たちはこれまでも一つ一つ核をなくすための運動を積み重ねてきましたが、核兵器廃絶へ向けた歴史的なうねりが停滞している今こそ、私たちの運動の全力を尽くすことだと決意を新たにしています。また、これ以上のヒバクシャを作り出さないことも久保山さんの願いを引き継ぐものだと考えます。
 私たちはビキニ・デーに際して、46年前のビキニでの被爆が、日本における原水爆禁止運動の出発点となったことをあらためて思い起こし、「核なき未来」への決意を新たにし、大きな流れを創りだしましょう。
2000年3月1日
被災46周年3・1ビキニ・デー全国集会


3・1ビキニ・デーの意義


 1946年からアメリカがビキニ環礁で核実験をはじめてから今年で54年目になります。
 1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行なわれました。この実験は、コードネームを「ブラボー・ショット」(1.7Mt)とよばれ、大量の「死の灰」(核分裂生成物)を北半球にまき散らしたので、「汚い水爆」ともよばれました。
 この実験で生じた「死の灰」が、実験場から100キロメートルも離れた公海上で操業していた静岡・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりそそぎ、乗組員23人が急性放射線障害となって、そのうちの1人、無線長の久保山愛吉さんが、手当てのかいもなく9月23日に急性白血病で死亡(直接の死因は肝臓障害)しました。また「第五福竜丸」が獲ってたきたマグロから強い放射線が検出されたため、焼津、東京、三崎、大阪、高知など各地の魚市場で大量の魚が廃棄されつづけました。こうして、寿司屋や魚屋にはお客が寄りつかず「放射能恐慌」が生じ、東京の中央卸売り市場では、コレラの流行以来はじめて取引が停止されるまでにおよびました。
 1954年3月18日、厚生省は、マーシャル諸島水域で操業、または同水域を航行した漁船は、焼津、清水、東京、三崎、塩釜の指定5港と大阪や高知など指定外13港に入港し、船体と魚の放射能汚染検査をうけるように通達しました。検査は同年12月末まで行なわれ、延べ856曳の船と魚が検査され、457トンのマグロが土中や海中に投棄されました。この中には長崎で被爆をし、ビキニで再び死の灰を浴びてしまった二重被爆という体験をしている人がいることもわかっています。
 現在日本政府は、第五福竜丸事件は「慰謝料」の支払で決着済みという態度をとり、被災者の根本的な救援は行っていません。第五福竜丸の乗務員は「被爆者手帳」は持っていないばかりか、他の被災船乗務員の救済も道も閉ざされたままとなっています。
 一方、この実験の「死の灰」は、太平洋諸島の住民にもふりそそぎました。そして、マーシャル地区のアイリングナエ(16人)、ロンゲラップ(66人)、ウトリック環礁(157人)、ロンゲリック(アメリカの観測員28人)が放射能に被ばくしました。以降、彼らは十分な治療もなされずに、核実験の「モルモット」として、太平洋を流浪させられることになりました。そして今日でも、甲状腺ガンなどさまざまな疾病にわずらわされています。
 また、当時はアメリカとソ連の激しい核軍拡競争の最中にあってソ連はカザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で、アメリカは太平洋のビキニやエニウエトック環礁で、猛烈な核実験競争が行なわれ、その「死の灰」も雨とともに日本全国にふりそそぎました。そのため野菜、イチゴ、ミルクなど生鮮食品も放射能で汚染されました。気象庁は、雨がふるたびに、毎日なんカウントの放射能が含まれていると発表する状況でした。国民は、海と陸との放射能汚染によって食生活を脅かされ、自然発生的に「原水爆実験反対」の声が各地に高まりました。いわばはじめての大規模な放射能に生活が脅かされたのでした。これをきっかけにして「原水爆禁止を求める署名」運動が全国的にまき起こり、この運動が母体となって原水禁運動が成立したのです。
 1965年に原水爆禁止日本国民会議が結成されてから35年たった昨年、東海村で臨界事故が置きました。ある意味では、ヒロシマ−ナガサキ−ビキニに続く第4の放射能被害となりました。「核と人類は共存できない」という思いをあらためて強くする出来事でした。私たちは、あらためて核廃絶そして脱原子力にむけた運動をさらに力強く展開していきましょう。

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