TKOPEACENEWS
  1面 NO.5号/00.3.23発行

米軍普天間基地県内移設反対闘争支援

沖縄基地ツアー報告

会員など35人が参加


1.沖縄をとりまく情勢について
 名護岸本市長と稲嶺知事があいついで、米軍普天間基地の県内移設を受け入れることを表明し、12/17沖縄政策協議会(沖縄県・政府・全閣僚)が、沖縄振興策を決定後、12/23名護市議会は1997年12月、普天間基地の移設先として政府が計画した海上航空基地(ヘリポート)建設の是非を問う市民投票で反対が過半数を占めたにもかかわらず、徹夜審議で「促進」を強行採決しました。この決定により12月27日に建設受入れを明らかにしました。
 こうした稲嶺知事や名護市議会、岸本市長の決定は以下のことからして、沖縄県民や名護市民の多くの反対の声を無視しているといえます。
(1) 1995年10月、8万5千人が結集した県民大会において「軍隊のない、悲劇のない、平和な島をかえしてください。」とした県民の感情に反するものである。
(2) 1996年9月「日米地位協定の見直しと米軍基地の整理・縮小を求める県民投票」の結果についても反するものである。
(3) 銃剣とブルドーザーで住民の土地を取り上げられ、半世紀もの間過重な基地負担にあえいできた県民感情を考えることなく、米軍基地建設になるなどその責任は重大である。
(4) 今回の決定は、沖縄県民の考えよりも、空軍は中部、海兵隊は北部、海軍はホワイトビーチ、陸軍はトリイステーションと住み分けさせることによって、米軍基地の21世紀まで固定化しようとするアメリカの強い意思によるものである。
(5) アメリカの内政干渉ともいえる外圧に屈伏した日本政府の決定は、1995年少女暴行事件など米兵による極悪犯罪や、米軍による基地被害、環境破壊などを容認するものである。
(6) 沖縄北部地域に毎年100億円それを10年間地域振興策としてあてがうことによって沖縄経済の活性化をもくろんでいるようだが、沖縄の経済活動を妨害しているのは、主要な土地、港湾、空港を支配している米軍基地であることはすべての県民が承知していることでもある。
(7) 代替基地はいまに至るまで、規模や機能は愚か、海上に建設するのか埋め立てなのかも一切ベールに包まれている。民間機の利用は、米軍機の利用の想定は、環境はどうか、住民の生活への影響はなど今回の基地建設には、政府・沖縄県は情報をひた隠しに隠しているといえます。実態も分からない基地の受入れを強行しようとしています。
(8) このままでは、県民を二分した対立を根深くするものになってしまう。その責任はすべて稲嶺知事にある。

2.沖縄基地ツアーの目的
(1) さきの朝日新聞の調査などでも明らかな通り、本土の私たちの意識とは大きくかけ離れています。米軍基地の75%が集中し、過重な負担を強いられている実態をまず把握していきたいと考えます。
(2) 沖縄の実態を理解することによって、日本の安全、北東アジアの安全などを考えていきたいと思います。
(3) 沖縄平和運動センターをはじめ、県内の労働組合、市民との連帯を強化していきたいと考えます。
(4) 名護市内に建設されようとしている米軍基地建設に断固反対し、沖縄平和運動センターや県民会議との共闘、支援を強化していきます。

3.沖縄基地ツアー視察日程
2月26日(土)
13時35分 那覇空港着 (JAL903便)
14時00分 バスにて名護市辺野古へ(高速道路)
15時30分 名護市辺野古着
      ◆北部地区労、命を守る会と交流
      ◆普天間基地移設候補地見学
16時30分 辺野古発〜
18時30分 エッカホテル到着予定

2月27日(日)
8時00分 エッカホテル発〜58号線〜牧港〜 330 
     号線〜嘉数
8時30分 嘉数高台(15分〜30分〜15分)
      ◆キャンプ・キンザー、那覇軍港浦 
       添移設
      ◆普天間基地
9時15分 嘉数高台発〜真栄原〜58号線〜嘉手納
      ◆キャンプ・フォスター(車中)
      ◆ハンビータウン(車中)
      ◆キャンプ桑江(車中)
      ◆北谷町役場(車中)
9時45分 安保の見える丘着
      ◆嘉手納基地(20分)
10時05分 安保の見える丘発〜沖縄南インター〜
      首里インター〜兼城交差点
      ◆陸軍病院壕跡(車中説明)
11時15分 アブチラガマ着(糸数壕)
      ◆ガマ追体験(30分)
11時45分 アブチラガマ発
12時05分 ひめゆりの塔着
      ※ひめゆり会館にて昼食
13時00分  ◆ひめゆりの塔
      ◆ひめゆり平和資料館見学(30分)
13時40分 ひめゆりの塔発
      ◆魂魄の塔
      ◆荒崎海岸
14時00分 荒崎海岸発
14時10分 摩文仁平和祈念公園着
      ◆平和の礎
      ◆資料館見学(20分)
14時40分 資料館前集合
      ◆各県の塔
      ◆第32軍石島司令官自殺壕跡
      ◆健児の塔
15時40分 健児の塔発
16時00分 白梅の塔着
      ◆白梅の塔
     真壁〜真栄里〜 331号線〜糸満〜58号線
17時00分 エッカホテル着

▲沖縄師範学校生徒224人の犠牲者が出た・ガマ入口

▲宜野湾市のドマン中に今も占領されている米軍普天間基地
▲左の海岸から1945年4月1日米軍上陸

4.名護市辺野古地区で米軍基地建設に反対する団体との交流(2/26)
 
・北部地区労
 ・命を守る会

  ・ヘリ基地反対協議会
■ヘリ基地建設反対協議会代表
 金城 祐治さんの談話
 岸本名護市長は、昨年12月27日普天間代替基地の「辺野古沿岸域」への移設受入れを表明しました。
 過去2回全会一致で移設反対決議を行った名護市議会も、昨年12月23日未明、与党議員の数の力で移設促進決議を強行しました。
 市長は受入れ表明にあたって、自ら「地元」と称している久辺3地区の合意をとりつけたとされていますが、辺野古区行政委員会に説明しただけで、豊原・久志区には説明もなく、ましては合意などまったくのウソでした。また市長が「前提条件」とした「使用期限15年」についても、衆院外務委員会との意見交換のあと「15年は絶対条件ではない」とはやくも自らハシゴを下ろしています。
 私たち名護市民は、97年12月「大事なことは市民自ら決めよう」と市民投票を行い、ヘリ基地反対の市民意思を明確にしました。これ以外の民意はありません。
 この民意を踏みにじられていいのでしょうか?「運用40年・耐用200年」と主張する米軍と日本政府の意のままに、半永久的に基地を押しつけられていいのでしょうか。子々孫々にまで残すべき「県民財産」は、基地でなく市民の尊厳であり、それを育むやんばるの豊かな自然ではないでしょうか。
 市民の頭越しに、政府に「白紙委任」を出した市長に、もはや名護市の将来をたくすことはできません。
東京の皆さんと交流できて大変勇気づけられました。またカンパもいただきありがとうございました。ともに頑張ろう。
 交流のあと米軍基地建設が予想される、辺野古の海岸と漁港を見学し、宿泊のエッカホテルに向かいました。

5.基地視察と戦跡めぐり(2/27)
■嘉数高地の死闘
 日本軍の首里の司令部を守る前線陣地であり、頑強なトーチカ陣地を構築して待ち構えていた。米軍は、海からの艦砲の援護をうけながら、戦車や火炎放射器で猛攻を加えた。これに対して日本軍は、爆雷をかかえて戦車に体当たりしたり、夜間に切り込むなどの肉弾戦法をとった。米軍は、4月19日の戦闘で、戦車30両のうち22両が大損害をうけた。一進一退の激しい攻防を繰り返し、両軍に多大な死傷者をだしながら、17日間の攻防戦の末、米軍が勝利した。
 この攻防戦では、朝鮮半島から強制連行され、陣地構築や弾薬運搬に使役された朝鮮人軍夫にも多くの死傷者が出た。日本軍の性の奴隷とされた「従軍慰安婦」もいた。
 嘉数集落の人々は激しい戦闘に巻き込まれて、住民695名中374名(53.8%)が戦死し、162戸中54戸(33.3%)が一家全滅した。

■米軍普天間飛行場基地
 宜野湾市の中央に位置し、都市のドーナツ化を引き起こしている。面積483.2ヘクタール。第1海兵航空団第36海兵航空群のヘリ部隊を中心に約70機が配備されている。滑走路(2800メートル、幅46メートル)の両側に格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署。ほかにクラブ、バー、PXなど福利厚生施設もあり、総合的に整備されている。
 私たちは、嘉数高地の展望台からこの基地を見学しました。基地の中に沖縄があると表現されている、この場所に立つと怒りが込み上げてくる。
■米軍嘉手納飛行場基地
 4000メートルの滑走路が2本。F15戦闘機を主力とした米空軍第18航空団のホームベースで総面積は1997.7ヘクタールと広大。(羽田空港の2倍)海軍のP3C対潜哨戒機も配備されているほか、海兵隊のFA18攻撃機や垂直離発着機が定期訓練で長期滞在する。太平洋地域最大の米空軍重要基地になっている。
 基地では核、生物、化学戦を含めた演習や核攻撃も想定した各種訓練が実施され、ベトナム戦争、湾岸戦争での出撃基地にもなった。
 私たちは、基地が一望できる「安保の見える丘」から、思いやり予算で建設したF15耐爆シェルターや、空中給油機KC135、P3Cオライオン、C5Aギャラクシーなどがみることができたが、日曜日のためすべての戦闘機などは基地に出入りしていなかった。

■アブチラガマ(南風原陸軍病院糸数分室)
 設備もない薬品もないなかで手術が行われた、気休め程度の注射をうっただけで手や足の切断をする。ギシギシという不気味な音、「殺してくれぇ。もういい。殺してくれぇ。軍医殿−殺して下さい。」
 こうした負傷兵が沖縄南部の病院壕のあっちこっちで手当てをうけていたが、私たちは玉城村糸数の全長270メートルアブチラガマに全員沖縄平和運動センターの役員の先導で入ってみました。
 この壕には600人の負傷兵でいっぱいであったという、また南部への撤退命令がだされ、動くことのできない兵隊は後に「日本軍の機密が漏れる恐れがある」として毒殺されたことなどの説明をうけた。
 私たちは、住民、軍医、看護婦、ひめゆり学徒、兵隊の皆さんのご冥福をいのり、真っ暗なガマの中で黙祷をささげてガマを出ました。

(戦争反省と学徒隊の慰霊塔)
■韓国人慰霊塔
 摩文仁の平和祈念公園の一角に立っている。韓国人青年1万余名が強制連行により、戦死あるいは虐殺された。この慰霊塔は沖縄本島内でただ一つ碑文の中に「虐殺」の文字が刻まれている塔である。
 日本政府の侵略戦争を否定したがる態度を取っている中、この碑文は見過ごすことのできない大きな存在価値をもっているといえます。

■京都の塔
 各県の碑文には、兵隊と戦争を賛美する文が多い中、この京都の塔は「…多くの沖縄住民も運命を共にされた…」と犠牲になった沖縄住民についてふれている点で他の県の塔と違う。(嘉数の高地)

■魂魄の塔
 旧真輪志村貧民が山野に散乱する無数の遺骨を収容し、25,000〜35,000柱を軍人、住民の区別なくまつっている。他の塔はすべて軍人をまつっていることを考えると、重い存在価値を持っているといわれています。(摩文仁)

■ひめゆりの塔
 県立第一高等女学校、沖縄女子師範学校などすべての女子生徒は「学徒看護隊」として各部隊や野戦病院に配置された。強制的に動員された彼女らは傷病兵の看護、砲弾の中をかいくぐっての飯上げ、水汲み、死体処理など、十代の女子生徒には、あまりにも過酷で危険な仕事であった。
 第3外科壕では123人の犠牲者が出ている。全体では189人の犠牲者が出たとされています。

■健児の塔
「鉄血勤皇隊」として各部隊に配属された彼等は、通信隊、陣地構築、食糧、弾薬運搬要員として、上級生(今の高校生)は放火の中の伝令、地上戦での特攻、夜間での切り込みという、生きて帰る事を許されない任務につかされ、沖縄師範学校生徒224人の犠牲者のほか666人が凄惨な最後をとげています。

■荒崎海岸
 首里撤退時までに、日本軍の戦死者は61,519名余、米軍戦死者9,602名余に上っていたが日本軍は壊滅的打撃をうけ、もはや戦闘能力のない状態であったが、「天皇制護持」のため、一日でも長い米軍を沖縄に食い止めておくというため、5月22日、「南部へ撤退し徹底交戦すべし」この命令により、荒崎海岸一帯では追い詰められた住民と兵隊が、後ろからは米軍の砲撃、前からは艦砲攻撃で多くの犠牲者や崖からの身投げ自殺があったところ。
 平和ガイドさんのこうした説明をきいている前で本土からきた観光客がサーフィンで遊んでいた。沖縄の若者は決してこの海岸では遊べないと後日沖縄平和運動センターの役員は述べていた。

■平和の礎
 摩文仁の丘に1995年6月、太平洋戦争・沖縄戦集結50周年記念事業として、糸満市摩文仁の平和祈念公園内に建立された。基本理念は@沖縄戦などで亡くなった236,660名のすべての戦没者の追悼と世界の恒久平和を祈念する。A地上戦の戦場となり、貴い人命とかけがえのない文化遺産を失った戦争体験の教訓を継承する。B訪れる者に平和の尊差を感じさせ、安らぎと憩いをもたらす平和学習の場とする。
 すべての戦没者は、国籍や軍人、非軍人をとわず敵も味方も、加害者も、戦争指導者も民衆も、同一場所に、同じように戦争の犠牲者としてその名を刻んでいる。
(米国14,005人、英国82人、中国25人、韓国97人、北朝鮮82人)


6.沖縄基地ツアー参加者の感想
・青年部に働きかけ、反戦・平和運動を強めていきたい。
・沖縄には何回もきているが、新たな発見もあった。これからも頑張りたい。
・沖縄の雇用の問題、基地返還後の対策など考えさせられた。
・知らないことが多すぎたので、若い力で反戦運動を強めたい。
・広島・長崎と比較して、沖縄の平和を願う心があまり伝えられていないのではないか。
・辺野古で米軍基地建設に反対する人達と交流し、絶対に戦争はしてはならないと決意をあらたにした。反戦運動を強めたい。
・1944年生まれの私は沖縄にいたら殺されていた、沖縄の戦跡を回り平和の貴さを非常に感じた、平和運動で頑張りたい。
・平和行進に3回参加しているが、3月17日東京日比谷野外音楽堂で名護に米軍基地を作らせない集会も開催する。本土でも闘いをさらに盛り上げたい。
・私は19歳から今の51歳まで反戦運動をしてきた。この行動で戦争中の人間恐ろしさを再確認するとともに、改めて運動の思いを強くした。
・沖縄南部・摩文たくヶ丘に林立する各県の慰霊塔に、平和のアピールが少ない沖縄平和運動センターとしても各県に働きかけるべきではないか。
・日本政府の米国ばかりみている政治に怒りを覚える。婦人会議としても日常的に頑張りたい。
・アブチラガマ(野戦病院−糸数分室壕)に多くの小学生が見学に来ていたが、沖縄の日頃からの反戦学習に感動した。自分の子供にも伝えたい。
・沖縄基地ツアーなど、なかなかこういう機会がなかったがいい勉強になった。仲間に伝えたい。
・沖縄の人の証言、戦跡めぐりなどで頭がパニックになった。被害と加害者の面から考えていくべきだ。
・平和は願うものではない、勝ち取るものだということを若い組合員に伝えたい。青年、女性に平和の大切さを伝えたい。
・沖縄復帰前に沖縄に来たことがある。その時は鹿児島市内で3ヶ日間の勉強、沖縄では7ヶ日間デモと集会で非常に盛り上がった。これからも反戦平和の立場で頑張りたい。
・平和への思いを社民党の活動のなかで広めていきたい。
・沖縄は両親の生まれたところでもあるが、いい経験をしました。5月の平和行進、7月の嘉手納基地包囲行動に参加したい。
・この前の普天間基地包囲行動に参加したが、米軍基地や戦跡をみて命の大切さを教わった、単なる言葉ではなく「命と宝」をほんものにしたい。
・2日間の行動で改めて認識を新たにした思いがする。東京都石原知事は横田米軍基地を軍民共用化を公約にしているが、反対し沖縄とどう連帯するか考えたい。
・何度が沖縄にはきているが、来るたびに新たなものを勝ち取ることができた。
・戦争の恐ろしさと平和の貴さをじっくり考えさせられた。
・2日間充実した日でした。私の祖父は戦争の話はしないが、親戚が集まったさい防衛大学に通う学生は南京大虐殺はなかったなどと教育を受けていることに、歴史は正しく伝えたいと思う。沖縄を学ばせたい。
・戦争の現場を見て目が熱くなった。平和のために基地をなくしたい。
・圧倒的な事実をみて頭がパニックになった。子供が二人いるので経験したことを伝えたいし、次の機会には連れてきたい。

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